※
――
――
――
――
――と
――
――
――っとだ
――
――
――
――
――
――もっと、破壊を
そう明確に思考したわけではない。
だが、範馬勇次郎。
無数の業病に冒され、恐るべき強敵たちと戦い、
そして今まさに人智を超えた力に圧し潰されそうになる中で、
彼の細胞が、範馬勇次郎という肉体そのものが、ほのかにそう思った。
――もっと破壊を
――もっと窮地を
――もっと強敵を
それはあるいは、生まれ落ちてからずっと、彼の細胞が語りかけている言葉。
細胞の間を流れる電気的刺激となって、全身が一つの意志を共有しているような。
再生のために破壊を望み、
成長のために強者を望む、
だが、いつからだろうか、
彼の肉体が、いかなる相手にも満足しなくなったのは。
肉体は何者にも脅かされず、
脅威を感じることもない、
世界最強の生物、その言葉をもはや誰も疑わない。
あらゆる格闘家も、彼のことを知る人々も、敵であった者すらも。
――なんという退屈
――なんという退廃
――なんという堕落
しかし、
これ以上の成長
これ以上の強靭
これ以上の頑健
それを、どうやって手に入れればいいのか。
どのように成長すればいいのか
どこまで頑健となればいいのか
目標
理想
到達すべき場所
そのようなものを失って久しい。
――人間は成長し、ヒトが進化する
――そう、範馬の血
――過去から未来へと繋がる、成長と進化の血
――それを揺り起こす
――強者を
「――」
――
――こいつなら
――こいつならば、目覚めさせることが
――そう、範馬の
――血を
「――っ」
ドルルマンが腕を引く。
24金のリンカーンの向こう側で、もはや絶命どころか、肉片すら残らぬほどの状態になっていてもおかしくない。
だが何故か、履き古した靴のように、配管も機械部分も扁平となったリンカーンの底部で、
何か少しだけ、熱気のようなものを感じた気が――
がり
石が削れるような音。
リンカーンの車体が、数センチ押し出される。
「――何だと」
車体が、壁面全体がぐらぐらと振動している。
粘土に押し込んだミニカーのように、完全に埋没している状態のリンカーンが、がりがりと壁面を削りながら押し出されてくる。
そして、内部から響く一撃。
どおん、と鳴り響く音とともに、リンカーンの24金の車体が壁面から剥がれ、金貨を撒き散らしながら床に倒れる。
壁面に空いた穴から出てくるのは、範馬勇次郎。
その全身は朱色に染まっている。
どくどくと流れる血が床に幾何学模様を残す。
その流血は、多くは背中から流れているようだ。
柔らかな24金のボディよりは、コンクリートに押し当てられた背中側のほうが出血がひどかったということか。
だが。
その時、ドルルマンも、勇次郎すらも気づいてはいなかったが、
肩甲骨の真下、膨れ上がった筋肉同士が折り重なる位置から流血がある。
上半身に何も身につけぬ勇次郎の体躯は、膨れ上がった筋肉が更に引き絞られて凝縮している。
その背中。
鬼の顔、と呼ばれる彼に独特の打撃筋肉(ヒットマッスル)が、今はどのような顔に歪んでいるのか――。
その目から流れる赤い血が、
血の涙を流す鬼の顔が、何を予感させるのか――。
だが、その血は数秒で止まる。
傷は背中だけではなく、
額にも、胸部にも、目に見えて裂けている傷口がある。
だがそれも、全身を駆け巡るアドレナリンによって、やがて止まる。
「――とっくに、五体バラバラかと思ったが」
だが、満身創痍であることは間違いあるまい、
ドルルマンはそのように理解し、ならば何度でも破壊を繰り返そうと手を伸ばす。
瞬間。勇次郎が踏み込み。
下方から伸びる右が。
ドルルマンの腹を捉え。
その金属塊のごとき肉体を、
超重量の体躯を
突き抜けるような衝撃が、
ドルルマンの肉を透過し、
「背中」を砕く。
「がっ――!?」
「……図に乗りやがって……」
※
がらん、といくつもの飛礫が転がる。
ネズミほどの大きさの、黄金の塊。
「なぜ」
――なぜ、この男は滅びない。
――なぜ、無敵であるはずの肉を、脅かす。
「―――ッッッガアアァァアア!!!」
千の獅子がいちどきに吼えるほどの咆哮。
勇次郎が裂帛の気合とともに繰り出す右回し蹴り。頭を狙う高さ。
「ぐうっ」
ドルルマンの機械的な反射神経がガードを命じる。腕を上げてその脚を受け止める。
ぶし、と腕と肩の間に鮮血が弾ける。
勇次郎の足の肉が裂けて血が吹き出す。
ごっ、
弾けるような音。
数個の金塊が飛び散る。がらんがらんと重厚な音を立てて転がる。
上腕の肉が砕けている。内部から爆発したかのように。手首の部分が大きくえぐれている。
シャツの手元が切り裂かれ、内部にのぞくのは裂けた人工皮膚。その奥に鈍く輝く黄金。
「う――」
「――ッッオオオオオオオォォォ!!!!」
勇次郎が宙を舞っている。
折りたたまれた体、振り上げられた脚が天を衝くように伸びている。
縦回転からの踵落とし。
ドルルマンは全身の肉を硬化させ、両足で地面を掴むように構える。
瞠ッッッ!!!!
