午前零時に差し掛かろうというところ。車両の中はがらんどうだ。最終電車の2つ前、少し古びた様子のそれに、彼は重い足取りで乗り込んだ。
ガスの抜ける音、扉が閉まる。電車が動き出す前に、彼は端っこの席に座ろうとした。ガツンとぶつかり、ギターケースの存在を思い出す。
軋む音を立てながら電車が動き出した。彼は手すりに掴まりながら、ギターケースを下ろし壁に立てた。ふーーっ……と長く息を吐き、座席に座る。
ベルトのせいか肩に鈍い痛みがあった。凝ってもいたので、彼は腕を回しつつ肩をもんでみる。一向に良くならないので、諦めて腕をおろした。
「高校のとき、こんな重かったっけ……」
小さく口の中で呟く。向かいに座っていた酒に酔った大学生の目線に気づき、彼は視線を落とした。
スマホを取り出し画面を点ける。Twitterを開き、「ライブ終了! 今日も楽しんでくれてありがとう!」と打ち込む。「俺も楽しかった!」と書いてから、すぐに消した。そのままツイートボタンをタップして、スマホの電源を落とす。
画面の暗いスマホを持ったまま壁に頭を預け、窓の外を見た。黒いビルがゆっくりと流れていく。深夜になっても未だに、ビルには灯りが点いていた。
暗闇に輝く窓の光は、ビルが吐く息のようだ。夜の繁華街はまだ酔い始めたばかり。看板が気ままに踊り、ネオンがのたうち回る。信号機は、赤青赤青と飽きずに何度も繰り返す。車が赤い光の尾を引き駆けて行く。大通りはまるで血管だ。車という赤血球達が、運んでいくのは一体何か。
彼は強く目を閉じた。そのまま顔を窓から背け、車両の中に視線を戻す。向かいの大学生はいつの間にか眠りに付いていた。ガタンガタンと鉄のぶつかる音が繰り返す。窓ガラス一枚で、外の喧騒も社畜の吐息も聞こえない。無機質な箱の中、彼はただ靴跡に汚れた床を見続けた。
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気づけば彼は、最寄り駅の改札に立っていた。見慣れた夜の街の光景。高層ビルが遠くに見える、都会の住宅地だ。いつもの大通りで帰ろうとして、やめた。彼は静かに帰りたかったのである。
殆ど通ったこともない路地を歩く。車の音は住宅の奥から、薄く聞こえてくるだけだ。静かな空間に、ほっと息をつく。ただ逃げているだけだと、心の底では分かっていたが、彼に首を振る気力は残っていなかった。
ふと、暖かい光が見えた。黄色がかった電球の光が、木の板に乱反射している。見覚えのない建物に、彼は眉をひそめた。暖簾がかかっていて、そこに店の名前が書いてあった。
「居酒屋……はくれ……? ようこう……? 読めないな」
居酒屋の後に、植物の「葉」に、くれないや紅色の「紅」と並んでいる。紅葉の二文字を入れ替えた形だ。
「こんな所に居酒屋があったのか……」
彼は普段、居酒屋で飲むことがなかった。まずほとんど酒を飲まないし、たまに飲むのも、少し無理をして、洒落たバーに通っていた。
だから今も、彼は気にせず通り過ぎようとした。しかしそこで彼の腹が鳴った。思えば、朝食を軽くとってから、今まで何も食べていなかったのである。
いつもと違うことをしたい気分だった。少なくとも、彼はそう考えていた。
暖簾をくぐり、横開きの引き戸を開ける。店の中から、蒸気を含んだぬるい風が、芳しい香りと共に、ふわっと流れ出てきた。
居酒屋の店主が、彼の姿を見て声をかけた。
「いらっしゃい。カウンターしかないけど、大丈夫?」
「はい」
短く答えながら、彼は店内を眺める。他に客は居なかった。きれいに清掃されているが、新品臭さはない。寧ろ机には年季が入っていた。
次に彼は、店主を見た。長身の若い女性だ。髪は肩に揃えており、声も中性的な印象を受ける。
