なんで。
文章作成の練習も兼ねているので、語句・文法の誤りは許して。
微睡みの最中、夢を見る。それは、自分に刻まれた鮮烈な記憶。
これはきっと、出会いの記憶なのだろう。
ずっと昔にあったかもしれない、そんな気さえしてしまう。
けれども、色褪せたことは一度もない。
幾度となく再生されたその記憶を、今日もまた垣間見るのだ。
「やっとついたぁ」
校門の前に着いて、つい思ったことが漏れてしまう。
時期はもう夏である。
着込む制服には腕を覆うほどの袖がないため、仕方なく垂れそうな汗を肌で拭い去りつつ、ちらりと空を見上げると、陽は沈み、空は青紫に染まり、雲は赤く黒く彩を加えている。はて、こんな空のことを何というのだっけ。少し考えても思い出すことは出来ず、すぐに、校舎が前に閉まる前に到着できた喜びへと塗り替わった。
――ここまで耐えて、よく走ってこられた
そう、自分のことを心の中で小さく称賛してしまう。
というのも、しょうもないことではあるが走っているとき、わずかに目にかかる程の長さの髪が幾度となく目を刺激し、それに耐えながらこの場まで来たためだ。この時ほど髪を切ってしまいたいと考えたことは、そうあるまい。
「うぅ……。はやく教科書を取りに行かなきゃ。ちゃんと教室にあればいいけど……」
自分のうっかりを恨めしく思い、小さくつぶやくほか無かった。
そもそも、なんでこんな目に合わなくてはならないのか。気づかなければ幸せで入れただろうに、諦めがついたであろうに。
少なくとも、目の痛みに耐えて走ることはなかったであろうに。
きっかけは、ふと、カバンの中を開いたためであった。
部室からの家への、その帰り道に家に帰ってからの予定を組み立てている最中、今日の課題について思いを馳せていたとき、天啓のように嫌な予感が降ってきた。急ぎカバンを開け中身を確認すると、目的の物、課題をする上で不可欠な教科書が見当たらないのだ。課題をやってこなければ、あの教員はグチグチと言ってくるに違いない。
そう考えると、すぐさま自分の歩いてきた道を振り返り、どれほどの距離を歩いたかを導く。学校から家までの道のりの半分を過ぎてしばらく、といったところだろうか。でも、下校時刻いっぱいまで部室に残っていたのだ。今から行っても学校が開いている確証もないけど、でも、走ればまだ間に合うかもしれない。
そんな訳で、歩いてきた道を大急ぎで戻ってきたのだ。
まだ開いている校門を横目に、息つく間もほとんどとらず、校舎へと歩みを進める。
もう、ほかの部活動をする人たちは帰ってしまったのだろうか、校庭には誰一人として見かけず、辺りはしんとしている。自分が学校を出るときにはポツポツと人が見えていたのだが、今やその欠片もない。
そして校舎へと目を移すと自分の予想は裏腹に、校舎に人工の光が全くと言っていいほど見えないのだ。不思議なことに職員室すらも闇に包まれている。
まるで自分一人だけを残して、誰も彼もがいなくなってしまったかのような……。
いや、そうではない。まるで自分が現実と瓜二つの異界に迷い込んでしまったかのような、そういう表現をしたほうが適切かもしれない、そんな印象を受ける。
――教員さえも、みんな帰ってしまったのだろうか?
