古く、この大陸を制覇し、一大帝国を築いた一家があった。我々の皇帝陛下は、その末裔であり、現代における神の使徒たる存在である。
士官学校や陸軍大学校で、幾度となく聞かされたそのフレーズ。胡散臭いことこの上ないそのフレーズを、フォン・デグレチャフ魔導少佐は大嫌いだった。幼心の反抗期だろうか?いいや違う。単純に彼女は、神という存在を嫌悪していた。なぜ嫌悪しているかという理由はさすがに言えないが、とにかく嫌悪していた。
そして嫌悪しているからこそ、毎週日曜日には欠かさず礼拝に行き、その心の内で密かに罵倒し、蔑み、また良きことがあった場合は、神の前で回り踊り飛び跳ねることすらあった。だが他方、戦場での生き残りに際しては、神の恩寵を謳い、その言葉を以てして、敵に強烈な一撃を与えることもままあった。そう、傍から見れば彼女は、信心深き信徒だったのだ。
が、今ターニャの目の前にいる彼女は、そのハシバミ色の両目でターニャの碧眼を覗き込んできている彼女は、その神の使徒やらの一族の一人なのである。
マリア・アンナ・ヴィクトーリア・フォン・ハービヒツブルク。
そのファミリーネームの重みには計り知れないものがあり、なにかに例えられるようなものではない。もちろん、神を嫌悪しているターニャとてそのことは承知しているし、何より帝国軍は皇帝陛下の軍隊である。なんの因果かわからないが、帝室の一員である大公女殿下がお越しになられたとなれば、とにかく駐屯団の長としては、丁重にお迎えせねばならない。
「た、大公女殿下であらせられましたか!これは、とんだご無礼を。」
「いいのよ。私も勝手に入ったのだし。」
まるで既に仲良しと言わんばかりの、馴れ馴れしい帝国公用語だ。不快感というほどでもないが、ターニャは一抹の不安を感じる。ほんとうにこの人は、大公女殿下などという大層なご身分なのだろうか?さては周りから疎んじられているのではないのか?と。
もしもそうであるならば、後になって「あのマリア・アンナ・ヴィクトーリアと関わっていた」などと言われるのはご勘弁だ。
「して、殿下。なぜこのような辺境の地に?ここは第145歩兵連隊と、第203航空魔導大隊の後方休養地であるのですが…。」
保険も兼ねて、ターニャは恐る恐る、己ができる限り相手に尊敬を傾ける言葉を選出して、大公女殿下がこの場所に赴いた理由を尋ねる。もしもこの大公女殿下とやらが、宮中で疎んじられており、宮廷に留まれなかったから各地を転々としているなどというご身分ならば、早急にこのような辺境からお帰りいただかねばならないからである。そうでもしなければ、ターニャの積み上げてきたキャリアが、音を立てるがごとく崩壊するやもしれない。しかし返ってきたのは、意外も意外。いや別ベクトルで邪道とすら言うべき返答。
「それはもちろん、貴女に会うためよ。フォン・デグレチャフ少佐。」
「はっ…?」
フォン・デグレチャフ魔導少佐は、周囲が自らに驚嘆する様を幾度か見てきたが、まさか自分はそのような、いわば単純なことで心を、言葉を取り乱すことは決してないと思っていた。いや、思い込んでいた。だがどうだろう。ターニャの心は、言葉は、彼女が到底自分には及ばないであろうと思っていた女性に、また神の使徒たる一族の大公女によって、いとも簡単に、あっさりと、一撃で、破られたのである。
「ふふっ。驚いたでしょう?なぜ帝室の一員である私が、貴女のような軍人、それも一左官を知っているのか。」
その大公女は、どこまでも余裕綽々としていた。そう、歴戦のフォン・デグレチャフ少佐の、その心の内を全て見透かしていると言わんばかりに。
「まぁ、そのことは追って話すとして、本題に入りましょう。」
全てを見透かしている大公女は、とにかく話題を変えた。ターニャがそうであるように、彼女もおそらく時間がないのであろう。帝室の面々は、日々公務、もとい公務という名の激務に追われているに違いないのだから。
「今日私がここに来たのは、単純に興味があったからとか、そういう理由ではないの。」
