見えないものもいる。
人とは異なり、人とは交わらず、しかし確かにそこにいるものたち。
それらを見て、聞いて、感じ取れることは、果たして幸か不幸か。
きっと昔は不幸だと断じていた。
でも今はそう思わない。
夏目貴志は今日も、友人帳の名を返す。
雲が高い。
乾いた風に吹かれながら空を見上げて、ふとそう思った。
学校からの帰り道、稲穂が刈り取られ水も抜かれた水田の跡を横目に家へ向かって歩いていると、もう夏の暑さも湿気もすっかりなりを潜めて、涼しい風が吹き抜けるのを感じられる。
ほんの一月前と比べると、ずいぶんと過ごしやすくなったものだ。
目を転じれば、遠くに見える山の頂近くが色づき始め、まばらに赤や黄色の鮮やかな色が混じっている。
じきに、この砂利道も隣に立つ並木から落ちた、色よく染まる落ち葉で埋め尽くされるようになるだろう。
俺と同じように妖物が見えていた祖母、夏目礼子の故郷に来て始めての秋。
引っ越してきてすぐのころは、いつものように引き取られても疎まれつつも今までと変わらない日々が続くだけだと思っていたのに、今度はそうはならなかった。
おれを引き取ってくれた塔子さんと滋さんの夫婦は今までにないほどおれに優しくしてくれていることは勿論大きな理由だが、それに加えてもう一つ、おれの人生を大きく変えるものと出会った。
実は祖母の遺品にあった手帳の正体が、祖母がぶちのめした妖怪から奪った名前を書いた、相手の生殺与奪すら握れる友人帳であったのだ。
そんな危険なものに名を奪われた妖怪としてはたまったものではないのは当たり前。
そのせいで、友人帳の存在を知って以来名前を書かれた妖怪たちに「名前を返せ」と襲われたり迫られたりの日々を送ることとなった。
それ以来、様々な妖怪と出会っていろいろありつつも名前を返してきたけれど、まだまだかなりの数が残っている。
俺を守ると嘯く、友人帳のことを教えてくれた本来は巨大な四足の獣の姿をしたブサイク駄猫ニャンコ先生は、日々薄くなる友人帳を見ておれが死んだ後に譲り受けたときの取り分が減る、とグチグチ文句を垂れてくるが、俺の目から見れば先は長いように思える。
一体どうしたものやら。
そんな思考にふけりながら歩き、空を見上げていた視線を下ろせば、木立の向こうに家の屋根が見えてきた。
ふうっ
ため息は家の前で。
今までの親戚とは違い、暖かくおれを迎えてくれた恩人である塔子さんにも滋さんにも、心配は掛けたくない。
「ただいま。……?」
ガラガラと騒々しくガラスが音を立てる玄関の戸を開けて家の中に一歩はいると、途端に甘い匂いが通り抜けた。
砂糖でも蜜でもない。どこか懐かしくも優しい、小麦の焼き菓子の香りだ。
「貴志く~ん、お帰り~」
台所から、塔子さんの声が聞こえてくる。
耳を澄ませば、油の弾ける音が聞こえてくる。
察するに、このにおいはドーナツか何かなのだろう。
「ただいまです」
顔を見せに台所へ行ってみると、案の定塔子さんは油の入った鉄鍋の前で菜箸を構えていた。
テーブルの上のバットにはクッキングペーパーが敷かれ、まだじゅうじゅうと音を立てる、狐色をした揚げたてのドーナツが並べられている。
玄関で感じた匂いが一層強く鼻腔をくすぐる。
特別ドーナツが好きというわけでもないけれど、この匂いにはどうにも抗いがたい魅力があった。
「あ、貴志くん貴志くん。ちょうどドーナツできたから、一つ味見してみてくれない?」
と、思った矢先に塔子さんがニコニコと笑いながら振り返って、そう言ってきた。
「え、いいんですか?」
「もちろん。あったかいうちに食べてみて」
「じゃあ、いただきます」
一つ手にとって見れば、塔子さんの言葉通りに火傷しそうなほど熱く、一口齧ると口の中から湯気が出た。
表面は、歯を立てれば衣がさくりと砕け、その下にある生地は十分にふくらんでしっとりと歯を受け止める。
一口目から、とても美味しいドーナツだと思った。
