寂海王。
中国拳法の一派、空拳道の師範であり、海王の称号を持つ人物でもある。
気質温厚であり、その興味は人材の探索や育成に向けられている。
格闘家というよりは指導者、あるいは観察者としての色が濃い。
しかし海王の称号が示すように、技においても一流であることには疑いがない。
「戦況が厳しくてこの屋敷に近づけなかったのですが、まさか範馬勇次郎氏がドルルマンに挑んでいたとは」
「おヌシはなぜここに?」
「可能ならば彼をスカウトするつもりだったのですが」
「相変わらずじゃのう……」
徳川老人は半ば呆れたような様子である、だが、どちらも相手の方をあまり見てはいなかった。今は互いにもっと注目すべきことがある。
寂海王が場の中央へと視線を注ぐ。眼鏡が光を反射してぎらりと光る。
「――おヌシ、いま何が起こったのか分かるか?」
「そうですね……」
寂海王のその鋭い視線は、熱意か賞賛か。
あるいは深い疑問か漠然とした畏れか。
「勇次郎氏の体つき、以前、大擂台祭で見た時よりもシャープなものになっています。痩せたというよりは、絞り込まれた、あるいは余分な装甲を削ぎ落としたかのような。
体重が10キロは落ちているようですが、それで打撃の重さが弱まったということは一切ありません、それでいてスピードは格段に上がっている……」
範馬勇次郎ほど完成され尽くした武闘家に、そのような革命的な体型変化が起きたこと自体が驚愕である。しかし、問題はそれを踏まえた先にある。
「――そう、拳のキレは全く落ちていないのです。
それを、あのドルルマン氏……。
我々ですらマトモに受ければ落命するほどの打撃、それに何度も耐えたどころか、わずか数センチしか後退しないというのはあり得ません」
大岩すら動かすほどの強者の打撃、
確かに、卓抜な身体バランスや、技術の積み重ねにより生まれる構え、そして膨張させ密集した筋繊維などで、それに耐えるための要素を獲得することはできる。
だが範馬勇次郎の打撃となれば次元が違う話だ。
「では、どう見る?」
「――陳腐な考え方では、特殊繊維によるボディアーマー、それに足に特別なスパイクシューズを履き、地面との摩擦係数を極端に高めて耐える……関節にも各種のサポートを……」
その寂海王の言葉は、一応の可能性というに過ぎない。
あらためてドルルマンを見る。
茶色のズボンと襟の長いワイシャツだけという簡素な姿、確かに不自然に大きな体つきだが、その頑健さの正体がアーマーというのでは、あまりにも無体である。
「しかし、そんなことで耐えられる筈はないのです」
勇次郎が動く。
とんっと軽く地面を蹴ったかと思えば、10メートルほども後方に跳躍している。その体が伸身のまま体重を失い、観衆は一瞬、大岩が空中に浮いている画を連想する。
そして音もなく着地。
前傾に構え、両肘をカギ形に構えたと思った刹那、
それを超高速で振り乱しつつ疾駆する。
地面に設置している時間が極端に短いにも関わらず踏み込みは鋭く。
メダリストなど問題にならないほどの速さで駆ける。
一瞬、観衆たちは思う。
殴るか、
ラリアートのように巻き打ちを撃つのか、
勢いを乗せた直蹴りか。
ドルルマンに至る数歩手前、
ひときわ強く地面を蹴り、
勇次郎の上体が起こされ、
その巨体が浮き上がり、
両足がわずかなたわみを残して水平になり、
揃えられた両足が、ドルルマンの顔面を――
「どっ……ドロップキック~~!?!?」
加藤清澄の叫ぶその瞬間、
どごおっ、と空気が弾ける。
観客の目に幻視するのは、城門ほどもある巨大な銅鑼。
それが巨大な槌の一撃によりかき鳴らされ、はっきりと波として感じられるほどの音が爆発する。
庭園にある小さな噴水池にさざ波が立つ。
遠まきの森にまで葉ずれの波が広がる。
ドルルマンは、わずかにのけぞり。
その瞬間、初めて構えと言えるほどの反応を。
すなわち両腋を固めて拳を腰だめに握り、びりびりと震える振動を耐えんとする。
勇次郎は蹴り足の勢いのままに空中で蜻蛉を切り、
一度後方に回転して爪先から降りる。
そこに、掌が。
