※
勇次郎の手掌が空気を引き裂く。
大気の壁を、空間の密度を突き破る掌打。
書文の足が高速で踏み変えられ、瞬時に体を水平移動させる。
脇腹をかすめる一撃が黒のカンフー着を引き裂く。
体の近くで何かが爆発したような圧が生まれる。
「ッッッシイィッ!!!」
続けざま高速の手刀が三日月を描いて天地を裂く。
破局の勢いを宿す手刀が足元のコンクリートをえぐり取る。
書文の足が影を曳いてその斬線を逃れる。
漂ッ
五指が金釘と変じた貫手、勇次郎の首元を狙い疾る。
彭ッ!!
勇次郎の足が破城槌となって前方を射抜く。
それは書文の腹部を直撃、
その瞬間。両腋を締めた構えとなって書文から重量が消える。
霧影を残し、粉塵をわずかにその場に、書文は遥か後方へと飛ぶ。
消力(シャオリー)。
インパクトの瞬間に腹筋を剛直させているため、完全なそれではないが。
しかし、直線的な打撃を自身の跳躍によって相殺していた。
「キサマ――」
今、はっきりと分かった。
あの腹筋の感覚。この男は――。
本来の勇次郎であれば、相手がどのような手段によって強くなろうと、そんなことは雑事。
構いはせぬ。ただ打ち砕くのみ。
しかし、解せない。
勇次郎の純然たる闘争心が、その疑念によって濁される。
それが何より、苛立たしい。
「――何故、そんなことをしたッッ!!」
ぎり、と、金属片をも噛み千切りそうな咬合力で歯噛みしつつ、勇次郎が問う。
「――武術家が、強くなろうとすること、
それに何の不思議が」
「巫山戯るなアアアアアアッッッッ!!!!」
常人なら魂を砕かれるほどの憤怒を込めて、勇次郎の怒号が放たれる。
「キサマはそんな刹那的な人間だったのかッ!!
愚かなッ!
まるで餓鬼のようなッッッ!!」
勇次郎は、その怒りの感情の由来に困惑していたのやも知れぬ。
何故こんなに腹立たしいのか、
かつて自分の息子が、ステロイドにより身を滅ぼしそうになった時でさえ、こんな感情は抱かなかった。
この感覚は、そう。
「美麗なる彫刻を宝石で飾り立てるが如き愚行ッ!
キサマの歩んできた武はッ! 人生はッ!
そのような姿を完成とするつもりかアアッ!!!!!」
いずれ完成するはずだった、至高の芸術。
それが歪な形に「成ろうと」している。
それが何よりも、腹立たしいのだ――。
そのカンフー着の、腹部の布が裂けている。
そこに見えているのは、頑健なる腹筋。
そして、
腹部を埋め尽くす、無数の縫い痕。
「その通りだ――強き人よ」
ぬらり、と水面の魚影のごとく、書文が接近している。
遠く離れていたかに見えたその姿が、今は勇次郎に鼻も触れんばかり――。
勇次郎は怒りを全身に漲らせたまま、その手掌を。
腰を、胴体を「きる」ことによって生まれる掌打を、仁王立ちのまま受けんとする。
書文の掌が勇次郎を射抜き、
その肉が打ち鳴らされる衝撃が、
光となって一面にはじけた。
※
「これは……?」
郭海皇が何やら指示を出し、用意させたものは、それは端的に言えば蚕(かいこ)である。
知識として知るものよりもずっと黒ずんでおり、木箱の中をもそもそと動きまわっている。
「封尸蚕(フースーシン)と言われる蚕じゃな……。
もはや育てておる養蚕家もほとんどおらぬが……」
郭海皇は、暗い未来を予知するかのように慎重に話していた。
何か恐ろしい物の入った箱を開けようとするかのような、
刃の森を歩むかのような。
「絹……蚕の生産は、最も古い説では紀元前6000年頃にまで遡るという。
言うまでもなく、シルクの原産は古代中国じゃ。
そのほとんどは服飾に使われたが――。
この封尸蚕は、おもに死体の縫合に使われておった」
「死体に……」
その突飛な言葉に、さしもの龍書文も眉をひそめる。
「そう、深手を負って死んだ兵士を葬る時、
その傷を繕い、あるいは千切れた四肢を縫い合わせるために使われた。
それより転じ……生者への簡単な外科手術にも使われたという」
どこか、遠回しな物言いである。
この胡乱げな昔話の果てに、郭海皇は何を伝えようとしているのか。
「時に書文、お主の理想とする肉体」
「はい」
「……その最大の障害は何か、分かっておるな」
「勿論です――」
書文は己の腹部に手を当て、
その部位の熱を確かめ、
静かに言う。
「……内臓。
生命を保つための、この腸(はらわた)こそが――」
