人間、やむを得ず空を飛ばなければならない瞬間が、人生に一度くらいは訪れるものだ。
鷺里さんの背に乗って、夜を駆けている。
改めて口に出すと、なかなかどうかしている状況だった。
冷たい風が頬を叩く。眼下には、すっかり灯りの落ちた住宅街が広がっていた。
規則正しく並んだ屋根。ぽつぽつと灯る街灯。遠くを走る車のヘッドライトが、黒いアスファルトの上を細く滑っていく。
いつも歩いている道が、まるで見知らぬ地図のように小さく見える。
あの曲がり角でよく信号に引っかかるとか、あそこの家の犬は通りがかるだけでめちゃくちゃ吠えるとか、クビになった思い出のコンビニとか。
全部、手のひらに乗るくらい小さくて、なんだか、妙に感傷的になってしまう。
……いや、嘘だ。普通に怖い。
「さ、鷺里さんっ、ちょっと高度が高くないですかね!?」
「ご安心ください、佐鳥さん! 絶対に落としませんから!」
僕は鷺里さんの羽毛に必死でしがみついていた。
ふわふわだった。
ぜひ寝具メーカーに紹介したいくらいの触り心地である。抜け羽根だけでも集めれば、鷺里さん印の高級羽毛布団が作れるかもしれない。
絶対売れる。問題は、原材料の入手方法を考えた瞬間、僕がものすごく最低な人間になるところだ。
鷺里さんは、巨大な灰白色の鳥の姿で夜空を切り裂いていた。
青みを帯びた灰色の羽根の隙間から、淡い燐光がこぼれている。翼が一度羽ばたくたび、空気が波打ち、僕の髪を後ろへ押し流した。
音は不思議と少ない。
ばさりという羽音すら、どこか遠い。
奇妙な表現だが、まるで世界そのものが、僕たちの飛行を見逃してくれているかのようだった。
「……もうすぐです」
鷺里さんの声が、風に混じって耳へ届いた。
その視線の先。
街外れの小高い山の中腹に、ぽつんと神社が見えた。
昼間なら、古びた石段と赤い鳥居が目印になる、普段は近所の人くらいしか訪れない小さな神社だ。
たしか小学生の頃、凰佳と夏祭りに来たことがある。
僕は射的で一発も当てられなかったが、隣の凰佳は金魚すくいで根こそぎ乱獲していたっけ。
金魚屋のおじさんの引きつった笑顔を、僕は今も忘れない。
そんな平和な思い出のある場所が、今はまるで別世界の入口みたいに見えた。
山を覆う木々の隙間から、金色の火の粉が漏れている。
鳥居の奥。
境内の中心に、太陽の欠片みたいな光が揺らめいていた。
「……あれが、凰佳?」
「はい」
鷺里さんの声がわずかに硬くなる。
「そして、黒羽美烏さんも既に」
目を凝らすと、金色の炎の反対側に、夜よりも濃い黒が見えた。
境内を覆う闇。
それはただ暗いのではなく、光そのものを塗り潰していた。
神社に並ぶ石灯籠の灯りも、御神木の葉に宿る月明かりも、その黒に触れた瞬間、すべて沈黙していく。
鳳凰と八咫烏。
神話級の鳥が二羽、よりにもよって近所の神社で向かい合っている。
舞台装置としては満点だ。近隣住民としては零点だ。
「佐鳥さん、着地します!」
「はい! 初めてなので、できれば優しくお願い――」
返事を終えるより早く、鷺里さんの身体がふわりと傾いた。
内臓が置いていかれる。
ジェットコースターで味わうあの嫌な浮遊感が、全身を駆け抜けた。
「ひゅっ」
喉から変な音が出た。
本当は、もう少し格好いい悲鳴を上げたかった。
具体的には、男らしく「うおおおお!」とか言いたかった。
でも現実は「ひゅっ」だった。ままならないね。
灰白色の翼が夜を切り、僕たちは神社の境内へ降り立った。足の裏が玉砂利に触れた瞬間、じゃり、と乾いた音が鳴る。
それだけで、少しだけ安心する。
地面。素晴らしい。
人類が長年地上で暮らしてきた理由がよく分かった。地面は偉く、尊い。地面にはもっと感謝状が贈られるべきだ。
だが、その安心は一秒も続かない。
境内は、ひどい有様だった。
鳥居は半ば黒く焦げ、注連縄は熱で縮れ、狛犬の片方はなぜか横倒しになっている。石畳のあちこちには焼け焦げた跡が残り、黒い羽根が何本も突き刺さっていた。
御神木の枝葉は風もないのに激しく揺れ、鈴緒のついた拝殿の賽銭箱が、かたかたと震えている。たふん、恐怖で。
