ドルルマンが、動く。
わずかに腰を沈め、足を前後に開く。
初めて戦いのために構えたかに見える。
その所作に全員が注目する。
果たして――動けるのか。格闘家としての動きができるのか。
その送り足が地を離れ、踏み込む足を軸に体が回転する。
引き伸ばされた時間。
その蹴り足が狐月を描く。
驚異的なリーチと蹴り足の伸び。
鼻の下、人中をかすめて風が行き過ぎる。
勇次郎がわずかに身を反らせる。
ドルルマンの蹴り足が地に帰るとき、
石畳に触れた蹴り足が、
その指で地面をつかむようにグリップを利かせる。
重心が移動する。
爪先を中心として、
体が独楽のように回転する。
奥側から二撃目が襲い来る。
更に後方に飛ぶ勇次郎。
初撃から1メートルも深い位置を蹴り足が薙ぐ。
もう一度。
直下から。
革靴に覆われた足の甲が伸び上がり、天を衝くように伸び上がる。
蹴り足の勢いのままにドルルマンの巨体が後方回転。
バク宙を絡めた縦廻し回転蹴り。
連撃の間に十歩ほどの距離を踏み込んでいる。
ざんっ、と、両足が地に帰り着く、
空気に凄絶な気配が残っている。
誰かが息を呑む音がする。
沈黙を破り、突き抜けるような幾つもの歓声。
それは困惑と、わずかな怯えに彩られた叫びだ。
まさに絶技。三連回し蹴り。
まるで燕の舞うような――。
「あッ……ありえねえ」
加藤清澄は、しかし観衆と同じように見ることはできなかった。
もはや曲芸の域に達する回転三連蹴り、
明らかに重量級にできる技ではない。
動作だけなら、一級のレベルのグラップラーであればもしくは。
しかし、その速度、身の軽さ、踏み足の角度。
あれはまさに、50kg程度に絞り込んだ軽業師の動き。
その違和感に、体内に生まれた混乱に、吐き気すら覚えるほどの困惑がある。
「――こと熱変換効率において、人間の持ついかなる内燃機関も不完全だ」
ドルルマンが言う。
「あるいは燃料を用いた人工的な内燃機関ですらも、だ。熱効率、重量比の仕事量、どれをとっても昆虫の筋肉には遠く及ばない。ある種のアリは体重の50倍もあるエサを運び、ある種のハエは、6時間以上羽ばたき続けることができる。
その構造を真似れば、800キロ超の体重など問題ではない」
「ふん……」
勇次郎がにじり寄る。
その拳が、ゆらりと体の前に来る。
口元を耳まで引き裂いて笑う。
その眼には獰猛な色が宿り。
何かを楽しそうに賞味しているかに見える。
その拳が――。
沒ッ
何かが起こったと思った一瞬。
拳がドルルマンの耳を駆け抜けている。
拳から先が光に変じたかのような鋭打。
その速度、およそ0.23~0.24秒。
「オオッ!! あやつ! かわしおったぞ!」
かろうじてそれだけが分かる。
しかし徳川老人はおろか、その場の誰にも勇次郎の拳の形は見えていない。
そして、ドルルマンがいつから回避し始めたのかも。
「――通常の人間が、危険を察知してから回避に映るまでの時間はおよそ0.5秒。あまりにも遅い」
ドルルマンの低く細く、それでいて誰にもやり過ごされないような重々しい声が響く。
「それは脳内の情報伝達が未熟だからだ。脳内での情報処理は化学物質の噴射と受容の繰り返しという奇妙な方式によって行われる。これを電気的ネットワークに置き換えれば、処理速度ははるかに向上する」
頭を指でとんと叩きつつ、一歩踏み込む。
「やはり、君も不完全だな」
その腕が。
奇妙な太さを感じさせる丸太のような腕が、大上段に振りかぶられる。
予想される打撃は、体重を載せただけの単純な振り下ろし。
勇次郎は不敵な笑みを浮かべたまま、わずかに顎をそらし。
ぱん。
その拳は初速から音速を超え。
世界に、鮮血がはじけ――。
※
――どうぞ、狭い部屋ですけど。
――好きに座ってください。
――範馬勇次郎について知りたい、ですか?
