鶴が恩返ししないんだが   作:エタリオウ

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仕事中にせこせこ書きました。


全て手のひらの上

 逢魔が時。昼と夜の境界線が融け合うその時間帯は、古来より魔が交差する刻として忌み嫌われてきた。

 

 そして今、凰佳と別れて夕闇に沈みゆく住宅街を歩く僕の足取りは、鉛のように重い。

 

 だけどなんとか今日一日を乗り越えた。

 肉の壁こと松井の僧帽筋を最大限に活用した陽動作戦は見事に刺さり、筋金入りのストーカー・夜鳥さんの執拗なマークを躱すことに成功したのだ。

 荷物を教室に置き去りにするという、背水の陣を敷いてまで得た成果である。

 

 右手に握りしめた小さな紙袋には、先ほどの放課後デートで凰佳から手渡された真新しい筆箱と、お揃いのペンが収まっている。

 

 明日からはこれで、夜鳥さんにペンを借りるという負債を重ねずに済むはずだ。

 もっとも、もしこのペンを紛失したり、別のものを使っているところを凰佳に見られたりすれば、僕の眼球の安全は保証できない『悪魔の契約』がセットになっている、極めて取扱注意な代物ではあるのだが。

 

「やっと帰ってこれた……。ただいま、我が安息の地よ」

 

 自宅の門前に辿り着き、僕は小さく安堵の息を吐き出す。

 

 家の中では割烹着を着た鷺里さんが、日本刀を研いだり夕飯の支度をしたりしているはずだ。

 

 鳥妖怪の居候がいる以上、既に家は絶対的安全地帯とは言えないかもしれない。

 しかし鷺里さんのスタンスは一貫して過保護な護衛。

 他のイカれたメンバーに比べて、害意や支配欲といったものを感じない。少なくとも、外の無法地帯よりは断然心休まる空間であると言えた。

 

 そうして僕が自宅の敷地内へと踏み入れようと、金属製の門扉に手を伸ばした、その時だった。

 

「――おかえり、佐鳥くん。随分と遅いお帰りだったね?」

 

 僕の心臓が、文字通り一つ跳ねた。

 

 すっかり日の落ちた玄関ポーチ。薄暗い影の中から僕を見つめていたのは、見間違うはずもない、雀のような底知れぬ黒い瞳。

 隣の席のクラスメイト、夜鳥雀だった。

 

「や、夜鳥さん? どうしてここに……というか、普通に敷地内に入ってるし」

 

 引きつる頬の筋肉を取り繕いながら、僕は一歩後ずさる。

 

 正当な理由なくして他人の敷地に立ち入る行為……世界はそれを不法侵入と呼ぶんだぜ! なんて、小心者の僕が口にできるはずもなく。

 

 不法侵入を果たす不届き者の顔よりも、僕の視線は、彼女の両腕に抱えられたものに釘付けになった。

 

「やだなあ、忘れ物を届けに来たんだよ。佐鳥くん、うっかり屋さんなんだから。教室にバッグと学ランを忘れるなんてさ」

 

 そう言って夜鳥さんは学ランを鼻先に押し当て、深く息を吸い込むと、ぞっとするほど甘く、昏い笑みを浮かべた。

 

「………っ!」

 

 まさか、と。血の気が引く音が、自分でも聞こえた。

 

 松井の肉体を盾にした完璧な陽動も、すべてを投げ打って逃走した僕の決死の覚悟も、バレていたとでもいうのか。

 

「驚いた? 夜鳥さんを出し抜いてやったぜひゃっはー! とか、思ってたかな?」

 

 夜鳥さんは、まるで愛おしい愛玩動物の観察するような、優しい声音で囁く。

 

「佐鳥くんのすることだもん、全部お見通しだよ。あの筋肉ダルマを盾にしたのも、荷物をデコイにして書店へ逃げ込んだのもね。でも、あえて泳がせてあげたんだよ」

「泳がせた……? いったいどうして」

 

 常軌を逸した執着を見せる彼女のことだ。見つかれば買い物デートに持ち込まれるだろうとばかり考えていた。

 夜鳥さん、君の愛はそんなものだったのかい。

 

「わんちゃんみたいに床に這いつくばってる佐鳥くんが本当に、言葉にできないくらい可愛かったっていうのは……もちろんあるけど」

「なんだって――!?」

 

 まさか、見られていた……?

