グラップラー刃牙 BLOOD & BODY   作:MUMU

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第3話

 

 

――

 

足元に、気をつけたまえ

 

滑りやすいからな――。

 

すごいビデオの数だって……?

そうだな、ざっと7万本か……。

 

うむ、日本製の記録媒体は実に具合がいい。

わしはVHSテープの信奉者でな。

デッキも、磁気ヘッドもダース単位で保有している。

 

ここは10年ほど前に廃坑になった岩塩の坑道で……。

核廃棄物処理場にするはずのところを、わしが買ったのだ。

湿度3パーセント、気温は常に一定。

カビに弱い磁気テープの保管には、最適だ。

 

今まで撮りためたテープに……一部はディスクや、紙媒体にオープンリールも……。

ふむ、この地下室も手狭になってきたな。

なに、また増設すればいいことさ……。

 

格闘技の観戦こそは、わたしの生き甲斐でね……。

ほら、これなどは1976年、モハメド・アライ対猪狩完至戦のテープだよ。

他にもアイアン・マイケルが29連勝目にして世界タイトルをもぎとった試合のテープ……。

アレキサンダー・ガーレンのテープもある……。

ハハ……国際大会で、金メダルを取った試合だけで24……。

もちろん全て、私が現地で撮影したものだよ。

 

そうそう、あの試合の話だったか……。

わしの長い格闘技ファンの道のりでも、あのタイトルマッチほど奇妙なものはなかったよ……。

 

そう、このテープだ。

 

 

 

 

 

 

ある欧州の巨大格闘技団体の、

その一大トーナメントの決勝を飾る二人。

 

二人は、当惑していた。

 

審判からルールの説明と簡易的なボディチェックが終わり、

あとはファイト、の一言が発せられれば、その瞬間から審判は石ころ同然となる。

 

だが、この妙に体の大きな審判は。

ルールの確認を終えてから、動こうとしない。

 

そして。

 

1分間。

 

 

 

 

 

 

1分間だよ。

到底、許されることではない……。

 

試合開始を告げずに、動こうともせず……。

その審判は、ただじっと、立ち尽くしたのだ。

 

もちろん、観客も、アナウンサーも、

そしてセコンドも、選手も、

おそらくはテレビ局の連中も、騒然となったことだろう。

 

しかし、何だか不思議だったな。

 

目が、離せないんだよ。

その立っているだけの審判が、

何かとても、重要なものに見えたんだ。

 

解説者は何か慌ただしく喋っていて、

リング脇ではスタッフが必死に指示を飛ばしていたけれど、

わしには、そんなことは目に入らなかった。

その審判の存在感がどんどん膨れ上がっていった。

そう、

リング上の二人の選手を、一呑みにするほどに。

 

 

 

 

 

 

「おいレフェリー! どうして試合を始めない!!」

 

その奇妙な雰囲気を断ち切ろうとするかのように、最初に動いたのは歴戦のチャンプ。

挑戦者であるロートルの選手が、はっと気づいたようにそれに続く。

 

「そ、そうだ! どういうつもりだ、もう中継も始まって……」

 

濤。

 

深く響く音がした。

その凝縮された音が足からリングに伝い、客席を駆け抜け、会場の外へまで拡散する。

 

それを受けたのは歴戦のチャンピオン。

彼の胸は第四から第六胸骨の中央部がコップをはめこんだように陥没する。

折れた肋骨が周囲の皮膚に浮き上がる。

その顔は一瞬、胸部に何が起こったのかを見ようと下を向こうとして、

目玉がぎゅるりと上を向き、

その動きのままに全ての関節が張りを失い、

紙人形のようにするりとリングに沈む。

 

 

 

 

 

 

パンチをね、相手の胸の中央に叩き込んだ。

それしかない。

それしか、考えられないはずだが。

 

誰も、見ていなかったんだ。

 

目を逸らしていたわけではない。

誰も、その一撃を知覚できなかったんだよ。

 

銃弾のように速い一撃だったのか、

そして、動き出すのを悟らせない静かな一撃だった、のだろう。

 

会場全体に悲鳴が轟いたのが、その一瞬後だ…。

 

 

 

 

 

 

硝子をナイフで削るような悲鳴。

多くの困惑を、その倍の恐怖が塗りつぶすような、濁った喧騒がこだまする。

 

「な、なにを……」

 

ロートルの太った選手が身構える。

顔は蒼白になって顔中に汗を浮かべ、しかし格闘家の矜持ゆえか、逃げることだけはできなかった。

ジャッジはズボンの尻ポケットからマイクを取り出す。

スイッチを入れ、カメラに向かって静かに声を放つ。

 

「私は」

 

その異変は、凄まじい速さでヨーロッパ全土に伝播しつつあった。

元から視聴していた格闘技ファンの間に、

そして格闘家の間に、

電子メールやSNSなどを通して、文字通り電子の速度で広まりつつあったのだ。

 

