※
「――ッ」
通っていない。
あの打撃を背中に受けたなら、勇次郎とて腎臓が水風船のごとく破裂していたはず。
だが、瞬時に身を沈め、腋を締め、
肩甲骨と、そこに隆起する打撃筋肉(ヒット・マッスル)の壁によって止めている。
人外の域に達しつつある掌打によって、その打点を中心に布がはじけている。
そこにわずかに覗く肉の壁。
幾層もの筋肉が絡みあい、折り重なるその姿。
常人のヒットマッスルとは明らかに異なる、異端の血肉。
破れた服、その裂け目に覗くのは
――鬼の眼。
「ガアアアアアッッッ!!!!」
瞬間
その体が数十倍に膨れ上がったような。
肉に触れていた己の手掌が、後方に弾き飛ばされるような感覚。
「――おっ!」
書文がたたらを踏んで後退する。
――変わった。
明らかに、肉の弾性が。
「――いいゼ」
振り向くその姿は。全身が膨れ上がっているように見える。
「ただの異端の術かと思っていたが、誤りだった」
その口の端からは赤い筋が流れている。
範馬勇次郎の流血。
それがどれほど尋常ならざる意味を持つか。
あえて語るまでもない。
「キサマの足捌き、体捌き。
集中力、判断力、どれも極限まで高まっている。
果て無き武の高みへ登れるはずだったキサマが、
その道を投げうってまで手にした『覚悟』
実に、食いでがある」
「……」
「一つだけ聞こう。
この件、キサマほどの武術家が、そこまでする価値があるのか」
勇次郎の問い、
それは、ごく数秒の沈黙の後に破られる。
「……お前だけだ」
龍書文は、氷のような無表情のままに言う。
「お前だけが、そんな無意味なことを問う」
「……あぁ?」
「武術を極めんとする者なら、強い人間なら、寿命を犠牲にするほどの「役目」と無縁でいられると、本気でそう思っているのか」
それは龍書文という人間が、
長い人生の中でほんの数回だけ見せた、述懐のようなものであった。
「武を中途にて断念する理由――修行の辛さや、怪我や、病だと?」
その声は、暗い熱を帯びている。
「それだけではなかろう。もっとずっと大きな社会のうねり、ずっと卑小な個人的な事情、つまらぬ他者とのしがらみ、個人には背負いきれぬほどの政治的な役割、そんなことのために武を諦める者のほうが、そもそも武と関われぬ者のほうが、もっとずっと、はるかに多いのだッ!」
「……」
「中国から台湾へ渡り、20余年。
私にも、愛郷の心や、尊敬を抱く人物や、
社会を憂う心ぐらい存在している。
つまりはそのような理由だ。
そんなもののために命をかけることが、そんなに不思議かァッッ!」
「……」
「――あえて言うならば、ドルルマン=フォグ」
その名を、龍書文は複雑な感情とともに呟く。
「黒社会が握っている情報によれば、
あの男にはそれほどの価値があるのだ。
我々を、我々が立脚する国を、守れるほどの価値が――」
「――」
勇次郎は奥歯を噛み、彼には滅多に無いことであるが、何かを悔やむような表情をする。
「ちィッ――俺としたことが、無粋なことを――」
そして、静かに語る。
「そこまで言わせるつもりはなかった。許せ」
もし彼をよく知るものであれば、きっと眼を丸くしたに違いない。
それは確かに、真摯なる謝罪の言葉。
勇次郎の足が地面を擦る。
伸びをするように高く構え、両腕を左右に挙げる、絶対のタフネスによって実現する独特の構え。
龍書文もまた半身に構え、ハンドポケットのままに腰を沈める。
――もはや言葉は無用
その言葉が、言語化されないままに二人の間に流れる。
捩れ。
一枚の鋼板と化した書文の腹筋が、板バネの如き弾性を見せて捻られる。
そこから生まれる強大な弾性が腰から胸、胸から肩、そして肘、手首、拳へと加速を連ねる。
全てはハンドポケットのままに行われる、形のない加速。
放つ。
全ての加速を終えた抜拳が銃撃のごとく開放される。
勇次郎は拳の軌道が定まる直前に見極める、体を傾げつつの右正拳が光を曳いて飛ぶ。
拳打が交差する。
神速の抜拳が勇次郎の耳をかすめる。
勇次郎の野獣の加速を、書文の芸術的なまでの足捌きがいなす。
勇次郎の足が翔ぶ。
中速直蹴り、それは書文の肘が止めつつ消力により斜め後方にいなす。
書文の足が跳ねる。
直上への伸び上がるような脚、
勇次郎の右胸部をかすめてその身を引かせる。
拳撃、豪脚、掌打、送り足、貫手、空を凪ぐ指、地を割る踏み足、
腕の触れ合う音が唐竹を打ち合う如く。
