日本号が来た時には、この本丸の歪な運営方針は成立していた。昼も夜もなく戦場に駆り出されるものと、一度も敵を見ることなく審神者の相手を乞われるものと、刀剣男士は二分されていた。日本号は、有難いことに前者であった。
だが日本号自身のように、重傷を負えば帰って来るよう言われている刀剣は、どうも戦場へ出る刀剣の中でも一部に過ぎないようだった。ほとんどの短刀と脇差、半数近い打刀、ごく一部の太刀。彼等の傷はどれほど重くとも戦場では頓着されることはないようで、そのまま進軍を選んでは破壊されていった。折れることなく戻れさえすれば、他の刀剣からはいっそ過剰なまでに心を配られていたのが、いっそう不自然で、この不均衡はきっと審神者の意向であるのだと思わせた。
けれど日本号が本丸の主だという男に会ったのは、人の身をもって顕現するその瞬間だけで、出陣中にもその前にも彼がなにがしかの指示をするのを見たことすらなかった。
日本号が最初に隊長職を任ぜられたのは、特付となった三日後だった。
「報告を」
面倒そうな男の声が閉ざされたカーテンの向こうからする。
隊長は出陣後審神者に成果を報告すること、と言われ審神者の執務室と寝室の場所こそ伝えられていたものの、実際に報告すべき内容は何なのだと聞くのをすっかり忘れていたのは互いに迂闊だったとしか言い様がない。おかげで推定ろくでもない審神者に聞くほかに選択肢がなくなってしまった。
「具体的には何の情報が必要だ?」
「報告書に書かなきゃいけないのは、本陣到達回数と討伐総数。あと、ドロップした刀剣に新しいのがいたら教えて」
「了解した。本陣到達3、討伐敵数147。鹵獲刀剣7、新規なし」
言われたとおりに日本号が答えれば、沈黙が返ってきた。不足情報はないはずだが、どうしたことだろうと考える。
「……あー、顕現希望がでたら、こういうときに言えばいいのか?」
顕現希望。物言わぬ鋼が顕現して欲しいというわけもないので、すでにある兄弟刀や馴染の刀から、という意味だ。更に言うならこの審神者は基本的に手に入れた新たな刀剣は顕現する方針らしいと聞いている。
「誰か折れたなら顕現するけど」
これで正解だったようだ。少し安心して、現状を鑑みる。今日折れたのは短刀二振りだが、他の刀剣はすぐに知り合いが同じ顔の別存在へ入れ替わっていくことをあまり肯定的にはとらえていない様子だった。戦力的にも正直日本号自身と大差ない、いてもいなくても同じどころか足を引っ張る分編成されていない方がましな部類だ。
「いや、なんつうか、頭数が足りんわけでもなし……無論、何かアンタの側に急ぐ理由があるなら別だが」
「……要望が出たら、報告の時に」
しばらく後、少し戸惑ったような声でそう応えがあった。
「応、了解。それじゃあ失礼させてもらう」
重傷者を手入部屋に放り込んで、最低限体裁を整えて審神者への報告に向かった時であった。普段審神者のいる馴染みないにおいのする部屋から離れたところから、微かに啜り泣く声が日本号の耳に届いた。
「父、さん、母さん、誰か……」
掠れた息の合間に、たすけての声を聞いたように思った。
かつて東西の二名槍と語られた二槍は、揃って中傷──御手杵に至っては左腕が半ばから失せるという重傷一歩手前の状態──で手入部屋に空きが出るのを待っていた。是と否のどちらを期待しているのか自分でもわからないまま、西の槍が問いを投げる。
「手杵。……今、楽しいか?」
「おー。いっぱい戦えるからなあ」
折れて死んでも元いた彼岸に戻るだけだと言う東の槍は、燃えてしまう前ですら一度も戦場へ出たことがなかった。だがそれでも、彼は天下三槍が一つである。御手杵はどうしようもなく槍だった。戦場にのみその在り様を見いだすものだった。
「そうか。なら、なによりだ」
御手杵も何も考えず現在を楽しんでいるだけではない。けれど人の心というものは彼の手に余るのを知っている。おまけに敵将の首を戦場から持ち帰って以来、審神者からはいないものとして扱われてるものだからどうしようもない。
「審神者のことか?俺たちの手には余るだろ」
「そうかもな」