そして何より、さっきから感じていたあの甘い匂いが口の中一杯に広がってくる。
バニラエッセンスの香りと砂糖の甘さはもちろんのこと、それにも増して、溢れる小麦の味と香りが、他では味わえないほどに強かった。
「あ、おいしい」
「うふふ、でしょう?」
「ええ、本当に」
塔子さんは笑みを深めて、鍋から次々と揚がるドーナツをバットに移しながら珍しくドーナツを作っている理由を説明してくれた。
なんでも、近所で小麦を作っている人から小麦粉を貰ったらしい。
その人の作る小麦は知る人ぞ知る質の良さで、麺にも菓子にもなんにでもぴったりとその界隈では引く手あまたの一品なのだという。
そんな小麦粉をご近所のよしみで貰ったから、せっかくなのでドーナツにしてみたのだ、と。
「そうだ、貴志くん。ドーナツもうすぐ全部出来上がるから、そうしたら小麦粉のお返しにドーナツ持って行ってくれないかしら。きっと今頃収穫おめでとうの宴会をしているだろうから、ちょうどいいと思うの」
「はい、わかりました。ところで、この小麦を作った人って……」
「あら、そういえば言ってなかったわね。この小麦はね、
まだ揚げ終わるまでにはしばらくかかるらしいので、部屋で着替えることにした。
片手の皿には、ドーナツが二つ。
これだけの味のドーナツだ、驚異の食い意地を誇るニャンコ先生なら喜んで食べるだろう。
よく手入れされているため、するりと音もなく開く自室の襖を開いて部屋に入ると、部屋の真ん中でニャンコ先生が奇行に走っていた。
短い手を必死に伸ばして鼻を押さえ、じたばたともがきながらこっちへ向かってくる。
あまりの行動にしばらく絶句して見ていると、ニャンコ先生はおれに気付いたらしい。
ハッとして距離を取った。
「な、夏目! その手に持っているのは、まさかッ!?」
「ああ、これね。塔子さんの作ったドーナツだ。食べる?」
それこそ「食うーっ!」と叫んで飛び掛ってくることすら考慮に入れてツッコミの右ストレートを準備しながら聞いてみたが、帰ってきたのは意外な返事だった。
「ふ、フンっ! いらんわいそんなもん!」
「えっ!?」
正直驚いた。
道端の地蔵に供えた饅頭にすら齧りつくほど食欲に忠実な駄猫が、これだけいい匂いをさせているドーナツに食指が動かされないというのははっきり言って異常だ。
怪しいにもほどがある。
気になったので、試しにそっぽを向いて丸くなっているニャンコ先生の鼻先へドーナツを持っていってみる。
しばらくはピクリともしなかったが、段々と鼻の穴がむずむずとし始め、口が何かを食べているかのようにもぐもぐ動き出す。
その動きは段々大きくなり、ゆっくりと口を開けながらドーナツへと……。
「ハァっ! わ、私は何を!?」
あと少しでドーナツにかぶりつくというところで我に返ったのか、再び奇声を上げながら飛びのいた。
「なんだ、食べたいなら食べればいいのに」
そういって、ドーナツの載った皿をニャンコ先生の前に置いておく。
なおこちらを警戒したような目で見てくるニャンコ先生だったが、いつまでも遊んでいる暇はない。
さっさと着替えて出かける仕度をしておかないと。
学校の制服を脱いでハンガーにかけ、洗濯物はまとめておく。
ニャンコ先生は、ドーナツからじりじりと距離をとりながら、不機嫌そうに言う。
「そういうわけにはいかん。私だって高貴な妖怪だ。意地というものがある」
「意地?」
これからお使いに行くことを考えて、俺の持つ数少ない服の中でもそれなりに見栄えのするものを選んで袖を通す。
そういえばこの秋に入ってからこの服に袖を通すのは初めてだ。
長い間しまわれていた服に独特の、箪笥の匂いで思い出した。
「これはあれだろ、あいつの畑で取れた小麦を使ったものだろう」
「あいつ……? 倉太さんのことか?」
「ああ、確か人間の名はそんなだったな。だが私が言ってるのはそんなことじゃない。あの畑に憑いているモノのことだ」
姿見の前で身支度を整える動きが一瞬止まる。
畑に、憑いているモノ……?