 

 あの僕の涙ぐましい泥臭い努力(客観的に見れば不審者極まりない奇行)を、彼女は生温かい笑みを浮かべながら見守っていたというのか。お、恐ろしすぎる。

 

 赤面する僕を前に、夜鳥さんの背後の闇がさらに深く色を増していく。

 

「本当の理由は、少し違うかな」

 

 夜鳥さんは僕の学ランを大事そうに抱き抱えたまま、ゆっくりと一歩、玄関ポーチから歩み寄ってきた。彼女の背後で夜の闇が大きく羽を広げたような錯覚を覚える。

 

「今日、黒羽美烏って子が君に接触したでしょ? 本来なら、あの神様が動くことはなかったんだよね。佐鳥くんがご両親を殺めた罪悪感から、今の孤立的状況を『自らへの罰』として受け入れている間は、ただ静観しているつもりだったみたいだから。

 薄情だよね……まあ、佐鳥くんを地獄から救い出してくれたことには感謝してるけどさ」

 

 夜鳥さんはふっと視線を落とし、美烏へ最低限の恩義を認めるように呟いた。しかしすぐにその漆黒の瞳に爛々とした狂気が戻る。

 

「だけど、それじゃあいつまで経っても君は救われないでしょ? だから、私が黒羽美烏に伝えたの。『佐鳥くんが罪悪感に耐えきれず、助けを求めてる』ってね。すぐ動いてくれて助かっちゃったな」

⁠「……やってることがもうただのストーカーの領域を超えてるんだけど」⁠

 

 引きつった声で僕が漏らした戦慄を、夜鳥さんは楽しそうにくすくすと受け流す。ガチのストーカーは、こうまで裏で糸を引いているものなのだろうか。

 

「そして、もう一羽」

 

 夜鳥さんは親しみやすい声音のまま、すぐそこ――僕の家の隣の隣にある小鳥遊家の方へと顔を向け、底冷えするような嫌悪と蔑みの色を瞳に宿した。

 

「小鳥遊凰佳……。あの女は本当に浅ましくて、反吐が出るよ。自分で佐鳥くんを孤立無援に追い込んで、甘い言葉で君を縛り付けようとする。『鳳凰』だからって、あんな女が佐鳥くんの隣にいる資格なんてないよ」

「――え?」

 

 ふいに夜鳥さんの口から滑り落ちた、あまりにも不穏で、聞き捨てならない言葉の数々に、僕の思考は完全にフリーズした。

 

 凰佳が、僕を孤立無援に追い込んだ……?

 そんな馬鹿な。彼女はいつだって、学校で浮いている僕に優しく声をかけてくれる、唯一の理解者だった。

 

 それに今、夜鳥さんは彼女のことを何と言った? 『鳳凰』……?

 あの心優しい幼馴染が、人間の女の子ではなく怪異で、更に伝説の鳳凰。まさか、鷺里さんの話していた別格の鳥とでもいうのか?

 

 違う、そんなはずはない。

 だというのに、否定するには心当たりがありすぎた。

 

 世界がぐにゃりと歪むような眩暈が襲う。

 信じていた日常が、足元から音を立てて崩壊していく恐怖に、背筋を冷たい汗が伝った。

 

 頭の中は、パニックを通り越し、真っ白に染まっていく。

 思考を放棄しかける僕の前に、夜鳥さんはさらに一歩、じり、とにじり寄ってきた。

 

「だからね、あの二羽を対立させて、お互いに潰し合ってもらうの。最後に残った灰を掃除するのは……私」

 

 なんという、スケールの大きい盤外戦術だろう。

 夜鳥雀という少女は、ただのストーカーではなかった。

 彼女は、この異常な生態系の頂点に立とうと目論む、極めて知能の高い捕食者だったのだ。

 

「引いちゃったかな? でもね、私はあの日から決めてるんだよ。君の両親に捕まって、危うく焼き鳥にして食べられそうになっていた私を……君が、ひどい目に遭うって分かってるのに、その温かい手で逃がしてくれたあの日から」