位があっても、国の名を冠した号があっても、結局の所自分の本質が無銘の鋼にあることを日本号は知っていた。だがそれでも助けてくれという叫びを聞いてしまったからには、無視はできない。
「まあ、あんたがそうしたいなら止めないけど、俺まで出陣止められる様なことは勘弁してくれよ」
「努力はする」
自分が人の形をしていて、所有者が助けを求めていて、それで動かないのなら家宝を名乗る資格などない。その結果どうなるにせよ責任は取るつもりだが、御手杵の言う様な事態にならないとは断言できなかった。
その日は軽傷止まりだったにもかかわらず、日本号は手入部屋の世話になってから報告に向かった。定型通りの報告を終えて、一拍おいてから審神者に呼びかける。何か自分にできることはないか。できることならアンタの助けになりたいのだ、と。
「どうして、」
絞り出す様な男の声は震えていた。どう返したものか、と逡巡する。盗み聞いたと申告する気はないし、助けを求める声は自分の錯覚であったのかも知れない。彼が己の所有者であるからだといっても、信用されることはないだろう。それだけで動くのならずっと前に誰かしら動いていたはずだ。ふと、審神者が咄嗟に縋った相手が父母であったのを思い出した。
「アンタは俺に手足をくれた、ってだけじゃ足りねえか?──親を慕うのに、理由が要るかね」
それならどうして他の刀は、と思っていることだろう。これは自分が「日本号」であるからこそ使える論法だ。
「アンタ、オレの来歴──というか謂われは知ってるか」
沈黙だけが返る。
「知らねえんだな。ま、いいさ。オレは一応槍だが、本来人に与えられる位を賜っていてなあ。だがまあ、それだけと言えばそれだけで、人の形は持っちゃいなかった」
そこに人の形をくれたのが審神者である、と語る。詭弁でも何でも押し通せばそれで良い。自分が人に近しいなどと、日本号自身が欠片も信じていない戯れ言を重ねる。
「……今は、ない」
「そうかい。何か思いついたら呼んでくれ。手入やら何やらで少々遅れるかも知れんが、必ず向かう」
その翌日には、出陣部隊の隊長を日本号で固定するとの通達があった。大器晩成と称される槍の練度上げというもっともらしい題目はあれど、実際は違うのだろう。とはいえ、今のところ何も言われていない日本号にできるのは報告前に傷を塞いで返り血を流し服を着替えることで戦場の気配を彼の下に持ち込まないことだけだ。
そうして、ひと月も経っただろうか。報告が分厚いカーテン越しではなく、審神者執務室に上がっての対面になってしばらくした日のことだ。低練度の、依代が比較的容易に手に入る刀剣も重傷時点で撤退させないか、と進言した。特に短刀や脇差は夜目が効く。阿津賀志山はさておいて、京都市中以降を想定するならきちんと練度を上げておくべきであると。
「お前もおれに逆らうのか!?」
「非効率で不合理だっつってんだよ。……あんたの評判にだって、差し障るだろう」
慌てて怒りを抑えた後半の言葉がなければ謀反ものとして始末されていたかも知れない、そう警戒するほどに、男の語気は鋭かった。それは自棄とも呼ぶべきものかも知れない。
「評判なんて」
世界の全てが自分の敵であると信ずるに至るまで、彼に何があったのか日本号は知らない。
「どうでもいい、ってのはいくらなんでもどうなんだ……?それで困るアンタは見たかねえんだがなあ」
少々わざとらしいまでの困惑を滲ませれば、焦った様な返答が返っていた。
「いや、ほんとに!そういう情報は公表されないから大丈夫なんだよ」
「そうか。ならいいんだが。だがまあ、実際の運用は今と遜色ない結果を出せるよう、こっちでどうにかしておくから、方針だけ出しちゃくれねえか?」
実際の所、このひと月の間は部隊長権限を濫用して十分な練度のある刀剣だけを出陣隊に編成していた。ただいい加減、幾度も刀剣破壊を重ねている練度の低い、けれど戦に対する熱意の高い刀たちの我慢が聞かない時分になりつつある。
「まあ、それなら……」
「感謝する」