そんな誰も答えることのない疑問を胸に、歩みを進めていく。
薄暗い時間に、またそういった状況が組み合わさって、どうにもこの場がいやなほど不気味なものに感じられ、ついさっきまで感じていた小さな喜びは何時の間にか消え去っていた。
――早く取ってきて、できるだけ早く帰ろう
下駄箱に着くころにはそう強く決心していて、だからこそ、この下駄箱での靴を履き替える手間というものを惜しみたくなる気持ちに――ただ上履きを取り出し、履き替え、靴をしまう、たったこれだけの動作すら億劫に感じるほどの焦燥に駆られていた。
普段より幾分は早く靴を替え、暗く、物音一つとして聞こえない廊下を、早歩きに進む。幸いにも、階段は下駄箱からそれほど離れていない広間に備え付けてある。視界に入ったその広間は、外の明るさも相まって、その場が青ざめたかのように錯覚してしまう様な得も言われぬ雰囲気を醸し出し、ただ消火栓の赤いランプが1つぼんやりと浮かび上がっていた。
――なぜ、よりにもよって3階なんかに……
階段に差し掛かるとき、自然とそんな言葉が頭に浮かんだ。自分は2年なのだから2階でいいだろうに、なぜ2年が3階、3年が2階なのか、と。そんないつもなら気にも留めない当たり前なことに悪態をつきつつ、しかし、一方では忘れ物をした自分に非があることは明らかであることを自覚していたため、溜息を1つ、あきらめたように階段をトントンと上っていった。
階段を上り終えると息つく間もなく、自分の教室へ再び早歩きを始める。この場でも全力で走ろうとしないのは、日頃の習慣と、廊下は走ってはいけないという教育の賜物であり、自分でも真面目な性分だとつくづく感心してしまう。
とまれ、そうして小走りで進んでいくその最中、ふと、教室を見やる。流れゆくその教室を横目に、今日行ったばかりの友人とのやり取りを思い返す。
『あっ、そういえば……』
自分の授業中の、些細な失態――これには自分に非があるのは自明であるが――で笑い転げる友人が、最中、唐突にそう切り出した。
『どうにもこの学校、出るらしいよ』
先ほどまで適当な相槌を打っていた自分に、不意に、先ほどとは打って変わった神妙な面持ちでそう話しかけてきた。
『出るって、何が?』
『幽霊だよ、ゆ、う、れ、い。なぁーんか、住み憑いちゃっているらしいよ。なんでも、いじめられていた女の子が飛び降りて、その子の霊が化けて出るとかなんとか。人気のない夜中に教室からじっと外を眺めてるんだって。まぁ、この学校、だいぶ昔からあるらしいし、いても不思議じゃないけどね。でね、ここからがいいところで……』
そう言いながら、彼女は人差し指でトントンと机を叩く。これから話すことが楽しみで仕方がないのだろうか。僅かばかりの間のちにその指が止まり、
『その教室っていうのがここらしいんだよ』
自分の目をじっと見つめる。
『なんでも、その子はこの教室にいた子で、まさにこの教室から、雪の降るなか飛び降りたのだとか』
『えぇ……』
つい声を漏らしてしまう。そうだろう。誰が幽霊ちゃんと仲良くお勉強なんてできるのか。それに怖い話だって苦手なのだ。こんなありふれたような類の話だって聞きたくないくらいには。
『でねでねっ、その子のいた席っていうのがぁ……、どうにもキミが居るあたりらしいんだよねぇ……』
そう、おどろおどろしく、怖がらせるような声色で語りかけてきた。
『ほら、キミのすぐそばにぃ……』
『っ……。もう、そんなこと言わないでよ。怖くなっちゃうじゃん。私が怖い話きらいなの知っているでしょ?』
その話を聞く最中、背筋がゾクリとした心地がして、たまらずそんな非難する声を上げた。
『うん、だからこんな話したに決まってんじゃん。キミの怖がってる姿、なんか面白いんだもん。どうせ、この話なんて真に受けていないんでしょ?それにだよ、折角の夏なんだからこういった話の1つや2つでもして楽しみたいじゃない』
さっきとは打って変わり朗らかな雰囲気でカラカラと笑い、剰え、この心中をかき乱したことを悪びれもしていない様子である。何なら、してやったり、とでも言いたいのか。