大公女は、焦らすところまで焦らす。ターニャの心中は、早くしてくれという思いが溢れんばかりであろう。そう、この大公女、マリア・アンナ・ヴィクトーリアは、単に話術に長けているのだ。それはもう、恐ろしい程に。ヴィクトーリアは続ける。いや、ようやく彼女がこの屯営にやって来た、真の理由を口にする。
「実は今荒れてるのよ、帝室が。」
「は、帝室が…?しかしなぜ、帝室のことを私に…?」
「あー、そうね。それを理解するにはまず、帝室の構成から話さなければいけないわね。」
ヴィクトーリアは、これは誤算だったとばかりに苦笑いをして手を叩く。ちょうどその時である。夕刻18時を告げる教会の鐘が鳴った。同時に、すっかり影の下となった屯営の中庭にラッパ手が現れ、しっとりとした影の中、その独特の金属光沢を大きく主張しつつ、軍隊における夕食の合図を吹奏する。同時に、戦技研究本部庁舎の両隣と向かいにある営舎から、兵達の歓声が聞こえてくる。どうやら今は時間切れのようだ。
すると、いつの間にやら外に出ていたヴァイス大尉が名を名乗り、再び入室する。
「少佐殿、食事のお時間ですが…。」
「あぁ、今日は飲酒可能日だったな。行ってこい。」
「少佐殿は…。」
「大公女殿下に混ざっていただけるわけなかろう。ほら、早く!」
ターニャは、まるで羊を追い立てるがごとく、ヴァイス大尉を食事に向かわせようとする。
しかし、当の大公女殿下はというと、そう難色を示しているわけでもなく、むしろ兵達の食事、つまりは平均的な軍隊の食事に混ざりたいようだった。曰く、「王宮で規則に縛られて食べる食事よりはマシよ」と。そういうわけもあって、その日の屯営の食事は饗応ということになった。そうれはもう飲めや歌えやの大騒ぎであり、ヴィクトーリアも兵達と共に軍歌や愛国歌を歌い、酒を酌み交わした。だが席も中頃に差し掛かった頃、いつもの如く、遂にターニャは耐えることができなくなった。そしていつもの如くヴァイス大尉に後のことを任せ、魔導師常勤装の服装規定で定められた制帽と略式サーベルを手に取ると、そそくさと食堂を後にする。さて、中庭まで歩を進めたターニャは、つい一、ニ時間ほど前よりもさらに闇が深くなり、初夏のしっとりとした空気感が支配する中庭の、その中央にある椅子に座り、足を組み、腕を背もたれの縁に預けると、顔を上げるやいなやその眼中に飛び込んできた月を見上げる。綺麗な満月であった。幸いこの地域には梅雨というものがないらしく、じっとりとしたあの陰湿な初夏は存在しない。初夏の夜は、爽やかであり、穏やかだ。この体で飲酒ができないことは分かっているが、あの空気の中で長時間いると、ターニャも少しほろ酔いじみた気分がしてくるというもの。しばらくの間は夜風に打ちひしがれていようと思った。しかし同時に、効率を重視するターニャはそこで物思いにも耽る。それは、「今後どうするか」であった。
さて帝国の欠点に気づいたはいいが、それを是正するだけの能力がない。残念なことに、ターニャはまだ酒が飲める年齢ですらないのだ。さぁ、もしも奴が、こんな状況をも全て見込んでのことだとすれば、果たしてどうだろうか。諦める?いいや、俄然やる気が出るというもの。だがその為には、まずは協力者を取り付けなければならないだろう。今の政権を根底から覆すせるほどの協力者が。
「♪Gott erhalte Franz, den Kaiser, Unsern guten Kaiser Franz!」
その時、聴き慣れたメロディが耳に入ってきた。
「♪Hoch als Herrscher, hoch als Weiser, Steht er in des Ruhmes Glanz~」
帝国大公女マリア・アンナ・ヴィクトーリアの声だ。大公女は非公式国歌とされている「皇帝」を歌い、帝国と帝室を讃える文言を口にしながら、千鳥足とも見えるふらつき具合で、中庭に姿を現した。この歌詞を聞いて、ターニャは良い気分がするわけではない。むしろその逆だ。皇帝が神の恩寵の下に絶対的な権力を行使するというのは、あまりいただけたことではない、とターニャは思う。参謀本部の将校や、ましてやこの大公女の前で言えるわけはないが。
