グラップラー刃牙 BLOOD & BODY   作:MUMU

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第13話

 

 

※

 

 

 

丘陵を埋め尽くす、見渡す限りの葡萄畑。

兎よけの低い石塀で区切られたその眺めのなかに、海原に浮かぶ船のごとき、古い醸造所がある。

 

その地下にはやはり石で組まれた地下室があり、

升目状の棚には古いワイン瓶が積まれ、

オーク樽がいくつも重ねられてホコリをかぶっている。

空気にはカビの匂いと、特有の埃っぽさが混ざる。

 

天井を這う、細い電線。

そこから繋がるいくつかの電球だけが光源である。

 

「この樽だ……」

 

空気に混じる酒精の気配。

オーク樽の焦げ付くような匂い。

 

何百と居並ぶオーク樽のその奥の奥。

ひときわ大きな。地下の一角を埋めるほどの大樽があった。

大地に根ざす巨木であった時代をそのままに、堂々たるたたずまいで座している。

 

床から天井に届くほどの高さの中で、

 

その中を満たすのは、100余年を経た葡萄酒。

 

それは眠っているのか。

あるいは、大樽の中で栄華の王国を築いているのか。

 

案内するのはしわがれた老人である。

勇次郎たちから見ればまるで童話に出てくる妖精のようだった。

口元を豊かに覆う白ひげと、年輪を重ねた職人だけが持つ眼光の鋭さが、その老人に油断のならぬ凄みを与えている。

 

「うちで一番古い……。

いや、一流どころのシャトーでも、この年代以前の大樽なんて、滅多にあるもんじゃねえ」

「……そうかい」

 

相対するのは範馬勇次郎である。

一番よいワインを、とだけ問われて連れてきたのが、カーヴの最奥。

 

老人の目から見ても、目の前の男、範馬勇次郎が病に侵されているのは明らかだった。

その眼窩は深く黒ずみ、肌は焼けたようにただれ。

それ以前に、惨憺たる戦場を歩くような、血と腐敗の匂いがしている。

 

後ろには股間に布を巻いただけの黒髪の男、

やたらとぎらついた目をした白人風の男。

 

いずれの人物も筋肉の発達が尋常ではない。

只者でないことは分かる。

しかし三人とも、とてもワインを嗜む粋人には見えない。

 

この中央の男。

この男にワインを求められた時、なぜ自分はこの大樽を思い浮かべたのか。

 

樽買いとなればもはや値段のつけようもなく、

100年以上も、この醸造所を守り続けてきた樽である。

おそらく、この醸造所の建物を含めたすべての財産よりも高価な、このひと樽を。

自分は何故、この男に売ろうとしているのか。

 

それは老人にもうまくは説明できぬ。

しかし、水が高きから低きへ流れるごとく、

預言者にひざまずくがごとく、ごく自然なことに思われた。

 

「――幾らだい」

「こいつはウチの神様だ。金で売れるもんじゃねえ」

 

なんの疑問もなく、するりと言葉が滑り出る。

 

「だから、金はいらねえ」

「……そうかい」

 

 

 

※

 

 

 

惜しいことを、だと?

そりゃまあ、多少は思わねえでもねえよ。

 

だが、あれでよかったと思ってるよ

……わしがその後、何を見たと思うね。

 

あの日本人、さっそくグラスに開けるかと思いきや、

樽に手をかけて、ひょいとその上に躍り上がったのさ。

 

そして、だ。

天板の一つを剥がしたかと思うと、

「入った」んだよ。

 

 

 

※

 

 

 

「お、おい……」

 

どぶん、と重たい音がする。

空気に花束のようななめし革のような、そんな独特の酒香が吹き抜け、地上へと逃げてゆき、

それきり何の反応もない。

 

「……飲むんじゃねえのか? 何をやってるんだ、あんたらの連れは……」

「――俺たちにもわからねエ」

 

ジャック・ハンマーが、樽を見上げつつ答える。

 

「だが、オーガは何よりも水分を失っていた。体力を消耗しているから、大量の糖分も必要だ。

それにナトリウムなども……」

 

老人は、普段はあまり意識しないワインの成分について思い出す。

確か、ワインにおける糖分はブドウ糖や果糖。

それにリンゴ酸や乳酸などの有機酸。あとは微量のナトリウムやカリウムだったはず。

そして12%ほどのエチルアルコール。

 

「だ、だからって入るこたねえだろ……。ワインなんだぞ。大量に血中に入れば、危険なことに……」

 

もっともな疑問ではある。

ジャックはしばらくの沈黙の後、曖昧模糊としたものを手探りで表現するかのように、慎重に言う。

 