位取りにめまぐるしく動く足は詰碁のごとく。
彭ッ
勇次郎の体が大きく反り返り、反動を載せた拳が流れる。
大気をかき乱す音が四方に散る。
龍書文の頬の肉がわずかに裂ける。
(――疾いッ)
一瞬前よりも疾い、
しかも、二撃、三撃、そのすでに常人の感知しえないほどの拳が、さらに速度を増している。
(この、動きは)
ニトログリセリンにすら例えられる勇次郎である。その拳は静から動へ、力みから解放への速さを持ち味とする。
だが、この揺れるような勇次郎の動きはどこかおかしい。
(――これは、まるで演舞)
高速での打ち合いのさなかである。
勇次郎も書文と同じく、足捌きにより高速で足取りを組み替え、構えを動かしている。
だが、その勇次郎の動きが水の如き動性を帯びている。
きわめて完成された演舞は天女の舞う如く流麗に――。
そのような形容が、勇次郎に似合うはずもないが。
(この動きは何だ)
それはボクシングで言うスウェーバックと前傾の往復運動に似ている。
だが、それより遥かに疾く、動作に連続性がある。
一言で言うならば円運動。
大きく反り返るように身を引き、反動をつけた数撃を前方に叩きこむ、
そして踏み足の真横に書文の足が置かれ、ポケットハンドからの手掌が顎を狙う、勇次郎は身を引いてかわす。
その流れが大きな円を描いている。ゆるやかな軌跡で、しかし疾い。
必ずしも最短距離ではない大回りの円運動が、異様なほどの疾さを生んでいる。
撃。
知覚の瞬間すでに拳が往復を終えている。
書文は五感を極限に絞って回避する。
(これは)
(なぜこんな――疾さ――拳)
撞。
空間を削り取られるかのような拳の重奏。
回避したのは反射神経か、修練の果てに至る神業の読みか。
(腰をきる速度が――なぜ――私より)
(やつの内臓が――まさか、円運動により――加速)
そして再度大きく振られ。
書文はその一瞬を突き、踏み足を進めて間合いを詰めようとし、
閃。
勇次郎の腕が世界から消失する。
もはやこの世の誰にも知覚できぬほどの速さ。
伸縮、打撃、屈腱。その三動作が一つに折りたたまれるかのように疾く。
(そんな事が――)
書文の拳がポケットを出ようとする。
その瞬間。
龍書文の意識が、世界から消失した。
※
無限の井戸に落ちていく感覚。
それは一瞬のことか、あるいはずっと長い時間か。
その井戸を、自己の無意識へと沈む中で、
龍書文は深く理解していた。
勇次郎は自分の体を円運動させることで、
体の動きに遅れてついてくる、内臓の動きすら操っていた。
ゆっくりと円運動させるコップの中で、
水が次第に高速回転を始めるかのように。
あれこそは、まさに完成形――
「―――ッ!!」
跋ッ!
意識が覚醒する瞬間。
すでに龍書文は立ち上がり、構えている。
額に汗を流しながら周囲を見る。
あたりには破壊された高級車が黒煙を上げ、
金属片と石片が散乱する。
コンクリートの支柱は大きくえぐられ、
地面には重機を用いたような深い溝が刻まれている。
そして目の前には最強の生物、範馬勇次郎。
憮然とした表情で、やや眼を伏せている。
「――完敗、か」
「フン……」
勇次郎は何も言わない。
敗者に掛ける言葉など、この世に存在するはずもないのだ。
そして自分の完全なる敗北を、
理想とも究極とも言える、勇次郎の打拳を認めた瞬間。
龍書文は、何か大きな荷を下ろしたような。
大きな罪を許されたような、そんな安堵が降りるのを感じた。
そこに、
多くの足音が集まってくる。
「ユージローッッ!!」
それは濃い緑のジャケットを着た髭面の男。
名前は把握している。米国海軍大佐、ゲリー・ストライダムだ。
さらに地階駐車場の様々な方向から、濃い色のスーツを着た男たちが集まってくる。
彼らは手に照明弾のような、不自然なほど口径の大きいハンドガンを構えている。
あれは確か、米国特殊部隊が開発しているという非殺傷兵器。
空中でXの字に展開する特殊ゴム弾を打ち出すことで、相手の動きをストップさせる暴徒鎮圧拳銃だ。
ゴム弾とはいえ生木をへし折るほどの威力がある。この距離で何発と喰らえば書文といえど悶絶しかねない。
もはやここまで、と覚悟を決める。
書文は膝を突き、両手を頭の後ろで組む構えをする。
スーツ姿の男は数人が書分に張り付き、残りは遠巻きに勇次郎たちを囲む。
思ったよりも多い、20人近くもいる。
人の輪から、ストライダムが歩み出る。
「ユージロー! 無事だったか!