答えるのが早すぎたのか、それに反応しておまえも内心では馬鹿にしているのだろうと言いだした男を、さてどうやって宥めたものかと考えを巡らせる。こちらときたら人間の体を得てから二月と経たないのに全く、荷が重いことと言ったらない。
純粋に鑑賞対象としてならこの審神者も鋼に慣れるのではないかという思惑と、この身が美醜の観点で眼鏡にかなわなかったことに安堵と同時に抱いていた不満と、どちらが決断させたのかは判然としなかったが、ともかく。
美術品としての刀に興味はないかと、問うてみたのは陽の光の明るいよく晴れた昼のことだった。模造刀でも構わんさ、と言えばなんとかそれらしき意見を引き出すことができた。とはいえ「よくわからないので派手でわかりやすいのがいい」という程度だったが。
「派手でわかりやすい……やっぱ彫り物か?となると骨喰かねえ。あ-、それか、きらきらしたのがいいならへし切りとかどうだ。同郷の贔屓目はあるが、皆焼刃ってのは一等華やかだからなあ」
刀剣男士の名前が出ると途端、本物はちょっと、と男は及び腰になった。それならば、と少々方向性を変えることにした。
「あー、刃が怖いってんなら、オレの柄だけでも見るか?螺鈿ってのは分かりやすいし……他もまあ、綺麗だっつわれて喜ばねえ刀の方が少ねえよ」
部屋の中から庭先に移って、柄の一部だけを現出させれば審神者の方も陽の光の下に出てきた。鋼色のみの刀身よりも拵えの方が「わかりやすく派手」であるには違いない。
「君も?」
恐る恐ると言った風に柄に触れる指先に、どうにも庇護欲とかそういったものを掻き立てられるのは仕方のないことだ。日本号という槍と比べれば審神者を務める男の重ねた時間はその一割にも満たない。
「応。俺もだ」
時に刀身以上に、拵えは彼等の防衛する歴史を映す。幾らかの剥がれた螺鈿、そのひとつひとつの理由を語ることとて可能だ。それはきっと、他の刀剣もそうだろう。それは人から刀へと与えられた愛の形そのものである。
「拵えもオレたちの一部だ。褒められるのは嬉しいし、もし誂えてもらえるってんならそれこそ望外の喜びってな。ま、オーダーメイドってやつだから金は相応に飛ぶがね」
少しは、いい方に向かっていると思っていた。いや、その通りではあったのだろう。けれども遅すぎた。あるいは早すぎたのか。
おそらく、何時かの日本号のように、本丸の方針を改めるよう言ったのだろう。その刀は強くまっすぐで、ずっと大事にされてきた善性のものだった。その純粋さと善性に、人間の男は応えることができなかった。それだけのことだった。
「切ってくれ!あいつは、あいつも裏切ったんだ!」
妙に既視感を覚える、悲痛さすら感じる男の叫びと、訳がわからないとばかりに目を丸める刀を比べれば、報告のために入室したばかりの日本号にも状況は察しがついた。きっと、どちらが悪いというなら審神者の方なのだろう。
「……そうか。分かった」
日本号の手の内に得物が現れるのを、諫言者が信じられぬと見詰める。
「悪ぃな。存分に俺を恨んでくれ」
そして俺だけを恨んでくれ。
思ったよりもずっと、手応えは軽かった。力を持って突き刺す必要などなく、ただ互いの重みだけで二尺六寸は彼のひとがたの胸部に赤の花を咲かせた。十尺を優に超える槍を振り回す空間などここにはない。自然、現出した「日本号」はほんの一部分であり、片手のみで柄と穂の境界ぎりぎりを握ることになる。浴びる返り血は今までの比ではない。審神者に浴びせるわけにもいかない。それを意識したかどうかはともかく、今の日本号は振り返るのを躊躇するほどの赤に塗れていた。それでも、そうと命ぜられたのならば、切るに迷いはなかった。
日本号にはこの人間の心を守る方法など分からない。だが、味方になると言ったのだ。
「なあ、」
紛れも無く戦友だった刀の血に濡れたまま、眉を顰めた日本号が口を開いた。少しだけ、まずいとは感じていた。
「なんだよ。お前もおれが悪いって言うのか」
「違う。そうじゃねえ。室内じゃ
そう言う槍に向けられた悍ましいものでも見たかのような恐怖の視線を、日本号が見ることはなかった。