「ニャンコ先生、それってまさか」
「そうだ。あの畑には、妖物がついておる」
普段からちゃらんぽらんなニャンコ先生にしては珍しく、その声音は真剣そのもの。
ドーナツを前によだれをたらしている姿が間抜けだが、話の内容は見過ごしがたい。
「いったいどういうことなんだ。妖物がついてるって」
「言葉通りの意味だ。この菓子を作るのに使った小麦は大層良い品だろうが、それはあ奴が畑に憑いているからこそ、ということだ。……ああ、そう心配せんでも、あ奴は性格こそ悪いがお前が心配しておるような悪さはせんよ。むしろ畑共々人間も守ってるくらいだからな」
とってつけたような言い方ではあったが、ニャンコ先生が心配ないというのなら事実その通りなのだろう。
なら取り合えず一安心だ。
「それはわかったけど、それとニャンコ先生がこのドーナツを食べたがらないことと何の関係があるんだ?」
いまだ食欲とプライドの狭間で壮絶な葛藤を繰り広げているらしいニャンコ先生のもがく様を見ていると、ただならぬ理由がありそうに見える。いや、あるいはどうしようもない理由なのか。
「フン! あ奴はな、気に食わんのだ。大陸から来た新参者のクセに外面ばかり良くてすぐにここいら中の妖物どもに取り入りおった。そういう自分の賢さを鼻にかけた態度が気に入らん!」
……心配は要らなかったようだ。
まったく、変なところで意地を張る猫だ。
いつまでも置いたままにしてこのドーナツを冷めさせるのも忍びがたい。
一つつまんで、残りをニャンコ先生のほうへ皿ごとさらに押し出して、齧りつく。
「う、うぅぅぅぅ」
「早く食べないと、冷めるぞ」
「う、うわぁーーーー!」
がぶっ
本日の葛藤大戦、勝者は食欲。
予想できたことではあるが、一口でその味の虜となってしまったのか、一心不乱にがっついている。
この猫、猫舌じゃないんだろうか。
ニャンコ先生の相手はそこそこに切り上げて台所に降りて行ってみると、ちょうど塔子さんが揚げ終わったドーナツを紙箱に詰めているところだった。
ケーキを入れるような、薄いボール紙で作られた組み立て式の箱の中に、白い砂糖をまぶされた狐色のドーナツが品良く並べられていく。
箱はかなり大きくて、中に入るドーナツの数も両手の指に余るほどだろう。
そのことから察するに、倉太さんの家の宴会はかなり参加者が多いらしい。
「あ、貴志くんグッドタイミング。今できたところだから、早速持って行ってくれるかしら」
「はい、いってきます」
受け取った紙箱は、中のドーナツの熱で温かかった。
ついさっき学校から帰ってきたばかりの道を再び歩く。
倉太さんの家は通学路を半分ほど行って、そこから別の道に入ったところにあるらしい。
「まったく、なんで私がわざわざあいつのところに顔を出さねばならんのだ」
「別に無理してついてくる必要はないって言ったじゃないか、ニャンコ先生」
ぶちぶち言いながらおれの足元を歩くのは、家を出てすぐのところでドーナツの食べカスを口の周りにたくさんつけて待っていたニャンコ先生。
本人いわくおれのお目付け役だというが、ニャンコ先生が俺を守っていることが知れ渡ったらしく、最近では道端で襲い掛かってくるような妖物もほとんどいない。
ましてやこれから行くのは長い間畑とそこを耕す人間を守ってきた妖物のいるところ。
さしたる危険があるとは思えないのだが。
「そうとも限らん。あ奴は礼子に名前を奪われておるからな」
「え、聞いてないぞ」
「言っとらんからな」
いけしゃあしゃあと言ってのける丸駄猫。
だがまあいいだろう。
それならそれで、求められれば名前を返してやるだけだ。
そんな風につぶやくおれに、だからお前は暢気なのだとはき捨てるように言うニャンコ先生。
余計なお世話だ。
そうしてどうでもいいことを話しながら通学路の途中、塔子さんに教えられた倉太さんの家への道を曲がってしばらく歩くと、もうほとんど日も落ちて暗くなってきた砂利道の向こう、畑の中にぽつんと建つ一軒家が見えてきた。
きっとあそこが倉太さんの家だろう。
手に持った紙箱を握り直して、少し早足で向かっていく。
見渡す限りの畑の中、長い塀に囲まれた広い敷地の中に、農具を納めておくためと思しき一方の壁がない納屋と、清潔な母屋という農家らしい造りの家がある。
表札を見れば、「倉太-Craft-」とある。
漢字の苗字の隣に読みを英語の発音で書いてあるようだ。珍しい。
それはそれとして、今は届け物を済ませなければいけない。
表札の下にインターフォンを見つけ、ボタンを押す。
スピーカーから電子音が流れるのを聞いて、しばらく待つ。
