「ピクル、下がっていろ」
金縛りにあっているピクルを押しのけ、
前に出てくるのはジャックである。
「……お前がドルルマン・フォグか」
その眉間では血管がぶるぶると蠕動している。
瞳孔が鋭く細められ、眼輪筋が激しく動いている。
特殊アンプルを40本ほど摂取したジャックの視界では、全てがスローに動いている。
全身の血流がめまぐるしく走行し、思考すら高速化している。
その腕が、思い切り後方に振りかぶられる。
上半身が180度を越えてねじられている。
その腕は固く長く、まるで金属塊のよう。
1日に30時間のトレーニング、そして生命の危険を物ともしない過剰なドラッグ。
その果てに到達した、ダイヤモンドのごとき絞られた肉。
ジャックの鋼鉄のような筋肉が、頑健さを維持したままねじれている。
そして次の瞬間、そのバネが一気に解放される
「――Daッッッ!!」
応ッッ!
暴風を曳いて放たれる上段回し打ち。
ドルルマンが腕を上げる。
だん! とジャックの腕がドルルマンのそれと衝突する。
ただ腕を上げ、脇を締めただけの構えが、その超絶たる回し打ちを止める。
「ッGaaaaッッッ!!!」
地面すれすれから伸び上がるアッパー、体重以上のエネルギーを乗せて伸び上がる蹴り。
200キロを超える咬筋力を全身に伝播させ、破城槌のごとき勢いが乗せられる直突。
顎も拳も、そして全身にもリミッターを超えた力みを与えている。
屋敷全体が恐怖に怯えるかのように揺れ、砂礫がぱらぱらと降り落ちる。
連撃がドルルマンの腕によって力をそらされ、あるいは肩で受け止められる。
その拳は鉄の壁に阻まれるが如く弾かれ、
または砂地に沈むかのように力が拡散していく。
手応えが一様ではない、
一撃ごとに肉の硬さが異なるかのような――。
「――シィッッ!!!」
顎をかすめるジャブ。常人の目には負えないほど速い。
ドルルマンはわずかに揺れるように動き、軌道の外へ動く。
その目がジャブの先端を完全に目視している。
数撃を撃って、ジャックはふいにドルルマンから距離を取る
「……っ、おまえは、ファイターではない」
全身から汗を吹きながら、
いびつな物を見るかのように、そう言う。
「なんという奇妙な肉のつきかただ。脂肪とも筋肉ともつかぬ手応え、それに不自然な体のバランス。
ステロイド系による筋量増強でも、興奮剤でもない。
おそらくは、もっと根本的な肉体改造か」
「ふむ……」
ドルルマンは軽く顎をさすり、その言葉に興味を示したかに見える。
「万能細胞――だな」
「……」
「フン……」
ジャックの発言に、勇次郎はつまらなそうに鼻を鳴らす。
万能細胞――。
人間を始め、すべての生物はたった1つの受精卵が増殖し、様々な細胞へと分化して構成された姿である。
ある細胞は心臓となり、ある細胞は筋肉に、
脳細胞に、
神経細胞に、
骨や血液を作る細胞に。
これらの細胞は一度分化すると元には戻らず、分化した先で自らの役割に落ち着くと、死滅するまでそのまま固定される。
心臓の細胞は、死ぬまで心臓のままだ。
この分化を何らかの方法で逆行させ、どんな細胞にも変化する万能の状態へと戻す、
これが万能細胞と言われるものである。
「すでに細胞レベルでの成功例はいくつか出ているものの、それはあくまでも細胞を生成できたというだけだ。万能細胞をどうやって目的の細胞に変化させるか、人体に移植して定着させられるか、癌化や拒絶反応のおそれはないのか、それはまだまだ数十年はかかる課題――」
「……」
「――しかも、信じがたいが、筋肉が必要に応じて瞬時に硬さを変えている。打撃においては固く、防御においては柔らかい。
弛緩や緊張というレベルではない、
必要に応じて細胞の種類すら変えている。
そんな「肉」を、完成させたのだな、貴様は」
「……詳しいのだな、君は」
「俺も肉体改造について研究した身だ。
おまえの顔も知っているぞ、
――フォン・ドルマン」
「……」
ジャックは緊張を解いてはいない、その指の先が、何かをつかむようにカギ形に曲げられ、常人よりもはるかに長い腕が左右に開かれる。
