※
――東京
百畳もの畳を敷き詰めた広間。
夕刻の朱い光が差し込む部屋にて、二人の人間の影が長く伸びている。
一人は徳川光成。
日本有数の富豪であり、政財界に強大な権力を持つ日本最後の大物である。
小柄な老躯に対して大きく見開かれた目、どことなく蛙を思わせる容姿ではあるが、政財界を影で操ってきたその経験は伊達ではない。呉服を身につけ扇子を持ち、肘掛け椅子にゆるく座るその所作にも、大物だけが持つ一種の落ち着きのようなもの、度量の深さのようなものが存在している。
もう一人は鎬紅葉(しのぎ くれは)。
日本でその名を知らぬものはないほどの名医でありながら、全身を極限まで鍛えぬかれた筋肉で覆い、ファイターとしても相当の実力を持つ人物である。その肉体は近代的トレーニングの結晶であり、瞬発力、筋力、持久力、どれをとってもオリンピックのメダリストを凌駕するポテンシャルを秘めている。
だが彼すらも、東京の擁する地下の格闘技界。
東京ドーム地下闘技場においては、中堅どころに過ぎないが。
「本日は……」
筋肉の要塞、とも称されるその肉体。
前方にせり出した胸筋、大腿部が異様に膨れた足。
スーツが似合わないこと甚だしいが、そのようなことはさておき、紅葉が話を促す。
「どのようなご用向きですか、ご老公」
「うむ」
紅葉は漠然と感じ取っていた。
目が大きく、表情が豊かで、いつも愛嬌のある話し方をするこの老人が、先程から妙に押し黙っている。
何か話しにくい話題の時なのだろう。
彼はかつて癌を患い、その主治医として紅葉は何度も会っている、ゆえに、その不穏な気配を感じ取っていた。
「これは、わしの配下から寄せられた情報じゃが――あの範馬勇次郎についてじゃ」
「範馬氏の――」
「うむ、あいつは今、フランスにいるとの事なんじゃが――」
老人は、実に慎重に言葉を選んでいるふうだった。
それは秘密にしたいというだけではなく、何かを危ぶむような印象である。
範馬勇次郎ほどの人物であれば、その行動が時に政治や社会の流れに影響を与える。
この話は、そういった繊細な要素を含むのだろう。
余計なことを聞いてしまえば、鎬紅葉にも累が及ぶほどの。
紅葉はそのように理解し、あえて聞き返したり先を急がせること無く、居住まいを正す。
「――病気に、感染したらしいのじゃ」
「ほう……」
紅葉は驚くというより、半信半疑といった声を漏らす。
鬼の霍乱、という言葉は確かにあるが、まさかあの範馬勇次郎が病気にかかるとは。
「少なくとも……、エボラ出血熱、マールブルグウィルス、ラッサ熱……」
「――っ!?」
「それに、炭疽菌、東部馬脳炎、デング熱、黄熱病ウィルス――」
「…………」
光成はその蛙のような眼で紅葉を見つめ、大真面目に尋ねる。
「それでの紅葉よ、回復までにかかる期間はどのぐらいで……」
「お、お待ちください、ご老公……」
(何だこの話は)
(何かの喩え話か?)
(病名を詳しく言えぬから、その中のどれか一つに、という意味か?)