夕暮れ時に聞こえる音は、しばらく前まではセミの最後の一鳴きだったが、今はあちこちの茂みから響いてくるコオロギの声に変わっている。
インターフォンの音の後だとそれが余計にきれいなように聞こえて、耳を澄ましてみる。
そして気付いた。
虫の声に混じって、塀の向こうから賑やかな話し声が流れてきている。
「夏目、あっちだ」
なんの音かと考えるまでもなく、足元のニャンコ先生がそちらへ促した。
わずかな時間でどんどん暗くなる秋の日のおかげで当たりの景色はもう夕方から夜へと移っている。
だがそのおかげで、さっきまでは気付かなかった塀の向こうから漏れてくる光が見えるようになっていた。
おそらく、倉太さんの家の人はあっちにいるのだろう。
先を歩くニャン子先生の後について、塀の角を曲がる。
すると、畑のど真ん中に大きな白熱電球の照明とゴザを持ち込んで、いくつも並んだ卓の上にたくさんの料理を並べて宴会を繰り広げている一団がいた。
卓の上座に当たる位置に狛犬をもっと本物の犬に近くデザインしたような石像が置かれていて、その後ろでは「穂老」と書かれたのぼりがぱたぱたと夕方の風にあおられてゆれている。
ざっと見回して目に付くのは、髪の白くなったお年寄りから、辺りを駆けずり回っている小さな子供達に、静かに杯を傾けている中年の人たちや、次から次へと料理を食べているおれと同じくらいの歳の少年少女が全て合わせて数十人ほど、わいわいと宴会を楽しんでいる。
そして、何より目を引くのが、大量にある料理の中でもとくに多い肉料理。
ここから見えるだけでも三箇所に七輪が置かれ、それ以上の数のホットプレートがあちこちでじゅうじゅうと肉を焼く音と匂いを届けてくる。
テーブルの上にも、いかにも手作りらしい煮物や刺身に混じり、ローストビーフにスペアリブなど塊の肉を調理したものが多数並んでいるし、ひょっとしてさっきから主に若い女の人たちが大量に群がってものすごい勢いで小さくなっていくあの赤ん坊サイズの物体は、仔豚の丸焼きとか言うものではないだろうか。
そんな無軌道な光景が繰り広げられてもいるが、わざわざ畑を会場にしていることから考えて、きっとこれが倉太さんの家での収穫を祝っての宴会なのだろう。
ちょうどいい。
このドーナツは、きっといい差し入れになる。
「おや、客人かや」
まだ少し遠い一団に声をかけようとした時、横合いから若い女性の声が割り込んできた。
驚いて振り向く。
いくら薄暗くなったとはいえ、収穫後の畑という見通しの良い場所で、近くにいる人に気付かないなんてことはありえない。
もしもそんなことがあるとすれば、そこにいるのはきっと、人の常識を越えたもの。
そう、妖怪と呼ばれるものの類。
声のした方には、果たして一人の女性が立っていた。
背はおれと同じくらいか、少し小さいくらい。
藍色の長袖シャツの上にベストを羽織り、ズボンの上にスカートを履いた、この季節には少々行き過ぎたようにも思える重装備で、長く伸びた亜麻色の髪とあいまって異国情緒を感じさせる。
顔立ちは少女然とした若々しさがあるが、その瞳に浮かぶ落ち着きは子を見る親のようで、どれほどの年齢なのかを察することができない。
キレイな、人だと思う。
けれどやはり、妖怪だろうか。
「……フンッ、お前か」
その女性の様子を伺っていた俺の足元から、ニャンコ先生が不満げな声を上げた。
「お? 見ない顔の客人に連れられてやたらと不細工な猫がやってきたと思っておったが、ひょっとして……ぬしはまだらでありんす?」
驚きに目を見開いてニャンコ先生を見つめる女性。
ニャンコ先生がしゃべるのを見ても驚かない上に知り合いのようだし、どうやら間違いないらしい。
そう思ってよくよく見てみれば、その頭からは髪と同じ色の獣の耳がピンと立っているし、スカートの向こう側でふわふわと揺れている先だけが白い亜麻色の毛の塊は、紛れもなく尻尾だ。
きっと彼女がニャンコ先生の言っていた、倉太さんたちと畑を守っている妖なのだろう。
ニャンコ先生は危険な妖怪ではないというし、こうして目の前に立っても危険な感じはしない。
やはりここは挨拶の一つもしておくべきだろう。
「えーと、はじめまして、かな。夏目だ。よろしく」
「夏目……? ひょっとして、夏目礼子の……」
やはりというべきだろう。
名を奪われたというこの妖なら、礼子さんのことを知っているのもおかしくない。
大丈夫だとは思うけど、今まで妖には会うたび友人帳を狙われることが多かったから、ついつい腰のポーチに収めてある友人帳の無事を手で押さえるように確かめてしまう。