誘導されるまま、彼は席に座った。木の軋む音が、静かに響く。
「これおしぼりね。ご注文は何です?」
「ここに来たのは初めてだから、お勧めとか、メニューの紹介とかしてくれますか?」
「ん、ウチはちょっと特殊なんだ。後ろにかけてあるけど」
振り向くと、木の札が横に並んでいて、そこにメニューが書かれていた。
「ビール、日本酒……。紅茶鍋? ……豚の紅茶煮……紅茶?」
「そ、紅茶料理ってのを、その、やらせてもらってます」
「へぇ……。あ、普通のもあるんですね」
「紅茶料理だけで、全部メニューは作れなくて……」
「あとは……ウーパールーパー!?」
「あ、いや、ごめん! 片付け忘れてた!」
店主がカウンターから出て、慌てた様子で木の札を隠す。
「いや、その、こういうのやればお客さん引っ張ってこれないかなって」
「むしろ引きそう」
「だ、だよね、ドン引きだよね」
「あー、いや、苦労してるんですね?」
「……うん。まあ人並みにはね? でも、ありがたい事に常連さんも多いし。それより、お勧めは無難に紅茶鍋かな。でもちょっとつまみたいくらいなら、豚の紅茶煮」
「……じゃあ、お鍋で」
「はーい。あんまりお酒に合わないけど」
「居酒屋に来といてアレですけど……酒を飲む気分でもないので」
「お酒、苦手?」
「嫌いじゃないですけど、あまり飲まないってだけで」
「私もー」
「えぇ……?」
「ホント、何で居酒屋やってんだろうね?」
苦笑しながら、店主は準備を始めた。
「えぇっと……」
「……ごめん。今の忘れて? 冗談だから。それより、それ、ギター?」
「あ、あぁ、そうです。ちょっとバンドやったりしてて」
「へぇ……もしかしてライブ帰りだったり?」
「そうですね」
「どんな感じだった?」
「……え?」
「ライブ、どんな感じだった?」
「あ、あぁ……まあ、楽しかったです。盛り上がりましたし」
「そりゃ良かった。私もライブよく行ったりするからなー今度行こうかなー」
「今度って……」
「今度あなたのライブに行こうかなーって。次はいつ?」
「次……」
脇に置いていた、ギターケースが倒れた。
「うわっ、びっくりした……ちょ、大丈夫?」
「あー……はい、大丈夫です」
彼は軽くギターケースを開けて、中を確認してから頷いた。
今度は荷物で固定して、倒れないようにしながら立て掛ける。
「危ないなぁ。商売道具でしょ? それ」
「はい」
「気をつけないと。次、ライブ中止とかなったら、私行けないじゃん」
「……はい」
彼は頷いた。それから暫く、沈黙が続いた。
鍋の煮込む音が周期的に繰り返される。湯気に舞い上がる香りが、彼の鼻を掠めた。菜箸の鍋を叩く音が軽やかに響く。
彼は手持ち無沙汰になり、スマホを取り出した。ツイッターを開く。通知はゼロだ。
店主は包丁を取り出し、まな板の上で切り始めた。今度は刃先とまな板が、トントンと音を鳴らす。
スマホをしまった。
「すみません。嘘です」
「……え? 何、突然に」
「嘘つきました。次、もうライブ無いかもしれません」
「どういうこと?」
「解散ですよ。カイサン」
「バンド、解散したの?」
「まだしてないですけど、もしかしたら」
店主は一つ頭を掻くと、彼の顔を見た。
「……そりゃまた何で? 音楽性の違い?」
「それもありますけど……一番は皆の事情というか……」
「ふーん?」
「ドラムは店継がなきゃ行けないし……ベースは何かやりたい事見つけたらしいし……ボーカルは結婚するって」
「結婚? めでたいじゃん」
「でもそいつ三股っすよ」
「よし死刑だね」
「その上で安定した職探したいとか、片腹痛しですよ。腹筋崩壊焼肉定食」
「何それ」
店主は声を殺して笑う。
彼は鍋から立ち上る湯気を眺めた。白いそれは天井にぶつかると、排気口に吸い込まれていった。
