グラップラー刃牙 BLOOD & BODY   作:MUMU

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第4話

 

 

 

 

 

舞台は、数十時間ほど遡る。

 

パリ市内のとあるホテルにて、最上階に位置するレストランの一画。

大ぶりなステーキをフォークで突き、無造作に口に運びながらがぶりと噛み切る。勇次郎はさして感情の見えぬ表情のまま、もにゅもにゅと口腔内の肉を咀嚼している。

 

シャルル・ド・ゴール空港からホテルに直行し、すぐさまステーキを4ポンド。勇次郎にとっては軽い食事であろう。

対面に座すストライダムは、顔にわずかな焦燥の色を浮かべている。

 

「……ユージロー、本当に行くのか」

 

問うたストライダムではあるが、しかし、その額に玉の汗を浮かべつつの発言であった。

今の一言、目の前の猛獣に対してどれほど危険な言葉か、もちろんストライダム自身が一番よく身に染みている。

 

「……あ?」

「き…………危険だぞ。

ドルルマン=フォグ。あの男は、ど、どこか……通常の生物の常識からかけ離れている。し、正体が分かるまでは……」

「ふん……」

 

つまらなそうにグラスワインを飲み干し、

勇次郎が口を開く。

 

「キサマがそれを『本気で』言っていなかったら、首をねじ切っていたところだ。本気で心配していなければな……」

「う……」

「落ちぶれたもんだぜ……お前みたいなジジイに心配されるとはよお……」

「……こちらでもドルルマンのことは調べたが、IDKWのジャッジとして就職した時の身分証や履歴書は全て偽造されたものだった。それ以外の経歴はまったく不明……。またドルルマン=フォグという名前ではどの機関にも存在が確認できなかった」

「偽名だろう、くだらねエ」

 

もう良いとばかりにグラスを置き、おもむろに立ち上がる勇次郎。

 

「ま、待て、車を手配してある、地階に大使館の公用車を呼んであるから、それで向かおう」

「ハッ……ご苦労なこったな、だが……キサマはもう帰れ」

「い、いや私も……」

 

なにか言いかけるストライダムを、勇次郎の沈黙が止める。

その背中だけで、100万の言葉よりも明瞭に示される拒絶の気配。

 

「アメリカからここまで、キサマの顔も見飽きた」

「わ、わかった……」

 

そうして歩み去る。

ストライダムを残し、エレベーターで地階へ。

 

コンクリートに囲まれた通路を歩く。

天井までは二メートルほどの、やや窮屈な印象を与える駐車場である。

居並ぶのは、自動車名鑑から取り出して並べたような高級車ばかり。

足音が空間に反響し、どこからか換気扇の低い鳴動の音がする。

平坦な眺めの中を歩く勇次郎。

 

そこへ、

一人の男が現れる。

 

全身をだぶついた白の拳法着で包み、短く刈り込んだ頭の男である。

足元は勇次郎と同じく黒のカンフーシューズ。

肉のこけた頬をしており、斜め下に視線をそらし、両腕をポケットに収めたままという独特の構えをしていた。

 

「ほお……」

 

軽く顔をそらし、口を開けて感嘆を漏らす。

その人物を見て、勇次郎はわずかに、

しかし、彼にしてはやや分かりやすい形で、驚きを表現する。

 

「手を引け」

 

その男は、ぼそりとそう言った。

 

「これは、これは……」

 

ぎりり、と奥歯を噛みしめつつ口角を上げる。

 

「面白い……キサマが出てくるとはな……」

 

その人物こそは台湾黒社会、その裏の世界の武術会にて20年間無敗を誇る男。

実力では中国拳法の最高峰、『海王』の称号にすら匹敵する達人。

 

その眼差しは玲瓏なる太刀のごとく。

その立ち姿は触れるを許さぬ劇薬のごとく。

彼を中心に世界が氷に包まれるかのような、そんな剣ヶ峰の気配を放つ存在。

 

「龍 書文……。願ってもないご馳走だな……」

 

一歩、踏み出す。

勇次郎の野獣の気配と、書文の氷の気配が触れ合い、背後の空間が歪むかのような殺意が行き交う。

 

「あの大擂台祭……。

キサマはあの筋肉デブに敗れはしたものの……」

 