授業中に眠りこけていたのを、ただ注意されただけのことで散々笑いものにしたくせに、それでは飽き足らず……。
こいつ……、などとムキになりささやかな報復に逸るのを必死に留め、努めて淑やかであろうとした、そんな何気ない休み時間。
自分のことながら、この怪談の苦手さには辟易する。どうしようもなく、どんなに安っぽい話でも、いやに現実のことのように感じられるのだ。
そのせいもあってか普段であれば、なんてこともない日常の舞台、その慣れ親しんだ場も、いま瞬間ではどうも不気味なものに、そう、まるで脈動し、蠢いているかのように思えて仕方がない。壁のシミ、澱む闇の至るまでがにじり寄ってきている気さえする。
あの怪談が語られたことは必然で、始めから仕組まれていたのではないだろうか。
いやに気になるのだ。
彼女の言葉が本当であるのかが。風のうわさ程度、そう、飛び降りた生徒がいたといったくらいのうわさではあったが、その話というのはわずかばかり聞き覚えのあったもののためであった。
出るらしいよ。
彼女のその言葉は、知らぬ間に枷となっていた。
校門を抜けるときよりも、余程も重くなった足取りで、しかし、足を動かすこと止めることなく真っ直ぐに教室を目指す。
自分の教室は、この廊下の遥か向こう、端にある。ゆえに、階段からの距離も相応にある。
普段なら退屈に、それなら、いっそ消えてもいいとも思えるこの長さも、だが今は救いにも思える。
そうとも。問題の先延ばしでしかないということは重々承知している。しかし、あんなしょうもない怪談の掻き立てた恐怖心は、今この場においては、体を動かすといったことでしか紛らわせようがないのだ。
引き戸の向こうに潜む存在を、識りたくはない。あの気紛れ屋の話を思い出さなければ、こんな気になりはしないだろうに。
永久に、あるいは、刹那にも感じられたその時間は、真実、あっけなく過ぎ去り、とうとう自分の所属する教室の、その手前まで来てしまった。
あの引き戸の、ガラスから見える景色が何であるか。頭の中で、不気味な人影が過る。
――いや、そんなものが、あるはずないだろう
そう、自分に言い聞かせ、俯き、床を見ながら引き戸へ近づき、一息にその引き戸を開く。
そこは、普段と変わらない教室の姿そのものであった。
その様子にホッとする。
整えられた机、文字の書かれていない黒板、柱のように吊るされた遮光カーテン、そして、ピッシリと閉まった対面の窓は紺に染まりつつあり、真っ白な月がそこだけ塗り忘れたように浮き出でいるのが見える。
普段より大きく見えるその月は、真ん丸で、冷たい光を放っている。その光に照らされている窓辺の、目的の机は、何かしらの神秘を帯びているようにも見える。
どうやら、思ったより外が暗くなるのが早かったようだ。早く探し物を終えようと、窓辺へ向かう。普段のごちゃごちゃと、人や物で溢れた時とは比べるまでもなく、簡単に目的の場所へたどり着く。
机の隣に立ち、椅子をやや後ろに引き、カバンを床に置く。
月に照る前腕が、机の内の影へ沈む。普段ならカラである机に何やら物があるようだ。
――あった!
身をかがめ、手早く教科書を取り出し、床に置いたカバンにしまう。カバンの口を閉じ、それを肩にかけ、さあ、帰るぞと立ち上がったそのとき、何気なく前の机を見やる。
この席は、あの憎っくき――少なくとも今はそう思えた――友人である夏海の机だ。
――たしか、あらぬ噂でいじめられて飛び降りたんだっけ
そう、これは昼前の休憩時間、そのとき話されたことだ。
興味、というのも、いじめられたという点になぜか同情が湧き、そのことを聞いてみたのだ。
――ん?何でいじめられたか?たしか、女の子が好きって言われるようになったことが理由じゃ無かったかなぁ。えーと、その子が恋バナとかに興味ないみたいな、ツーンとしたような態度を取っていたから、周りから女の子が好きなんだーって言われるようになって、それから嫌がらせとか受けるようになって、みたいな感じだったはず
――それってつまり、根拠なくってこと?
