※
丘陵を埋め尽くす、見渡す限りの葡萄畑。
兎よけの低い石塀で区切られたその眺めのなかに、海原に浮かぶ船のごとき、古い醸造所がある。
その地下にはやはり石で組まれた地下室があり、
升目状の棚には古いワイン瓶が積まれ、
オーク樽がいくつも重ねられてホコリをかぶっている。
空気にはカビの匂いと、特有の埃っぽさが混ざる。
天井を這う、細い電線。
そこから繋がるいくつかの電球だけが光源である。
「この樽だ……」
空気に混じる酒精の気配。
オーク樽の焦げ付くような匂い。
何百と居並ぶオーク樽のその奥の奥。
ひときわ大きな。地下の一角を埋めるほどの大樽があった。
大地に根ざす巨木であった時代をそのままに、堂々たるたたずまいで座している。
床から天井に届くほどの高さの中で、
その中を満たすのは、100余年を経た葡萄酒。
それは眠っているのか。
あるいは、大樽の中で栄華の王国を築いているのか。
案内するのはしわがれた老人である。
勇次郎たちから見ればまるで童話に出てくる妖精のようだった。
口元を豊かに覆う白ひげと、年輪を重ねた職人だけが持つ眼光の鋭さが、その老人に油断のならぬ凄みを与えている。
「うちで一番古い……。
いや、一流どころのシャトーでも、この年代以前の大樽なんて、滅多にあるもんじゃねえ」
「……そうかい」
相対するのは範馬勇次郎である。
一番よいワインを、とだけ問われて連れてきたのが、カーヴの最奥。
老人の目から見ても、目の前の男、範馬勇次郎が病に侵されているのは明らかだった。
その眼窩は深く黒ずみ、肌は焼けたようにただれ。
それ以前に、惨憺たる戦場を歩くような、血と腐敗の匂いがしている。
後ろには股間に布を巻いただけの黒髪の男、
やたらとぎらついた目をした白人風の男。
いずれの人物も筋肉の発達が尋常ではない。
只者でないことは分かる。
しかし三人とも、とてもワインを嗜む粋人には見えない。
この中央の男。
この男にワインを求められた時、なぜ自分はこの大樽を思い浮かべたのか。
樽買いとなればもはや値段のつけようもなく、
100年以上も、この醸造所を守り続けてきた樽である。
おそらく、この醸造所の建物を含めたすべての財産よりも高価な、このひと樽を。
自分は何故、この男に売ろうとしているのか。
それは老人にもうまくは説明できぬ。
しかし、水が高きから低きへ流れるごとく、
預言者にひざまずくがごとく、ごく自然なことに思われた。
「――幾らだい」
「こいつはウチの神様だ。金で売れるもんじゃねえ」
なんの疑問もなく、するりと言葉が滑り出る。
「だから、金はいらねえ」
「……そうかい」
※
惜しいことを、だと?
そりゃまあ、多少は思わねえでもねえよ。
だが、あれでよかったと思ってるよ
……わしがその後、何を見たと思うね。
あの日本人、さっそくグラスに開けるかと思いきや、
樽に手をかけて、ひょいとその上に躍り上がったのさ。
そして、だ。
天板の一つを剥がしたかと思うと、
「入った」んだよ。
※
「お、おい……」
どぶん、と重たい音がする。
空気に花束のようななめし革のような、そんな独特の酒香が吹き抜け、地上へと逃げてゆき、
それきり何の反応もない。
「……飲むんじゃねえのか? 何をやってるんだ、あんたらの連れは……」
「――俺たちにもわからねエ」
ジャック・ハンマーが、樽を見上げつつ答える。
「だが、オーガは何よりも水分を失っていた。体力を消耗しているから、大量の糖分も必要だ。
それにナトリウムなども……」
老人は、普段はあまり意識しないワインの成分について思い出す。
確か、ワインにおける糖分はブドウ糖や果糖。
それにリンゴ酸や乳酸などの有機酸。あとは微量のナトリウムやカリウムだったはず。
そして12%ほどのエチルアルコール。
「だ、だからって入るこたねえだろ……。ワインなんだぞ。大量に血中に入れば、危険なことに……」
もっともな疑問ではある。
ジャックはしばらくの沈黙の後、曖昧模糊としたものを手探りで表現するかのように、慎重に言う。
「――血液を入れ替える」
「な、何だって」
「雑菌を死滅させる。体液を補完する、酵素を活性化させる、神経系を麻痺させて臓器の壊死を防ぐ、それに栄養を補う……」
「……?」
「どんな目的にしても、常軌を逸している。だが、オーガの負った病は、まともな手段で治せるようなものじゃない。だから……」
だから、と言い置いた後、長い沈黙が流れる。
やがて、老人は諦めたように息をつく。
この連中にも、あの日本人の考えてることが分かっていないのだ。
おそらく、あの日本人自身ですらも。
本能のままに求め、辿り着いたのがこのワイン樽だったということか。
ふと背後を振り向く。背の曲がった黒髪の男が、ワイン樽をしげしげと眺めて匂いを嗅いでいる。
白人風の男はシャツとトレーニングパンツのような軽装であるが、この黒髪の男は股間に布を巻いているだけだ。
だが、その野生の獣のような肉体の前では、服装のことなど瑣末な問題に思えた。
「……すぐに済むわけじゃねえんだろ?