「ああ、夏目礼子は、おれの祖母だ」
「なるほど。どうりで似ておるはずじゃの。礼子に会った頃に同じくらいの歳だった坊主共はもういい年になっておるのに、人の身であるはずの礼子の姿が変わらぬというのも奇異な話。納得しんす」
「やっぱり礼子さんを知ってるのか」
それまで上機嫌に小さく何度も頷いていた彼女は、おれの問いを聞くなり急に不機嫌そうに眉根を寄せた。
「知ってるも何も。ぬう、不名誉なことじゃが、以前会った時に勝負を挑まれて負けてしまっての。名を奪われてしまっていんす」
「らしいな。ニャンコ先生に聞いたよ」
おれがそういうと、「ニャンコ先生」が誰なのかを理解したらしい彼女は「余計なことを」とでも言わんばかりの視線をニャンコ先生に向け、ニャンコ先生は何事も無かったかのように目を逸らす。
どうやら、この二人は本当に仲がよくないらしい。
「とは言っても、わっちは故郷では四方にその名の轟く賢狼であったにも関わらず、礼子めが挑んだ勝負は体力バカに似合いの野蛮な殴り合いじゃ。相手の舞台に上ってしまったことは不覚じゃが、だからといってわっちが礼子に劣っているというわけではありんせん。そこのところ、肝に銘じておいてくりゃれ?」
気を取り直したか、ずい、と顔を寄せて至近距離から念を押してくる自称賢狼。 本当に自分で言うほど賢いのかは知らないが、少なくとも人一倍負けず嫌いではあるらしい。
「あ、そうだ。名前、返すよ」
「ぬ、本当かや?」
名を奪われた、ということは友人帳の中に名前があるはず。
せっかくこうして会えたんだから、返してやるべきだろう。
そう思って、友人帳を収めた腰のバッグに手を伸ばした。
そのとき。
「おーい、そこの人! どうだい、一緒に!」
そんなふうに、宴会の一団から声を掛けられた。
いけない。おつかいを頼まれていたのに、ついつい話し込んでしまった。
呼ばれている方に目を向けると、既にニャンコ先生が小さな子供達からちやほやされながら宴会料理のおこぼれに預かっている。
いつの間に。
普段は高貴な妖だとかなんとか言っているくせに、こういうときは本当に調子がいい。
とはいえ、名前を返さなきゃならないし、どうしたものか……。
「行ってくりゃれ。あやつらは賑やかな宴会が大好きなんじゃ」
「え、でも名前は……」
「なに、名は返してもらうつもりじゃが、後でかまいんせん。もとより何十年と預けておいた名じゃ。いまさら焦る道理もないからの」
それに、その手土産にも興味がある、と俺の手の中にある紙箱をギラついた目で見つめてくる。
こいつも意外と食欲に忠実な性質なのかもしれない。
とはいえ、確かにこのドーナツを届けなければいけないし、妖怪の彼女にまでそう言われては行かないわけにはいかないだろう。
あの中の誰が倉太さんなのかは分からないけれど、大きな声で返事をして、歩いていく。
「そういえば、わっちはまだ名乗っておらなんだな」
おれと一緒に宴会の一団へ向かって歩きながら、不意に彼女が言った。
確かに、友人帳に載っているというその名を聞いていなかった。
「ああ、確かに。なんていうんだ?」
「ふふん、わっちこそは、遥か遠くの空の下、故郷の森では知らぬもののないとされた偉大なる狼。ヨイツの賢狼、ホロという」
それはそれは誇らしげに名乗って見せたその笑顔は、見た目の年齢そのままの少女のように無邪気だった。
宴会の渦中は、それはもうヒドイ有様だった。
小麦粉のお礼にドーナツを持ってきたことを伝えると、それまでゴザの周りを駆けずり回っていたり、ニャンコ先生に色々と料理を食べさせていた小さな子供達がいっせいに集まってきて、期待に輝いた目を向けてきた。
最年長と思しきおじいさんが一つを取って石像のところに備えるまで待っていたが、それが終わって子供達へ紙箱を渡すと、後はもう奪い合いのような勢いで食べ始め、時折横合いから中年のおじさんやおばさん達からも手が伸びて、年長のしっかりした子供が均等に分け与える隙を狙って奪おうとする子供も出てきて大騒ぎ。もはや紙箱はどこまで行ったのかわからなくなっていた。
それだけじゃない。
ドーナツを置いたらすぐ帰ろうと思っていたおれも、赤ら顔をした中年のおじさんたちに捕まり、気付けば車座の一角に座らされて親戚のおばさん一同が作った料理を次々と味見させられた。
芯まで味のしみた見事な煮物や、思わず顔をしかめるほどにすっぱい酢の物に、田楽味噌のかかったコンニャク。
そして、パンに麺類、麦御飯と小麦を使ったものが山ほど持ってこられた。