――うーん、まあそんなもんなんじゃない?いじめなんて往々にして。だってさ、キミだって私が突然『キミのことが、好きだったんだよ!』なんて言い出したらちょっと引くでしょ?
――そうだね
――少しは悩む素振りをしてよ、つれないなあ。まあ、まして見知らぬ他人。そう思わせるような態度を取ったなら、そう解釈されても、まあ、ある程度は仕方ないんじゃない?
それでも、やりすぎだと思うけど、と付け足していた。
それにしても、なんでそんなにこの手の話に詳しいのだと、あきれる気持ち半分。……ほら見ろ、訊いてくるのを待ってましたと言わんばかりの顔だ。……聞くところによれば、日頃の調査の賜物らしい。いろいろな人から噂を聴いた回った成果だと、えっへん、と言わんばかりに胸を張っていたのは記憶に新しい……。
あれやこれやと耽っていると、意想外に、ふわりと頬を撫でるような感触がして、追想から、現実にグッと引き戻される。
風だ。夏らしい、どこか涼しく、でも生暖かい、そんな心地の良い風。
――風?
撫でるような感触を受けとった方、窓のある側へ、ゆっくりと首を向ける。
窓が開いている。ちょうど人が一人と半分くらい通れそうな隙間だ。
「――えっ」
――窓が開いている?確か、来たときは……
その光景に、底知れぬ恐怖、そして驚愕を感じ、叫び声をあげていた、ような気がする。ともかく、その場からすぐさま飛び退き、ただ無我夢中で廊下へ駆けて行った、ということは解る。
この身を衝き動かす本能に従い、ただ、振り返ることなく来た道を駆け抜ける。縺れそうになる足を、必死に堪えながら。ただひたすらに早く、一刻も早く外へ出なくては、そう警鐘が鳴る。
闇に包まれようとするその中を、陽が差すかのように、あらん限りの力を尽くし、行きよりいくらも早く階段へたどり着いた。
階段を駆け下り出口を目指しまっしぐらに走る、その最中、奇妙なモノが見えた。それは、下駄箱の手前にいて、周りより一際暗く、揺らめき、蠢いているようにも見える。縦長であり、四肢の様なものが付いていて、そのうち、腕のようなものを動かしている。
これは人影だ。
助かった。その姿を見たときに、そう感じたほか無かった。常世から現世へ戻ったかのように生気が湧き、動転した気の拠り所となり、身体中の力みが取れる。
あの姿はきっと女子生徒だろう。黒を基調とした長袖とスカートからなる制服であり肌の露出がほとんどない。そして、ちょうど腰ほどもあろうかという髪をしている。
そうだ、あの人に会ったら、たはは、ちょっと急いでいまして、などと愛想笑いしてそそくさと帰ればそれで解決じゃないか、などという楽観がよぎる。
だからだろう。たった一つのことに考えが頭に思い浮かばなかった。失念していた、とでもするべきか。
なぜ、真夏なのに冬用の制服を着た人物が、自分を待っているかのように出口で佇んでいたのか。
そのことに気づき、立ち止まるにはあまりに短く、遅く、すでに手遅れであった。
すっかりと安心しきっていた自分にとって、だからこそ、目の前に佇んでいた人物の響かせた言葉に不意を突かれたのであり、いっそ、脳そのものを揺り動かされた、とでもいうべきなのである。
『待ってたよ』
その言葉の意味を、その意図を理解するのに数秒、しかし、この身体がその人物の近くへ辿り着くには十分な時間であり、だからこそ、足を止めたとき、その人物の纏う異様さをまざまざと直視するほかになかった。
『やっと、会うことができたね』
そう、目の前に佇む人物――彼女は声を響かせる。