たぶん神様も困っているだろうな。
いや、ここで神様みたいなのが二羽争っているんだけど。
僕たちが降り立ったのは、境内のちょうど真ん中あたりだった。
背後には鳥居。
前方には、拝殿へ続く短い石段。
その石段の上に、金色の炎をまとった凰佳がいる。
そして鳥居側の参道寄りには、黒い羽を従えた美烏が立っている。
つまり僕たちは、神話級の二羽が睨み合う射線上に、見事なまでに着地してしまったわけである。
着地点、最悪すぎる。
「来たんだ、ほーすけ」
金色の炎の向こうから、凰佳の声がした。
いつもの声だ。夕飯の献立を聞く時と同じ、甘くて、柔らかくて、耳に馴染んだ幼馴染の声。
だからこそ、怖かった。
拝殿へ続く短い石段の上。小鳥遊凰佳が立っていた。
桜色の髪は夜風に揺れ、琥珀色の瞳は爛々と輝いている。
制服の裾が熱の揺らぎでふわりと持ち上がり、その背後には、巨大な炎の翼が広がっていた。
一枚一枚の羽根が、金色の刃のようだった。
美しい。悍ましい。
およそ、この世のものではない。
でも、間違いなく凰佳だった。
「心配したよ。そんな鳥に乗ってくるなんて、危ないでしょ?」
「……今一番危ない人に言われると、説得力が違うね」
「ふふ、相変わらずだね」
凰佳は嬉しそうに笑った。
その笑顔は、昔と変わらないように見えた。
熱を出した日にお粥を作ってくれた時も、忘れ物を届けてくれた時も、学校帰りに隣を歩いてくれた時も、彼女はいつもこんなふうに笑っていた。
優しくて、明るくて、少しだけ得意げで。
でも今は、その笑顔の奥に、僕が見ないようにしていたものまで透けて見える気がした。
「佐鳥先輩」
反対側から涼やかな声が響く。
鳥居側の参道寄り。
白衣に緋袴という、いかにも巫女らしい装いの黒羽美烏が、静かに立っていた。
今朝学校で見かけたセーラー服姿とは違う。
不思議と、その巫女装束は似合っていた。神社の境内に立つ無表情な少女。赤い瞳。夜に沈む黒髪。関わってはいけないタイプの神秘性を感じる。
まあ、初対面で僕の筆箱を丸ごと持っていった時点で、関わってはいけないタイプなのは分かっていたけれど。
彼女の周囲では、黒い羽がゆっくりと回っていた。
それは舞っているというより、沈んでいるように見えた。空気の中を、夜の欠片が落ちていく。
境内に落ちる影が、少しずつ濃くなっていた。
凰佳の炎が照らしているはずなのに、美烏の足元だけは夜が深い。白い玉砂利の一粒一粒が、そこだけ墨を吸ったように黒ずんで見える。
火の粉が降る。黒い羽が舞う。
そのどちらも、僕の周囲だけを器用に避けていた。
二羽とも、僕を傷つけないという点だけは一致しているみたいだった。
ありがたい。ありがたいけれど、できれば戦いそのものをやめてほしかった。
「危険です。こちらへ」
「黒羽さんも、大概危険側の住人だよね」
「私は先輩を害しません」
「僕の筆箱は被害にあったけど」
「保存です」
「言い方を変えても窃盗は窃盗なんだよ」
美烏はわずかに首を傾げた。その仕草は、妙に可愛らしい。
言っていることは完全にアウトなのに。
「ほーすけ」
凰佳の声が低くなる。
「こっちにおいで。その子は駄目だよ。ほーすけから大切なものを盗っていく、悪いカラスなんだから」
凰佳の背後で、炎の翼がゆっくりと広がった。
石段の上から見下ろす彼女は、いつもの幼馴染のはずなのに、まるで神社そのものを焼き尽くすために顕現した太陽みたいだった。
火の粉が、赤い鳥居の焦げた柱に触れる。
じゅ、と小さな音がした。
その音だけが、やけに生々しく耳に残る。
「先輩を苦しめるものを、私は取り除きます」
美烏が静かに言い放つ。
抑揚のない声。
けれど、そこには一切の揺らぎがなかった。
「あなたも例外ではありません」
「へえ」
凰佳が不敵に笑う。
「私が、ほーすけを苦しめてるって言うんだ?」
「はい」
即答だった。
空気が凍る。比喩ではない。
境内を満たしていた熱が、ほんの一瞬だけ輪郭を失った。吐く息が白くなった気がして、思わず喉を詰まらせる。
そして次の瞬間、燃えた。
凰佳の背後に広がる炎の翼が、一気に膨れ上がる。
