からから、からから。時雨は喜ぶ。
「でね、夕立ってばここで言ったんだよ――」
窓から少し肌に厳しい光が差し照らす鎮守府の廊下。
白露型駆逐艦の二番艦、時雨は提督と共に楽しげな笑みを浮かべながら話し歩いている。
特別広いわけではない廊下。
かつては沢山の艦娘がここを歩き、または走りそれぞれの目的地へと向かった廊下。
戦いに傷ついた艦娘が入渠ドックへと足早に向かったこともある。
持ち主に空腹を知らせる音を響かせ、それを宥めるかのように摩りながら食堂へ向かったこともある。
戦果を提督に伝えるため誇らしげに、あるいは消沈した足音を響かせたこともある。
「――静か、だね」
そんな多くの声や音を重ね鳴らしてきた廊下。今はもう、ただ一つ分の足音しか響かない。
自身の戦いっぷりを語るより早く損傷は無いかと心配し駆け寄る提督にくすぐったい想いを隠せなかったこと。
戦果を誇る姿に目を細め、まるで我が事のように喜んでくれたこと。
凛々しい表情を顔に貼り付けながら的確な作戦指揮を執り、艦娘を守ってくれていたこと。
憂うような表情を浮かべる時雨だが。
「さぁ、まずは食堂に行こうか」
それら全てはもう過去ではあるが、決して憂う、落ち込むことではないと頭を振り再び歩を進める時雨。
そう、今日は雲一つない快晴。
そんな日に今の自分が浮かべるべき表情は笑顔、そうに決まっている。
改めて最後まで笑顔でいようと心に一つ決めた時雨だった。
からから、からから。時雨は笑う。
「やっぱり食堂と言えば空母の皆だよね」
沢山のテーブルとイスが所狭しと並べられている食堂。
その中でも目を引くのはやはり一際大きく作られた中華式回転テーブルだろう。
とにかくよく食べたのはやはり空母。
「笑っちゃったよね? MVP取ったご褒美にこれが欲しいなんて」
曰く、目の前により沢山のご飯が並べられる上に回すだけでいろんな種類のご飯が目の前に来るから。
このテーブルが登場してからここは空母の専用席。
出撃から帰ってきたタイミングが良いのか悪いのか、重なってしまうと山のような食事が高速回転しながらみるみるうちに減っていくのは呆れを通り越して爽快な気分にもなった。
思い返すように時雨は回転台を軽く回す。
そうすれば少し上下にブレ、擦れるような音を立てながらまだ回ってくれる。
「覚えてる? 加賀が瑞鶴に説教しながらも箸を休めなかった姿」
時雨の問いへの返事は無い。
「ほっぺた膨らませながらさ、これだから五航戦は……って。ふふっ、見てるこっちからすればこれだから一航戦は……だったよね。瑞鶴も瑞鶴で、不服に頬を膨らませるならともかく、ご飯で膨らませちゃってさ……」
クスクスと綺麗に笑う時雨。
あの時聞けなかった、伝えられなかった感想をようやく交わせたと二人して笑う。
そんな光景があった。
からから、からから。時雨は憂う。
「工廠。僕は秘書艦をよくやっていたから、新しい艦娘を迎えに来たりと沢山ここに通ったけど……」
続いてやってきたのは工廠。
かつて夕張や明石が油で顔を汚しながらも精力的に装備開発を妖精と行っていた場所。
「実を言うとね……僕はここが嫌いだったんだよ」
装備開発だけではない、艦娘の建造もここで行われてきた。
静かに語られたその言葉に提督の肩が少し震える。
「人間はたとえば提督みたいに軍人になったり、あるいは戦争なんて無縁の職業についたり……そう。沢山の可能性を持って生まれてくるけど、僕たちは違う」
艦娘の生まれる理由。
それは今もなお海でその力を振るう深海棲艦の駆逐。
時雨は言う。
自分達は生まれてから死ぬまで戦いが目的だったと。可能性は戦いの中で勝利か敗北か、その二つに一つだけだったと。
「人間みたいな僕たちだけど……やっぱり艦娘で。何処までいっても深海棲艦との戦いとは別の道なんて無かった」
もしも艦娘として生を持たなければ。
そんな想像は何度もした。
教師になりたい。
小さな食事処の主になりたい。
女として幸せを掴みたい。
「色々。色々考えてみたんだよ? 僕が教鞭を取った姿とか、料理をしている姿とか……子供を抱いている姿とか」
結局どの想像も現実味が無く、思い至らないまま思考を中断する。
深海棲艦との戦いが嫌と思ったことはない。仮に嫌だと思い、言った所でどうにかなるわけでもない。