満身の力をもって、雷鳴のごとく打ち下ろされる踵。
ドルルマンの肩口に食い込むそのエネルギーが、肩から胸、胸から腰へと降り、
ばぐ。と。
三度、肉をはじけさせる。
右膝に生まれた亀裂から、釘のように細く尖った金塊が飛び出て床に投げ出される。ズボンが内部から切り裂かれている。
「ぐうっ……!」
「――意外とモロいな、ドルルマン」
「……っ、私の体を破壊したことは、評価しよう」
ドルルマンは肩を、膝を順番に手で覆う。
手が除かれた時、まるで手品のように、裂け目が、砕け散った部分が埋められている。
だが、その部分は周囲と微妙に色が違い、融合していない。
周辺の「肉」を寄せ集めて、応急的に修復しただけなのは明白だった。
「……中国拳法に、そのような神秘があるらしいな。触れたものを内部から破壊する、相手の体を突き抜けて破壊する……。
浸透勁、あるいは通背拳、と言ったか……」
「違うな」
勇次郎は、妙に興奮しているようだった。
その目は赤くぎらつき、口元は常よりももっと凶悪に嗤っている。
ドルルマンに与えた打撃、打撃や蹴りの際に血しぶきが飛んでいたのはドルルマンも気づいている。おそらく自己の肉体の破壊すら厭わぬほどの打撃だったはず、しかしすでに血は止まり、痛みなど気にする素振りもない。
「人間を殴るように戦ってたのが間違ってただけのこと」
奥歯をがちりと鳴らしながら、鷹揚に語る。
「キサマを倒すには、殴るではなく、砕くが相応しいと識ったまでのこと」
勇次郎の体が蒸気を上げている。
ドルルマンは、常人をはるかに超える感覚器官で察する。
彼のガス交換効率、代謝率、それらが著しく上昇している。
短くはあるが深い呼吸。異様に高い体温。
彼の体細胞が、激烈なまでに活動を高めている。
そのような現象を、知識としては知っていた。
例えば、零下30度の極寒で、突如として防寒着を脱ぎ捨てた時。
あるいは、全身を強く打ち、生死の境を彷徨うとき。
人間の肉体は、すべての負荷をシャットアウトし、ただ体細胞の活性化のみに全力を費やす。
それを知るものは、その時間をこう表現する。
黄金の刻――と。
「――そう、上手くいくかな」
ドルルマンは全身の肉質を変化させる。
黄金の肉、黄金を原料とするマイクロユニット、その強みは分子結合にも似た万能の連結にある。
結晶構造のように強固に結びつけば、金属の如き硬さを、
分子鎖のように長く結びつけば、ゴムのような柔軟さを見せる。
勇次郎が構える。
「――?」
ドルルマンはコンマ数秒、困惑する。
それは右手を反時計回りに回転させ、手の平を上にして肩の前に構えるような姿。
手首のねじりに引きつられて、腕も肘も、大きく上方向にねじれている。
もし、この場にそれを知るものが居たなら、きっと仰天したに違いない。
かの空手家、鎬昂昇。
彼が最大トーナメントにて、兄である鎬紅葉に用いた構えである。
しかし、範馬勇次郎が果たしてそれを記憶していたのかどうか。
あるいは彼の本能が、最適な構えを自動的に編み出したのか。
菩ッッ!!
腕が放たれる。
ドルルマンが全身をゴム地のように変異させて構える。
その正拳が右脇腹を狙い、肉をかすめ。
――怨ッッッッ!!!
