私、九十九渚は産まれてからの15年の間。忘れた事が一つもない。どんな嬉しいことも、悲しいことも。忘れたい事も忘れられない。小学生の時はそれが原因で周りと馴染めず孤立していた。
「言ったー! 絶対言いましたー!」
「言ってねーよ! 絶対言ってねー!」
小学生特有の水掛け論での喧嘩。 当時新任だった先生はどうする事も出来ずにオロオロしていた。
「私見てたよ。 原さんに中山君が言ったの」
正義感でポロッと言ってしまった。当然中山君の矛先は私に向いた。
「はぁ?関係ないやつは引っ込んでろよ!いつ何時何分何秒言いましたかー?」
これまた小学生特有の決まり文句を言ってきたが、私にとっては5年以上経つ今でも全てを覚えている。
「十時三分。秒は……三十五秒を過ぎた頃だよ」
その時の中山君の表情。周りのおかしい人を見た時の顔。先生の恐ろしいものを見た顔。鮮明に覚えている。
それ以来私は自分の事を話さずに誰とも深く関わらず、ひっそりと過ごしていた。
高校生一年生になり、周りとの付き合い方も分かってきた頃。高校三年間も何事も無く過ごし、このまま何となくで大学に進学し、何となくで就職するのだと、そう思っていた。
彼女に出合うまでは。
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「えー、親御さんの都合で入学が遅れてしまったが、えー、このクラスの仲間を紹介します。えー」
「先生! 私が言います!」
冴えない中年の先生を遮って食い気味に叫ぶ天真爛漫そうな見た目と立ち振る舞い。彼女は手帳を開き、何かを確認して黒板に自分の名前を書いた。
九十八百合
確か……九十八で「にたらず」と読むはず。昔のテレビで見た特殊な名字特集で見たから覚えている。
「九十八百合です! どうぞよろしくお願いします!」
そう言ってポニーテールを許しながら頭を下げた。
「えー、彼女は少々特殊でしてー、えー」
また先生がもごもご言う。するとまた千早さんが先生の話を遮って言う。
「先生、そこからは私がゆっくりと言いますよ」
そう言うと先生は何も言わずにそそくさと立ち去った。
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当然朝のホームルームが終わると転校生は質問攻めに会うのが常だ。例によって九十八さんの机の周りに集まりガヤガヤと話しかけている。
「九十八って面白い名字だねー!」
「なぁ、前はどこに住んでいたの?」
「この街には慣れた?良ければ俺放課後に案内しようか?」
「あってめ!狡いぞ!九十八さん。俺と俺と!」
「男子は黙ってな!九十八さんは女子と街回るの!」
あぁ……うるさい。うるさいうるさいうるさい!頭がどうにかなりそうだ。普通の人には直ぐに忘れるこんなくだらない話でも私にとっては一生残る記憶になってしまう。九十八さんはと言うと困った様子もなく周りの質問を応えている。途中サラサラと手帳に何かを書き込んでいる。
「その手帳。さっきも書いてたよね? 何書いているの?」
クラスの一人が聞くも九十八さんは手帳をさり気無く隠しながら答えた。
「私ねー忘れっぽいから色んなこと書いているの」
そう言うと無遠慮なクラスメイト達は手帳を覗きこもうとする。
「いいじゃんいいじゃん!見せてよー」
「ごめんね、大切なものだから」
失礼なクラスメイトの態度も難なく躱す。そうこうしているうちに一限目を告げるチャイムが鳴り、皆めいめいに散っていく。
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三限の体育。体育館で男女別れて身体測定だ。こちらのコートでは女子が長座体前屈や上体起こし、反復横跳びなどをしており、男子はもう片方のコートで同じ事をしているが大半がふざけて真面目にやっていない。私が一人で握力測定をしていると向こうの塊からキャーキャーと黄色い声が上がる。
見に行くと、また九十八さんだ。次々と好成績を残して女子を湧かせている。もう一個のコートから男子も鼻の下を伸ばしながら九十八さんを眺めている。呑気なもんだ。
九十八さんは自分をひけらかす様なことはせずに周りと上手く打ち解けている。でもどうしてだろう?私には九十八さんが何処か儚げに見える。あれだけ強烈な光を放つ太陽のような存在。しかし、その太陽は眩しすぎるが故に誰も近寄らず、その本当の形を捉えることが出来る人がいないのだ。
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放課後になっても九十八さんは帰らずに、いや、帰れずに男女問わずクラスメイトに囲まれている。私も少し九十八さんが気になったけど何となくあのグループに入りずらくてカバンを取ってさっさと教室を出ていった。
夜。本を読みながら(正しくは本を持って内容を思い出している。家の本は両親が読書家だったから文字通り山のようにあるが全て一回で覚えてしまった。それでも面白いものはこうして手に取って内容を頭の中で思い出して読み返している)今日あったことを思い出していた。容姿よし、性格よし、運動神経よし、完璧だ。それでもどこか引っかかる。記憶を引っ張り出しながらよくよく思い出す。
あ。自己紹介の時だ。確か、先生が特殊な事情があるって言ってたはず。それでも今日はその特殊な事情について何も話さなかった。それが引っかかっていたのかな?
