※
「ミスタ、トクガワ……?」
アルバート博士は、怪訝な顔で庭のほうを向いていた。
その視線の先、徳川老人は縁側に仁王立ちとなり、じっと庭先を見つめる。
その蛙のごとく大きな目はますます大きく見開かれ、
下顎は突き出され、
眉間の皺は深まり、
それはこの老獪の熟慮の顔つきであった。
「加納! 控えおるか!」
庭に向けて呼ばわる。
すると立ち木の影から、スーツ姿の男が出現する。頭頂部から右側頭にかけて稲妻のごとき傷跡が走行しているものの、その凛とした佇まいには一分の隙もなく、スーツの奥には絞りこまれた筋肉の存在を伺わせる。
「――は、ここに」
「すぐに連絡せい! 官邸にじゃ!!」
「かしこまりました」
官邸、すなわち内閣総理大臣公邸、首相官邸などと呼ばれる、日本の中枢。
特定の用件を告げるわけではなく、ただ連絡を取れという。
それはすなわち、呼べということだ。
何一つ聞き返すこともなく、加納は何処かへ消える。
「トクガワさん、何をするつもりかね」
「おヌシはどうしたいのじゃ、博士」
振り返るその顔は、普段の好々爺とした印象が失せている。
半世紀以上に渡り日本の影に君臨してきた、政財界の怪物、その凄みが濃い陰影となって顔に張り付く。
「もちろん、彼の捕獲だ」
こともなげに、アルバート博士は告げる。
「すでに各国政府や暗黒街も動いている。
ドルルマンの手に入れた肉体の秘密、そしてこの世に二度と生まれないとすら言われた彼の頭脳。
それを手中に入れることがどれほどの価値があるか――」
「無理じゃな」
目をぎょろりと動かしつつ言う。
「おヌシの言うように、ドルルマンがフォン・ドルマンと同一人物ならば、史上最高の頭脳を持つ人物なら、ワシらなんぞが捕獲することはできん。
老いや病魔を超越した肉体を手に入れたなら、
それはもはや人間の手に負える存在ではなかろう」
「そうかね? 人間は猛獣すらも捕獲するが」
「それは猛獣よりも優れた部分を人間が持っておるからじゃ。
すなわち知恵じゃな。
おヌシが言うたことじゃろう。ドルルマンが人間を凌駕する知恵と肉体を兼ね備えるなら、わしらに勝てる道理はない」
「しかし……」
「たとえ勝てぬ、手に負えぬ相手でも、できることはある」
アルバートの発言を待たず、徳川老人が言う。
「――出会わせることじゃ」
「……出会う?」
「そうじゃとも」
その大きな目の中で、黒目がくるくると位置を変える。
それは高揚とか亢進というよりは、もっと強い「陽」の感情。
狂熱とか、愉楽とか、歓喜に近いものが潜んでいた。
この老人は、格闘技者の信奉者は、やはりドルルマンであっても一介のファイターとして認識していた。
老人の根底にあるのは、ファイターたちへの尊敬、憧憬、彼らに対して老人が向けるのは、常に最大限の敬意。
「この世で自分より強いやつなどおらん!」
だん、と、足で畳を打ち付ける。
「俺よりでかい顔などさせん!
俺に命令はさせん!