台湾マフィアがこのホテルに潜入しているとの情報が入ったんだ!
だが、すでに我々の工作員たちが撤退させたぞ!」
「フン……余計なことを」
「彼らの残していった特殊車両も発見した!!
培養した病原体を積んだ工作車両だ! 感染はしていないかッ、ユージロー!」
「うるせェよ、俺が病気なぞに……」
勇次郎は、そこでかるく頭を振ってストライダムを見遣り。
ごく数瞬、動きを止める。
その勇次郎の放つ違和感に、書文も周囲の気配を探る。
(……なんだ)
そういえば、何かがおかしい。
この男たちは米国の工作員、それは分かる。
だが、非殺傷武器とはいえ武装して急襲とは。大胆過ぎはしないか。
それに、自分がどの程度気絶していたのか分からないが、1時間以上ということはあるまい。
あまりに対応が早すぎないか。
アメリカ国内ならまだしも、フランスでこんな大人数を展開させるとは。
それは小さな違和感の積み重ね。
その違和感を嗅ぎとったのは書文だけではない。
勇次郎の周囲に、霧が立ち込めるように不穏な空気が形成される。
その獣のような顔つきは影が濃くなり、
蓬髪がざわりと波打つかに見える。
だが、最も顕著なのはストライダム自身だった。
書文が視線を送れば、その顔にはじっとりと汗が浮かんでいる。
目は瞳が揺れ動いている、
膝がごく微細に震えている。
そういうことか、と書文は思う。
当然のことだ。
世界に広がる黒社会のネットワークを駆使したとはいえ、情報戦において台湾と米国の差など歴然。
もし書文が、台湾黒社会が米国を出し抜けたとしても、
そんな優位が、何日も続くはずはないのだ。
「ゆ……ユージロー……」
「――オズマの野郎か、いや、違うな……」
範馬勇次郎は確か、米国と個人的に同盟を結んでいるはず。
あのオズマ大統領が裏切るとは考えにくい。
ならば、と書文は思う。
(大統領よりも上位の命令――か)
書文がすうと目を細める一瞬。
勇次郎が足元に力を宿し、
「逃げろオオオオォォオオッッッ!!!」
ストライダムが叫ぶ。
だが、皮肉なる一瞬。書文と勇次郎にのみ知覚できるほどの極小の時間。
逃げろと叫ぶその声こそが、このエゴイズムの権化のような男の足を止める。
一瞬、勇次郎は全てを破壊してやろうと殺気を噴出させ。
そして無数の白い球体が視界に出現する。
(――カプセル、我々の)
書文が視界の水玉模様に気づいた瞬間。
首に力を入れて目を細め、せめてもの構えを取る。
――鈍!
無数のXが飛来する。
数十もの鎮圧銃から発射される時速数百キロものゴム弾が、X字に展開して襲い来る。
書文とストライダムの体にぶち当たり運動エネルギーを一気に解放する。
武術家に生木で打ち据えられるような衝撃。
ストライダムは構える暇もなく食らう。
凄惨な音が幾重にも折り重なる。
血と体液が噴出する。
それは巨人の手が人形を握りつぶすような眺め。
ストライダムは藁くずのようにぐしゃぐしゃに折れ曲がる。
全身を捻れさせ眼から光が失せる。
おそらく十箇所以上の骨折、内出血、ことによると内臓破裂――。
そして七色の噴煙が視界を埋める。
空中でカプセルが弾けて極彩色の煙が広がる。
(ここまで――やるのか)
書文が思考する。
(馬鹿な、ワクチンがあるとはいえ、詳しく知りもせぬ細菌兵器を使うなど)
(そこまでして、止めたいのか、オーガを――)
そして側頭部からXの直撃を受け、書文の脳が頭蓋に叩きつけられる。
意識が吹き飛ばされる一瞬。
首がねじれた数人が倒れるのを見て、書文はオーガの逃走を感じ取り。
しかし、彼が間違いなく感染した、という事実を昏く心に思い浮かべ、
そして意識が闇に落ちる。
※
書いたのがだいぶ前なので大統領がオズマになってます、現在の作中ではトラムプ氏ですね。