「かつて、俺にドラッグを与えた科学者がいた。
その男の蔵書にあった顔だ。
人類最高の頭脳を誇り、原爆やコンピューターの開発に関わった人物。現存する全てのコンピューターは、彼の設計をその基本原理としているという……」
「……古い話だ」
「なるほど、この一帯に駐屯してた軍隊、傭兵団はそのためか。
世界中がおまえを狙うわけだ。その細胞、その肉体、天文学的な価値がある。
――だが」
噛み締めた奥歯が、ぎりぎりと音を鳴らす。
「生物として最強とは、自惚れが過ぎる」
「……」
「確かに常人をはるかに超えた力を手に入れたようだが、所詮はただの肉。攻撃の際には硬化させ、瞬発力を与え、防御の際には柔軟性と弾力をもたせている、それだけのことだッッ!」
じり、とジャックが進む。
その大きく左右に広げた腕、それは防御を無視した範馬勇次郎に独特の構え、それに少し似ている。
「硬さにも弾力にも限界はある、肉体で最も硬い部位より頑健にはなれぬ」
がちいっ、とジャックの歯が打ち鳴らされる。
肉体で最も硬い部位、
それは歯質の表層、エナメル質と呼ばれる部分である。
このモース硬度は、実に6から7。
分かりやすい比較としては工具鋼、すなわち一般的なドライバーやレンチよりも硬い。
そして人体において、質量単位で最も大きな力を出せる筋肉は顎部の筋肉である。
すなわち噛み付きとは、硬度、力ともに、もっとも破壊に適した攻撃といえる。
さらに言うならばジャック・ハンマーの歯列は過去に何度か破壊されており、現在はファインセラミックの歯が入っている。このモース硬度は9.5に達し、自然界においてダイヤモンドに次ぐほどの――。
跳ぶ。
両腕を限界まで広げ、口角を限界まで開いている。
それは大型の猟犬か、あるいは鰐などにも似た攻撃法。
絶対の咬撃によって相手の致命点を食いちぎる戦法。
ドルルマンが多少動こうとも捕らえ、防御せんとすればそこを食いちぎる。
そしてドルルマンは――
動かぬ。
微動だにせぬまま、その白いワイシャツの襟にジャックが食らいつく。
「――その理解では」
ドルルマンが体を沈める。
膝を屈し、腰を折り、おそるべき柔軟性をもってその巨体が沈み、顎が地につくほどに体を折りたたむ。まるで踏みつけられたアルミ缶のような不自然な屈身。
だん。
地面に叩きつけられる寸前、ジャックは腕をついて体を支える。
その程度の暴れ方で放しはしない。
ぎり。
そして顎関節に満身の力を――。
「――0点だな」
体が。
浮揚する。
(ッ!?)
ドルルマンの体が一気に持ち上がる。
頸部にジャックを食らいつかせたまま、
まるで矢の放たれる如く。
立ち上がる力、背骨を伸ばす力、首を振るう力。
すべて常軌を逸している。
10分の1秒ほどの時間。
ジャックの足先が真上に打ち上がり、
襟元に食い込んだ歯が根こそぎもぎ取られ、
その長身が重力に逆らって上昇し、
ジャックとともにその歯も打ち上げられ、
さらに上昇は止まらず、
3メートル近い天井に背中から激突し、
2階の床が円形に砕かれ、
2階から見たならば、砕かれた瓦礫が数瞬だけ山なりに盛り上がって滞空し、
ごしゃあっ、と地面に落ちるジャックの周囲に、
砕かれた二階の床や、彼の歯がぱらぱらと降り落ちた――。
※
「……アホウがッ」
瓦礫の中で気絶しているジャックに、範馬勇次郎が声を落とす。
「布地を吟味するべしと言ったろうがッッッ!!」
あの一瞬。
もしジャックの歯がシャツの襟首にかかっていなかったら、ドルルマンの動きによって口が外れていたかもしれない。
布地に歯が食い込んでいたために、逃れられなかった。
だが、ドルルマンの見せた技。
そのような次元の対応でなかったことも、また明白だろう。
ドルルマンの首筋には一滴の血も流れていない。
食い込んだだけでヤシの実すら抉る咬合力であったはずだが、まるで意に介する様子もない。
「――ふむ、彼は君の弟子かね」
「違えよ、あんまり認めたくねェが、息子だ」
「なるほど」