「俺も、大学生なんで勉強しないと」
「へぇ。大学行きながらバンドは大変だ」
まあ、私大学行った事ないけど、と店主は口籠る。
「まあ、そんな事情で解散秒読みなんです」
「んー、聞く限りしょうがない感じだね。それは」
「しょうがないんですよねー」
はぁ、とため息をついた。
「それにまあ、正直盛り上がってもいませんし。客も減ってますし。今日のライブとか音割れひどかったですし。いつか起こることだった気がしてます」
二人は黙った。またグツグツと煮えた音が空気を流れる。沈黙を破るように、店主は手を叩いた。
「じゃあさ、ほら、ここで一曲弾いてみてよ」
「え」
「まだ出来るまで時間かかるし。ここでラストライブ的な……駄目かな? 何なら鍋無料にするよ? 見物料?」
「いやお代は払いますけど……そうですね。じゃあ何か、弾き語りましょうか」
「よっし……って、歌えるの?」
「ギター兼ボーカルというか、まあ、そんな感じです」
ケースからギターを取り出し、首にかける。
一つ息を吐き、ピックが弦を鳴らした。
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「……っとまあ、こんな感じです」
「おぉ……」
店主は目を丸くしながら、彼を見ていた。
「えーっと」
「あ、ごめん。そうだね。いや、すごい!」
「すごい?」
「そう、何かすごい! ……ごめん私、語彙力なくて」
「いや、ご静聴ありがとうございました」
彼は一つお辞儀をして、またギターをケースにしまった。
店主は皿に盛り付けた紅茶鍋と白米のよそわれた茶碗を、彼の眼の前に置く。
「ごめん。思わず聞き取れてて、ちょっと煮過ぎちゃったかもしれない。新しく作る?」
「いや大丈夫です。これくらいが好きなんで」
彼は橋で大根を挟んだ。汁が染みたそれは、崩れるように割れる。
「見ればわかると思うけど、野菜ベースのお鍋です。白菜、大根、人参、お葱、白滝とお豆腐。団子みたいなのは鶏つくね。ご飯はサービスね」
「ありがとうございます」
スープをスプーンですくい、啜る。
「あ、おいしい」
「おぉ、ありがと」
「塩味でも紅茶って意外と美味しいんですね。お茶漬けっぽい?」
「そうそう。今回使ったのヌワラエリヤの茶葉だから、緑茶っぽい味なんだ。ミディアムグロウンティーだから渋みは抑えてると思うんだけど」
「茶葉も凝ってるんですね」
「まあ流石にねー」
彼はつくねを口に運んだ。肉汁が滲み出て、茶の香りと混ざり合う。
そらからまた暫く、彼は黙々と鍋をつついた。徐々に白米の山も低くなっていく。店主は洗い物を始めていた。
「そういえばさ、紅茶の花言葉って、知ってる?」
「紅茶に花言葉です?」
「まあ、紅茶というか『茶の木』の花言葉だけど。一つは『純愛』」
「あー、ありがちですね」
「もう一つは、『追憶』」
「へぇ……」
数拍の間を置いて、彼はスプーンで汁を啜った。
「……私さ、本当は、喫茶店の店主とかやってみたかったんだよね」
どう答えていいか分からず、彼はまた汁を啜った。出汁と紅茶の香りが、鼻腔に広がる。
「父さんがやってた居酒屋、継ぐことになっちゃったけど」
「お父さんのお店なんですか、ここ」
「元ね。急に倒れちゃってさ……お手伝いしてた私が継ぐことにしたんだ。お父さんはやらなくていい……って言ってたんだけど、ここが好きなお客さんもいるし。段々減ってきちゃってるけど」
「……なるほど」
また彼はスプーンに口をつけた。
「君の歌聞いてさー、なんか店閉じて喫茶店始めてもいいかなーって、思っちゃった」
「えぇ……俺の歌で?」
「ほら、『前に進まなきゃー』『生きなきゃー』って思っちゃうじゃん」
「あー……」