――ああ、そうだとも。彼女の声は、悍ましく脳裏に響き渡るのだ。さも距離という概念が抜け落ちてしまっているかと抱くほどに。そう、きっと脳そのものが感覚器と成り、彼女の思念と共鳴している他あり得ない。
思わず、脳蓋を引きはがされ、その中を盗み見られる感覚がして、軽い吐き気にも思える眩暈を覚える。
一歩、また一歩と幽鬼のごとくゆったり、彼女は距離を狭めてくる。その様子に、半ば反射的に身体を後ずさる。相手の隙を伺い逃走するという算段を、混乱する中でして、隙を見逃さないよう子細を視る。
表情を読み取ろうにも、周りが暗く、俯いてもいるためにうまくいかない。ならばと、体の動きを読もうと、眼を凝らしてしまった。
彼女の纏う黒の制服は、だが、ところどころ紅で滲んでいて、首元に近いほど酷くなっているようだ……。
ソレが何であるか解ってしまったそのときに、思わず腰を抜かしてしまい、尻餅をつく。
立ち上がろうにも足に力が入らず、竦んだままだ。その間にも少しずつ目の前の彼女は迫ってきていて、唯々その姿勢のまま、手を、肘を使って下がっていくことしかできない。
だが、明らかに彼女のほうが進むのが早く、徐々に距離が迫ってきて、自分の顔を上げると、彼女の表情がちらと見えた。
それは口元だけであったが、その口角は吊り上がっているのが見て取れたのだ。
――殺される――!
あらん限りの力で、叫び声をあげ、無理に身体を奮い立たせる。その勢いで立ち上がり、その場から可能な限り離れようと駆けだす。
『ふふっ、かくれんぼ?』
――どうして、こんなに離れているのに、こんなにも鮮明に聞こえるの!?
狼狽える他ないが、でも、そんなことを気にする暇ではないと本能にかき消される。
2階はダメだ、3階に行くしかないと、直感で、ひたすらに目の前の階段を駆け上がる。
急激な活動で高鳴る鼓動もそのままに、行く先も定めぬまま逃れだす。
はっ、はっ、――仄暗く、しんとした校舎に肩で呼吸する音が響き渡る。
はやく、とおくへ、にげなくては。そんな衝動に支配され、震える足を無理にでも動かし、ただひたすらに廊下を駆け抜ける。
特別教室は――不可。ほぼ確実に開いていない。目の前の教室は――却下。あまりに近すぎるし、開いてないかもしれない。曲がり角のトイレは――ダメ。もし、見つかった時に逃げ場がない。
そう僅かな理性で逡巡しようとも、結局、希望を叶えるようなところは見つかることはなく、自分の教室に逃げ帰るほか無かった。
その最中、外の光景がガラス越しに目に入る。夜の帳は下りつつあり、窓からは街灯の、星々の光が仄かに差し込んでいた。
きっとこれは、必然だったのだろう。
教室に駆け込むと、すぐさま扉を閉め、廊下側の壁に肩をよりかけ、手を組んで見つからないことをただ祈る。
――ここまで来ないで――!!
自分の呼吸音、そして心音のみが自らの世界になる。眼を閉じて、唯ひたすらに祈ること如何ほどか。数十秒、いや、数分にさえ感じられたその行為は、だが呆気なく終わりを告げた。
『くすくす、見つけたっ』
――嘘……でしょ……
ゆっくりと、窓のあるほうを向く。
窓が開いている。ちょうど、人が一人と半分ほどの隙間だ。そのすぐ傍の、自分の机に、彼女は腰を掛けていた。
その存在を認めたとき、呼吸を忘れてしまった。
彼女のその姿は、月の光のちょうど影となり、その表情まではっきりとわからない。
――なんで、貴女はここにいるの、扉も開けないで、ここに入って来るなんて、そんなのあんまりにも卑怯じゃないか!!