――
――そうですね、確かに強い人です。
――地上最強……その言葉が最も似つかわしい。
――世界中を探し回っても、あるいは過去にも未来にも。
――あの人を超える人間は、いないんじゃないでしょうか。
――あ、エーと、飲み物でも。
――そうか、いま炭酸抜きのコーラしか……ちょっと買いに。
――え、いい?
――そうですか……
――ええと、そう、強いという話ですね……
――そう、先日、本気で戦りあって、喧嘩して……
――ますます、その強さを確信した気がします。
――え?
――もし、彼よりも強い人がいたら、ですか?
――
――いえ、すいません
――そういえば、考えたことなかったなあッて……そういうこと
※
火薬を仕込まれた果実のように、
鮮やかに散る赤い眺め。
勇次郎は上半身裸であったが、そこに赤い線が走っている。
その発達した筋肉が、ナイフですら容易に切り裂けぬ頑健な皮膚が裂けている。
青龍刀で作られた刀傷のような、巨大な裂傷。
空気に舞った血の雫が、赤い霧となって数秒、周囲に残る。
「どッ……どうなったンだ!? 今の!」
加藤清澄が言う。
寂海王はかろうじて動揺をおさえつつ答える。
「……勇次郎氏の踏み脚が動いていない」
その顔中に汗を浮かべ、わななき震えようとする口元を手で抑える。
「つまり、完全な回避には間に合っていない。
というよりも、あのドルルマンの手刀……人間の反応速度を完全に凌駕している。
動作の始まりから振り下ろしまで0.2秒もかかっていない。
あ、あれでは勇次郎氏といえど……」
しかし、もう一つ奇妙なことがある。
その深々と刻まれた裂傷が、一度血を吹いただけで出血を止めている。
この角度からではよく見えないが、
寂海王の見立てた間合いよりは浅かったのか。それとも勇次郎の持つ驚異的な止血能力か。
あるいは、わずかに上体を反らして致命傷を避けたか。
しかし寂海王はそれを深く考えることができなかった。
ドルルマンの打撃は範馬勇次郎の反応速度を超え、そして攻撃の威力が勇次郎の肉体的頑健さを超える。
そして勇次郎氏の渾身の攻撃も、ドルルマンを破壊するには至らない。
端的に考えれば、それはもはや道理に落としこめる範囲の力の差。
信じがたいことではあるが。
すべての面で、ドルルマンは勇次郎を――。
いや、まだ道はある。
寂海王は我知らず、勇次郎の勝ち筋を探ろうとしている。
それは力のカリスマである勇次郎への信奉のためか。
あるいは人智を超えた技術によって力を得たドルルマンへの、格闘家としての反発からか。
(――勇次郎氏に備わった強さ、それは肉体のポテンシャルだけではないはず。
先ほど、ドルルマンにやってみせたように――)
勇次郎が踏み込む。
フックのような短い左拳。
ドルルマンが身を引く刹那、その襟首を掴み、
脚を相手の膝に絡め。
全身に力をみなぎらせ。
投ッッッ
それは柔道で言うなら内股。
何十万本と打ち込みを繰り返したかのような完成された姿。
こうあるべき、という理想的な姿から一ミリもはみ出していない。
そこに重量差はなく。相手だけが重力を横倒しにされたような眺め――
どおっ――
まるで千年杉が倒れるような轟音。
その音は振動と混ざり合って遠くの山々にまで響く。
ざあっ、と土が水のように舞い上がる。
それが鳥の飛ぶほどの高さにまで打ち上がって、広範囲に砂の雨を降らす。
半壊しつつあった背後の屋敷がぱらぱらと瓦礫をこぼす。
そして。
「――へっ」
勇次郎がつぶやく瞬間。
血が、
大量の吐血が
ドルルマンの顔を、染める。
※
――すいません
――いくら考えても、想像できないんですよね。
――彼よりも強く、早く、知性も上回る、
――そんな人間が。
――
――そう、
――敗北することなんて。
――とても。
※
「勇次郎オオオォッッッ!!」
喉から絶叫をほとばしらせ、飛び出して行かんとする徳川老人を、左右からグラップラーたちが押さえる。
「――な、何だよッ、アレ……」
首を落とされたような大量の血。
それがドルルマンの上半身を赤く染めている。
その目は静かに、深く。
何らかの哀れみを持つかに見える。