(いずれにしても……)
冷や汗を浮かべ、紅葉もまた言葉を選びつつ、冷静を装って言う。
「――回復がどうの、という話ではありません。
その中の……どれか一つにでも感染したなら、高確率で死ぬでしょう。
……しかし、黄熱病などいくつかの病気にはワクチンがありますから、発症の前にそれを注射すれば、ある程度は効果があります」
「もし、いちどきに全部に感染した、場合は?」
(…………そんな)
汗が頬を伝う。
困惑と混乱のあまり、口元がわずかに笑みのような形に歪む。
そんなことは、鎬紅葉ですら想定したことがない。
それに、おそらく人類史上、それら全てに感染した人間などいない。
だが、あえて答えるとするならば。
やはり、当たり前のことを言うしかない。
「――複合感染とは、単純な足し算ではありません」
「人が病魔に打ち勝てるのは、一つの病気だけを相手にできるからです」
「先ほど挙げられたのは……どれも劇症を示す攻撃力の強い細菌。
もし2つ以上、同時に感染したなら」
「範馬氏といえど、絶対に――」
※
なだらかな丘陵とワイン畑の連なる、とある小さな村。
そこには深い森があり、そこを奥へ奥へと分け入っていく、
いくつかの丘を超え、川を渡り、木々をかき分けてさらに進めば、
やがて文明の香りも遠く、木立の影はその濃さを増し、遠く渓流の音がする森に至る。
そこに、男がいる。
その全身はじっとりと汗で濡れている。
あぐらをかいて両腕を膝に置き、奥歯をぎりぎりと噛み締めている。
「――ッ」
目の前では火が燃えている。
太い枯れ枝を山積みにして、人一人を包み込めるほどの巨大な火が燃えている。
その根本には、鋭い枝に串刺しにされた蛇が数匹。
男の名は、範馬勇次郎。
範馬勇次郎がこの森に至って十時間ほど。
その間、彼はほとんどの時間を、こうして火の前で過ごしていた。
周囲の地面には赤い血痕が散っている。
腕や足に黒い斑紋が浮いている。
「――クゥッ……!」
勇次郎が咬み殺す苦痛。
それは、常人ならばその苦痛だけで絶命するほど巨大なもの。
「ガッ――」
勇次郎はわずかに吐血し、
その血潮が、火の中でじゅうと焦げる音がする。
高熱、悪寒、吐き気、腹痛、関節痛、耳鳴り、
そんなことは些細なこと。
臓器の膨張と緊縮、内臓出血、リンパの炎症、頻脈、
動悸の乱れ、体組織の壊死、虚脱、下血、意識混濁、
黄疸、色素沈着、肺浮腫、内出血、皮膚の乾燥、味覚不全、
粘膜からの分泌物、骨の痛み、筋肉の硬化、血圧の乱高下、
幻覚、幻聴、言語障害、回転性酩酊、視野狭窄、眼底出血
黒色班、腎機能障害、脳浮腫――
数えきれぬほどの苦痛が、刀剣を手にした無数の悪魔が、その体を切りさいなむ。
火はゆらゆらと燃え、勇次郎はただ、不動であった。
そして、また一つ。
潜伏期を終えた業病が、萌芽しつつあった――。
※
「もし、治療法があるとすれば……?」
「そ――それはもう、人間の持つ免疫力に期待するしかないでしょう。範馬氏ならば、人並み外れた免疫力を持っているとは思いますが……」
言った瞬間、徳川光成の顔にさっと明かりがさす。
そうか、と紅葉は思う。
先ほどの話の真偽は不明だが、おそらく範馬勇次郎が重病に罹患したことは確かだろう。
(……なるほど)
(これは相談ではなく、何かにすがりたかったのだ)
(何か安心できるような言葉が欲しかったのか)
「――そう、例えば、体を温めることは有効でしょう。周囲の温度が1度上がるごとに、免疫力が2%ほど向上する、というデータがあります」
「オオ、なるほど!」
子供のように無邪気な返事を返す光成。
このような話を求めているのだろう、と紅葉は言葉を続ける。
「あとは……バランスの良い食事をとって、睡眠をとること……そして、体の中に免疫ができるまで、じっと耐えることでしょうか。
代謝を活発にするため、汗をかいて、水を飲んで――」
自分の発言に、心の中で呆れてしまうことを禁じ得ない。
これではまるで風邪の往診だ、と紅葉は思う。
「それと、笑うこと、なども有効です。
笑うことによって、副交感神経が刺激され、免疫力に関係するNK細胞が活性化するという報告もあります」
「うむ、なるほど、なるほど、では助かるのじゃな」
……。
紅葉はその問に対して、何と答えたものかと逡巡する。
おそらく、徳川光成もそれらの病気の危険性を知らぬ訳ではなかろう。
だが、この政財界の怪物のもう一つの顔、
強き者への信奉者という側面。
範馬勇次郎というカリスマに対して向けられる、絶対の信頼と無垢なる憧憬。
そのようなものが、冷静な思考を鈍らせている。
ふと、紅葉は想念に囚われる。
軽く視線をそらし、障子にひらりと現れる落葉の影を見る。
(そう、世に永遠に生きるものなし)
絶対の強さを持つ範馬氏といえど、不死身ではない。
呼吸や眠りがなくては生きていけぬし、病にかかりもするだろう。
考えてみれば、当然のことだ。
負傷したことも、ダウンを喫したことも皆無ではないのだ。
では、範馬勇次郎といえど、死ぬこともあるのだろうか。
人類を絶滅させるほどの病原菌に感染して、劇症と昏睡の果てに死ぬのか――。
それは。
それは、想像できない。
範馬勇次郎という人物は、そのようなイメージからあまりに遠い。
医師としての経験か、それとも直感か。
どのような答えを返したものか分からぬまま、
落ち葉の影だけが、踊っていた。
※