そう謗ろうとも、好転することはないのは承知している。そんな暇があるなら、すぐ脇の扉からすぐにでも飛び出すべきだ、ということも理解している。
でも、身体が動かないのだ。足も、腕も、指に至るまで。蛇に見込まれた蛙か、あるいは、俎上の魚か、その両方かもしれない。などと、つかぬ間の空想に浸る。
甘い空想はよいが、だからこそ、簡単に消え去った。
『ずっと、ずうっと、こうして会えるのを楽しみにしていたのよ?雪さん』
――やめて、私に話しかけないでよ!!名前を呼ばないで!!!!
彼女が机から立ち上がり、ふらり、とこちらへ近づいてくる。
『そんなに怖がらないでよ、傷ついちゃうじゃない』
一歩。
『貴女が、私に会うのは初めてかもしれないけど、私はずうっと前から貴女を慕っているのよ?』
また、一歩。
彼女の表情が見えた。
微笑んでいる。だが、いっそその様は狂気的にさえ感じられて――
『学校にいる貴女を、ずっと、ずっとずっとずっとずっとずっと見ていたのだから……』
教室の半分ほどまで、彼女が迫る。
――嗚呼、神様……
『こうして貴女と会えたのは、すごい奇跡……ううん、これは運命、そう思っているのよ?』
また、一歩ずつ迫る。
身体の震えが、動悸が止まらない。視野が狭まり、世界が彼女だけになったと錯覚する。
『貴女を絶対に放したくないの、貴女とずっと一緒にいたいの』
瞬きを忘れ、瞳孔が開き、やっと脳が酸素を欲していることに気づく。
そして、彼女は、机一つ分の距離まで近づき――
『だから、いつまでも、いつまでもいつまでもいつまでも一緒にいれるように……』
腰の、布巻きから包丁を剥き出す。その幽けき光を映すにびの刃を、月明かりに曝し――
その包丁を振るおうと、その身を捩ろうとし――
『雪さん、一つに――なりましょう?』
包丁を振るうその瞬間、彼女が、月色に晒される。
その貌はひどく幻想的で――
面持はこの上なく美しく――
身動きが浮世離れした艶やかさで――
そんな彼女の姿に見とれていて――
自らの心臓を切り裂かんとする刃に、寸前まで気が付けず――
肌を、今まさに裂くその光景を眺めながら――
「――山ぁ、おい、狭山!」
「――っ、ひゃい!」
教員に呼ばれる声で、意識が覚醒し、飛び起きる。どうやら、授業中にお休みしてしまっていたらしい。情けない声で、その呼びかけに返答をする。
「しっかりしてくれよ」
「はい、すみません」
ただ、ばつが悪い返答しかできない。きっとこれは、昨日、夜更かしをしたせいに違いない、などと言い訳にならない言い訳を自分につく。嗚呼、どうやら、目の前の悪魔におもちゃを与えてしまったようだが、後悔してももう遅い。
このまま、憂鬱な気持ちで授業を聴くことは憚られるので、教員が、黒板に文字を書き連ねる様子を、注意半分に眺めながら、見ていた夢の内容に意識を傾ける。
――不思議な、夢だったな
そんな感想しか抱くことができない。何せ、その内容もほとんど覚えておらず、ただ漠然とした雰囲気しか思い出せない。だが、そのままでは何か悔しいので、未だ有り余る授業時間の幾分かを、その回想の時間に当てたのだが、ついに思い出せず、まあそんなものかと意識の隅へと追いやった。
そう、今一番重要なのは、次の休み時間にきっと訪れるからかいを、どうやって凌ぎ切るかということに他はないだろう。そう考えて、黒板の文字をただ写す中、友人との会話をイメージトレーニングする。
……こんなどうでもいいようなことをしている人間にも、平等に時間は流れるものであり、授業もいよいよ終わりに近づいたようだ。教員の書く内容に意識を傾けると、どうやら本日の課題を書いているところの様だ。手に持つペンを置いたそのとき、名前が呼ばれる。