金色の羽根が爆ぜるように揺れ、夜空へ火の粉が巻き上がった。拝殿の屋根瓦が赤く照らされ、石段に落ちた影が歪む。
熱が頬を打つ。目の奥が乾く。
それでも凰佳は、笑っていた。
ただ、その笑顔の端が、ほんの少し歪んでいるように見えた。
「ふざけないで」
声は低かった。
怒鳴られるより、ずっと怖かった。
「ほーすけを一番近くで見てきたのは私だよ? ほーすけが何に傷ついて、何に怯えて、どんな顔で笑って、どんな顔で壊れるのか。全部、全部、私が知ってる」
その言葉に、胸の奥が重くなる。確かに凰佳は、いつだって僕の近くにいてくれた。
僕が空腹を隠して笑っていた時も。
制服の下の痣を誤魔化していた時も。
両親が死んでから、夜眠れなくなった時も。
彼女は近くにいた。近くにいてくれた。
たぶん、近すぎたんだ。
「その知識を檻に使った時点で、あなたは不要です」
美烏の声は、冷えていた。
凰佳の炎の中でも、彼女だけは決して温まらない。
「不要なのはそっちでしょ。後から来たカラスのくせに」
「私は先輩の願いを聞き届けました」
「私はほーすけの人生を支えてきた」
「……支配の間違いでは?」
「殺すね」
会話のキャッチボールで、急に刃物を投げ込まないでほしい。
凰佳が片手を振る。
その何気ない動作で、金色の炎が津波のように境内中央へ押し寄せた。
火炎というより、巨大な火の鳥が襲いかかってくるかのようだった。夜を昼に変えるほどの光量。
熱が、顔を打つ。
息を吸うだけで喉が焼けそうになる。
僕は反射的に目を閉じかけたが、その前に白い袖が視界を遮った。
鷺里さんが、僕の前に立っていた。
人の姿へ戻った彼女は、雪模様の着物の袖を広げ、白鞘の刀を低く構えている。
青白い炎が、刀身に沿って静かに走った。
「佐鳥さん。私の後ろへ」
「もう十分後ろにいます! 人生でここまで女性を盾にしたことないくらいですっ!」
「それは何よりです」
鷺里さんは微かに笑う。
その笑みは穏やかなのに、背筋が伸びるほど凛としていた。
金色の炎が迫る。
だが、鷺里さんの青白い火が、音もなくそれを裂いた。
炎が左右に割れる。
まるで滝を刀で断ち切ったみたいだった。
切り裂かれた火の向こうで、美烏が動く。
彼女の背後に、巨大な黒い鳥の影が浮かび上がった。三本の脚を持つ、太陽を導く黒い鳥。
八咫烏。
黒い羽の群れが、参道側から一直線に凰佳の炎へ突き刺さる。
金色の熱と黒い夜が衝突した瞬間、境内全体が震えた。
拝殿の鈴が、ひとりでに鳴る。
がらん、がらん。
清めの音のはずなのに、今は開戦の鐘みたいだった。
「うわぁ……」
僕は思わず呟く。
もう何というか、すごい。すごすぎて、語彙が小学生になる。
神話級の怪異同士が、近所の神社で本気の殺し合いをしている。
この現実をどう受け止めればいいのか分からない。
お賽銭を入れたら静まったりしてくれないだろうか?
「佐鳥くん」
「ひゃいっ」
不意に、すぐ横から声がして。
振り向くと、夜鳥雀がいた。いつの間に。
いや、夜雀だから闇に紛れていたのだろう。分かるような、分かりたくないような。
彼女は拝殿脇の木陰に立ち、短いスカートの裾を夜風に揺らしながら、にこりと笑っていた。
「どう? すごいでしょ」
「……何が?」
「あの二羽をぶつけるの、けっこう苦労したんだよ」
「犯行声明を堂々と言わないでくれる?」
夜鳥さんは悪びれもなく肩をすくめた。
「あの女は、ただ裏の顔を暴けば終わる相手じゃないよ。優しい幼馴染の顔を剥がしたところで、最後には力で押し切れる。だって鳳凰だもん」
夜鳥さんの視線が、石段の上へ向く。金色の炎が、拝殿の屋根を照らしていた。
「だから、同じ高さまで届く相手が必要だった。小鳥遊凰佳の火に焼かれず、佐鳥くんの過去にも手を伸ばせる相手。黒羽美烏をぶつければ、あの女の鳥籠に穴を開けられると思った」
鳥籠に穴を開ける。
夜鳥さんは簡単に言ったけれど、そのために今、神社の石畳に黒い羽根が突き刺さり、鳥居は焦げ、拝殿の鈴は泣いている。
「……その結果、神社が更地になりかけてるけどね」
「そこはまあ、必要経費ってやつだよ」
