グラップラー刃牙 BLOOD & BODY   作:MUMU

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第5話

 

 

 

 

 

 

静かな、ぬるい水のような夜の気配が満ちていた。

 

周囲は360度、円形の壁。

擂台祭舞台。

その中で、龍書文は一人佇んでいた。

 

中国全土を震わせた100年ぶりの大擂台祭。

その喧騒も熱狂も、終わってしまえば静けさだけが残り、ただ破壊された壁の一部や、地面に走る亀裂、そして点々と散る血の飛沫だけがその戦いの凄まじさを物語る。

 

龍書文、彼はこの日の戦いで鼻骨骨折、いや顔面陥没と言っても良い重傷を負っていた。

雷鳴のような激痛があるはずだが、そのような気配は微塵も見せていない。

骨接ぎを済ませた後は鼻の頭にガーゼを貼り、憮然とした眼差しを壁に向けている。

 

「書文」

 

そう声がする。

振り向けば、そこにはまるで古木の精のような老人がいた。

その体は小さく、細く。年齢は実に140歳。

しかしその小さな体には膨大な「武」が蓄積され、今なお中国拳法の最高峰として君臨し続けている伝説的な人物。その名声は海を隔てて台湾にも鳴り響いている。

 

郭 海皇

 

彼はこの日、あの範馬勇次郎と戦い、壮絶な死闘――まさに死線を潜るような戦い――を繰り広げていた。

しかしすべてが終われば、そこには格闘家同士の奇妙な、しかし純粋な繋がりが、あるいは友情とも呼べるものだけが残り。今はただ戦いの余韻に浴すのみ。

友人関係にあるとは言っても、龍書文にとっても天上人には変わりない。右拳を左手掌で包む拳礼を行う。

 

「手を見せなさい」

 

ゆっくりと歩み寄りながら、郭海皇がそう言う。

普段、身につけているサングラスを外しているため、その小さな瞳がじっと龍の体に注がれているのが分かる。

 

「――はい」

 

甲を上に向け、その手を見せる。

 

この日の戦いで、右手の指は何本かが骨折していた。優秀な骨接ぎ師によってとりあえずは元の形に戻したものの、まだ強く腫れが残っている。

 

その手はまさに武人の手というべきか。

岩に対しての打拳、

砂に対しての手刀、

藁束への抜き手、

そんな修練を何千日。

そして負傷と治癒を、骨折と脱臼を数え切れぬほど繰り返し、

少しづつ少しづつ、武という薄皮を巻き付けていくかのような手、

例えるならば数千年の風雨に耐えてきた大岩か、数万年を経て竜に変わらんとする仙亀か。

その手を一瞥し、郭海皇はその乾ききった口を開く。

 

「ふむ――体も」

「はい」

 

言われるままに、拳法着の上を脱ぎ、その腹筋を、胸筋を顕にする。

言うまでもなく全身の筋肉は見事に発達しているが、刀剣の如きその鋭い流儀に象徴されるように、膨れるというよりは絞り込む、という印象の体をしている。

肩や腕周りの筋肉は平たく薄く、しかし硬質に張り詰めてまるで鋼の板のようである。

その腰部は細く固く締まり、腹筋は意外なほど薄く、腹式呼吸にて大きく横隔膜を上げた時のように、密度の高い筋肉ながらむしろ腹部は凹んでいるように見えた。内臓はすべて臍より上に格納され、余分な膨らみは微塵もない。

その手足は直線的なラインを描いており、関節部の造形は極めてスマートだった。

ウェイトトレーニングではなく、数えきれないほど繰り返された組手、そして20年にも及ぶ裏の擂台で磨きぬかれてきた体なのだろう。

 

その体を上から下まで眺め、郭海皇は一言、言った。

 

「――道のりは遠く、といったところかの」

「……恐れいります」

 

深く礼をして、龍書文は言葉少なく返答する。

 

「ひょっひょっ……随分と高い理想を掲げたものじゃの」

「……」

「お主の理想とする体を手に入れるには、あと20年、いや25年はかかるじゃろう」

「……やむを得ぬことです」

「じゃが……」

 