 

 夜鳥さんは愛おしそうに僕の手を掴み、その漆黒の瞳に深い深い情念を湛えた。

 

「私は佐鳥くんの幸せのためなら、なんだってするよ。……あ、でも、君に嫌われるようなことは極力しないから、安心してね? 君に嫌われたら、意味ないもんね」

 

 底知れない執着。しかし同時に、僕のためにすべてを投げ打つという、彼女なりの絶対的な愛の誓いだった。

 

 命の恩……。そうか、あの時の、弱った雀。

 

 しかし重い、重すぎる。あまりの情報量の濁流に、僕の脳の処理能力はとっくに限界を迎えていた。

 

「さて、佐鳥くん」

 

 夜鳥さんの視線が、すっと下へと落ちた。

 彼女が捉えたのは、僕が右手に握りしめている小さな紙袋だった。

 

「大事そうに抱えてるその紙袋だけど……あの女、それを無くしたり別のを使ったりしたら、『君の目を啄む』なんて脅してきたでしょ? 本当、陰湿で嫌になっちゃう」

 

 少し違う。他の男のことばかり考えたら三段突きをかますって言ったのが僕で、凰佳は僕が他の女のことを考えたら「その子の目を突ついちゃうかも」と言っていたのだ。

 

 しかし、脳を情報の濁流に殴られた僕の舌は上手く回らなかった。

 

「今すぐへし折ってやりたいところだけど……それをして君の綺麗な目に傷がついたら、悲しいもんね」

 

 夜鳥さんはそう言うと、自身の制服のポケットからプラスチックのケースを取り出した。

 薄明かりに照らされたその中身を見た瞬間、目を見開く。

 

 夜鳥さんが掲げたのは、今日凰佳と一緒に選んだペンだった。

 色も、形も、ブランドも――何から何まで『まったく同じ』ペンだったのだ。

 

「だからね、まったく同じものを用意しておいたよ。そっちの呪われたペンは私が処分してあげるから、こっちの綺麗なペンとすり替えちゃお? これなら、あの女にも絶対バレないから安心だよ」

 

 なんの悪びれもせず、むしろ最高の妙案だとでも言うように、夜鳥さんは僕の手から紙袋を奪い去っていく。

 衝撃的な言動に呆気にとられていた僕は、抵抗することすら許されない。

 

 彼女の指先は驚くほど器用だった。熟れた動きで紙袋から凰佳のペンを抜き取り、代わりに自分が持ってきた『偽物』を滑り込ませる。

 そして中身のすり替わった紙袋を僕のスクールバッグにしまって、学ランとともに胸元へ押しつけてきた。

 

「はい、おしまい。これで安心だね。それじゃあ用事も済んだことだし、バイバイ佐鳥くん。また明日、学校でね」

 

 夜鳥さんは満足した様子で小さく手を振ると、夜の闇に溶けるかのように静かに去っていった。

 いつもの僕なら、軽快な返事をして手を振り返していただろう。だが、今の僕にそんな気力があろうはずもない。

 

 ぽつんと取り残された僕の手元に残ったのは、戻ってきた学ランとスクールバッグ。そして、脳が理解を拒もうとする幼馴染の真実だった。

 

 凰佳が僕を孤立させた? 正体が『鳳凰』……?

 おまけにさっき、夜鳥さんは黒羽美烏のことも『神様』とか言っていなかったか。

 

 僕の身の回りにいる女子たちが、単なるヤンデレやストーカーの領域を遙か置き去りにして、神話クラスの化け物に昇華しつつある事実に、本格的な目眩がしてくる。

 

 僕が必死にしがみついていた平穏な高校生活なんて、初めから彼女たちの手のひらの上でしかなかったのだ。

 

 ただただ困惑と戦慄に呑み込まれた僕は、隣の隣にある小鳥遊家の窓明かりを見つめたまま、凍りついたようにその場から動けなくなっていた。




いきなりヒロインレースから引きずり下ろされた幼馴染さん。
可哀想すぎる、幼馴染が何したって言うんだよ!!
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