道の真ン中を歩くな! そういうエゴを持つやつらを――出会わせることはできる!」
「そ、それは……」
「ワシはの、かつて仕損じたのじゃ。オーガと、そのセガレ、あの二人に戦いの場を提供すると約束したのに、やつらめ、ワシの知らぬ場所で勝手におっ始めよった。
じゃから――」
「……」
「今度こそは――」
※
「――ひ」
がしゃり、と銃を落とす。
血と臓物の匂いがむせ返るようだ。
その部屋はまさに地獄絵図。
戦友たちも、先んじて屋敷を攻撃していた何処かの兵士も、藁のカカシのようにぼろぼろに破壊されている。
血潮の空気の中で、大男が立っている。
平凡な白のワイシャツに、茶色のズボン。
それらは酸化した返り血で鉄錆色に染められている。
そのような姿で、ドルルマンが口を開く。
「銃を捨てるのかね」
なぜ銃を捨てたのか。
それは、銃を撃つという行動と、死という概念が兵士の中でリンクしたからだ。
スコープを覗きこむ一秒で、引き金を引き絞る一瞬で、
まるで爆散のように人間の体が引き裂かれる。
撃てば、終わる。
では撃たなければ助かるのか、そんな複雑な思考をする余裕は、すでに兵士には無い。
彼とても歴戦の勇士ではある。
足を震わせ、壁際にまで後退しながらも、その足は前後に配され、拳を胸の高さで構えている。
長年のトレーニングにより染み付いた格闘術。
生死のきわで、それが本能に近いものとして発動したのか、あるいは心の怯えが、鍛錬や勝利、そんな記憶の残滓にしがみつこうとしたのか。
「ふむ、カラテか――」
兵士の振動は、もはや顔の判別もつかぬほどひどい。
「よろしい、来たまえ」
「お――オオオオオ!!」
本能だけを引きずりだされたかのように、兵士が踏み込む。
正拳、左打ち下ろし、中断回し蹴り、
ぱしい、と空気が弾ける。
見えざる壁に打撃が弾かれる。
ドルルマンの大きな手が攻撃を撃ち落とし、あるいは流れを逸らしている。
5撃、7撃、11撃。
「ふむ、凡庸だな」
15撃――。
「もういい」
ドルルマンの指が揃えられ、攻撃の雨の中前進する。
極限の一瞬。
意識が引き伸ばされる。
直突きが異様に緩慢に感じられる。
兵士の目には、その直突きが船の舳先に思えた。
集中砲火の中をゆっくりと前進する、不沈艦。
その衝角が、牛の角の如き刃が、ゆっくりと兵士の胸部に到達し、
防刃アーマーに指先が潜り込み、
特殊繊維の装甲にずぶずぶと潜行し
服を貫き、皮膚に達し、
その奥の心臓を。
「引っ込んでな」
その襟首が掴まれる。
瞬間、兵士の意識が後方へ飛ぶ。
(――あれ?)
窓を突き破り、
部屋を見下ろし、
(――なんでドルルマンが、あんな遠く)
屋敷を見下ろし。
森が遠のく。
(――ああ、そうか、これが幽体離脱)
そして屋敷を見失ったあたりで。
兵士は意識を失った。
※
「――よう」
勇次郎は、少し様相を異にしていた。
空気の中を漂うような蓬髪、全身に纏った鋼の肉。
ゆるやかに放たれる剣呑な気配。
そのようなものは相も変わらずであるが、
特徴的なのは眼である。
わずかに紫の混ざった、赤い目。
充血しているというより、虹彩がワインレッドを帯びている。
口唇や爪、皮膚の薄い部分も深い紅色に染まっている。
顔と言わず全身がわずかに紅潮している。
体表面からうっすらと蒸気が上がっている。
体温が高いのか、それとも体細胞が活発に燃えているのか。
顔面や首筋に動脈が浮き出ており、それがどくどくとと脈打っている。
構えにはどことなく気だるさが漂い、
笑うような威嚇するような、左右に持ち上がった口角が、普段より野卑な面相に見せている。
それは、見るものによっては高揚。
戦場を渡り歩き、血と殺戮をほしいままにしていた頃の範馬勇次郎の面影。
だが、オーガという伝説についてまったく知らぬものが見たなら、
その印象は、酩酊。
いや、意識が乱れているわけではない。
不自然な多幸感や目眩に溺れているわけでもない。
強いて言うならば、楽しげである、と、
そのように見える。
普段から不敵な笑いを浮かべ、人を翻弄する勇次郎が、
さらに底の知れぬ、変幻自在の笑みを身につけたような――。
ざり、と一歩踏み出す。
「――4年ぶりかい」
勇次郎が言う。声には深みが増している。
「いや――」
ドルルマンは、外見の印象は4年前とさほど変わらぬ、
端的に言えば、不気味な大男。
その手足はただ太いというだけで、
筋肉質であるとか、脂肪にまみれているとか、そのような印象がない。
まるで、子供が粘土で造形したような大男。
