※
「――は、では、ドルルマンとユージロー氏の接触は――」
『傍観するしかあるまい』
ワシントンDC、ホワイトハウス執務室。
ホットラインの黒電話を握りしめ、米国44代大統領、バラク・オズマは額から滝のように汗を流しつつ、全身をこわばらせる。
受話器を強く握りしめ、顔に密着させて声を放つ。
「し、しかし、一度はユージロー氏を襲撃したのですよ。彼との同盟を一方的に破棄したことになる。か、彼からどのような報復があるか――」
『軍の一部が暴走したことにすればいい。君が懇切丁寧に謝罪したまえ。君は彼の友人なのだろう?』
「な、なぜ、突然手を引くなどと言い出すのです」
バラク=オズマ。普段の彼はアメリカを先導する偉大なる大統領、それは間違いない。
しかし、ことは範馬勇次郎を直接敵に回すほどの事態。それに電話の相手と相まって、オズマですらも狼狽や怯えを隠せずにいる。
『……トクガワ老人だ、彼に頼まれてしまった』
「徳川氏……ですか? 確かに彼は日本の大物ですが、あなたの資産は遥かに……」
『古い証文を持ちだされたのだ。ドルルマンの価値と比較するのは困難だが、無視できる性質のものではない』
「……」
電話の相手について、
オズマですらその力の全体像を知っているわけではない。
それは、まさにアメリカの巨大さの具現。
軍産複合体の核、エネルギーコングロマリットの頂点、あるいは情報ネットワークの統括者――。
世界に君臨する超大国、それを支える経済と軍事の支配者。あるいは君臨者。
アメリカという国の影響力そのもの――。
その人間を動かすほどの証文とは、それは大戦中の武器受注に関するものか、あるいは沖縄の在日米軍に関するものか、あるいは次世代兵器の利権、それとも――。
「そ、その証文とは」
『オズマ君』
その低い、闇から響くような声に、大統領はびくりと身を震わせる。
『君が知るべきことではない』
「は――し、失礼を」
『君は常に強く、大きく、そして正義なるアメリカの象徴だ、そうだろう?』
「は……」
そしてがちゃりと、アナクロな音をもって通話が終わる。
あとに残るのは、巨大であり、闇色であるものに触れた恐怖だけ。
オズマの顔から血の気が引き、そして手の震えはいつまでも止まらなかった。
※
「――勇次郎、それにドルルマン君、庭園の方へ出ンか?」
八割がた無いに等しかった壁面の向こうから、徳川老人が呼ばわる。
巨躯の男はその小さな体をじっと見下ろした後、黙って壁に空いた大穴へと動く。
「へッ」
勇次郎も同じように、二人がほぼ並んで壁面を越えた。
その時。
わっ、と、歓声が二人に浴びせられる。
全方位から押し寄せる波の如き声。
そこを埋め尽くすのは、老若男女さまざまの人間。それに混ざって空手着、トレーナー、軍服の一団も見える。
高級そうなスーツを着込んだビジネスマンに、薄紫のドレスを着た老婦人もいる、呉服の老人もいれば若いカップルもいる。
その数、およそ2000。
それが屋敷の前庭を半円形に取り囲み、盛大な歓声を投げかけている。
「急ではあったがの、東京から地下闘技場の観客を千人ほど招待した。それに仏国内で集めた格闘技好き、この付近に展開していた軍人たち、神心会フランス支部の生徒や師範代もおるぞい。余計な干渉を防ぐために、民間人の観客が必要だったのじゃ」
そして屋敷の奥側から、廊下を通って禿頭の男たちが出てくる。独特の濃灰色の道着に身を包んだ地下闘技場のスタッフたちだが、倒れている男たちを迅速に搬送していく。このとき屋敷の裏手には大型の医療トレーラーが待機しており、そこに収容する流れであった。
「勇次郎、それにドルルマン君。
我々はすでにおおよその事態を把握しておる。
ドルルマン君の素性も、我々に分かる範囲で観客たちには説明しておる。
もっとも、科学者として活動していた間のことだけ、じゃがな。
――君は確かにあの科学者と同一人物なのじゃな? フォン・ドルマン君」
「……捨てた名前だ」
日の下に出てきたドルルマンは、その歓声に戸惑うでもなく、遺憾を示すでもなく、目の前の老人を樹木のように見下ろしていた。
「世界最高の頭脳を持つと言われたおヌシじゃが。どのような経緯でその肉体を手に入れたのか、詳しくは聞かぬ――」