巨大な質量を押しのけて身を起こすかに見えたドルルマンが、
降りた瞬間の勇次郎に掌打を打ち込む。
あやまたず、胸部の中心。
その手が胸部に触れんとする。
「ヌウッ!!」
瞬間。
勇次郎の姿が全員の視界から消失る。
ざんっ、と地を削るような音。
観客の目が後方に流れる。
手の平を胸に押し当て、わずか数センチの打ち込み。
勇次郎の巨体が遥か後方に移動している。
いや、現在いる地点の少し前に地面がえぐれた痕がある。
そこで一度足を付き、更に後方に飛んだのか。
「なッ……何て攻防だよ!? まるでプロレスじゃね~~か!!」
息を呑む観衆の中で、加藤が我れ先にと叫ぶ。
「おっ、おおう!! 勇次郎のやつ、ファンサービスが激しいのォ……!」
徳川老人も、今の派手な流れをそのように理解する。
「いや……ッ、今のは」
寂海王は色を失っている。
それは、これまでに多くの者が見せた顔。
何か、信じがたいことが起こっているという顔。
だが、寂海王の冷徹なる観察者の眼が。
その混沌から更に何かを見出そうとする。
「――今のドロップキック、見た目だけの技ではありません」
「そッ、そうかの?」
「いや、あれが本来のドロップキックというべきなのです。プロレスでやるそれは単なる見せ技。相手の近くに飛び上がって足で押すだけだったり、ただの体当たりの延長だったりですが、今のは違います。
走る力、足を伸ばす力、全てを完全に乗せている。人間が繰り出せる技の中で、あれ以上の打撃力は理論上あり得ない。
だが、それにドルルマンは耐えた。信じがたいことです」
それに、と、寂海王は口元を噛み締めてから言う。
「あの掌底……。勇次郎氏は後方に飛ぶとき、一度地を蹴って体勢を立て直した。中国拳法で言う「消力」、古武道で言う「浮身」のように自分から飛んだにしては不自然です」
「つ……つまり?」
「あれは受け身ではない。勇次郎氏は一度こらえかけたが、ドルルマンの力を受け止めきれずに後方に飛ばされたのです」
「ぬぅ……ッ!?」
およそ、常識の範疇ではない。
勇次郎がそのような一撃を食らったという事実、だけではない。
人間を打撃で飛ばす。
それは多くの場合、相手の重心が崩れ、後方に「倒れた」ことがそのように見えているだけ。
もちろん、人間を大きく飛ばすような一撃を、見たことがないわけではない。
だが、ドルルマンと勇次郎の間でそれが起こることに、寂海王だけでなく、あらゆる人間が驚愕を覚えている。
腕力と抗力。それだけでは説明できない。
それを満たす条件は――。
「やはりな」
勇次郎が語る。
混乱と狂熱に囚われてた観衆が、びたりと動きを止めてその言葉に引き込まれる。
「ようやっと、分かったゼ、キサマの肉体の秘密が」
「…………」
ドルルマンは特に反応する様子も見せず、ただじっと言葉を待つかに見える。
「一般的な格闘家の体脂肪率は18%前後。ボクサーなど特にウェイトを絞り込む者の場合で10%ほどと言われている。格闘家の中でボクサーは特に軽い、180cm台の者でも70kg前後しかない」
ふいに、そんなことを言う。
あまりに突飛な発言であるが、観衆はその勇次郎の存在感に口もきけず、
またグラップラーたちも、その言葉の先にあるものに強く興味を惹きつけられている。
「かつて格闘家にスピードが重視された時代、彼奴らのウェイトは身長からマイナス100程度だった。現在ではスタミナや防御力を高めるために、少し増量してマイナス80~90というところか、身長190cmの格闘家で100~110ほど……」
いつの間にか、ドルルマンと勇次郎が至近距離まで近づいている。
互いに鼻をつまめるほどの間合い。勇次郎がわずかにドルルマンを見上げ、不穏な笑みを浮かべている。
「かつて小錦関が最も重かった時期で280kgほど、世界ではもっと上の怪物がいて、350kgなんて力士もいたという。これが人間が格闘家として活動できる限界と見るべきか」
ぽんと、その肩に手を乗せる。
瞬間、わずかに手に力をこめて肩を握り、ドルルマンの視線がその手に流れ、
「だが」
力の流れが――回転する力へと変わる。
隠ッッ!
