アメリカ合衆国、ホワイトハウス
執務室の黒電話が、けたたましく鳴り響く。
「――っ」
しばらく前より、特定の人物との連絡のために設置されているホットラインである。
専用回線の先には、アメリカ最大の実力者が存在するはずだ。
ここ数日、その人物のせいで、オズマ大統領は生きた心地がしなかった。
仏国においてドルルマンと範馬勇次郎の接触、それは勇次郎、ドルルマンともにその場から姿を消す、という終焉を迎えたらしい。
結局のところ、ドルルマンの頭脳も、彼が世界中から収集したという数十トンもの金塊も、そして彼の研究成果も手に入らなかった。
もっとも、それは大した問題ではない。
結局のところ、それらはどの国にも、どの勢力にも渡らなかった。
ならば問題はない。
アメリカが世界最大の軍事大国であるという、その現状が揺るがないなら、それでよいのだ。
だが、その過程で範馬勇次郎氏を裏切ったこと。それは重大である。
範馬勇次郎とアメリカとの友好条約、それは国と国の条約に匹敵するものではあるが、実務的にはオズマ大統領と勇次郎の個人的条約のような形で行われている。
有り体に言うならば、その破棄はオズマ自身の肉体的危機という意味を持つ。
その事実が重くのしかかっていた。一日2・3個は胃に穴が開く思いである。
今、鳴り響いているのは、その命令を出した人物からのホットライン。
米国第44代大統領、バラク・オズマは居住まいを正し、額に汗を浮かべつつ電話を取る。
「も……もしもし」
『――よお、しけた声してやがんな』
「!?」
オズマは我が耳を疑う。
その人を喰うような不遜な声、それは間違いなく、範馬勇次郎氏のものだ。
「お……オーガ!? な、なぜそこに」
専用回線の相手は、掛け値なしに米国最大の重要人物。
その居住する場所は、オズマですら正確には知らない。警備も並の国家元首のそれより厳重なはず。
だが、とオズマは思う。
それが何の意味を持つというのだろう。
どこにでも行き、何事をも為す、それが範馬勇次郎という人物ではないか。
だが、そんな思考に長くをかけてはいられなかった。
『俺を裏切り――』
「……っ!」
『あまつさえ襲撃し、細菌兵器を用い、ドルルマンのいた屋敷では、重火器まで持ちだしたな』
「お、オーガ、ご、ごご、誤解だ、それは……」
それは軍の一部が暴走したこと
私も命令されて指示したまで
逆らうことは許されなかった
殺害までするつもりは
言葉が喉をついて出かかり、しかし、形にならずに消える。
今、脳裏に浮かんだ言葉は、偽りだ。
範馬勇次郎に対し、偽りをもって答えること、
それは頭を44マグナムで撃ちぬくより確実な、明確な自殺行為だ。
『ほう、誤解か』
「……っ」
『――どう誤解か、言ってみるがいい』
「そ、それは……」
アメリカ大統領とはいえ、肉体的には脆弱なる一個人。
範馬勇次郎の怒気、その片鱗に触れるだけでも大変なことである。
だがオズマはぎりぎりと唇を噛み締め、眼に力を入れて答えた。
「――き、君は誤解している。
――す、全てはそこにいる人物ではなく、私の判断で行ったことだ」
『……、ほう』
「ア、アメリカの利益は勿論、国際社会の安寧のために、ドルルマンの身柄をアメリカ以外に渡すわけにはいかなかった。
だ、だから私は決断した。
君に了承を取ることは、ふ、不可能と思われたため、実力行使を試みるしかなかった。そ、そのことについては、私の全身全霊を賭して詫びるつもりだ」
『はっ……なるほどな』
「ど、どうか、お詫びの機会を――」『オズマ』
背後から剣を突き立てるような勇次郎の声に、オズマは背骨を剛直させる。
『キサマが忠誠を誓うべきはこんな白ブタではない、
そうだな?』
「……し、白ブタ……。
……も、もちろん、だ。私は、アメリカという国家にこそ忠誠を誓う」