ドルルマンは首をこきりと鳴らし、勇次郎に一歩近づく。
「では、仇討ちの名分は立ったわけだ」
「そんなことは関係ない」
範馬勇次郎は、ふいに静かな調子になって言う。
「あれは俺を狙っている。まだ及ばぬながら、俺に挑み続ける事こそヤツの生き方。
俺がその汚名をそそぐことは、それこそヤツへの侮辱というもの」
「ふむ……何か複雑なようだな、だが……」
その体毛のまったくない顎を撫でながら、ドルルマンは初めて、微妙に和らぐような表情をする。
「注がれるべき汚名は……彼だけではないのでは?」
「……ほう」
言葉少なく、ではあるものの、それが挑発の言葉であることは明らかだ。
すなわち、息子がこうなのだから、その親である勇次郎も――。
空気が黒ずむような感覚。
勇次郎の背筋が隆起するような、その気配が肥大するような感覚がある。
「安い挑発――」
だが勇次郎は、その陳腐さすら楽しむかのように、口角を上げて歯をむき出す。
「だが、言葉は選べ――
こんな小便臭いガキをもって、俺の力を測るなど」
髪の毛がぞわりと波打っている。
その目にはくろぐろとした凄みが濃い。
あるいは戦闘に臨まんとして、意図的に憎悪と怒りを高めているかのような――。
それを後方で見ていたピクルは、顔にじっとりと汗を浮かべて様子を見ている。
地面に縫い止められたかのように動けない。
その目が、
ふいに、真上を振り仰ぐ。
「……ふむ」
「ちっ……」
ドルルマンと勇次郎、二人がわずかに侮蔑めいた呟きを漏らし、意をそらす。
すべての窓から、壁の割れ目から荒れ狂う空気の流れが吹き込む。
わずかに遅れて巨大な影が床面を泳ぐ。
屋上に、そして庭園に降り立つ数十の落下傘部隊。
そして投下される機銃座。
頭上に大型の兵員輸送ヘリがホバリングしている。
そのローターの音は耳を聾するほど。
粗雑にして無粋な羽音が打ち付けている。
そして拡大された複数の言語が降りる。
曰く、完全に包囲されている。
投降しなければ射殺も辞さない。
兵力差は歴然――。
二人の超雄の戦いを妨げるには、あまりにも無粋な声。
そして革靴のままに踏み込んでくる、完全防備の兵士たち。
その手には鎮圧銃、電撃銃、ガス銃、その後方に重火器を構えた兵士が続く。
その装備をちらりと見て、ドルルマンがやや重たげに口を開く。
「米軍か――排除するかね」
ぼそりと、しかし存在感の強い言葉。
勇次郎も目に影を濃くし、つまらなそうに呟いた。
「っち、面倒なことに――」
『――――待ッッたんかああアアアッッ!!!!!!』
特大の音が屋敷を横殴りに叩きつける。
周囲の兵士たちもびくりと体をすくませるほどの音だ。
それはマイクのボリュームを最大にしているというだけでなく、その発信源が血管を破裂させる勢いで怒鳴っているからに他ならない。
『――止まれッッッ――止まらんかああアアァァァッッ』
そして生け垣を踏み越え、鉄の門をなぎ倒して侵入してくる大型バスの群れ。
東西南北から、すさまじい数が到来している。
それは屋敷全体をぐるりと囲むように整列、いや、多少なりと互いに衝突しながら慌ただしく並んでいく。
「な――なんだ、あれは」
そう呟くのはドルルマンに銃を向けている兵士の一人。
『そこの米軍どもオオオッッ!!
この勝負に手出し無用じゃッッ! ワシが預かるッッッ!!!』
「ほう――」
勇次郎が、面白げに口元を動かす。
ドルルマンと勇次郎の対峙する部屋、その正面に陣取ったバスから老人が転がるように出てくる。
紋付羽織の正装に身を包んだ、蛙のような老人。
徳川光成――。
「嘘ではないぞ」
その老人は、拡声器を手に呼ばわる。
兵士たち一人一人に言い含めるように、声を低く落ち着かせ、その立ち姿に威厳を持たせて言う。
「すでにオズマ大統領と話はつけてある。それだけではない! おヌシらの本当のボスともじゃ」
「え――」
兵士の一人が、あからさまに動揺した声を出す。
その乱れが、ざわめきとなって伝染していく。
「信じられんのならとっとと確認せい!! はよう!!」
※