二歩、三歩、

勇次郎が近づくごとに空気は重みを増し、爆発性の気体のような危険な匂いを放つ。

 

「……悪くはなかった。いずれ、食らってやろうと――」

 

書文の右手が、ポケットから引き抜かれる。

 

顔の横に掲げられた手、その指の股に、3つの卵。

 

「あん……?」

「これは擂台などではない」

 

相変わらず、かろうじて相手に届く程度の声で書文が言う。

 

「手段は選ばぬ」

 

かしゅっ

そんな湿り気の混ざった音を立て、3つの卵が手の中で潰れる。

 

中からは、しかしもちろん生卵などではない、

それは金色の粉

暗緑色の粉

紫色の粉

 

ごく細かな粉末状の粉。それが地面にバウンドするように立ち上り、地階駐車場内、その換気の流れに乗ってゆっくりと勇次郎の側へと流れんとする。

 

「――ッ!!!!」

 

瞬間。

勇次郎の足が、天井を撃ち抜く。

 

それは雷速の蹴り、限界まで矯められた板バネの如き速度で右足が天を突き、やや低い位置にあった天井を直撃する。

 

「ちいッッ!!!!」

 

そして背後に飛び退く。

勇次郎の体が防御の姿勢のままで滞空する。

 

一足で走り幅跳びの世界記録に匹敵するほどの距離を、背後に飛ぶ。そして衝撃、背後の直線上にあった高級車の横腹に、重力を横倒しにしたように着地する。

天井部分、一撃された火災用のスプリンクラーが完全に破壊され、一気に水が噴射される。

龍 書文の姿は霧に閉ざされ、非常用のサイレンの音と、降り注ぐ水音だけが響く。

 

「キサマ……!!」

 

獰猛に牙を剥き、その口元に殺意と怒りをみなぎらせて勇次郎が叫ぶ。

 

「この国を滅ぼすつもりかアアアアッッッ!!!!」

「よく気づいたものだ」

 

書文の声は相変わらず呟くようだったが、不思議な存在感があり、サイレンの音や水音と重なり合っても、まるで鋼の糸のようにその隙間を抜けて届いている。

書文は小首を傾げ、その薄い目を開いて言う。

 

「エボラ出血熱」

 

足元に落ちた卵の殻、実際にはそれは卵に偽装された気密カプセルではあるが、それを踏み砕きつつ言う。

 

「マールブルグウィルス、ラッサ熱、すべてグループ4の伝染病だ。

複合感染により全ての人間を99.9999%で死滅させる。

いくら貴様でも例外となるかどうか」

 

だが、と書文は手をポケットに戻し、わずかに肩をすくめる。

 

「感染性は除去している。人から人へ伝染りはしない。

それに嫌気性の因子を移植しているから、外気に触れれば一分ほどで死滅する。

君のいる、その場所までは多分届くまい。

もちろん私は、個別にワクチンを注射している」

「黒社会か――」

 

地面に立ち、勇次郎が呟く。

先ほど水平方向に着地した車は、ものの見事にドアが内側に窪んでいる。

 

台湾黒社会とは、平易に言うならばマフィアの総称である。

「幣 (ban)」と呼ばれるその組織の勢力は世界全体に及び、その構成員は台湾だけで10万人、中国全土、香港などを含めれば総数は150万人とも言われる。台湾におけるそれらの多くは官と癒着し、表社会でも巨大な経済的基盤を持ち、世界中のチャイナ・ネットワークにおいて暗躍している。

表社会においては真っ当な経済活動をしつつ、水面下に隠れる氷山の本体のように、巨大な経済力、政治力、そして武力の複合体として確固たる力を持つ黒社会。それらは武器、薬物、賭博、金融取引、そして多くの国で暴力組織がそうであるように、格闘技などの興業と深く結びついている。

台湾における影の格闘界、裏の擂台。

その筆頭とされる存在は言うまでもなく、龍書文であろう。

 

「黒社会がキサマを動かして――何の目的だッッ!」

「答える義務はない。

だが1つだけ警告する。あのドルルマン=フォグには手を出すな」

 

背を向け、もはや用はないと言うかのごとく歩み去る書文。

 

「普通の試合なら受けてもよい、仕事の後にな」

「――ッ!」

 

歩み去ろうとする。

その影を。

勇次郎の目が追う。

 