どうにも抗い難い押しの強さとおいしさで薦められるままに箸を付けていたら、あっという間に腹が膨れていった。
「えーと、夏目君だったかな。ドーナツおいしかったよ。塔子さんにお礼を言っておいてくれ」
「あ、はい。こっちこそすみません。こんなにご馳走になっちゃって」
気づけば、宴会に参加していてしばらく。
いい加減一通りの料理を味見して、俺の後に新しく来た親戚らしい人たちへとその矛先が移った頃に、一人の男の人が話しかけてきた。
少し白くなり始めた髪と、顔にいく筋か刻まれた皺。顎に短く生えたヒゲは灰色で、全体的にほっそりとした体格の、優しそうなおじさんだった。
なのに口ぶりからするとあの騒ぎの中からドーナツを確保できているあたり、なかなかどうしてしたたかな人なのかもしれない。
「いやいや、宴会は人が多いほどいいからね。みんなも楽しんでるし、むしろお礼を言いたいのはこっちの方さ」
「そんな……」
「それに」
――ホロ様も、喜んでくれているだろう
一瞬、呼吸が止まった。
友人帳に名前があり、ついさっき出会ったばかりの妖怪。
今も目を転じれば、上座に据えられた狛犬のような石像のすぐそば、宴会の輪の外側から優しい目でじっとみんなを見守っているホロの姿。
しかし、名前を呼ばれたことに気がついたらしい。
愉快ないたずらでも思いついたような笑みを浮かべて、こちらへ近づいてきた。
「ホロ、様……ですか?」
「うん? ああ、そうか。家の人じゃないと知らないよね」
そういって、倉太さんは照れたように笑う。
ホロもやってきて、倉太さんとおれの間に腰を下ろす。
ホロがこの家を守っているとは聞いていたけれど、まさか倉太さんたちにも知られているとは。
ホロの姿が見えている様子はないけれど、よくよく考えてみればあの石像に、「穂老」と書かれた幟。
この様子だとないがしろにされているわけではないようだ。
「代々うちの畑を守ってくださっていると伝えられている、人間の女の子の姿にもなれる、大きな狼なんだそうだよ」
「狼……ですか」
ほらあの石像、とさっき見つけた上座の像を指差していった。
なるほど、やはりあののぼりに書かれた「穂老」とは「ホロ」と読むのか。
隣のホロは、倉太さんの言葉にうんうんとうなずいてしっぽをぱたりと振って見せる。
こんな少女の姿をしているのに大きな狼とは、と思う心もあるにはあるが、ニャンコ先生の例があるのでそれほど驚くことでもない。
きっと本性を現せば、倉太さんの言葉通り大きな狼になるのだろう。
「氏神様、みたいなものなんだけどね。ホロ様は神様扱いされるのが嫌いだったらしいから、そういう呼び方をしてるんだ」
「神様扱いされるのが……嫌い?」
その話に興味を抱いたおれに、倉太さんは家に伝えられているというホロの話をしてくれた。
昔々、はるか遠くの国で、一人の青年が狼の化身と出会った。
とある村で麦の豊作を司る、大きな大きな狼の化身。
神として祭られることに疲れた、狼である。
人のものではない耳と尻尾を持ち、美しい姿をした狼の化身は、青年に頼んだ。
――わっちを、故郷へ連れて行ってくりゃれ?
青年は、その願いを聞き入れた。
決して楽ではない道中、二人は何度となくぶつかり合い、ときに寄り添って旅を続けた。
多くの人と出会い、また別れ、苦難の果てにようやく辿り着いた狼の故郷は、はるか昔に失われていたのだという。
狼は悲しみに沈んだ。
狼は人より遥かに長い時を生きることができ、ともに旅をしてきた青年よりもずっとずっと多い別れを経験してきた。
そして今、自分の故郷とすらも別れなければならなかった。
狼は涙を流し、青年は必死で慰めた。
それでも、狼の涙は止まることがなかったのだという。
長く長く泣き、ようやく狼が泣きやんだとき、青年は言った。
――おれと、故郷を作りに行こう。
狼は、青年とともに生きることを決めた。
その後、狼と青年は再び旅に出た。
どこを目指すわけでもない、風の向くまま気の向くままの旅。
幾度も笑い、数えきれないほど泣いて、ついには海を渡って辿り着いた地を、二人は終の住処と決める。
青年は手に持つものを馬車の手綱から鍬へと変えて畑を耕し、狼は青年と子を成して幸せに暮らした。
それから時が過ぎ、青年が天寿を全うしたとき、狼は家族の前から姿を消した。
――これからわっちは、この畑の麦とともにぬしらを見守るとしよう。息災でな、わっちとぬし様の子らよ
以来、その畑に実る麦はほかのどんな麦にも負けない最高のものになり、狼の子孫は彼女の名前、「穂老」を長く伝えているのだという。
そんな、話だった。
「すみません、ありがちな昔話みたいで」
