※
その気配を何と呼ぶべきか。
森の一帯にわだかまる黒い霧のような気配。
それを察知した小動物たちが、何かに怯えるように逃げてゆく。
鳥の気配も絶えて久しい。
それは百の頭を持つ魔獣が放つ殺気。
百万に咲き誇る毒花が放つ激臭。
そんなただならぬ気配が漂っている。
未だ燃え盛る大きな焚き火。
いかに人里から離れているとはいえ、くろぐろと立ち上るその煙をまったく一人も見咎めぬはずはないが、
まるで何かを恐れるかのように、この森に踏み込む人影はない。
範馬勇次郎の全身から蒸気が上がっている。
あぐらの姿勢のまま、両肩にすさまじい力を込めて自分の膝を押さえつけるような構え。
その体表には黒ずんだ血が流れている。
体表から汗と血の混ざった赤黒い泥が流れている。
その目はきつく閉じられ、奥歯をぎりぎりと噛みしめる。
ふいに、
その右手が大きく振り上げられ、
それが蛇のうねるように曲線を描き、
ムチのしなりを持って左胸を平手が撃つ。
空気が弾ける。
落ち葉をびりびりと震わせる、すさまじい破裂音。
それはライオンすらも怯えさせる鞭の音。
関節を無くし、骨を無くし、腕に液体のような柔らかさを持たせ、
無限のしなりを加えて平手を打つ技。
鞭打、である。
勇次郎の左胸に、土に残された靴跡のようにグズグズな傷跡が残っている。
音速に近い平手のあまりの衝撃に、皮膚が裂け、真皮の部分までが崩れているのだ。
その痛みはまさに、焼き鏝にて肉を焼くがごとく。
「………………ッ!!!」
その痛みだけで人を死に至らしめるという、鞭打ち。
自らの身体にそれを打つのは、けして錯乱ではない。
全身の筋肉を収縮させ凝集させ、関節がきしむほどに全身に力を込め、
爪の先や舌の先まで力を入れて全身に苦痛を分散。
かろうじて声を押し殺す。
そうやって自らに気付けを施している。
症状が出始めてかなりの時間が経っていた。
絶え間ない激痛と、苦痛が襲っている。
意識が散乱し、五感からの情報が洪水のように流れこむ。
思考が意味を失いかける。
範馬勇次郎は、本能的に理解していた。
もし、わずか数秒でも意識を失えば。
苦痛を正面から受け止めることをやめ、痛みに身を委ねて声を上げれば。
絶命する。
全身に気を張り、意識を保ち続ける。
それは針の頂点に立つような不安定さ。
それを1秒たりとも崩せば、
病魔が、さしもこの地上最強の生物すらも取り殺す。
いや、その苦痛の巨大さ。
内臓の腐敗、組織の壊死、恒常性の減退。
それらは、すでに常人ならば「死」の域に至っている。
口の端から息が漏れる。
それは黒く淀んだ毒のような息だ。
石炭を噛み砕くような不快さが常に口中にある。
荒縄が内臓に巻きつけられるような鈍痛。
「ちィ……ィッ」
自らの身体が紫色に膨れ上がって弾けそうな錯覚。
眼球が七色に濁って溶け崩れるほどの視界の乱れ、取り留めのない幻視、幻聴。
炎を見つめ続ける勇次郎は、全身から滝のように汗をかきながら座り続け、
数時間に一度、生木を集めて火にくべ、沢に行って数リットルもの水を飲む。
そんなことを、
50時間以上続けている。
がさり、と葉擦れの音がする。
勇次郎がそちらを鋭く見る。
全身が酸に焼かれるような病苦の中で、それでも反応の鋭敏さは衰えない。
野生の獣か。
あるいは米国の追っ手どもか。
勇次郎は、けして彼自身ではそう認めはしなかったであろうし、
あるいは無意識のうちであったけれども、
そうやって自分に近づいてくる存在の正体を、
あれこれと推察すること自体が極めて珍しいことであった。
そして藪の奥から影が現れる。
やや前傾に構えた姿勢。
顎の尖った印象がある細面、乱れてはいるが艶のある黒髪。