それから、日本号は何度か仲間のはずの刀を切った。殆どの場合は動けなくしただけで後程手入部屋に放り込んだが、相手が低練度の短刀で一撃で砕けてしまった時と、ひとがたが消えるまで男が許さなかった時の二度は、折った。この本丸の主にあたる男は、目を逸らすことすらできずに始終怯えていた。抵抗する攻撃対象の刀剣男士にも、それを顔色ひとつ変えず叩きのめす日本号にも、そしてそれを命じてしまった男自身にさえも。
こういう、恐怖政治と言えるような状態を、古参刀のいくらかはどうやら知っている様だった。その時と違うのは、おそらくその時の「処刑人」は一振りではなく、そして所謂重量級の刀種は含まれていなかったらしいこと。そしてもっと単純に、その頃は練度上限の刀剣など一振りだっていなかったことだ。本丸の中で見えぬ力に守られた刀を、その防護の上から砕いてしまえるほどの刀が、その時はいなかった。
「どうすればいい。何をすればおれは君に報いられる」
そう言ってきたのは、表面上はなにもないある夕べのことだった。三日前手入部屋へ入った石切丸が出てくる頃合いではあるが。ここで必要ないと言えば、この男は困るというだけでは済まないのだろう。
だが真実、今の日本号には欲しいものなどなかった。酒は顕現した時から携帯していた尽きぬ徳利を頼ればいい。生活に必要な最低限のものは要請状を埋めて提出すれば支給される。そういう風にしたのは日本号自身だった。まだ本丸の中で折れた刀剣がいなかった頃の、日本号自身だった。
そういえば、だ。日本号は出陣回数こそ激減しているものの、戦うことは少なくない。だが、他の二条はどうなっていただろうか。
「……そう、だな。手杵と蜻蛉のやつを、存分に戦に出してやってくれ」
ふと思い出したのは、いつだか御手杵と交わした会話。彼の言った通り、審神者の──人の心は、槍の手には余ることだった。
「……な、んで」
何故戦いたがるのか。何故わざわざ傷つきたがるのか。男には理解できなかった。それが、血と骨と臓腑よりも、ともすれば、そう。死そのものと比してすら、その断絶はおそろしいものだった。
「オレたちは槍だ。一番短いのはオレだが、それでも3メートルはある」
立ち上がって、見上げた天井に手をつく。「日本号」の標準身長は195センチメートルだったか。でかいだろ、これでも縮んだんだぜ?と笑う。
「家の中には入れねえってこった。俺たちは外にしかいられない。戦うものにしか、なれねえんだよ」
打刀の低い方、程度の身長しかない男は、日本号の長身に初めて気がついたかのように顔を上げる。いや、真実初めて気がついたのだろう。遠目に眺めるだけならともかく、会話が届く様な距離においては彼の知る日本号は常に座していた──戦っている時は、審神者の方が彼を直視できなかった。例外と言えるのはそれこそ、顕現の瞬間くらいだった。信頼と恐怖の合間で揺れる黒茶の瞳と紫紺が交差する。
「信用してくれたあ言わねえよ。──だがこの龍に誓ってもいい。俺は、主を裏切らねえ」
たとえ自身より下位の者の元へ下賜されようと、酒の席で賭けの景品になろうと、あるいは借金のカタに売り飛ばされようと。日本号は──この倶利伽羅龍の無銘の槍は。その時の主に精一杯に尽くすだけだ。足利に移った時には武家の道理に馴染もうと努力したし、母里でのある時などいやいやどう考えてもオレは専門外だろうと叫びたくなってもどうにかこうにか病を払ってやった。今とて、同じだ。この人間の男に、果たして何をしてやれるのか分からないまま、足掻いている。無様にも周り中を巻き込んで。
演練。その存在を知らされたのは、日本号が龍へ誓ってから二週間と経たない、月初めのことだった。未だ本丸が割れる中、出ると決めた審神者の真意は分からない。あまりに長期間参加していなかったから催促、あるいは強制された可能性もあった。誰が出るのかという話題が本丸中を巡る中、参加を明言されていた槍は幕を引こうと決めていた。
試合それ自体はつつがなく終了した。五戦目には、日本号にとって見慣れぬ、だがよく知る刀剣が参加していた。
「なあ、向こうの長谷部と話してみたいんだが、少し離れても構わねえか」
「は?なんで」