スプーンから手を離した。スプーンの柄が鍋の縁をつつつっと滑り、汁の中に沈んでしまう。
「ここでダラダラやってるの、バカみたいに思えて来ちゃって。別にお客さんが大事じゃないとか言ってないんだけど、私を大事にしてもいいんじゃないかって」
店主は洗い終わったコップを、棚にしまっていく。
「あー、もう。忘れてたんだけどなー。明日には店閉じちゃうかなー。君のせいだからなーこれ。責任とってよ?」
「責任って……」
店主は意地悪気な笑みを浮かべた。
「君の歌のせいなんだよ? それだけ私は感動したの」
真っ直ぐに見つめられて、思わず彼は目をそらした。そのまま視線を落とす。鍋に沈んだスプーンが目に入る。水面が照明と彼の顔を映した。
「でもその歌、俺の歌ですよ? バンドのじゃなくて」
「へー? 自作なの」
「ずーっとうじうじしている野郎の歌です。それは。なんならバンドも解散しようとしてますし。そんな奴が歌っちまった歌です」
「なにそれ。感動した私が馬鹿みたいじゃない」
「……ごめんなさい」
水面の顔が、ゆらゆらと揺れる。
鍋を見つめたままの彼に、店主はため息をついた。
「少なくとも、バンドの解散イコール後退じゃ無いと思うんだけど」
「え?」
彼は思わず店主の顔を見た。
「今の状況を捨てて、新しい道に進んでいくんでしょ? それは確実に前進じゃない?」
「……そうですかね?」
「何もかも前進だよ。そうじゃなきゃ、やってられないでしょ。別に解散したからと言って音楽やめなきゃいけない訳じゃないし。生きてる限り、なんならまたバンド組めばいいだろうし……これ、下げていい?」
「……あ、どうぞ」
店主は空になった茶碗を受け取ると、流し台に置いた。蛇口から水を出し、茶碗に満たす。
彼はまた鍋に視線を戻した。水面はくっきりと彼の表情を反射している。その顔がおかしくって、彼は笑いを漏らした。
彼は鍋に直接口をつけて、残った汁を一気に飲み干した。
「ちょっと、火傷するよ!?」
「大丈夫です! もう冷めてるんで!」
彼は財布から千円札を取り出すと、カウンターに叩きつけるように置いた。
「これお代です! お釣りは要らないです! 美味しかったですご馳走さま!」
「え、え?」
困惑する店主をよそに、彼はギターケースと荷物を急いで肩にかけると、慌ただしく店の外に出た。
冬の風は透き通っていて、寒さを伴い彼の鼻孔を突き刺す。口から漏れる吐息は白く変わった。紅茶の香りが、排気ガスを含んだ街の空気に掻き消される。
彼は夜街を走りながら、スマホを取り出した。
耳元から発信音が鳴る。
「……あ、Kage? ……ああ、遅くにすまん。ちょっと明日話があるんだけど……そう、集まれないか?」
ゆさゆさと重そうにしながら、それでも彼は走る。隣の車道を、赤いランプの軌跡を描きながら、車が通り過ぎて行った。目の前の横断歩道の青信号が、点滅する。そのリズムよりも速く足を動かし、ギリギリで渡りきった。走りながら電話で喋っているせいか、随分と息が切れていた。酒に酔ったように、彼の顔は真っ赤だった。喉の奥から血の味がする。
血の味がした。
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解散の話は、意外とあっさりと終わった。
メンバー全員が、何となく察していたのだった。
後日、彼はまた同じ時間、同じ道を訪ねた。「居酒屋葉紅」は、もう無くなっていた。看板は外され、シャッターが下ろされていた。あの夜が夢だったかのように。
経営困難で潰れてしまったのか、本当に夢の出来事だったのか。
「カフェ……いや、喫茶店だったかな?」
そんな理由だったら良いなと、彼はひとりごちる。
夜闇に電車の音が響いた。ガタンゴトンと繰り返されるそれは、いつしか遠く、小さくなっていった。