硬質な肉に覆われてはいるが、異様な長さのために細くも見える下腕部。
体には何も身につけていない。衣服といえば腰に巻いた褌のような布だけ。
そして、口の端からのぞく犬歯。
犬歯と呼ぶにはあまりにも大きく、鋭く。牙としか形容のしようがないもの。
大腿部と下腿部の膨張に対して引き絞られた膝。
発達しすぎた背筋のために頭部が前に押されるようにも見える。
その影が、勇次郎を見る。
丸い目は無表情ながらも、どこか好奇心を秘めた仄かな笑み。
何かを嗅ぐように鼻をひくつかせる。
男の浅黒い肌に滲むは、獣臭。
「……てめェか」
なぜ、この男がフランスなどにいるのか。
なぜこの森に現れたのか。
そのようなことを疑問に思う者など、ここにはいない。
二人はただ、星と星とが宇宙の何処かで衝突するように。
必然の如く奇跡のごとく、邂逅したのだ。
その雄の名は。
ピクル
※
人類最強
世界最強
生物界最強
そのような肩書きの中で、誰もがそれを意識もせず、
名乗ることなど思いもしないものがある。
すなわち、史上最強。
地球に生命が生まれてから、現在まで、
すべての生物の頂点に立つ。
それは北極熊か、鯨の仲間か、
あるいは白亜紀、恐竜の頂点と言われたT-レックス、ティラノサウルスか。
白亜紀、
仮にもし白亜紀に、人類が存在していたとしたら。
その人類は強く、疾く、Tレックスをも捕食していたとしたら。
その人物が、時を越え、現代に蘇ったとしたら。
100人の科学者を集めて問えば、例外なくこう言うだろう、
ありえない、と。
しかし、勇次郎の前に立つ、この男は――。
勇次郎が立ち上がる。
ぼたぼたと粘性の高い汗が落ちる。
――?
ピクルは、その勇次郎の姿を眺める。
ピクルは何かを思考する。
その思考はきわめて原始的で、言語化にも至っていない。
感情の延長のような思考である。
――この男は知っている。
――強い男だ。
――だが、なにか様子がおかしい。
一歩。
甲の部分がコブのように盛り上がった足で、地面を掴むように歩く。
黒髪がゆらりと揺れる。
知ってはいるが、どこかが違う。
そんなわずかな疑念に、ピクルが首を傾げる。
――そうだ
――アレを試してみよう
ピクルが拳を上げる。
握ったままの拳、それを水平に突き出す。
すでに、一撃の間合い。
勇次郎に向かって差し出された拳、
それはいつぞやの出会いの時、勇次郎に与えられた解けない謎。
まっすぐに押し合った力が、なぜか不思議な方向にねじ曲がり、己を転ばせた。
知らない、ということはあれど、
理解できない、と感じたことは無かった。新鮮な驚きであった。
そしてピクルは、何日もそれを思い浮かべ、思い返し、
ついには現代における武の最高峰、「合気」に近いものを身につけるに至る。
解けないパズルを与えられる喜び。
解けないものに熱中する楽しさ。
そんな無邪気さから、差し出された拳だった。
――与えてほしい
――あれを、もう一度
「……フン」
勇次郎もまた、拳を突き出す。
その顔面は汗に濡れている。
爪は濃い紫色に変わり、赤い指輪をはめたように関節部が赤く腫れている。
皮膚は塩の板のようにざらつき、乾燥しきっている。
そして、拳と拳。
指の背の部分がしっかりと合わさり、互いに固く拳を握る。
力が流れこむ。
背中から肩をつたい、肘、手首、そして拳へと、
風船を膨らますように気力が充填されていき。
周囲の空気が、硬化する。
二人の雄が放つ気配が、
純然たる力の集まっていくにつられ、森が緊張する。
そしてピクルは、口の端を曲げ、牙をむき出しにして、
笑い、
さらに莫大な力を流し込もうと。
突如、拳がすり抜ける。
まるで勇次郎が泥に変わったかのように。
拳が滑り、力が斜め前方に流れる。