なぜ、黒のカソックを纏ったあれがへし切り長谷部だと知っているのか。なぜ、そんなことを言い出すのか。どちらに対する疑問なのか判然としないまま、審神者がそう問い返す。そもそもこの日本号は、同本丸のへし切り長谷部と接触したことはないはずだ。
「いや、やたらとこっちを避けるうちのと違って黒田の話に乗ってくれそうだからな。演練だって次いつ来れるか分かったもんじゃない、機会があるうちにと思ったんだが……駄目か?」
本丸へ来る前からの知り合いであると告げつつ、困った様にそう訊ねる。刀剣男士どうしの戦闘を観戦できるというのはあまり審神者から長時間目を離したい状況ではないが、致し方ない。肉体的に影響が出るほどなら職員がどうにかするだろう。
なんとか了承の返事を貰って、五戦目の、おそらく日本号自身の本丸よりもずっと歴戦の本丸の、刀剣男士たちを見つけて駆け寄る。自身の本丸の一団から視線が通らないのを確認して、長谷部に声をかけた。
「へし切り長谷部、頼みがある」
なんだ、どうした、と少々騒がしくなる。日本号が初対面のへし切り長谷部相手に頭を下げるなど、まずないことだ。周囲の囁きから逃れて物陰へ移った後の言葉に、長谷部は更に瞠目することになる。
「うちの本丸を通報してくれ」
困惑の内に日本号の話を聞けば、最早取り返しのつかないところまで悪化した、所謂ブラック本丸とやららしい。
「助けてくれと言われたんだ。だが俺にはどうにもできねえ。なら、終わらせてやる他にない」
その本丸にただ一人の人のために日本号ができることは、もうこれしか残っていないのだと言う。何をしても坂を転がり落ちるだけで、審神者は話を聞ける精神状態ではなく、刀剣との距離も離れすぎた。武器の自認の強い刀剣は今の状況が何年続いても耐えられるだろう。けれど主たる審神者は、ただの人間だった。それも、戦いに不向きな部類の。
「ああ、そうだ。できたら、お前が勝手に気づいたことにしてくれないか。俺が頼んだと知ったら、あいつは耐えられそうにない」
「そこまでのことになってなお、お前は今の主に仕えると言うのか。──お前、が」
同じことを自身の同位体が言ったなら、長谷部はここまで動揺しなかっただろう。「日本号」は矜持の高い刀剣男士だ。少なくとも長谷部の本丸の彼は、相応しからぬと決めたのなら、すっと主を見限ってしまえる類の刀剣だった。
「主であることに、相応しいも何もねえっての。持ってるってんならそれだけだ」
それもある種の断絶であるのだろう。刀剣とは歴史を背負うものなのか、はたまた一つの武器であるのか。男士の本質は鋼にあるのか、ひとがたにか、そういう。
審神者当人を除けば誰にも知らされていなかった来訪者に対して、警報の類は一切鳴らなかった。なにやら腕章をつけ、三尾のお供の鳴狐を連れた女が言う。この本丸の審神者には刀剣男士不適切使用の嫌疑がかかっています、ご同行願えますか。
「──主」
連れられていく審神者に、みな全ての終わりを悟っていた。審神者私室の刀剣たちも、残っていた中で一番の古参であった太刀も、その一振りを除けば何も言わなかった。
審神者が振り向く。けれどその刀剣は、彼が叶わぬ祈りを間違ったものに捧げることのないよう、その瞳の希望を切り捨てるために口を開いたのだった。
「俺は長谷部じゃねえんだ、待つつもりはねえよ。十倍の値で買い戻す気概があるんなら考えてやってもいいがな。ただ──」
こんな時ですら軽口を叩かねばやっていられない自分の弱さに辟易としながら、螺鈿の埋まった柄と倶利伽羅龍の彫られた鋼とを現出させる。お前が願った先はこの細長い3.2メートルでしかないのだと。思えば、全体像を見せたのは顕現の時以来かもしれない。
謝るつもりはない。許されるとも思っていない。呪われるのも恨まれるのも承知の上だ。だがもう二度と、どの刀であったとしても、同じ轍を踏んでほしくはない。人を掬い上げることができるのは、人だけだ。人だけだった。
あのとき限りの間に合わせなどではなく、ほんとうに病払いの力があったのならと思う。きっとあれも病だったのだ。心の、脳の。
「鋼に祈るのはもうやめな。願えば返すものに夢を託すのは」