「神社の人に怒られてきなさい」
「佐鳥くんも一緒に謝ってくれる?」
「巻き込むな」
夜鳥さんはくすくす笑った。
その笑い声は、境内を揺るがす爆音の中でも妙にはっきり聞こえる。
けれどその瞳は笑っていなかった。
彼女は、凰佳を見ている。美烏を見ている。
そして、僕を見ている。
「でもね、佐鳥くん。これで分かったでしょ」
「何が」
「あの女が作った鳥籠は、優しさだけでできていたわけじゃない」
夜鳥さんの声が、少しだけ低くなった。
「小鳥遊凰佳は、君を孤立させた。君が傷ついて、弱って、それで自分にだけ依存するように」
「……」
「君の罪悪感を利用した、って言うと少し違うね。あの子はたぶん、君の罪を裁きたかったわけじゃない。可哀想な佐鳥くんを、独り占めしたかっただけ」
夜鳥さんの言葉は、妙に静かだった。ただ観測した事実を置くみたいに。
裁くためじゃない。救うためでもない。
ただ、自分だけのものにするため。
「それ、だいぶ最悪じゃない?」
「うん、最悪。でも、君の方もそれを受け入れちゃった。これは自分への罰なんだって、後から理由をつけて」
胸の奥が、嫌な音を立てた気がした。
凰佳のせい。
そう言い切れたら、どれだけ楽だっただろう。
でも違う。僕はどこかで、納得していた。
孤立しても仕方ない。都合よく扱われても仕方ない。
自分は、それだけのことを願った人間だから。
そうやって、凰佳の作った鳥籠に、自分で鍵をかけていた。
最悪なのは凰佳だけじゃない。
その檻を、罰の形として受け入れてしまった自分もだ。
「黒羽美烏は、その罪悪感を根っこから引き剥がそうとしている」
夜鳥さんの視線が、参道側へ向く。
美烏の黒い羽が、炎の中をまっすぐに切り裂いていた。
「小鳥遊凰佳は、君を独り占めしようとした。黒羽美烏は、苦しんでいる君から過去そのものを取り上げようとしている。方向は真逆だけど、どっちも佐鳥くんの意思は置き去りだね?」
「……君がそれ言う?」
夜鳥さんは、少しだけ困ったように笑った。
「そこは、まあ」
「逃げたね」
「佐鳥くんに嫌われるようなことは、したくないからね」
ずるい返しだった。
でも、そのずるさが夜鳥さんらしかった。
「だからさ」
夜鳥さんは、僕の袖を軽く摘まんだ。その手は、思ったよりも冷たかった。
「どうしたいのか。佐鳥くんが決めて」
その言葉は、意外だった。
夜鳥さんにしては、ずいぶん真っ当なことを言っている。
「佐鳥さん!」
鷺里さんが、炎を断ちながら言った。
「どうか、お下がりください。ここは、私が制します……!」
その瞬間、境内の空気がさらに変わった。青灰色の光が、彼女の背に集まり出す。
その気配に、凰佳の炎が一瞬揺らいだ。
美烏の黒い羽根も、空中でぴたりと動きを止める。
凰佳の金色。
美烏の黒。
夜鳥さんの闇。
そのどれとも違う、静かな気配。
青白い火が、鷺里さんの足元から立ち上る。
着物の雪模様が光を帯び、灰白色の羽が一枚、また一枚と宙に舞った。
「やはり、ただの『青鷺火』ではありませんね」
美烏が、初めて明確に目を見開いた。
凰佳の笑みも消える。
「……へえ。そっちが本性なんだ」
鷺里さんは、刀を構えたまま静かに息を吐いた。
「私は一度たりとも、青鷺火と名乗った覚えはありませんよ」
青白い火が、大きく広がる。
背後に顕現したのは、ただの青鷺ではなかった。
もっと大きい。もっと古い。
もっと、根源的な何か。
青みを帯びた灰白色の翼が境内を覆い、その羽根の輪郭を、青白い火が静かになぞっていた。
燃えているのに、涼しい。眩しいのに、目に優しい。
まるで、世界で最初に生まれた朝が、鳥の形をしてそこにいるみたいだった。
「貴方がたが私をどう呼ぼうと構いませんが――」
鷺里さんの声が、境内に響く。
「佐鳥さんを護る者として、ここに正しく名乗りましょう」
灰白色の羽が、夜空を満たす。
その輪郭をなぞる青白い火の奥で、一瞬だけ、黄金色の光が瞬いた。
「この世で最初に生まれた鳥。不死の霊鳥、ベンヌ。
頭が高いですよ――小鳥たち」
次回最終回です! けっこう書いてるので明日には投稿できるかと。