体勢が崩れる。
重心が前に動く。
そして、ものの見事にピクルは転ぶ。
「…………チィ」
勇次郎は己の拳を見つめ。
わななくような、歯噛みするような、何らかの激情に顔を歪める。
そして地面に転がったピクルは、
逆さまになった姿勢のままで、目を丸くしていた。
――あれ
――何だ今のは
数瞬の間、思考が巡る。
――今のは、分かるぞ
全身に力を込める瞬間。こいつは力を抜いた。
だからバランスが崩れて、前に倒れた。
それだけのことだ、何の不思議でもない。
――今「こいつ」は
――簡単な、方法を選んだ
ピクルは言語を持たない、文明を持たない。
技術や、蓄積された知識を持たない。
だからこそ、何よりも敏感に感じ取れるものがある。
こいつは。
――病気だ
病気などという言葉や、細菌などという概念を知っていたわけではないが、
それでも、生物が時おり体調を崩すことは知っていた。
あるいは、それによって死にすら至ることも。
しかし、ピクルに「それ」が何かを意味するわけではない。
野生において病や毒に侵されたものも、ピクルと対峙すれば向かってきた。
激痛に身を爛れさせながら、
病苦に内臓を焼きながら、
しかし、それでも尾を振り、爪を立て、
時として、ピクルにすら痛みを与える一撃を食らわせてきた。
あるいは、病や毒により、そのまま死んだものもいただろう。
しかしそれらはピクルが見つける前に、もっと小さな捕食者たちによって食べられてしまう。
だから、知らない。
視界にも入らない。
病にあるから、だから――という思考の連続性をピクルは持たない。
それは古代人であるから、というだけでなく、
すなわち、彼なりの若さ、幼さ、
あるいは愚かさ、
だからピクルは、今の勇次郎に対して、
何ら特殊な感情は抱かなかった。
――そうか
――具合がわるいんだな
そう、野生において、
コンディションが悪い、などという言葉が、何の意味を持とうか――。
――まあ
――どうでもいいか
立ち上がり、勇次郎へと向き直る。
みき めき
そのような音がする。
ピクルの顎が開いていく。
45°
60°
77°
ずらりと並んだ鋭利な歯が光る。
「――ハヲオrraraahhaaa!!!!!」
後半は可聴領域を超えている発声。
喉を震わせつつ息を吐くだけの、乱雑な発声。
そのまま、上半身ごとぶつかるかのように、勇次郎へと襲いかかる。
噛みつき。
それは痛みを与えるためではない。
純然たる捕食の意思。
炎に炙られて、二人の姿が幻燈のように、揺れ――
魏ッッ!
空中で組み合わされる歯列。
勇次郎は体を沈めている。
右足を水平に突き出し、曲げた左足一本で体を支える。
コサックダンスにも似た構え、太極拳で言うなら「這」の一種。
そして勇次郎の脚が、跳ねる。
ほぼ垂直に真下から跳ねる蹴り、
地から突き出す稲妻のようにピクルの顎を突き上げる。
軸足と蹴り足が、見事なまでに縦一直線に並ぶ。
がきいっ、と骨の噛みあう音がしてピクルの体が浮く。
体が完全に地から離れるほどの衝撃。
水牛並みに頑健な脛骨を持つピクルですら、わずかに視界をぶれさせるほどの一撃。
次の瞬間、ピクルの顔面を手が覆う。
加速度が真下に切り替わる。
勇次郎の手が魔神の如き剛力を宿し、押さえつける力が背筋から腕を伝わってピクルへと流れこむ。
一瞬の後、
その顔面を真下に叩きつける。
図っ
地に染み通る力の波。
周囲の木々を揺らすほどの衝撃。
地面が泥のように沈み込む。岩盤が割れて亀裂が走る。
しゃがみこむような姿勢に流れた勇次郎が、
全体重、全腕力を載せて頭部を地へと叩きつける。
「――――ったくよオ」
固めていた息が肺から漏れる。
「じゃれつくんじゃねェ、若造が――」