別に、彼女の秘密が何であろうと関係ない。一生私の頭に残るだけだ。そう思い、布団を被った。
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翌朝、たまたま早く起きれた私はいつもの時間よりだいぶ早めに登校した。この調子なら教室には一番乗りだろう。誰もいない教室は好きだ。誰もいないから静かだし、ちょっと優越感もある。
そう思って教室のドアを勢いよく開けるとそこには一生忘れられないような光景が飛び込んできた。
教室に入ってくる朝日に長い髪を照らされて彼女の髪の毛自身から光が溢れているような。開け放たれた窓から外を望んでいる九十八さんだった。ドアを開けた音でこっちを向いた時なんて髪がなびいて光が教室内に舞散った。
思わず見とれている私を尻目に九十八さんは自分の机から手帳を引っ張り出しペラペラと何かを探すようにめくった。やがて、ちょっと残念そうな顔をを見せたが、直ぐに昨日と同じ明るい笑顔を作って私に話しかけてきた。
「おはよ!ねえ、私って教室ここであってたよね?」
さっきの行為をなんだったんだろうと思いながらも私はうん、と頷いた。
「そっかー、ありがと!ねぇ、昨日は貴方と喋って無いよね?お話しよ?」
そう言われて断れるわけが無い。私の席にカバンを置き、九十八さんの隣の席に座った。
「ねぇ、貴方名前何なの?」
「……九十九 渚よ」
「そっか、渚さんね!よろしく」
「よろしく、九十八さん」
「ねえ!九十八と九十九って似てるよね!」
「そうね」
私は元からあまり社交性が良くないからどうしても返事が素っ気なくなってしまう。そんな事を気にする様子もなく手帳にサラサラと何かを書きながら九十八さんがお喋りを続ける。
「ねえ、昨日皆に案内してもらったんだけど駅前の喫茶店のお茶美味しいね!私、あそこの紅茶気に入っちゃた!九十九さんは行ったことある?」
「……ううん。無いわ」
「そっか!じゃあ今度一緒に行かない?」
「うん、ありがと」
そうお喋りしながらも九十八さんはサラサラと手帳に何かを書いている。私が見ているのに気づいてスっと手帳を閉じる。
「その手帳……」
「これ?私、忘れっぽいからこの手帳に色々書いてるの」
「どんなのを書いているの?」
「秘密。自分の字汚いからあんまり人に見せたくないの。ごめんね?」
そう言われては引き下がるしかない。そうしてまたたわいのないお喋りが続き、三十分ほど話していたらクラスメイトも登校し、教室も大分賑やかになってきた。そうして昨日で人気者になった九十八さんを独り占め出来るはずもなく私は会話の輪から弾かれた。
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放課後になり、さて帰るかと片付けをしていたら九十八さんが私の席に手を付き身を乗り出すようにして来た。
「ねぇ、九十九さん!確か一緒に喫茶店行く予定だったわよね? 行きましょ?」
クラスの人気者にそう言われて断れるはずもなく、放課後、駅前の喫茶店に私が転校生に案内されるという珍妙な自体になった。
「ふぅ……ここの紅茶は美味しいね!」
「そうね」
この味も二度と忘れないからこの店にはもう行かないだろう。
「九十九さんは普段は何をしているの?」
「普段ねぇ……本を読んだりしてるわ」
「へぇー!私も本好きだよ!毎回読む度に新しい世界が広がっているもの」
「……そうね」
そう話している間にも九十八さんはメモを止めない。朝は躱されたが流石に気になる。
「ねえ、その手帳……」
「あ、これ?私、忘れっぽいから色んなことメモしてるの」
「……中身、見せてもらっても良い?」
私がそう言うも、九十八さんは朝と変わらず身を捩って躱す。