『ならばいい、キサマの事情も汲んでやろう』
「……っ!」
オズマはずるり、と椅子の中で滑るように腰を落とした。
全身が飴になって溶けるような感覚がある。
勇次郎の厳かな赦しの言葉に、オズマは心の底から安堵し、筋肉や内臓すらも弛緩するような思いだった。
端的に言うなら、
その赦しの言葉だけで、腰が抜けてしまったのだ。
もし直接会って言われたならば、眼から滂沱の涙を流し、足元に跪いていたかもしれない。
『詫びたいなら、夕飯どきに俺の家に来い、上等の酒でも持ってな』
「――えっ? 家っ……て……」
その唐突な言葉に、思わずオズマは聞き返し。
「ゴ……ゴメン、クダサイ」
たどたどしい日本語で範馬刃牙の家を訪れたのが、その10時間後のことである。
空軍機を飛ばして、横須賀から大使館専用車で来たのだ。
壁も、屋根も、道も、
見渡す限り悪辣な落書きで埋まっている。異様な町並み。
「え~~~~~っ……!?」
安いサッシ戸の奥から登場するのは、地下闘技場チャンピオン、範馬刃牙である。
まだ若いながらも無数の死線をくぐり、地上最強の一人に数えられるほどの実力者ではあるが、さすがに戸を開けたらアメリカ大統領が立っていた、という状況には面食らわざるをえないようだ。
「ヘッ、遅えぞ」
その背後から、のっそりと現れるのは範馬勇次郎。
いつものような黒のカンフー着に戻ってはいるが、やや引き締まったような体つきと、少しばかりほぐれた顔つきは未だそのままである。もっともオズマ大統領がフランスでの勇次郎を知るはずはないが。
しかし、あの電話の時、範馬勇次郎氏はどこにいて、どのようなルートで日本のこの家まで移動したのだろうか。
アメリカの影の支配者であるあの人物がどうなったのか、あまり想像したくはないが、それも合わせて謎が深まるばかりである。
「ユ、ユージロー、本日は、お招きに……」
「酒は持ってきたのか」
「こ、これを」
その一本は大統領の移動とは別に、在日大使館が急ぎ調達したものである。およそ日本に存在する酒類の中で、間違いなく上位十指に入る、というほどに高価な一本だった。
「ロ、ロマネコンティの1985年もので」「ワインかよッッッッ!!!!」
周囲のガラスがびりびり震えるほどの大声で怒鳴られ、オズマは身をすくめる。
「お前ッ……気の利かねェ……飲み飽きてッ……」
「ひ、す、すまない、気に入らなかったか……? で、では今すぐジャパニーズ・サケ(日本酒)でも……」
「ちっ……まあいい、上がってその辺に座れ」
「あ、ああ……」
どすん、と受け取ったワイン瓶を適当に放り投げ、勇次郎は家の奥に動く。
「お、親父ッ! 説明してくれよッッ!」
「――説明?」
「そ、そうだッ! なんでいきなり鍋なんだよッッ!!」
何やら勇次郎氏とミスター刃牙が揉めているが、
オズマは混乱と緊張で、状況を冷静に把握するどころではない。
おそるおそる家の中へと踏み込む。
なるほど、確かに円形の木製テーブルの中央にカセットコンロが置かれ、
その上で、安いアルミ鍋でぐつぐつと鍋が煮えている。
そして、全身の四割を包帯でぐるぐる巻きにしたストライダムが、汗だくになりながら正座して、せっせと鍋のアクをすくっていた。
なぜか涙を誘う眺めであった。
「す、ストライダム大佐」
「……あ、大統領」
オズマはストライダムの近くににじり寄り、こっそりと耳打ちする。
「こ、これは何……だ? 日本のホームパーティか……?」
「は、はい、それに近いものです……。このナベで煮込んだ材料を、各自、小皿で取って食べるのです」
「……ゆ、ユージロー氏は、こんな会合を開く人物だったか……?」
「ああ、説明といえばな」
その範馬勇次郎は、刃牙の背中をぽんと叩きながら言う。
「ジャックは来れねェぜ、まだ新しい歯を入れてねえんだとよ」
「そーーーゆーーーことじゃなくてッッ!!