「今日の課題は狭山が担当してくれ」
とのことらしい。全く、いやな役回りだ。まあ、その大本は自分の所業にあるのだが……。
授業終わりの鐘が鳴り、そそくさと教科書を片付けていると……それみたことか、やっぱりこいつは食いついてきやがったぞと、溜息交じりに思わずにはいられない。
前に座り授業を受けていたはずの奴は、いつの間にかこちらへ向き目を輝かせていた。
「んひひ、今日の睡眠学習はさぞはかどったんだろうねえ」
「あーはいはい、とてもはかどりましたよー」
この畜生――伊藤 夏海のからかいを想定して行ったイメージトレーニングは、如何にして彼女のいうことをスルーするか、その一点に尽きるのであり、どれだけ興味をそげるかは、如何に自分が適当に相槌を打つことができるのかによっている。
「なになに、つれないなぁ、もしかして睡眠不足ゥー?あっ、そういえば、授業中ぐっすりしていたんだっけぇ?」
そうにんまりと嘲笑うかのような表情を、見つめてしまった。
そうして、自分のそんなささやかな作戦は時間を費やした甲斐なく、あっけなく崩壊した。手が無意識のうちに伸び、こいつの頬っぺたを左右に伸ばす。これは不可抗力なんだ、仕方がなかったんだ。
それでもなお、にやにやと笑っている顔を隠そうともしない。
それからというもの、グダグダと続く言葉を、これまたグデーっとした適当な反応で返しながら、次の授業のことをポケっと考えていると、突然、あっ、そういえば、なんて口にした。どうやら、彼女の話はもう少し長引きそうだ……。
そんないつもとは、少し違う、けれどいつもとそんなに変わらない一日も、もう終わりを迎えつつある。
放課後となり、各々が部活動に励む中、自分も部活動――活動する部員2名の弱小園芸部としての、ささやかな水やりと土いじりを済ませ、陽当たりのよい校庭そばの花壇から、そそくさと部室に向かう。そこには、すでに先客である夏海――すなわち、もう1名の部員が待ち受けていて、入るなり早々、
「この、どう見てもクソゲーって感じのゲームやってみない?」
なんて目を輝かせて聞いてくる。彼女のこの、オカルト話の収集癖に並ぶ変な習性は、明らかにお金の無駄だからやめたら、などと何度も諭してはいるが、いつも、この手のゲームを見かけるとやらずにはいられない悲しい性なのだ、などと力説される。
そして、結局は彼女のその熱と、圧に押されてしまい、ずるずるとゲームの消化に付き合ってしまっている。これまでに制覇してきた本数は数知れず、また、放り投げた本数も数知れず。その混交が部室の隅で山となっている。
今日もまた、ずるずると出来の悪い、いっそ未完成といった方が潔い作りのゲームを下校時刻いっぱいまで堪能してしまった。あれだけ高かった太陽が、もう沈もうとしている。自分としたことがこんなものに時間を使ってしまうなんて……などとしみじみしてしまったことはどれほどか。少なくとも、あのゲームソフトの山ほどはありそうだ、なんて思うと少し笑ってしまう。
帰り支度を整えて、また明日、なんていい、彼女と別れる。
そのまま歩きながら、次の日のこと、家に帰ったら何をするか、ということに思いを馳せていた時に、ハッと、嫌な予感がする。その直感に従ってカバンを調べると、どうやら課題に必要な教科書を忘れてきたようだ。
――部室ではカバンを開けていない。ならば……
学校に向かって駆け出した。それは夏の、暑く晴れた日、陽は、まさに水平線に沈もうとしている。
微睡みの最中、今日も夢を見た。
ただ、そっと、彼女の腕に抱かれながら――
文字数を目標に作文すると、冗長になるみたいなので気を付けたいです。(反省文)
たくさん文章を書ける人はすごいと思いました。