「おかしいだろ!! なんで勇次郎のほうが血ィ吐いてんッだよ!!」
加藤清澄の目にも、ものの見事に内股が決まったかに見えた。
動作が小さくまとまっているため、二人が一瞬だけ混ざり合うかに見えるほど完璧な投げ。
「お……オーガっ……やはり、まだ病気が……!?」
ジャックが眼輪筋を震わせつつ、戦慄に震えながら言う。
「そっ……そうじゃ、あやつ、何かの細菌兵器を浴びていたとか……」
徳川老人も、しばしの間それを忘れていた。
いや、あえて考えないようにしていたのか。
記憶と変わらぬ、いや、さらに絞り込まれたような姿の勇次郎を見て、その声を聞いて、
病気などやはり何かの間違いだったのだと、心の奥底にしまいこんだに過ぎないのか。
「い、いや……あれは」
寂海王。
その深い経験に培われた観察眼が、まっさきにそれを見つける。
勇次郎の胸部。
そこに痣が浮いている。
コブシ大の紫色の痣。
心臓を中心に5つ。
それは花の散るように、一箇所を中心として上下左右に散っている。
「――ちっ」
勇次郎が口の端を腕でぬぐい、数歩、距離を取って呼吸を整える。
「……打撃です」
「な、何じゃと!? どういうことじゃ!」
「ドルルマン=フォグ。彼は地面に投げつけられる直前。いや、あるいは投げつけられた後に、手打ちで勇次郎の胸部に打撃を打ち込んだのです」
そのような裏技的な返し技。
古武道の世界に、なくはない。
しかし、あの投げ、常人ならば全身が砕けるほどの絶技。
あの勢いで、あの腕力で投げつけられて、なおカウンターを打てるとは。
ドルルマンが無造作に起き上がり、軽く首を鳴らす。
「――通じない」
ここに及んで、寂海王もその絶望を意識せずにはおけぬ。
「勇次郎氏の打撃も投げ技も、ドルルマンにダメージを与えるには至らない――」
――他に、何がある。
極め技。あるいは絞め技。
あるいは目つきか、金的。
――いや、そもそも人類とは体の構造すら違う相手。
今さら、そんなものが通るとは思えない。
格闘家として多くの経験を持つものでも、達人であるからこそ。
そのような相手との戦いを、想定したことはない。
「本当に」人間を超えた者との、戦いなど――。
「――よく分かった」
勇次郎が、
何かを話している。
「よくぞそこまで登りつめた。知恵の果て、知識の果てに、そんな場所があったとはな」
寂海王は、その勇次郎の声に何らかの動揺や、怖じ気が含まれてはいないかと、そのことに僅かな恐れを抱いた。
もし、格闘家の頂点である範馬勇次郎が敗北してしまったら。
それは、このドルルマン=フォグが地上最強である、との証明に他ならない。
自分たちとは違う、異なる道の果てにいるものが――。
「認めよう、お前の力、スピード、反応速度、きわめて優れている」
勇次郎はわずかに笑うようにゆるやかに構え、その目でじっとドルルマンを見つめている。
「俺よりも」
「――!!」
「な――」
「オーガ――!!」
まさか――
範馬勇次郎という、エゴイズムの極致のような男が、他者を認めるだけでも事件だというのに。
自分より強い存在を、
自分より優れたものの存在を、認めるのか――
「それだけに、口惜しいことだ」
「やっ……やめるんじゃ、勇次郎、オヌシの口からそんなことを……」
徳川老人が、何か、自分の最も大事なものを壊されるような恐怖に声を上げかけた刹那――。
「本当に惜しい。貴様が――」
「ここで、敗北することが」
※
――え?
――じゃあ、なぜ彼と戦ったのか、ですか?
――いや、負けるつもりで挑んだわけではありません。
――そう、確かに勝ってやると思って戦ったんです。
――
――そういうもんでしょ?
――今までの戦いだって、そうだッた。
――相手はいつも、俺よりも強大で、
――大きくて、経験豊富で、野生に近くて、
――武器だって、使ってきた。
――そんな相手と戦って、ある程度は勝ってきた。
――そう、俺たち格闘家にとって、
――強さ弱さの比べあいと、勝敗は、まるで別次元の話
――時には、自分より強い相手にだって、
――勝たねばならない。
――
――それは、あの人には、
――生涯、縁のない話かも、知れませんが。
※