「――ぐあっっ!!!」
脇腹の一部が消し飛ぶ。
そこだけ空間がえぐれたかのように、ものの見事に肉がえぐられる。
吹き飛ばされた木の葉状の切片が7・8枚、空中でその金属としての本分を取り戻し、すさまじい速さで滑空。
ざん、と手裏剣のように壁に突き刺さる。
「――お、おおっ……」
ドルルマンの面相が色を帯びている。
驚愕でもなく、賞賛でもなく、
はじめて、脅威の色に歪んでいる。
紐切り。
その構えの要旨は、インパクトの瞬間の手首の回転にある。
不自然に手の平が上を向いた形、そこから接触の瞬間、手首を一回転以上ひねることで、皮膚を、その内側の神経までもズタズタに切り裂く技。
だが勿論、手首のひねり、打撃点の見切り、範馬勇次郎のそれは鎬昂昇を大きく上回ると見るべきだろう。
ドルルマンの腹をかすめる極小の時間、
その瞬間だけを引き絞れば、勇次郎の手首の回転は、
おそらくは巨大な出力装置に連結する、工業用ドリルか、
あるいは数トンの重量を浮かせる、軍用ヘリのローターにすら匹敵する回転力。そして指先にまでみなぎる破壊の意志。
柔らかな黄金など、その回転に巻き込まれた瞬間、世界から消失するかのように引き裂かれたことだろう。
再び手の平を上に向けた構え。
踏み込む、というよりはずかずかと大股で歩いて間合いを詰める。
大気をはじけさせる音とともに右手がかき消える。
ドルルマンが肉を硬化させて耐えようとする刹那。
勇次郎の極限まで研ぎ澄まされた観察眼が、その肉質に反応する。
刹那、
拳が。
開手から正拳へ、鋼のごとき凝縮力で握られた拳がその胸部に、
――炸裂する、
体内に亀裂が侵食する――
その亀裂から、高温のマグマがあふれだすような、
あるいは恒星の如き強い光が炸裂するかのような、
それは悠久無限、万世不変のものが滅びる眺め――。
「――ガッ……」
ドルルマンの体に、警告に近い思考が流れる。
ユニットの連結が切断されている。
いくつかの緊急的な補填が要求されている。
その微細な金属ユニットを統括するのは、ドルルマンの内部に存在する「頭脳」
一度、ユニットが離れてしまえば、再び支配下に置くのは容易ではない。
想定してはいなかった。
この肉体を、万能の肉を、砕き、刻むことが可能だとは。
有機物と無機物の狭間に位置するドルルマンに、痛みや苦痛などはあまり意味をなさぬ。
だが、自らの総量が削られることには、確かな脅威がある。
「――終わりだな」
勇次郎は拳を金属のように握り固め、満身に殺意をみなぎらせて言う。
「……」
ドルルマンが、初めて一歩、退く。
足元の金塊を、金貨を、装飾品を踏み散らしながら後退する。
やがてその背中は、どん、と積み上げたインゴットの壁にぶつかる。
小国の国家予算に匹敵するほどの、純金のインゴットの壁である。
「……往生際が悪ィぜ」
「……」
ドルルマンは、しかし、
その目から、ふいに怯えの色が消える。
勇次郎よりもわずかに大きいその体で、顎をそらし、科学者の冷徹な目を取り戻して、静かに言う。
「――いいのかね」
「……あ?」
「私に勝ってしまって、いいのかね、と聞いたのだが」
「……」
ドルルマンは視線を宙に泳がせる。
その瞳が、それすらも人工的なものには違いなかろうが、憂いの色を帯びている。
それは、彼が生きてきた100年余りの時間を振り返るかのような、
出会ってきた何百人もの天才たちを、激動と混迷の時代を、思い返すかのような姿である。
「――私が、この肉体を手に入れようとしたこと、その切っ掛けは、死への怯えだった」
「……」
勇次郎は、この男が何を言い出すかではなく、
なぜこの段に及んで、何かを憐れむような声を放つのか、
それに怪訝さを覚え、歩みを止める。
「だが、寿命を克服して、私はより死が恐ろしくなった。
長大な時間を生きて、膨大な知識を蓄えるごとに、より死から遠ざかろうと思った」
「そして私は黄金の肉を求めた。有機体ではなく、無機物へ」
「だが……」