「――血液を入れ替える」

「な、何だって」

「雑菌を死滅させる。体液を補完する、酵素を活性化させる、神経系を麻痺させて臓器の壊死を防ぐ、それに栄養を補う……」

「……?」

「どんな目的にしても、常軌を逸している。だが、オーガの負った病は、まともな手段で治せるようなものじゃない。だから……」

 

だから、と言い置いた後、長い沈黙が流れる。

やがて、老人は諦めたように息をつく。

この連中にも、あの日本人の考えてることが分かっていないのだ。

おそらく、あの日本人自身ですらも。

 

本能のままに求め、辿り着いたのがこのワイン樽だったということか。

 

ふと背後を振り向く。背の曲がった黒髪の男が、ワイン樽をしげしげと眺めて匂いを嗅いでいる。

白人風の男はシャツとトレーニングパンツのような軽装であるが、この黒髪の男は股間に布を巻いているだけだ。

だが、その野生の獣のような肉体の前では、服装のことなど瑣末な問題に思えた。

 

「……すぐに済むわけじゃねえんだろ?

一杯奢ってやるよ」

 

老人は、常備してあったグラスをいくつか取り出し、

手近なワイン棚から、無造作に一本を引き抜いた。

 

 

 

※

 

 

 

なに?

もし常人がワインに浸かったら、どうなるかって?

 

そうさな、入るだけなら別に何てことはねえ。

飲んだって、そうそう死にはしねえよ。

 

ワインの致死量ってのは、ボトル7本ぐらいだそうだ。

もちろん、一気に飲めばの話だよ、飲めるわけはねえがな……。

 

むしろ、中で酔っちまって溺れたり、

急性中毒を起こすほうが、よほど危険だ。

 

だがな、あの男は全身に傷を負っていた。

内出血なのか、外傷なのか、血まみれになった名残りもあったし……。

そんな中でワインに浸かっちまえば、全身の血行が活性化して……。

すべての傷口から、血がどんどん流れ出すことだろう。

 

……まあ、そんなことは、どうでもいいさ。

 

わしらは、ワインを開けながら、ただじっと待った。

別に身の上話なんぞするわけでもねえ。

だが、待ち疲れるほど退屈とも思わねえ。

 

待つというよりは、無限の時間が、矢の早さで流れるかのようだった。

 

わしらが何本のワインを開けたのか、

どのぐらいの時間を待ったのか。

大樽の中で、あの男は生きているのか――。

 

もう誰も、そんなことを気にしてなかったんだよ。

 

 

 

※

 

 

 

酒香の中で、時間が失われている。

体を包む浮揚感と、全身のひりつくような感覚。

水分が経口から、あるいは皮膚からも取り込まれるような。

血管の隅々まで古酒が染みわたるような。

 

細胞は。

範馬勇次郎という名の細胞たちは。

 

 

 

「破壊」を望んでいた。

 

 

 

成長と膨張

拡大と伸長

鍛錬と凝集

 

その筋肉はもはや密集された集積回路のごとく、

細胞はぎちぎちに詰め込まれ、力の流れは圧を高め、

頑健になっていく肉体そのものが、さらなる成長を阻んでいる。

 

この現状を打開する破壊を。

さらなる進化を導く破壊を。

貪欲なる成長を、満足させるほどの破壊を――。

 

すでに病は駆逐した。

いや、それは勇次郎の中に取り込まれていた。

その肉体の造成に係る、何十兆もの細菌群の一環として。

 

もはや、病の前の姿など忘れてしまった。

細胞すべてが歓喜している。

現状回復など、「俺たち」にはぬるすぎる――。

 

今はただ、創造を。

修復ではない、再生でもない、回復でもない。

 

 

一心不乱の創造を――。

 

 

 

※

 

 

 

――どれほどの時間が過ぎたのか。

 

ピクルは早々に酔いつぶれ、カーブの片隅で寝転がっていたが、

ジャックと、ワイン蔵の老人は、ただただ杯を重ねていた。

 

いつのまにか、周囲には空のボトルが散乱している。

木蓋を割られて、中身を飲み干されて転がっている樽もある。

 

空気が紫色に変じているかのような、とてつもないワイン香。

 

ふいに、ジャックの視線が動く。

ビンを抱いて船を漕いでいた老人が、その様子に気づいて目を開ける。

 

「どうした?」

「……目覚める」

 

見れば、オークの大樽に異変が起きていた。

全体がうっすらと緑色に覆われている。

 

老人の酔いは深かった。

だから、それからの一幕を、夢ではなかっただろうか、と思い返すこともある。

 

よろめきながら樽に近づけば、それは木肌の表面を覆う青カビと、綿のように盛り上がった苔である。

その樽の周辺だけ、妙に湿度が高い。それにひんやりと冷気が停滞している。まるで渓流の中にあるかのように。

 

そして、樽からすいと伸びる、一本の枝。

 

「――ヒコバエが」

 