「……いいえ、すごく面白かったです」
語り終えた倉太さんは、恥ずかしそうに頭を搔いた。
しかしその様子からは、隠しきれないホロへの憧憬が感じられる。
「……今の話、どうなんだ?」
「大方は合っとる。まあ、わっちは情けなくもあやつに慰められたりなんぞせんがな!」
小声で隣のホロに尋ねてみれば、少し赤くなった頬で言い返してきた。
どうやら、本当にそういうことがあったらしい。
「そんな話が残っているからかなぁ。この家の子供たちは、ある程度の年になるまでは『畑のそばに茶色い髪のお姉さんがいる』ということがあるんですよ」
かくいう私もそうだったらしくて、と懐かしそうな表情を浮かべて言う倉太さんの目が細められる。
その眼には、麦穂が風にたなびく畑を見守る、ホロの姿が浮かんでいるのかもしれない。
「いや、夢見がちなことを言ってしまって。お恥ずかしい」
「いえ、そんなこと……」
「夏目君にはどうにも話しやすくてね。ついつい話し込んでしまった。塔子さんも心配するだろうから、そろそろ帰ったほうがいいだろう」
「あ、本当だ。もうこんな時間。それじゃあ、失礼します。ご馳走様でした」
そう言って立ち上がる俺に、見送るよ、といって倉太さんが付いてくる。
ホロも遠くでいまだに料理を食べ続けているニャンコ先生に声をかけてから同じようについてくる。
すっかり暗くなった畑の縁まで見送りに来てくれた倉太さんと、軽く別れのあいさつを交わす。
ニャンコ先生は食べに食べまくったのか、歩くのもおぼつかないほどに丸々と体型を変え、ホロは倉太さんの少し後ろでこっちを見て微笑みながらぱたぱたと尻尾を振っている。
あれで別れのあいさつのつもりだろうか。
「今日は、話を聞いてくれてありがとう。夏目君みたいに熱心に聞いてくれたのは、家の人間以外では初めてだったよ」
「そう……ですか」
「うん。いやあ、夏目君と話していたせいかな。少しだけど思い出したよ。確かに私もホロ様を見たことがある」
ピクリ、とホロの耳が動いた気がした。足元でうずくまっていたニャンコ先生は片目を開けて倉太さんを見て、俺は少しだけ目を見開いた。
「うん、そうだ。確かに昔麦畑を見ていたような気がするよ。でも、やっぱり……」
「やっぱり……どうしたんですか?」
「……ホロ様は、寂しいんだろうか」
倉太さんの言葉を聞いて、今度は目で見てわかるほどにホロの肩が震えた。
「寂しい、ですか」
「私意が覚えているホロ様は、私が子供の頃、友達と一緒に畑の周りで遊んでいたとき、ちょうどそのあたりに立っていたんだ」
そう言って、畑の脇にある農道を指差す倉太さん。
その位置は、さっきホロがおれたちの前に姿を見せた場所だった。
「良く晴れた日でね。ちょうど刈り取る前の麦穂を揺らす風の中、長い髪を靡かせて麦と空を見ていたんだけど……」
「……だけど?」
「その目が、泣き出しそうに見えた」
「今にして思えば、あのときのホロ様は随分と長いこと空を見上げていたように思う。ひょっとすると、故郷の空の色を思い出していたのかもしれないと、今なんとなく思ったんだ」
倉太さんが話している間、ホロは倉太さんの隣でじっとその横顔を見つめていた。
その表情はとても真剣で、何かを見定めようとしているように、おれには見えた。
「なら、もしもわっちがヨイツに帰りたいと願ったら、ぬしはどうしんす?」
そして、倉太さんから視線を逸らさぬままにポツリとそう呟いた。
妖物であるホロの言葉は、倉太さんに届かない。
だから、おれに通訳をしろと言っているのだと気づいて、あわてておれの口から倉太さんに問いかける。
「だったら……もしもホロ様が故郷へ帰ろうと思っているんだったら、倉太さんはどうしますか?」
「うーん、難しいね。ずっとここにいていただきたい、という気持ちもあるけど、帰りたいと思っているのならそれを縛り付けておくのもホロ様のためにはならないだろうし……」
真剣に悩み始める倉太さん。
実際にいるのかどうかも定かでない、家に伝わる伝承と子供の頃のうっすらとした記憶にしかないホロのことでこんなにも真剣に考える倉太さんの様子を見ていると、ホロがこの人たちを見守ろうと思ったのは、昔もこんな人がいたからかもしれない。
「……うん、やっぱり無理に引き止めるのは野暮、かな」
「野暮、ですか」
「ご先祖様とホロ様がこの地に来てから、随分長い時間が経っているからね。きっと故郷が今はどうなっているかが気になっているだろうと思う」
倉太さんの言葉を聞くホロは無言。
ただじっと倉太さんを見つめているが、その目はゆらゆらと揺れている。