一杯奢ってやるよ」
老人は、常備してあったグラスをいくつか取り出し、
手近なワイン棚から、無造作に一本を引き抜いた。
※
なに?
もし常人がワインに浸かったら、どうなるかって?
そうさな、入るだけなら別に何てことはねえ。
飲んだって、そうそう死にはしねえよ。
ワインの致死量ってのは、ボトル7本ぐらいだそうだ。
もちろん、一気に飲めばの話だよ、飲めるわけはねえがな……。
むしろ、中で酔っちまって溺れたり、
急性中毒を起こすほうが、よほど危険だ。
だがな、あの男は全身に傷を負っていた。
内出血なのか、外傷なのか、血まみれになった名残りもあったし……。
そんな中でワインに浸かっちまえば、全身の血行が活性化して……。
すべての傷口から、血がどんどん流れ出すことだろう。
……まあ、そんなことは、どうでもいいさ。
わしらは、ワインを開けながら、ただじっと待った。
別に身の上話なんぞするわけでもねえ。
だが、待ち疲れるほど退屈とも思わねえ。
待つというよりは、無限の時間が、矢の早さで流れるかのようだった。
わしらが何本のワインを開けたのか、
どのぐらいの時間を待ったのか。
大樽の中で、あの男は生きているのか――。
もう誰も、そんなことを気にしてなかったんだよ。
※
酒香の中で、時間が失われている。
体を包む浮揚感と、全身のひりつくような感覚。
水分が経口から、あるいは皮膚からも取り込まれるような。
血管の隅々まで古酒が染みわたるような。
細胞は。
範馬勇次郎という名の細胞たちは。
「破壊」を望んでいた。
成長と膨張
拡大と伸長
鍛錬と凝集
その筋肉はもはや密集された集積回路のごとく、
細胞はぎちぎちに詰め込まれ、力の流れは圧を高め、
頑健になっていく肉体そのものが、さらなる成長を阻んでいる。
この現状を打開する破壊を。
さらなる進化を導く破壊を。
貪欲なる成長を、満足させるほどの破壊を――。
すでに病は駆逐した。
いや、それは勇次郎の中に取り込まれていた。
その肉体の造成に係る、何十兆もの細菌群の一環として。
もはや、病の前の姿など忘れてしまった。
細胞すべてが歓喜している。
現状回復など、「俺たち」にはぬるすぎる――。
今はただ、創造を。
修復ではない、再生でもない、回復でもない。
一心不乱の創造を――。
※
――どれほどの時間が過ぎたのか。
ピクルは早々に酔いつぶれ、カーブの片隅で寝転がっていたが、
ジャックと、ワイン蔵の老人は、ただただ杯を重ねていた。
いつのまにか、周囲には空のボトルが散乱している。
木蓋を割られて、中身を飲み干されて転がっている樽もある。
空気が紫色に変じているかのような、とてつもないワイン香。
ふいに、ジャックの視線が動く。
ビンを抱いて船を漕いでいた老人が、その様子に気づいて目を開ける。
「どうした?」
「……目覚める」
見れば、オークの大樽に異変が起きていた。
全体がうっすらと緑色に覆われている。
老人の酔いは深かった。
だから、それからの一幕を、夢ではなかっただろうか、と思い返すこともある。
よろめきながら樽に近づけば、それは木肌の表面を覆う青カビと、綿のように盛り上がった苔である。
その樽の周辺だけ、妙に湿度が高い。それにひんやりと冷気が停滞している。まるで渓流の中にあるかのように。
そして、樽からすいと伸びる、一本の枝。
「――ヒコバエが」
それは切り株などから生える若い新芽。
しかし、もはや伐採されて150年になろうとするこのオーク樽で、そんなことが。
しかも、ここは地下で、日も差さないはずの場所で。
ずっ
その樹皮から、指が出てくる。
「オワッ!?」
ジャックもさすがに驚いて飛び退く。
樹皮の隙間を縫い、抜き指を差し入れたのか。