「世界で、最も強い」

 

 

 

 

 

 

そう、彼はそのように言ったんだよ。

 

男なら、誰でもそう宣言したいものだ。

だが、たとえ5歳の子供でも、ヤク中のチンピラでも。

心の底から、確信を持って言えるものは、そう多くなかろう。

 

だが、そのジャッジは言った。

 

名は、ドルルマン……。

 

その日から、世界中から狙われると分かっていながら、

彼は、そう宣言したのだよ。

 

 

 

 

 

 

「技術でも、肉体でも……」

 

ドルルマンの言葉は不思議な存在感に満ちており、

今なお絶叫と喧騒の響く会場内においても、

全ての人間が、その一言一句を受け止めていた。

 

「災害でも、病毒でも……」

 

数人のスタッフが後ろから跳びかかり、その体を羽交い絞めにしようとする、

あるいは足にタックルして倒そうとする。

だが、微動だにしない。

まるで岩に根を張る大樹か、あるいは鋼鉄の彫像か。

 

「あるいは徒党でも、軍事力でも……」

 

両手両足でしっかりと体にしがみついたスタッフの一人、

その背中を、ドルルマンの大きな手ががしりとつかみ、

まるでハンカチをつまみ上げるよに、その体を引き剥がす。

 

「私を殺すことは、できない」

 

そのスタッフを、ロートルの太った選手に向かって投げつける。

大上段から、まるでボールを放るように無造作な一投。

 

その一瞬、スタッフは空中で意識を失う。

もし、その一瞬の流れを時間を緩やかにして見たなら、

焦点を失って痙攣するスタッフの眼球が見えたに違いない。

あまりにも凄まじい加速度ゆえに、

脳の血液が一方に寄って、脳貧血となったのだ。

 

「挑戦者は、いつでも歓迎する」

 

 

 

 

 

 

ああ、投げつけただけだよ。

そのスタッフだって80キロほどあったというが、

それを片手でね……。

 

そしてどうなったか? だって?

 

……

 

「混ざった」

 

そうとしか言えないな……。

そう、肉も骨も……ひどい状態だったよ。

 

手術を繰り返して、なんとか回復したそうだが……。

 

だがね、その二人には気の毒だが。

誰も、そっちを見てはいなかった。

 

目が離せないんだよ、ドルルマンからね。

少しでも注意を逸らせば、殺されそうだった。

はっきりとそれが確信できた。

 

私は思ったよ。

ああ、この男は、格闘家ではない。

あるいは、人間ですらない。

 

人間などアリのようにしか見ていない。

何か、恐ろしい怪物なのだ、とね……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「私は、永遠に勝ち続ける」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その映像を見たストライダム大佐は、色を失っていた。

頬に汗が伝う。

ごくりと息を呑む音を、高鳴りつつある心音が塗りつぶす。

 

よもや、これほどの怪物だとは。

 

今やってみせた程度のこと、

その程度のことができるファイターを、他に知らぬわけでもない。

それなのに、なぜ寒気がするのか。

恐怖を感じるのか。

 

ストライダムの肩が、細やかに震えている。

 

それは、あの男の強さが、己の経験とは異質だからだ。

たとえ、どれほどの怪力を見せつけようと。

その経過が分かれば、そこには納得がある。

 

鍛錬

 

素質

 

薬物

 

そんな過程を知ることが出来れば、怪物じみた強さでも恐れることはない。

 

しかし。

あの男は、何かが違う。

ストライダムにも分からなかった。

あの服の内側にあるものが、筋肉なのか、脂肪なのか。

彼はどんな格闘技の経験があるのか、

あるいはアスリートか、ボディビルダーか。

はたまた、野生の獣のように天性の肉体を持つのか…。

何も、分からない。

正体不明。

それが最も恐ろしい。

あれはまるで、影が集まって生まれた魔物だ。

象を撫でる群盲のごとく、その本当の姿すら知れない。

あれはもはや、人間では。

 

「ゼフッ……」

 

咳き込むような、横隔膜が震えるような音がする。

 

ストライダム大佐がそちらを見れば、範馬勇次郎が頬を空気で膨れさせ、細かく息を吐き出している。

眼球が飛び出しそうなほど大きく見開かれて、髪の毛がざわりと逆立っている。

 

「ゼフッ、エフッ、ゼフウッ……」

 

次の一瞬、

象一頭分もの空気を吐き出す勢いで、彼は笑った。

 

「ハハハハハハハハハハ!!!!!