ドルルマンが廻る。
滑るように、沈むように、
その巨体がものの見事に回転する。
倒すというレベルではなく、まさに無重力の世界でものを回すような眺め。
その太く膨らんだ肩から、庭園の石畳へと落下――
鈍ッ!!!
石板が砕ける。
肩が沈む。
土をえぐり返し、振動が足元を流れ、
石片を飛ばしながら、
土砂が天高く噴き上がる。
半径数メートルの巨大なクレーターを出現させて、ドルルマンが倒れる。
それは勢いがどうとか、巨体がとか、そのような眺めではない。
人体が、数センチも沈んでいる。
この水のように軽い人体が、
沈みこむ深さではない。
「キサマの体重は、800キロを超えている」
勇次郎が言う。
ドルルマンは、一瞬その冷淡な眼差しに色を宿したかに見え。
次の瞬間、その巨体が跳ね上がる。
手品師の見せる空中浮遊のように、その巨体が横倒しのまま1・5メートルまで浮かび上がる眺め、
一瞬だけ体を丸めて頭を上にし、
足を伸ばしてすっと着地する。
「その通りだ」
体のホコリを払いつつ、何でもない事のように答える。
寝たままでの跳躍、どのような筋肉を使ったのか、どのような体の構造をしているのか。
知れば知るほど、語れば語るほど、
ドルルマンは観衆の理解から離れていくかのようである。
「私の現在の体重は、およそ832キロ。このぐらいが限界なのだよ。常人のふりをして行動するのはね……」
「フン……」
「おっ、おい、どーゆーことだ!?」
加藤清澄が叫ぶように言う。
しかし問いを受ける寂海王も、頬に汗を浮かべて困惑するばかりである。
およそ、常人に答えられる域を越えている。
「――やはり、万能細胞か」
そう呟きつつせり出してくる人物がある。
口元に大きな布を巻いており、全身が汗と泥で汚れている。
極めて長身のために、徳川老人が大きくのけぞるように見上げる。
「オオッ、ジャック! おぬし無事じゃったか」
ドルルマンにやられた瞬間は、徳川老人も望遠カメラにて把握していた。
もちろん無事なはずはない。
顎関節と歯列を根こそぎ砕かれ、天井と地面に激しく打ち付けられた。会話をするどころか、二本足で立てているだけでも人間業ではない、常人なら痛みで失神しているはずだが、この人物はそもそも痛覚などと縁があるのだろうか。
しかし、万能細胞という言葉から先は判然としない。
漠然としたイメージはあるものの、それを言語化することが危ういかのように黙ってしまう。
寂海王がその後を続ける。
「――おそらく、ドルルマン氏はやはり何らかの万能細胞を完成させたのです。人体の細胞の構成元素は水素、炭素、酸素、窒素でそのほとんどを占められています。どんな生物でもほとんど変わらない……。
はずなのですが、もしドルルマン氏が、通常の細胞よりもずっと比重の重い細胞を完成させたなら、通常の人体の約8倍もの質量を持つ肉体を得たのなら」
「し、しかしの、832キロじゃぞ、トラックを一台背負っているようなもんじゃ。そ、そんな体で……」
「……動けるはずが、ない」
ジャックが、何かを確定しようとするかのように呟く。
この戦いを、常識の枠内に抑えこもうとするかのような頑なな言葉。
そう、体重が重いほうが強い。
それは格闘技界に限らない。
自然界でも、
粒子の世界でも、
あるいはもっと巨大な、
惑星同士、銀河同士のぶつかり合いでも、
2つのものが影響しあうとき、質量が大きなほうが優位を握る。
しかし――
ざわざわと呟きの波が伝播する。
森で鳴き交わす鳥たちのように、
ドルルマンの、範馬勇次郎の言葉は果たして真実なのか。
そんな人間が、存在しうるのか――