いや、オークの生木をくり抜いただけの樽に隙間などあるはずもない。
しかし、指から手、手首から腕、
めきり、みしり
ありもせぬ隙間を強引に押し開いて、異様な眺めで範馬勇次郎が出てこなんとする。
木肌が裂けるように分かれ、足元からは鮮紅色の液体が流れ出てくる。
※
そうだ。水かさがな……。
樽の中から、わずかに流れ出す程度だったのさ。
何十年も中身を見てなかった大樽だが、
まさか、その中身が、あれっぽっちってこたあねえさ。
吸収だか、蒸発だか……、
いや、んなこたあ、どうでもいいんだ。
俺は見とれてたんだよ。
その眺めから、目が放せなかったのさ。
ご先祖様から伝えられてきたワインが。
まさか、人を産むなんてな。
※
「オ、オオ――」
ジャック・ハンマーが、歯をかちかちと鳴らしてわななく。
その心は、えもいわれぬ高揚にうち震えていた。
酩酊のためか、あるいは信じられぬものを見たためか。
声が喉を駆け上って出てくる。
涙を流していたかもしれない。
「――復活!」
「復活!」
「復ッ活ッッ!!! 復ッ活ッッ!」
「復ッ! 活ッ!」
「復活!! 復活ッッ!!!!」
「復――活ウ!!」
「復ッッッ活ウウゥ!」
いつしか、ワイン蔵の老人と、ジャックの声が和している。
紛れもない、それは感動であった。
滅びたはずのものが再生すること、復活すること、
あるいは生まれ変わること。
それが人間の本能的な感動を呼び起こすのだ。
その肉体。ワインの赤に塗れた範馬勇次郎の肉体は、
まさに生まれたての嬰児のようであった。
肉がぱんぱんに張り詰めている。
皮膚がむきたての果実のように滑らかで、
頭髪の先までも力がみなぎるかのようで。
その一歩にすら重々しさを感じる。
そして目を開き、周囲を見渡す。
腕を上げ、自分の指先を見つめる。
その指先で湯気が上がっている。
全身がすさまじい熱を帯びているかに見える。
勇次郎は、それが自分の腕だと初めて認識するかのように、
あるいは世界を深く認識し直すかのように、腕をじっと見つめ、
ふいににやりと笑い、ぐっと拳を握る。
瞬間、その全身が弾ける。
ばしい、と周囲を打ち付ける水音。
勇次郎の全身を濡らしていたワインが、その身震い一つではじけ飛ぶ音だ。
床も天井も、猛烈な勢いでワインが叩きこまれて朱に染まる。
「――よし」
その笑い。
勇次郎本来の、不遜さや傲慢を宿した笑い、
その笑い方を見て、ジャックは彼の完全なる復活を悟った。
「……す、すげえ、こんなことが――」
ワイン蔵の老人が、不意にその背後の大樽に目を向ける。
その樽は大木から切り出したときの姿をそのままに座している。
そこに一切の切れ目は見えない、裂け目も、砕かれたオークの木片も見えぬ。
たしかにその側面から、この大柄な男が這い出てきたというのに、そこに傷の一つも見えない。
青々としたヒコバエがただひと枝、天を向いて伸びているだけだ。
「世話になったな。ちと蔵の中を汚しちまったが――」
「――構わねえ」
老人は、もはや勇次郎の方も見ずに、そう答える。
「このカーヴはもう使わねえ。天井をぶちぬいて光を入れる。
この樽が木になって、根付くように」
「――そうかい」
勇次郎はもはや何も言わず、ワイン蔵を出てゆかんとする。
いつの間にか目覚めていたピクルも、その後に続く。
そして、ジャックは老人の方を見て、
ふいに生真面目な表情となり、厳かに言う。
「タダは申し訳ねえ――」
老人の手を取り、何かを握らせる。
「受け取ってくれ――」
「ああ……」
そして、勇次郎たち三人がカーヴを出てゆき、
老人は何か神話的な場面に立ち会ったかのように、深い感動に包まれて立ちすくんでいた。
そしてゆっくりと手を開き――。
そこにあった大量の錠剤に、
しばらく首を傾げていたのだった。