「ごめんなさい。私、字が汚くて人に見せたくないの」
そうして今日は解散となった。
夜、ベッドに横たわりながら今日のことを思い出していた。
「……多分、彼女は」
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翌日。昨日と同じ時間に出るとやっぱり九十八さんはそこにいた。彼女は手帳を見て、ペラペラと何ページか確認すると恐る恐る私の名を呼んだ。
「えっと……九十九さん……だよね?」
「そうよ」
「ああ良かった! 名前間違えてたら失礼だもんね。お早う!」
「……ねえ、あなたもしかして」
私がそう言うと九十八さんは何? と私の顔を覗き込んだ。しかし、次の言葉を私が放った瞬間。その顔は驚愕の表情を浮かべ凍りついた。
「あなた、記憶が無いのね?」
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「……どうして、そう思ったの?」
そう聞く彼女の声は震えていて今にも消え入りそうなほどか細かった。
「最初は昨日の事。あなたは教室を私に確認したの。その時はただ忘れっぽいのかなって思っただけ。次は喫茶店の下りよ。あなたの手帳には恐らく重要なことを要点を抑えて書いているんでしょ? だから昨日の朝に『九十九さんと喫茶店に行く』って書いて、その日の内に私を誘いに来たのよ。でも、貴方は朝に「また今度」と言ったのよ。その日の内に誘う気ならそういう言い方はしないはず。気が変わったなら私に一言了解を得るのが普通。でもあなたはそれをしなかった。手帳にいつ誘うか書いてなかったからよ。そしてその喫茶店。手帳の下りを私がもう一回繰り返したのに全く同じ反応をした。その不自然さが決め手よ」
私の話を最後まで聞いていた九十八さんは少し黙っていたが観念したような寂しそうな笑顔を見せた。
「……そうだよ。私、病気なの。勉強とかは覚えられるけど人とかの関わりがどうしても寝て起きたら忘れちゃうの。そのせいで小さい頃は苦労したんだよ」
私は次の言葉を言うか悩んだ。それは彼女にとって本当に必要なのか?ただの自己満足の行動なんじゃないのかと、そう思いそのまま私たちの関係を終わらせる事も出来る。でも、なんか嫌だ。今までの全ての事を覚えている私からすれば自身の感情を客観的に言い表す事は難しくない。でもこの時ばかりはそういかなかった。今までの人生で一回も起こったことのない感情。
「ねえ、九十八さん。私と友達になってくれない? ううん、友達以上のもっと先の関係に」
そう聞いて訝しむ九十八さんに生まれて初めて自分の事を話した。
「そうだったんだ」
「あなたと正反対ね」
「ねえ、一つ教えて。何で私と友達になりたかったの?同情?」
「……正直分かんない。でも、私たちならピッタリだって、そう思ったの。ジグソーパズルのピースは一つ一つはなんの絵にもならないけど、組み合わさってとても綺麗な絵になるの。私たちの凸凹を組み合わせた絵を、私は見てみたいの」
私がそう言うと、九十八さんは唐突に泣き出した。
「えっ!?ちょ、ちょっと!大丈夫?」
「ううん……違うの。悲しいの私が忘れるのは友達の事。明日になったらあなたのことも忘れちゃうの。この気持ちを覚えているのはあなただけ……私に出来た本当に忘れたくない事なのに……こぼれ落ちてしまう。その事が悲しいのよ」
「……だったら、友達じゃなきゃいいのね?」
「え?……!んぐ!?」
「……っはぁ……はぁ」
「私……初めて」
「私も初めてよ」
「私、この感触は生涯忘れないよ」
「あなたがいくら今日の事を忘れようと私が今ので思い出させてあげる」
それから、私達は何をするにも一緒だった。完成した絵は……私たちだけが見える特別なものだ。