「♪Liebe windet Lorbeerreiser Ihm zum ewig grünen Kranz. Gott erhalte Franz den Kaiser, Unsern guten Kaiser Franz! Gott erhalte Franz den Kaiser, Unsern guten Kaiser Franz!!!」
一番を歌い終わると、大公女はターニャの右隣にある椅子に、いかにも私は優雅な人物だと言わんばかりに、まるでエーデルワイスの花畑に腰を下ろすように腰を下ろす。実際優雅な人物だが、こうもきつめの葡萄酒の匂いがすれば、あまり説得力はない。ターニャは以前に「飲みニケーション」という文化を経験しているが、今の大公女は、まるでその時の上司のそれだ。
「ねぇデグレチャフ。」
唐突に、大公女は口を開く。
「はっ、なんでありましょうか。」
「さっきの話だけれど、今夜は時間ある?」
すぐさま軍隊式の返答をしたフォン・デグレチャフ少佐に、傍から見ればなにか誤解されそうな言葉選びで、大公女は質問を返す。
「はっ、問題ございません殿下。」
「殿下はやめて頂戴。マリアでいいわ。あ、様は付けたければ付けて構わないわ。」
「はっ、承知致しましたマリア様。」
すると、どこから持ち出してきたのか葡萄酒とグラスを、大公女はよろしいとばかりに掲げてみせる。フォン・デグレチャフ少佐は、言うまでもなく不快だった。元々権威主義など好かない性分である。仕方なく敬称で呼んでいるというのに、その呼び方さえ神の名の下に変更されなければならないのだ。しかも、彼女は何の遠慮もなく葡萄酒を飲む。
「マリア様、一つよろしいでしょうか。」
「何?」
「マリア様は如何様にして、こちらにお越しになられたのですか?帝室の一員ならば、そう簡単に王宮からでることさえままならないと存じますが。」
ターニャは問いかけた。いや問いかけてやった。尻尾を掴もうと思ったのである。当の大公女は、「そうねぇ…」と口篭る。これはしてやったり、とターニャは思った。が、その王宮の英才教育はだてではなく、このようなターニャが思い付きで問うたような質問になど、いくらでも言い逃れはできる。
「まぁそれも含めて、今夜は帝室と、そして帝国のことをお話しましょうか。フォン・デグレチャフ少佐。」
大公女は質問の返答を先送りにした。ターニャは、この帝室上がりのボンボンの大公女をすぐに言いくるめられると楽観していたが、どうもそんなに簡単な話ではなさそうだった。最初に見た異様なまでの子供っぽさは、異様なまでに練られた演技だったとでも言うのだろうか。いや、おそらくそうであろう。そうだと認めざるを得ない。
そもそも、ターニャもこの大公女から、並々ならぬなにかを感じたことは事実だ。敵を欺くにはまず味方からとはよく言ったもので、ターニャはこの大公女の演技と、自由主義を愛するその思想から、神の名の下に権威を享受している精神年齢の低い無能と、マリア・アンナ・ヴィクトーリア・フォン・ハービヒツブルクを評価していた。
が、今この瞬間から、おそらく鶏が三回鳴くまでに、ターニャのこの評価は変わることであろう。そう、それはまさしく、これから彼女、つまりは大公女が明かす話によって。
葡萄酒を完飲し、その手に持つ杯を高く掲げ月光に照らす、その大公女の瞳には、やはり月が反射している。初夏の白い満月は、果たして帝国の明日を照らす陽を告げるものなのか、はたまたそれが西の空に沈むがごとく、帝国の没落を表そうとしているのか。それはまだわからないが、少なくとも大公女の瞳にある希望の光は、まだ絶えてはいなかった。そう彼女は、いやハービヒツブルク家は、まだ一つ、とてつもない奇策を持っていたのである。
さて、それでは今回はこれまでとなります。もしもあなた様が本「大公女戦記」を気に入ってくださったのであれば、評価や感想等お待ちしております。Twitter( https://twitter.com/hellmuth_1900 )の方でも随時受け付けておりますので、是非。
それでは、またいつか。