人類の大先輩、
推定年齢は、4000万から6500万歳のピクルを、
こともなげに若造と言ってのける、その尊大なる自我。
そのピクルは、岩をも砕く速度で後頭部から地面に叩きつけられ。
数瞬だけ、衝撃に意識をぼやけさせるかのように表情が淡くなり、
やがて現状を認識すると
口角を釣り上げ、
頬を緩ませ
笑う。
にやあ、と、粘っこく笑う。
勇次郎の指のあいだから、その凶悪な犬歯がのぞいている。
――やっぱりだ
最初の邂逅、あの狭い部屋で拳をぶつけあった。
その時から分かっていた。
罵っ
光が弾ける。
ピクルの体が爆発したような感覚。勇次郎の腕が大きく跳ね上がる。
立ち上がるというよりは、全身の剛直、膨張、
そのような理合でピクルが脱出する。
地面をざざと削りながら構える原人。
――こいつは、本当に強い
「そのような存在」があるのは知っている。
生まれ落ちてから今まで、敗北など知らぬ。
そのような概念すら、無い。
目に映るものすべて捕食対象。
「そのような存在」がある。
それはあえて言語化するならば、「最強」という概念。
――「あいつ」のような
それは見上げるほどに大きく、
長大な尾と、鋭い爪、岩のような肌を持つ「あいつ」
――いや、「あいつ」よりも、もっと速い
――もっと強い
その顔が歓喜に歪む。
ピクルの足が撃たれる。
直蹴り、しかしその足は大砲のように疾く、鋭く、
そして途轍もなく重い。
勇次郎が両腕を立ててガードするところへ正面からぶち当たる。
ががっ、と靴と地面の間で土煙があがる。
列車と衝突するような衝撃。
ぎゃりぎゃり、と、
数十メートルものブレーキ痕を刻みながら押される。
勇次郎の顔面で血管が浮き出る。眼が丸く開かれる。
――こいつは、餌ではない
――倒すべき相手
範馬勇次郎は、決して被捕食者ではありえない。
あの大きな「あいつ」や、自分と同じ。
この世の食物連鎖の頂点。
王者、支配者、最も強いもの、
こいつはそんな存在なのだ。
それを理解した時、ピクルの脳内に浮かぶ概念がある。
それは、かつて「あいつ」に感じていたが、
「あいつ」より強くなった頃に、失われたもの。
この世界で、ピクルの知る世界の中で、ピクルと同じ位置に立つもの。
それがもう一人いる、ということへの違和感。
「こいつ」を倒せば、自分がその「たった一人」になれるという確信。
食欲とは違う、もっと根源的な衝動。
比べたい、勝ちたいという衝動。
それが湧き上がることへの、歓喜。
あえて形式的な言葉に当てはめるならば。
両雄 並び立たず
――そう、こいつは
――倒すべき
――好敵手!
※
「――た、確かかの、それは?」
再び、東京、徳川邸。
時刻は深夜、すでに零時を回っている。
深夜に訪ねてきたのは、小柄な体格の老人である。
真っ白な髪と豊かな口ひげを持ち、常にじっと何かを観察するかのような、冷徹な眼差しの老人――。
その老人の名は、アルバート=ペイン。
ノーベル賞の受賞経験もある科学者であり、生物学、物理学などの権威である。
かつてコロラドの岩塩層からピクルを発掘し、現代に蘇らせた張本人でもある。
ピクルを通じて徳川光成とも面識はあるものの、個人的な友人というわけではない。
夜半に一体何用かと、ともかくも居間に通したものの、その話を聞いた時、徳川老人の目は驚愕に見開かれることとなる。
「そう、間違いない」
ペイン博士は、半目で下から睨めつけるような、独特の鋭い眼光でそう言う。
「私は、知っているのだ」
深く静かな夜の底で、
ごくり、と徳川老人が息を呑む音がする。
「ドルルマン=フォグ」
「フランスに突如現れたとか言う、あのファイターじゃな」
「そう、彼こそが、まさに」
「史上最強であることを」