いや、てか兄さんも呼ぼうとしたのかよッッッ!!」
ミスター刃牙は顔から汗を飛ばして声を上げているが、それは憤慨というより、混乱の度合いがかなり強いようだ。
どうも、勇次郎氏の様子がおかしい。
具体的にどう、と言われると難しい。
いつも人を喰ったような態度ながら、おどけたような言動をすることも無くはないし、意外な行動で周囲を驚かせることも確かにあった。
だが、今日はさすがにくだけ過ぎではないだろうか?
話し方も、普段の威厳に満ち溢れたような口調から、肩の力の抜けた、軽妙なとも言える口調になっている。
顔はうっすらと赤らんで見えるし、表情も、オーガに形容されるほどに険しく、表情筋を深く歪める独特の笑い方をしているが、それは獰猛さというより、もっと明白に陽気な笑み、とすら思える。
――それに、この顔ぶれは。
オズマは部屋の隅の方を見て、そこにいるゲストに目を見張ったものの、
緊張のあまり声を上げることができず、身を小さくしている。
「こ、この鍋は、まさか勇次郎氏が用意したのか……?」
「いえ、私が頼まれて、自費で……」
「……そ、そうか……」
勇次郎氏とミスター刃牙の言い合いはまだ続いている。
「てか親父ッ! なんか酒の匂いするぞッ!! 酔ってんのかよッッ」
「ああ心配すんな、もうじき抜ける」
「心配じゃなくってッ!!!」
「ッせえな、鍋がやりたくねェのか、刃牙よ」
「……えッ、そりゃ……」
ミスター刃牙は、なぜか照れたように赤くなって、指をもじもじと動かす。
「…………ど、どうしてもやるってなら、…………そりゃ、まあ……
ヤブサカでは……ないっつーか…………その……」
「どっちだ!!!!!」「しっ、したいよッッ!」
半径100メートルに届くほどの爆音で問われて、刃牙は身をこわばらせつつ認める。
へっ、と軽く息を吐いて、勇次郎がのっそりと座卓のそばに座る。
「おう――そろそろ、煮えたか?」
「う、うむ、もういつでも大丈夫だ」
ストライダムも最初は勇次郎の提案に面食らったものの、
何か逆らい難いものを感じ、ともかくも命令を履行することに集中するべきと判断。もくもくとアクをすくうことに専心していた。
ストライダムの長年の経験と、生まれ持ったカンが告げている。
今のこの状況を、乱してはいけないと。
この状況は特例であり、記憶すらしてはいけないのだと、
後になってこの時の話を蒸し返したら殺される、そんな確信まである。
考えないように、意識しないように、
ストライダムは心を空っぽにして、ひたすらにアクをすくう機械と化していた。
「そ、それから親父、お客さんのことちゃんと紹介してくれよッッ、あの人誰なんだよッ!」
「――あん?
ああ、そういや、お前」
と、勇次郎は部屋の一角を見て、そこにいる人物に声をかける。
「お前は、500円玉とか食べるんじゃねェだろうな」
「まったく、君の冗談ときたら……」
その大柄な男は、
ドルルマン=フォグは口角を上げて、にやりと笑う。
「笑えるな」
(完)
これにて投稿完了です、ここまで読んでいただきありがとうございました。
現在はおもに「なろう」で書いていますが、他にも色々な場所で色々なものを書いてきたので、サルベージする形でアップしていければと思っています、次回はたぶん理想郷以外から...
現在メインで行っている連載はこちらです、こちらもよろしくお願いいたします
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