それは謂わば達観を強要されているようなもので、生まれたその時から自分達は戦うための道具と納得しなければならなかった。
「嫌、じゃあ無かったよ。この国を、人を守って……守った人から感謝される。うん、すごく良い。尊い事だとほんとに思ってる……だけど」
先が決まっている艦娘を迎える事が辛かったと時雨は言う。
どれだけ夢を心に秘めても、夢に憧れて努力しても。
自分達が戦いに生きて、死ぬという事実からは逃げられない。
それでも。
「ふふっ、女の子だからかな? 今でも……ううん、今だからこそ思うよ。やっぱりカッコカリじゃなくて、三三九度はしたかったな」
言いながら少し熱の籠もった視線を提督に向ける時雨。
その目が貴方としたかったと訴えている。
そんな時雨にしては思い切った告白を持っても。
「……さ、次は何処に行こうか」
提督はまるで何も感じなかったかのように一切の表情を変えなかった。
からから、からから。時雨は哀れむ。
「提督、毎日ここに一度来ていたよね」
中庭にある木。幹の部分に艦娘の名前、幾人かが刻まれた大きな木。
提督は毎日この木へと手を合わせにやって来て、その日あったことを語る。
今日は暁がブラックコーヒーを飲もうとして盛大に咽た。
今日はまた川内が夜戦のおねだりにやってきた。
今日は、誰も沈まないで済んだ。
そんな事を静かに、柔らかな表情を浮かべながら木に語りかける。
「……先に沈んじゃった人が退屈せずに済むように、だったよね。沈んじゃったら僕たちの身体は回収できないから名をここに遺す」
刻まれた名前は極めて数名。
かつて提督が未熟だった頃沈んだ艦娘。
あまりに大きな戦いに死の覚悟を持って臨み本懐を遂げた艦娘。
そんな艦娘達の名前がここに記されている。
余暇を過ごす艦娘の多く、それもいっとう賑やかな駆逐艦は中庭を好んだ。
曰く、見守ってくれているような安心感があると。
「僕もいつかここに名を遺す事になるのかなって覚悟はしてたけど……無駄になっちゃったね」
提督に代わり、静かに手を合わせる時雨。
「そっちはどうだい? 最近は静かにしちゃってて暇してたかな? ごめんね、でも……許してね」
黙祷を捧げる時雨の胸中。
それは確かな謝意。
もうここを賑わす存在は誰も居なくなってしまったことへの謝罪。そして改めた追悼の意。
黙って手を合わせ続けてどれ程の時間が経過したか。
「さ……それじゃあ、最後はあそこに行こう」
その場を後にする二人。
一陣の風と共に木から白い鳥が一羽、飛び立った。
からから、からから。時雨は怒る。
「戦争、終わらなかったね」
波止場。
言葉通り数えきれない程多く。何度ここから海に、戦いに向かう艦娘達を見送ったか。
そんな事を時雨は提督の腰掛ける車椅子を押しながら考えた。
出撃した艦娘の無事を祈っていたのは確か。
それでも提督の視線はあの水平線へ向いていた。
今、赤く染まる海も直に夜の帳によって黒く塗りつぶされよう逢魔が時。
波止場の先端に着いた一人と一隻、静かにそんな海を眺める。
「僕たちは……あの水平線に勝利を刻めたかな?」
車椅子のブレーキをかけて、地面に腰を下ろす時雨。
かつての提督のように水平線を見定めようとする。
何度見送られただろう。
時雨自身も当然出撃し、今この場に存在している通り勝利を重ね生き抜いた。
度重なる終わりの見えない戦争を終わらせるために。
それでも、深海棲艦との戦争は終わらなかった。
「きっと、あの水平線の向こうにはまだ深海棲艦が潜んでいて戦いの準備を進めている」
これだけ戦ったのに。
これだけ勝利したのに。
あれだけの艦娘を見送ったのに。
それでも戦いは終わらない。
「……どうして?」
俯き膝を抱えて時雨はポツリと呟いた。
「どうしてまだ戦争は終わってないの? あれだけ戦ったんだよ? あれだけ勝って、負けて……ずっとずっと長い間」
悔しがる。
時雨は悔しいと思っている。
「教えてよ、提督。ねぇ、何で終わらないのかな? 何でまだ戦わなきゃいけないの? そんなに白髪だらけになっちゃってさ……皺くちゃの顔になっちゃってさ! もう自分で歩けない! 僕とお話してくれたのは三日前だよ!? 覚えてる!? ねぇ、教えてよ! そんなになるまで長い間戦って! 何で戦争は終わってないの!?」
時雨の慟哭。