耳は潰れておらず、鼻の高さも普通、
格闘技の経験があるようには見えない。
その薄く開かれた目と、物静かな口元、
何かをじっと評価するかのような、
冷たく無機的な眼差しもまた、4年前と変わらない。
彼は範馬勇次郎をゆっくりと眺めてから、口を開く。
「――君と会うのは、初めて、だな」
「そうかい……」
周囲が、変異する。
その二人の周囲で、空気が濃さを増す。
重力は強く、
風景は歪み、
影は濃く、
音は遠く、
空気に、粘性を帯びた殺気が満ちる。
「俺も、キサマを見るのは、初めて……だ」
器になみなみと満たされた、気。
4年という時間をかけて、勇次郎とドルルマンの間に熟成された気が、
いま、その器のへりから溢れ出――。
その時。
すでに弾痕や砲撃によって穴だらけとなったリビングに、さらに二つの影が乱入する。
一人はジャック・ハンマー、
今一人はピクル。
二人とも全身を上気させており、返り血や泥でわずかに体を汚している。
「――オーガッ! 周囲の連中はあらかた黙らせたッ!」
「そうかい」
勇次郎は簡単に答える。
ドルルマンたちを認め、そこに駆け寄る二人。
範馬勇次郎に同行し、しばし行動を共にしていた二人である。
勇次郎がドルルマンと戦う旨を聞くと、ジャックから協力を申し出た。
表向きは、そのドルルマンというファイターに興味があったから、
だが、その内心には、勇次郎から何となく目を離せぬような、そんな奇妙な感覚があった。
その身を案じている、などと直接的に表現できるものではないが、
それはやはり、
肉親として宿敵として、
深く絡みあう因縁を持つもののみが持つ、離れがたいような感情であっただろう
そして、
ピクルはおそらく、好奇心から。
フランスに着いて以来というもの、アルコールが抜けていない。
気まぐれにジャックや勇次郎の相手をしたかと思えば、酒を片手にごろごろと寝そべったり、小動物や虫を追いかけたり、そんな気ままな日々だった。
この今一つ心の読めない古代人は、特に何も説明せずとも、ジャックや勇次郎たちに習い、付近の部隊を蹴散らす手伝いをしていた。
だから、ジャックにも読めていなかった。
ピクルが、ドルルマンを見た時、どう動くか。
「――」
ピクルの髪がぞわりと逆立つ。
喉の奥から息が漏れ、目を丸くしてドルルマンを見遣る。
犬歯をつたうように涎が流れる。
その瞳が、不気味な大男を捉える。
腕が、脚が、胴が。
彼の経験と照合される。
脳裏にひらめくイメージ。
それは――
「……??」
それは、何とも合致しない。
大きなもの、小さなもの、
強いもの、素早いもの、群れるもの――
爪、牙、尾、針、甲、鱗、顎、鋏、角、毒――
何も浮かばない。
完全なる未知の領域、
いや。
こんな生き物が、
存在するはずがない――。
それは十の手足、
膨れ上がった頭、
関節の無い体、
赤や青に变化する体色――
彼の知る生命の常識から、大きくかけ離れたモノ。
それを感じた時、ピクルの背中を駆け上がる感情。
認められない。
ありえない。
存在してはいけない。
未知なるものに触れる感情。
それは、あるいは混乱や恐怖とも呼べる――。
「――――ッッッキャオオオォオッッ!!!!」
咆哮し、そして水平に飛ぶ。
影よりも低く這うような跳躍。
そのカギ型に曲がった足先が地面を掴み、
体の勢いを片足一本に流し、
地面が爆発するほどの勢いを伴う直蹴りを――放つ。
かつて、範馬刃牙を数十メートル吹き飛ばした、怒涛の直蹴り――。
屋敷が震えるほどの猛烈な一撃、
だが、ドルルマンは微動だにしない。
体に力を入れているようには見えない。
構えを取ったようにも見えない。
その脚を腹筋で受け止めて、ただ立ち尽くすのみ。
「!」
ピクルの脳裏に、イメージがひらめく。
それは、巨大な影。
頭上にひるがえる数千万もの葉陰、
その高さは鳥も超えられぬほど
その胴回りは百の獣が並んだほども、
巨齢樹
何千年も育ち続け、根を伸ばし続け、風雨に耐え続けたその姿。
荒く波打った樹皮は鎧のごとく、
隆起した根は大地にしがみつく腕のよう。
その姿は森の一部と化し、もはや天変地異ですらその栄華を脅かすことは不可能に思われるほどの――。
「――ッ」
ピクルが、退く。
息が乱れている。
肩を激しく上下させている。
頬を一条の汗がつたい、
理解し難いものに触れた目は、驚愕に震えている。
「ふむ、古代人か」
ドルルマンは、打たれた腹を軽く撫でて言う。
「――とくに興味は引かんな」