勇次郎は、

勇次郎の顔面が、黒に染まってゆく。

 

深く静かな、海の底のごとく不気味な、その感情は怒り。

 

この俺を、

 

この俺に対して、

 

警告、

威嚇、

逃亡、

嘲り、

軽侮、

無視、

 

許せぬ。

 

どれ一つとして、許せるものではない。

 

それは明確に言語化されていたわけではない。

あるいは怒りよりももっと直情的で、原始的で、純粋な。

それは攻撃性とか、捕食の本能にも似た直線的なエネルギー。

勇次郎の内面において、その激情がくろぐろと渦を巻き、炎よりも熱く、闇よりも昏く凝集されていく。

 

もし彼の服を透かして見たならば、その腿の部分の異変に気づいたことだろう。

腿の筋肉に、異変が起きている。

血管が、まるで蛇の群れのように震えながら体表を張う。

心臓が大きく拍動し、横隔膜が下がって大量に酸素が取り込まれている。

全身の臓器が、まるで各個に意思を持つかのごとく、勇次郎の意思に従って連携している。

内臓から、上半身から、血液が引く。

それは腿の筋肉へと集中する。

腿が、まるで破裂する寸前のゴムタイヤのように膨れている。

運動ではなく、精神のみで行われる筋肉への血液の流入、パンプアップ。

勇次郎の全身をめぐる血液が腿に集中し、カンフーシューズが地面を踏みしめ、

 

そして、龍書文がただならぬ気配に振り返ると同時に。

 

跳ぶ。

コンクリートに泥を踏んだかの如き足跡を刻み、

地を割り礫を飛散させ、

 

空気の尾を引いて跳ぶ。

 

瞬間、龍書文は見た。

隕石のように体を丸め、四肢から白い筋状の風を曳き、大気の壁を突き破るかのように跳ぶ勇次郎を。

一瞬の後に衝撃波のような風が来た。

白のカンフー着をばたつかせ、小石を薙ぎ散らして暴風がフロアーに四散していく。

 

そして勇次郎は。

屹立している。

 

地面にはブレーキ痕のような黒い焦げ跡が残っている。

足元から白煙を上げつつ、書文の行く先に立ちふさがっている。

全身の筋肉が水蒸気を上げ、噛み締めた口元から熱い息が吐かれる。

今の一瞬で、どれほどの熱量を燃やしたのかが窺い知れる。

 

「まさか、あのようなことで感染を防いだ、とでも?」

「――俺が黴菌なぞに……」

 

赤く燃える目で、勇次郎が言う。

 

「脅かされるかよ……」

「……なるほど」

 

空気の壁を突き抜けるかのように、一気に汚染圏を抜けてしまえば、細菌は体に付着しない。

そのような理屈で、空間に溶けるように漂う数億のウィルスを回避できるものだろうか。

 

――いや、

 

それは理屈などという生ぬるい言葉では表せない。

 

理論というには強引すぎて、

直感というには無謀すぎる。

 

それはあるいは、無理を通す力。

一種の幼稚さ、純粋さを押し通すような力。

 

誰しもが想像はするものの、実践することはできない横車を押す力。

 

例えば、池に落ちた玩具を拾うとする。

誰もが袖をまくり、冷たさを我慢してそれを拾う。

そして、ふと思う。

もし、思い切り速く腕を出し入れしたならば、

袖は、腕は、濡れないのではないか。

 

淡い幻想、幼稚な我が儘。

もしそれを実践に移したならば、

大いなる自然の摂理が、物理法則という名の神が、水を使役して容赦無い懲罰を与えることだろう。

 

しかし、もしそれを超越するような力があるなら――。

本当に水に濡れないほど速く、力強く、動くことができたなら――。

 

神へ反逆するほどの力が、存在するならば――。

 

「認めざるをえないな」

 

その様子を見て、龍が言う。

 

「貴様が感染の恐怖すら乗り越えて、私の前に立ちふさがったことを」

 

龍書文は、しかしそのことに何らの感慨も、動揺も見いだせない無味乾燥な表情のままで、ポケットから小型の無線機を取り出し、どこかへ連絡しただけだった。

 

「駐車場への出入口を封鎖しろ、誰も入れるな」

 

そして顔を上げ、初めて勇次郎を正面から見据える。

 

「相手をしよう」

 

 

 

 

 

 

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