確かな絆を結んだ相手は今、穏やかな顔を浮かべたまま目を閉じ何の反応も出来ない。
時雨が着任した時に見た姿とは程遠い。
時を重ねて歳を重ねた提督に対し、老いることも、成長することもなくそのままで在り続けた艦娘。
それが、たまらなく悔しい。
「僕がもっと強かったら終わってたのかな? 皆がもっと強かったら終わってたのかな? ……提督、お願いだよ、教えて……おしえてよぅ……」
提督の膝に縋り付く。
――あぁ、結局最後まで笑っていられなかった。
何処か冷静な部分が時雨に囁く。
それでも感情の赴くまま、時雨は泣きじゃくる。
止まない雨が、時雨の瞳から降り落ち続ける。
「……すまない」
「っ!? 提督!?」
皺だらけの手が、時雨の頭に添えられた。
それは何に対しての謝罪か。
同じ時を生きることが出来なかったこと。
戦争を終わらせることができなかったこと。
死期を悟り、遺して往くこと。
「時雨……」
「うっ、うんっ! なんだい提督? なんでも言ってよ!」
生の炎を揺らめかせ、提督は。
「ありがとう……お前が居てくれて、良かった。後は……任せた。暁の水平線に……勝利を、頼んだ、ぞ……」
「提督っ!?」
ぽとり。
時雨の頭から、力なく柔らかく温かい物が零れ落ちた。
「ていと、く……?」
消え失せた炎を認められず、時雨は恐る恐る提督を揺さぶる。
「ねぇ、提督? 嘘だよね? うそ、だよね? 僕は……ぼく、は」
「……」
語りかけられるは既に骸。
もう、今度こそ何も話さない。
「うあ……、うああぁぁ……」
もう、雨は止まない。
大きな音とともに、振り続ける。
からから、からから。車輪は回る。
「逝かれたか」
「……皆」
波止場の先端から目を腫らしながら車椅子と共に戻ってきた時雨を迎えたのは、かつて共に戦ったこの鎮守府の艦娘達。
そこにいないものはいなかった。
在籍していた全ての艦娘が居た。
ある者は先程の時雨と同じように大声で泣き叫び、ある者は下唇を強く噛み締めながら涙を堪え、ある者は粛々と黙祷を捧げていた。
それぞれ形は違うが全員が提督の死を哀悼している。
そんな艦娘達の中から一歩時雨の下に進み出たのは長門。
「……良いのかい? 今いる鎮守府に迷惑かけてるんじゃない?」
「そうだな。だが、これが初めてで、最後だろう。……許してくれるさ」
静かに笑った後、まわりの皆と同じように哀悼の意を捧げる長門。
提督が提督として職務を全うできなくなってから。
各艦娘は別の鎮守府へと異動した。
極めて高い練度を誇る彼女たちがいつまでも動けない鎮守府に留まっていられるほど、優しい世界ではなかったから。
提督にそれぞれがらしい別れを告げ、涙を堪えながら鎮守府を去る中、時雨は最後まで異動要請を受け入れなかった。
そうして断り続けた結果、提督の世話をする者が一人は居ないとならないと残ることを許された。
子を為さなかった彼に家族はいない。
何より、その彼自身が鎮守府に骨を埋めたいと願っていたためでもある。
「提督の……御身体は?」
「海に」
これもまた彼が望んだこと。
自分が死んだときには海に沈めて欲しいと。
多くの部下であり、家族であり……戦友だった者達と同じ場所で眠りたいと彼は望んだ。
「そうか……提督は、最後に何か言われたか?」
「感謝を。そして……暁の水平線に勝利を望んでいたよ」
その言葉に長門の後ろで泣いていた者達の声が大きくなる。
必死に堪えていた涙をついに零してしまう者もいたし、黙祷を捧げてた者は小さく震えた。
彼女たちそれぞれが提督を強く想っていた。
慕情、親愛……形は違えど、確かに強く。
だからこそ、感じた胸騒ぎに全てをかなぐり捨てこの鎮守府へと急いだ。
そうしてかつて共に戦った戦友全員と顔を合わせた。
「……総員っ! 気をつけっ!!」
「!!」
長門の号令。
その号令に全員が一斉に姿勢を正した。
何度も聞いた号令に、身体が自然にその形を取った。
「時雨」
「うん」
時雨自身、長門の号令にも、指示にも……何度も従った。何度もその意を汲んだ。
故にわかる。
戦友たちに背を向けて、暗い海に向かって艤装を展開。
静かに。
静かに時雨は今はまだ見えない水平線に向かって砲を構えた。
「我らが提督に向かって……敬礼っ!!」
「はっ!!」
揃った敬礼、衣擦れの音を耳に届かせながら。
時雨は砲を大きく轟かせた。