それは切り株などから生える若い新芽。

しかし、もはや伐採されて150年になろうとするこのオーク樽で、そんなことが。

しかも、ここは地下で、日も差さないはずの場所で。

 

ずっ

 

その樹皮から、指が出てくる。

 

「オワッ!?」

 

ジャックもさすがに驚いて飛び退く。

樹皮の隙間を縫い、抜き指を差し入れたのか。

いや、オークの生木をくり抜いただけの樽に隙間などあるはずもない。

しかし、指から手、手首から腕、

 

めきり、みしり

ありもせぬ隙間を強引に押し開いて、異様な眺めで範馬勇次郎が出てこなんとする。

木肌が裂けるように分かれ、足元からは鮮紅色の液体が流れ出てくる。

 

 

 

※

 

 

 

そうだ。水かさがな……。

樽の中から、わずかに流れ出す程度だったのさ。

 

何十年も中身を見てなかった大樽だが、

まさか、その中身が、あれっぽっちってこたあねえさ。

 

吸収だか、蒸発だか……、

いや、んなこたあ、どうでもいいんだ。

 

俺は見とれてたんだよ。

その眺めから、目が放せなかったのさ。

 

ご先祖様から伝えられてきたワインが。

 

まさか、人を産むなんてな。

 

 

 

※

 

 

 

「オ、オオ――」

 

ジャック・ハンマーが、歯をかちかちと鳴らしてわななく。

その心は、えもいわれぬ高揚にうち震えていた。

酩酊のためか、あるいは信じられぬものを見たためか。

声が喉を駆け上って出てくる。

涙を流していたかもしれない。

 

「――復活!」

 

「復活!」

 

「復ッ活ッッ!!! 復ッ活ッッ!」

 

「復ッ! 活ッ!」

 

「復活!! 復活ッッ!!!!」

 

「復――活ウ!!」

 

「復ッッッ活ウウゥ!」

 

いつしか、ワイン蔵の老人と、ジャックの声が和している。

紛れもない、それは感動であった。

 

滅びたはずのものが再生すること、復活すること、

あるいは生まれ変わること。

それが人間の本能的な感動を呼び起こすのだ。

 

その肉体。ワインの赤に塗れた範馬勇次郎の肉体は、

まさに生まれたての嬰児のようであった。

 

肉がぱんぱんに張り詰めている。

皮膚がむきたての果実のように滑らかで、

頭髪の先までも力がみなぎるかのようで。

その一歩にすら重々しさを感じる。

 

そして目を開き、周囲を見渡す。

腕を上げ、自分の指先を見つめる。

 

その指先で湯気が上がっている。

全身がすさまじい熱を帯びているかに見える。

 

勇次郎は、それが自分の腕だと初めて認識するかのように、

あるいは世界を深く認識し直すかのように、腕をじっと見つめ、

 

ふいににやりと笑い、ぐっと拳を握る。

瞬間、その全身が弾ける。

 

ばしい、と周囲を打ち付ける水音。

勇次郎の全身を濡らしていたワインが、その身震い一つではじけ飛ぶ音だ。

床も天井も、猛烈な勢いでワインが叩きこまれて朱に染まる。

 

「――よし」

 

その笑い。

勇次郎本来の、不遜さや傲慢を宿した笑い、

その笑い方を見て、ジャックは彼の完全なる復活を悟った。

 

「……す、すげえ、こんなことが――」

 

ワイン蔵の老人が、不意にその背後の大樽に目を向ける。

その樽は大木から切り出したときの姿をそのままに座している。

そこに一切の切れ目は見えない、裂け目も、砕かれたオークの木片も見えぬ。

 

たしかにその側面から、この大柄な男が這い出てきたというのに、そこに傷の一つも見えない。

青々としたヒコバエがただひと枝、天を向いて伸びているだけだ。

 

「世話になったな。ちと蔵の中を汚しちまったが――」

「――構わねえ」

 

老人は、もはや勇次郎の方も見ずに、そう答える。

 

「このカーヴはもう使わねえ。天井をぶちぬいて光を入れる。

この樽が木になって、根付くように」

 

「――そうかい」

 

勇次郎はもはや何も言わず、ワイン蔵を出てゆかんとする。

いつの間にか目覚めていたピクルも、その後に続く。

 

そして、ジャックは老人の方を見て、

ふいに生真面目な表情となり、厳かに言う。

 

「タダは申し訳ねえ――」

 

老人の手を取り、何かを握らせる。

 

「受け取ってくれ――」

「ああ……」

 

そして、勇次郎たち三人がカーヴを出てゆき、

老人は何か神話的な場面に立ち会ったかのように、深い感動に包まれて立ちすくんでいた。

 

そしてゆっくりと手を開き――。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そこにあった大量の錠剤に、

しばらく首を傾げていたのだった。

 

 

 

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