そこで初めて、郭海皇はわずかに躊躇うような、言葉を選ぶような数瞬の空白をはさみ、こう言った。

 

「おそらくは、無理じゃな……」

 

 

 

 

 

 

空気が歪む

熱が満ちていく

 

コンクリートの天井や壁が震えるような感覚。

地階駐車場にてやや開けた場所に移り、勇次郎と書文、この二頭の獣が対峙する。

 

両腕を開き、上半身のガードを拒否する勇次郎独特の構え。

かたや両手をポケットに収め、やや足を開いただけの構えを見せるのは龍書文。

 

「はっ……またそれか」

 

ことさらに見下した視線となり、目口を歪めて嘲る勇次郎。

 

抜拳術。

 

腕の動きではなく、腰を「きる」ことによって打拳を完成させる書文の拳、

居合にも例えられるその構えはまさに異様。

しかし、かつて規格外のタフネスの前に敗れ去ったことはあるものの、20年間の無敗を誇る打拳には一分の隙もない。速度、鋭さともに比類なき完成度を誇る。

そのポケットハンドとは思えぬ雷速で撃ち抜かれる拳で、相手の先制に後の先を打つ、それが龍書文の夢幻の如き武術ではあるが、

果たして、地上最強の生物と謳われる範馬勇次郎に、それが通用するものか。

この場に観客が居たなら、そのように思ったことだろう。

 

書文の足が地を滑る、体がするりと移動し体幹が真横に回転し、

体が勇次郎の間合いに滑り込む。

 

後の先などという悠長な狙いが、勇次郎に通じるはずもなし。

右ポケットから音もなく弾ける拳が、しかし事も無げに勇次郎の右手掌で上から覆われ。

 

蛮ッ

 

空気が弾ける

千人の拍手を一つに束ねたような音。勇次郎の手掌の中で空気がはじけてわずかに腕が上がる。

一歩、左足で踏み込むと同時に撃ち抜かれる貫き手。

その槍の如き五指が勇次郎の頬をかすめる。勇次郎の凶眼が光る。

 

「ッッシィィッッ!!!」

 

牙を噛み締め勇次郎が手刀を打ち下ろす。

空気を引き裂いて打たれる手刀が軸足を踏み変え半身に移る書文をかすめる。

書文が回転するままに抜き放たれる左の掌底。ポケットに炸薬でも詰まっていたのかと思われる程に速く鋭い掌底を勇次郎が肩を上げてガードする。

 

洞ッ

 

互いに鋼鉄の杭を打ち込んだように重心が安定した二人である、掌底と肩肉の狭間で生まれた力が体をまっすぐに降りて四つの踵で爆散する。

コンクリートの床面に花のような亀裂が生まれ、そして書文は不意にふわりと浮き、大きく跳んで後方に下がる。

 

「……ッッ!」

 

勇次郎の眼光が細められる。

 

重い。

あの大擂台祭、ビスケット・オリバとの戦いで見せた拳の鋭さよりも数段上。

 

「……キサマッッ!」

 

あの時は本気ではなかった?

――否、そんなはずはない

 

鍛錬を積んだ?

――否、技量や心構えなら「革命」があり得ても、基本的な打撃力までは

 

薬物――?

――否、俺がそれを嗅ぎ取れぬはずがない。

 

一秒にも満たぬ推察、そのことごとくが即座に否定される。

そもそも、勇次郎の眼力により見出される拳の破壊力。

体重、筋量、構えから生み出されるはずの予測値を大幅に上回っている。

その違和感が苛立ちのうめきとなって牙の間から漏れる。

 

「不思議そうだな」

 

龍書文は事も無げに言う。

 

「だが無理もない、私がどのようにして強くなったのか、余人に想像できるはずが」

「不思議ではない」

 

だが、その勝ち誇るような言葉を、勇次郎の低い声が止める。

 

「およそ真っ当な手段で成長したわけでないことは明白ッッ!

――ならば、残るは常軌を逸した手段しかあり得ぬ。それだけのこと!」

 

口角を獰猛に歪めて牙をむき出し、勇次郎は怒気をあらわに続ける。

 

「だがッッ! キサマほどの武術家がッ!