ハハハハハハハハハ

ハハハハハハハハハハハハハ!!!」

 

断。

その熊のように大きな手が、ガラステーブルを一撃する。

そして二撃、三撃、

哄笑の声は部屋全体を揺らすほどの大音響となり、ガラステーブルの天板はコナゴナに砕けてそのスチール製の足も歪みひしゃげ。

文字通り破顔の勢いでその顔面が異様に曲がり、表情筋が弛緩と硬直を繰り返して人外の面相となる。

 

ひとしきり、

まるで竜巻が通り過ぎたかのような笑いが止んだ後、

そこにあったテーブルはもはや原型を失い、破片だけになったガラスの天板と、コンクリートの床に半ば埋没したスチールの脚があるだけだった。

 

ふうと息をつき、勇次郎が口を開く。

 

「悪いなストライダム……、こいつがあんまり突飛なこと言い出すからよ……」

 

不敵な笑みを浮かべ、画面の中のドルルマンをじっと見つめる。

 

 

 

 

「ちょっと、機嫌が悪くなっちまったぜ」

「え~~~っ……」

 

 

 

 

 

 

フランス南東部、リヨン

 

仏国としてはパリに続く第二の都市圏であり、長い歴史を持つ工業の街である。その石畳と石造りの旧市街地は世界遺産としても知られている。

 

そこに、かつて紡績業で財を成した豪商がいた。

彼は郊外に邸宅を築き、大勢の使用人と、愛すべき家族を抱えて暮らしていた。その資産は子孫へと受け継がれ、何代にも渡って順調に財産を育ててきた名門の家系であった。

 

その屋敷は鳥が翼を広げるごとく東西に伸び、彫り物や彫金で飾られた華美にして壮麗な作り。

邸内の調度も当然のごとく一級品。王室から下賜された至宝や、庶民の生涯収入に数倍するような美術品が何気なく飾られている。

 

その中を、一人の男が歩いている。

銀で縁取られた鏡の前で顔を洗い、手縫いのシャツに着替えてソファーでくつろぐ。

厨房から持ちだしたリンゴをひとかじりし、数度の咀嚼のあとで飲み込む。

そんな、春の日の朝のような優雅な時間にも見える。

 

その男はドルルマン=フォグ。

 

あの宣言から数十時間。

彼はこの場所にいた。

 

脂肪とも筋肉ともつかない、膨れ上がった肉体を持つ巨漢は、何も言わず特にそれから動くこともせず、邸宅の応接室でただじっと座っていた。

それは何かを待つようでもあり、あるいは大木のようにただそこに在るだけのようにも見えた。

 

次の瞬間、

金細工に飾られた窓から、一発のグレネード弾が乱入する。

それは壁や天井にぶち当たると同時に弾頭が分離し、ネズミ花火のように回転しながら紫色のガスを噴射する。あっという間に室内の視界はゼロとなる。

 

そしてドアを蹴り破って乱入する数名の男。ガスマスクを装備し、手にはアサルトライフルを携行している。

 

あらかじめサーモグラフにてサーチしておいた位置に、ためらうことなく5.56ミリ弾を掃射する。数百もの弾丸が革張りのソファーを打ち抜き、骨組みを砕き、ワタを引き裂いて一瞬で塵芥に変える。

 

だが、その場所にドルルマンはいない。

 

「逃げられたか! 奥の部屋を掃討しろ!」

 

コマンド部隊の隊長が、背後の部下に向かって叫ぶ。

だが、応答がない。

 

「どうした! 応答しろ!」

 

だが、そこには既に生きた人間はいなかった。

 

潰されていた。

そうとした形容しようのない人体が、無造作に転がっている。拳銃弾をも弾き返すほどの強化FRP製のヘルメットを粉砕し、血と脳漿をまき散らしながら死んでいる。

 

「ひッ……!」

 

その頭を、がしりと掴む手があった。

あえて言うまでもない、ドルルマン=フォグである。

 

「ふむ、君で最後か……」

「な、なぜ、マスクもつけずに……」

 

高濃度の嘔吐ガスと神経ガス、常人であれば、いや、生物であればまともに活動することはおろか、悶絶の果てに死亡しかねないほどのガスを噴霧している。

だが、ドルルマンはまったく意に介していない。そしてどのようなルートで移動したのか、機銃掃射の音に紛れて背後の部下を殺害し、また自分の背後にも回るとは――。

 

「大したことではない。硫酸の中でも生きるある種のバクテリアや、致死毒を体内に抱えて生きるフグなどに比べればね……」

 

そしてコマンド部隊の隊長が何かを言う前に、その第三脛骨と第四脛骨の間が、ものの見事に一回転した。

 

そしてドルルマンは軽く手を払い、血を落とすと、

ソファに戻って再びリンゴをかじる。

 

この屋敷に住んでいた貴族の末裔と、その家族、そして何十人もの使用人。

屋敷の外、手入れの行き届いた庭園には防弾スーツに身を包んだ特殊部隊。

銃火器を携行し、それぞれ空手、キックボクシング、コマンドサンボなどに精通した隊員たち。

そして無数の警官隊。

 

屋敷の内外に、その数およそ150。

 

その死骸に囲まれて、

彼はただ静かだった。

 

 

 

 

 

 

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