一瞬の間を置き、老人の言葉が続く。
「だが現在、世界中のあらゆる機関がおヌシを狙っておる。それはいずれも軍事力を盾にした強引なものじゃ。君がなぜか身を隠さず、あえて火の粉を払うようにそれらを迎撃しておること、それにも何か意味があると理解しよう。だがその中で、地上最高の格闘家、範馬勇次郎が君に挑もうとしておるのじゃ。
――ワシはいち格闘技ファンとして、この戦いを邪魔されたくない。純粋に、肉体的な強さのみでどちらが強いのかを見届けたい。
それゆえ不躾ながら、この世界各国の軍隊が入り乱れる場所に介入させてもらった。そのような次第じゃ」
「……なるほど、あなたの意図は分かった」
ドルルマンの言葉は全く揺らぐことはなく、
それは許容なのか、寛恕なのか、何の意図も読み取れない淡白なものだった。
勇次郎がわずかに肩をすくめる。
「ヘッ、ジジイ……どんな手を使いやがった」
「大したことではない、
このワシ、徳川光成という老人が、いや、日本という国が築いてきた「貸し」の一部を売り払ったが――」
徳川老人が、顔中を紙のように歪めて笑う。
「史上最強と史上最「知」。この戦いの観戦料としては、安すぎるほどじゃな」
「……フン」
勇次郎はドルルマンから意をそらし、数歩遠ざかって肩を大きく回す。
一旦闘争の気配が緩んだのを見て取り、徳川老人はドルルマンに問いかけた。
「ひとつ問いたいのじゃが、ドルルマン君」
「何かな?」
「この屋敷は、君と何か関係のある場所なのかの?」
「――ふむ」
ドルルマンは、一度大きく周囲を見回してから答える。
「――この屋敷に住んでいた富豪は、私の研究に投資していたのだよ」
「ホウ」
「世間から身を隠した私に、必要な設備を与えていた。格闘家諸君を観察するためにIDKWのジャッジに身をやつしたが、それにもこの富豪の助力があった。その引き替えとして、私は彼に資産投資での助力を与えた。
経済学も私の専門分野だからね……」
「それで、なぜ殺したのかの?」
「……それは」
言いかけて、ふとドルルマンは言葉を止める。
周囲の観客を見るでもなく、
誰かに注意を向けるでもなく、ほんの数秒、ただ自分の想念に沈むかに見える。
その眼の奥にひらめく、数秒の記憶。
断片的なイメージ。
――
――なぜだ
――私に与えてくれてもいいだろう。
――君の黄金の肉を。
――なぜだ、君は、無敵の強さと、永遠の命を手に入れて、
――ひとりきりで、無限に生きると――
「……」
ドルルマンは、沈黙ののちに口を開く。
「――彼は、
私の研究成果を欲しがったのだよ。
私にも、その肉体を与えてほしいと。無敵の肉体を与えてくれと。
……だから、殺したのだよ。
この肉体は唯一無二であるべきだ。最強は一人であるべきだからね」
「……ふむ、なるほどのう」
言葉だけを見れば、外道の誹りを免れぬような発言
しかし、この老獪なる怪物、徳川光成が、今さら言葉ひとつで眉をひそめるほど青くはなかろう。
徳川老人の皿のような目が、
その発言を深く洞察すべくぎらりと光るかに見えたが、
「ジジイ、もういいだろう」
ずい、と、勇次郎の存在感がその場で膨れ上がる。
「ギャラリーを待たせるもんじゃねエ……」
「うむ、では始めよう。そこのオヌシらも見ていかんか!?」
周囲に声を張る。
遠巻きに事態を観察していた男たちが、
あるいは望遠カメラの奥にいた人々が、
最初は戸惑いもあったものの、
やがて一人二人と、生け垣の奥から出てくる。
そしてギャラリーは増え続けていく。
人の輪がその厚みを増していく。
歓声は止まず、
興奮はとどまるを知らない。
その中央で、二人の男が対峙する。
――
二人の気勢が、熱を帯びて混ざり合う。
足場は隙間から芝の生えた石畳、
周囲には瓦礫や薬莢が散乱し、
緑と血潮が混ざった混沌たる臭いがする。
半径30メートルほどの円を描いて、
取り囲む観客は数千人。
この血生臭さの残る戦場で、さらに闘争の予感に胸を震わせる人々、
それはやはり特殊な人種と言わざるをえないが、
中央の二人が放つ闘争の匂い、本能をむき出しにした気配。その二人の気炎に直接当てられて、喉の奥から声を張り上げて声援を送る、それもまた生物としての必然的な反応に近いものだろう。