※
「ぐウッ!!」
踏みしめた足が、コンクリートの地面をえぐっている。
不動の構えにて受けた勇次郎を、わずか数センチではあるが、無理矢理に押している。
その掌打はまさに魔の領域。
勇次郎の完全とすら呼べる肉体に、その奥に確かに打撃の手応えを――。
瞬時に引き、さらにもう一打を打たんとする。
「ちいいィッッ!」
勇次郎が動く。
右回し蹴り、空間が上下に引き裂かれるかのように暴風をまとった蹴り。
書文という名の煙が後方に逃げる。
高速の足捌きと体重が消えるかのような歩法。
するりと逃れた書文がワゴン車に背中を付けて止まる。
「ッッガアアアアアッ!!」
八つ脚の獣が襲い来るかのような、
巨大な影の怪物と化した勇次郎が襲い掛かる。
その影は龍と交差する。
一瞬で勇次郎の奥側に踏み足を入れた書文が、するりと影の奥へと抜けて位置を入れ替え。
そして高速で体を反転。
腹筋が固められる、息が吐かれる。
体の回る勢いのままに、肘から先が完全に消滅。
各関節部で加速を加えた掌打がポケットから抜かれ、勇次郎という名の影を撃ちぬく。
それは眼には見えぬ流れ。
勇次郎の背中を撃ちぬく掌打がその奥の車体へと連なり。
巨大な力が波となって車体を伝播し、
硝子を伝い、鋼鉄を流れ、
そして反対側の扉へと収束し、
その蝶番や閂を爆散させ、
反対側のドアが、まるで車内で爆圧が生まれたかの如く弾け、
空気の壁を押し破りながら、翔ぶ。
そしてコンクリートに激突し、けたたましく啼く――。
※
人間が物を投擲したり、拳による打撃を放つ時、
最も強い力を生み出す筋肉は上腕筋でもなく、肩の筋肉でもない。
腹直筋。
そして周囲に連続する腹部の筋肉。
つまりは腰。
腰を「きる」動作こそ、人間の投擲力、打撃力の基本。
野球で語るならば優れたピッチャーとは、すなわち腰の生み出す力を、
いかにスムーズに手の先へと連絡できるかにかかっている。
「しかし、この腹筋というのが曲者……」
郭海皇は、ゆっくりと語る。
「腹部には言うまでもなく、多数の臓器が格納されておる。
胃の腑に、膵臓、肝臓、そして腸。
これらは、鍛えるなどという行為と無縁――。
非常に柔らかく、複雑な形状。
臓器だけではない、それが機能するために……、
数リットルにも及ぶ体液を、常に蓄えておる。
そう、まるで水袋のようにじゃ――」
人間は、その腹部に水を抱えて生きている。
それは常日頃、誰も意識することのないほど自然なこと。
「――しかし、こと打撃という点においては、これは明らかな邪魔者」
容器の中に水を注いだものをご想像いただきたい。
容器を動かそうとすれば、その中の水は、ワンテンポ遅れて動く。
外殻に対して、中身の水の粘性が高いためである。
そしてコップを急に止めれば、中の水の揺らぎが、コップの内部で不安定に暴れまわる。
慣性の法則。
子供でも知る原理が、人体においても当然のごとく当てはまる。
「これこそが、武術と生命活動との乖離」
「内臓の複雑な挙動こそが、拳を鈍らせる」
「それを克服するために、我々格闘家は、まず腹筋の鍛錬を基本とする」
腹筋を鋼のように分厚く、硬くすること。
腹筋を絞り、臓器を肋骨の中へと格納してしまうこと。
そうして長い時間を掛け、格闘家は理想の体へと近づく。
「……しかし、おぬしのように、腰を「きる」ことを基本とする武術家には、その理想ははるかに遠い」
「……その通りです」
「硬く、しなやかに、内臓の余分な動きで力を乱されず、
しかし内臓の働きを妨げず。
そのような肉体は、まさに至難の業じゃろう……」
「……」
「一つだけ、方法はある。
25年を待たずとも、その肉体を顕現させる業が。
しかし、この業は、寿命を縮めるどころではない――
本来ならば、誰にも教えることのなかった禁忌……」
龍書文は、すでに気づいていた。
あの封尸蚕という蚕、死体の縫合に使われたという絹糸。
それが意味することを、郭海皇が、己に授けようとしている技を、あるいは業を。
必要な時が来れば、自分はそれを使うべきなのだろう。
いや、いずれ必ず必要な時が来るのだろう。
だからこそ、海皇が今、目の前にいて。
あのような、悲しげな眼をしているのだから。
「縫い合わせることじゃ」
「網の目のように臓腑を縫い合わせ、
一塊の肉としてしまうことじゃ――」
※