 なぜ今更そんな手段まで使って強くなろうとする!!」

「……」

 

書文は一瞬、その問いに答えたものか、わずかな逡巡を見せる。

その問いは本来なら無視すべきものであったろう、

答えずとも、構えを見せればこの凶獣は向かってくる。

 

だが、数十年を武に生きた龍書文の人生が、

その中で幾度もその名を聞き、ある時は倒すべき敵として、

ある時は尊敬の対象としてその存在を思い浮かべてきた男が。

この人類最強、範馬勇次郎の問いが。

怒りを滲ませながら、どこか破滅的な匂いを嗅ぎ取った悲愴さを歯噛みするようなその問いが。

龍書文という鉄面皮の心を、わずかに乱したのか――。

 

「――すべてを、捨てねばならぬ」

 

その言葉は、意識の底から沸き上がってくるかのように、するりと流れ出た。

 

「私が背負ったものは、それほどに大きい――」

「……ッッ!」

 

勇次郎にも察しはついている。

おそらくは、腹筋――。

 

尋常な発想ではなく、

また代償も小さくはない筈。

 

だが、手に入れたものは確かに油断ならぬ。

あの肉体――。

だが、そんな勇次郎の思考は。

 

「来い――」

 

龍書文の一招きで、煙のように消え失せた。

 

 

 

 

 

 

「……無理、とは?」

「ひょっひょっ――、わしとの戦いの前、あの強き人は何と言うておったかの」

 

郭海皇は、楽しいひと時を思い出すかのように、ゆっくりと語りだす。

 

「そう……ある者は怪我に泣き、ある者は病に倒れ、あるものは修行の辛さに挫折する……」

「……そして寿命」

「そうじゃったな……。

それらの障害に屈せず、倒れず、武の道を歩みきったのがこのわしじゃと……」

 

その言葉自体に間違いはないように思える。

まさに目の前の郭海皇こそは、武の道の果てにいるような存在だからだ。

 

「なんとも……あの者らしい間違いじゃな」

「……?」

 

郭海皇はふいに天を見上げ、何かを述懐するかのように目を細める。

 

「人が大きく成長すれば、それは、社会という中で色々なものと触れ合わざるをえぬ……」

「……」

「わしとても同じ……。

後進の指導や、煩わしい武術省絡みの雑事……。

そして挑んでくる無数の者達との試合……しかしそれはまだマシ。自身の成長にも繋がるからのう」

「……」

「それだけではない場合もある……。

すなわち、政治や軍事、あるいは世界の動き、といったものじゃ……」

 

それは。

海皇は、何を言わんとしているのか。

その何かを危ぶむような口ぶりは何なのか。

こんな夜半の、人目につかぬ場所を選んで何を伝えようとしているのか。

それは、裏世界に生き、ここ20年を台湾という土地で生きてきた龍書文には、察せざるを得ないこと――。

 

「わしとても、そのようなものと無縁ではいられんかった。

先の二度の戦争、朝鮮やベトナムでの動乱。

そしてあの指導者たち――。

わしがその中でどのように生きてきたか、あえては語らぬが――」

「海皇――」

「おぬしとて、世の動きと無縁ではいられまい」

 

台湾という土地が、国家が。

これからの数十年を、平穏のうちに過ごす。

それはやはり、楽観と言うしかない。

 

そして黒社会に深く根ざす裏の擂台。

その中で自分はどのような運命に巻き込まれるのか。

 

それは一個人が見通すには、あまりに複雑で深遠な想像。

 

羨ましい。

あの強き人は、範馬勇次郎は。

それらと別離し、無縁でいられるのか。

ただ独立独歩、己の強さのみを追い求めて生きていられるのか――。

 

 

 

 

 

 

 

 

「――君に、頼みたい」

 

「我々が、大陸の脅威から独立を守るために」

 

「我々が、民族の誇りを保つために」

 

「肉が」

 

「あのドルルマンの肉が、肉体が、必要なのだ」

 

「私は既に、台湾の表舞台では力を失った人間」

 

「君のような裏社会の住人に、頼むことを、どうか許してほしい」

 

 

 

 

 

 

 

「――分かりました。李、総統」

 

「必ずや、ドルルマンを」

 

 

 

 

 

 

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