超雄同士が、向かい合う。
レフェリーなどいるはずもなく、ルールなど無用。
そこにあるのは、闘争の契約のみ。
相手をうち伏せる、
闘士を挫く、
あるいは純粋なる破壊。
それのみが目的。
それだけが全て。
脚が踏み出され、互いの殺意が混ざり合う。
すでに一撃の届く間合いに接近している。
この規格外の怪物同士に、小手先の位取りなど存在しない。
そして最初の一撃が。
落雷のごとき一閃が――
今。
※
「オオッ!」
徳川老人が声を張る。
ぼうっ、と、風が拡大する。
10メートルもの風船が次々に破裂しているかのような、
断続的な風が群衆の頬を撃つ。
「――なッ」
その戦いを目撃できたグラップラーたちはそう多くはない。
何もかもが急ごしらえだった中で、徳川老人に同行してこの場に来れたのは、護衛役として神心会より加藤清澄、わずかに一名のみである。
先に仕掛けたのは範馬勇次郎。
速い。
打拳の構えから打ち終わりまでがほとんど目視できないほど速い。
手打ちではない。
足元の踏み込みから全身の関節を連動させて撃つ必殺の一撃。
空気が弾ける音がする。
ドルルマンに接触している時間が極端に短いために、空気が体表面で弾けて破裂音に近いものが発生している。
100キロを優に超える勇次郎の体が、ストロー級のボクサーよりも、いや、それが数人同時に存在しているかのように速い。
そして重い。
音が軽いとはいえ、その打撃の鋭さは直感的に理解できる。
それは馬上槍のごとき突き。
馬の脚力と体重と、騎士の気迫の乗った一撃。
鋼鉄の鎧すら一瞬で吹き散らす槍の嵐。
足元の石畳が破裂している。
厚さ1センチもの石板が次々と砕けている。
誰の目にも追えぬほどの速度で立ち位置を変えている勇次郎が、炸薬の如き踏み込みによって体を加速させ、流れるように打拳を叩き込む。
その動きが不意に止まる。
ぱあん、と、ひときわ巨大な音とともに二人のシルエットが止まる。
「なっ、あの野郎――」
止めた。
そうとしか見えない。
勇次郎が踏み込みつつ放った渾身の右ストレート。それがドルルマンの突き出した右手掌で止まっている。
ドルルマンはわずかに体を開いて両足を踏みしめている、
その足元で地面がえぐれ、ドルルマンは体ごと数センチ押されている。
だが体幹は崩れていない。
徳川老人が、眼を丸くして汗を浮かべる。
「なっ……なんちゅう……!!」
形容するならば、荒野を突っ走る猛牛を、体一つで止めてみせたかのような。
勇次郎のあの連撃に耐え、その一撃を片手で止める。
これほどに、言うは易しなこともあるまい。
踏ん張る力、胸筋の鍛え方。
そんなことで説明できるわけがない。
「~~~~~~」
勇次郎が拳を支点に腕と肩を膨らせ、
踏み込んだままの足で地をえぐり、押し合いの格好となる。
キリキリと歯を噛み合わせる音。注力によって不自然に隆起する関節。
足元の硬い土を靴の中から親指で掴み、拳で押しぬくというより、全身で前に進むという力が重機の如き重さを備え――。
ドルルマンが手掌を握る。
そこに剣呑な気配が生まれる。
指は節くれだっておらず、むしろうっすらと脂肪をまとっているようにも見える、ただ太いだけの指。
そこに何か得体の知れぬ気配が生まれ、
握りつぶす力が勇次郎の拳にかかり。
「――フン」
ばっ、と、拳を引く。二人が離れる。
すべては数秒の出来事。
歓声を浴びせている観客たちにも、わずかに戸惑いの色が混ざる。
老人も言葉を失っている。
これは本当に、人間同士の戦いなのか?
何か、あり得ざることが起こっているのは間違いない。
それに対して何らかの知見を与えてくれる人物が、この場にいないことがもどかしい。
言葉が欲しかった。
このもやもやとした不自然な感覚を、言語化してくれる格闘家が――。
「徳川さん、あなたでしたか」
徳川老人の脇から男が出てくる。
体つきは中肉中背、
丸みを帯びた構えが穏やかさを感じさせる。
禿頭に度の強そうな眼鏡をかけ、耳の下から口の上下までを完全に覆う、濃い髭が特徴的である。
「おお、おヌシ来とったんか!」
その男の名は、
寂海王。