「もしホロ様が故郷に帰ったとして、その間ホロ様に見守ってもらえないのは確かに不安ではあるけど、私達も少しは麦の作り方がわかってきた。だから、ホロ様が故郷に帰って、また戻ってくるまでの間くらいなら、私達はきっと大丈夫だよ」
「……?」
ホロは少しだけ眉をひそめ、首をかしげる。
どうやら、倉太さんが言う言葉は、ホロが予想していなかったものらしい。
だから、だったのだろう。
あのとき、ホロがああも驚いたのは。
「私たちは、ホロ様が帰ってくるまでの間、きっとこの畑を守りぬける」
その言葉を聞いて、ホロは雷に打たれたように身を震わせた。
呆然と目を見開き、倉太さんの顔を見て、おれに目を向け、また倉太さんを見る。
そして。
「く、……くふふふっ、あっはっはっはっはっはっは!」
空を仰ぎ、大きな声で笑い出した。
「うわっ」
「? どうかしたかい、夏目君」
「い、いえなんでもないです。それじゃあ、おれはこれで。倉太さん、ごちそうさまでした」
「いやいや、こちらこそドーナツをありがとう。縁があったらまたいつでも寄ってくれ」
いきなり笑い出したホロに驚いて倉太さんに訝るような目を向けられてしまった。
このままここにいては面倒なことになるかもしれないから、急ぎ別れの挨拶をして家路についた。
倉太さんは、おれの姿が見えなくなるまで見送っていてくれた。
倉太さんと別れて、すっかり暗くなった家への道を歩く。
道連れはいつものにゃん子先生ともう一人、ホロがついてきている。
少し送る、と短く言って以来一言もしゃべらず、おれの隣でうつむいたり空を見上げたりして何かを考えているようだった。
さっきの倉太さんの言葉について考えているのだろう。
だがその表情に憂いの色はなく晴れ晴れとしていて、ときどきくすくすと笑うホロの様子には、うきうきしながら旅の行き先を考えている旅人のような、抑えきれない喜びの色があった。
正直、最初は倉太さんの言葉を聞いてどうなることかと思っていたが、これならきっと大丈夫だろう。
足元で、機嫌が良さそうなホロの様子が気に食わないのか、ぶんむくれた顔のまま短い足を必死に動かしているニャンコ先生を眺めながら、そう思った。
そうしてしばらく歩き、家が見えてきた頃ようやくホロが口を開いた。
「夏目よ」
「ん……なんだ、ホロ」
急に立ち止まったホロから少し離れてしまったおれは、振り向いて問いかける。
満月に近い月の光に照らされるホロの姿は儚げで、どこか神々しい。
遥か昔、彼女に出会い、神と信じた人の気持ちがわかるような気がした。
「名を、返してくりゃれ?」
風が吹き、ホロの髪がさらりと揺れた。
月の光の中で見るとまるで髪自体が輝くようで、豊かに実った麦穂が揺れる様子を思わせる、きれいな色だった。
「……ああ、かまわないよ」
「すまんの。わっちは、旅に出るときはいつも住処を捨てる覚悟でいたからの。まさかあやつらが留守を守ってくれるとは、想像もせなんだ」
くっく、と笑いを堪えるようにしてホロが言う。
俯き気味なホロの目じりには、ちらりと輝くしずくが見えたような。
長い長い時を生きて、一度ならず故郷と定めた場所を失えば無理からぬ思いに縛られていたホロにとって、さっきの倉太さんの言葉は思いもよらぬもので、そして救いであったのだろう。
「そうか。でも、名を取り戻して、その後はどうするんだ、ホロ」
「ん。せっかく久々に自由の身の上となるんじゃ。また諸国漫遊の旅に出るのもいいかもしれんの」
なんなら、またヨイツの様子を見に行くのもいいじゃろう。
月が輝きだした空を見上げて、かつての旅の思い出がよみがえったか、楽しそうに笑っているホロ。
「まあ、ひとまずそこらをふらふらと見回ってみるとしんす。たまにはここにも顔を出すから、ぬしともまた会うかもしれんの」
「……そうか」
ホロの言葉に嘘はないと、なぜか確信できた。
きっとホロはこれから世界中を旅して、色々なものを見るのだろう。そして、時々倉太さんの家に帰ってきてその成長を微笑ましく眺めるのだ。
その時俺や、倉太さんの家の子供と会うことがあれば、ホロはきっと旅の土産話を自慢気にしてくれるに違いない。
「でも、大丈夫なのか」
「ん? 何がじゃ、夏目?」
「確か、あの畑の麦はお前がいるから良い物になってるんだろう? もしいなくなったら……」
「ああ、確かにそうじゃな。わっちがいるから、ほんの少し日照りと長雨に強く、ほんの少し他より良い麦になっておる。じゃが……」
――ほかは全て、あやつらの力よ。
「なんだ、そうだったのか」
「そうじゃよ。昔はわっちが手取り足取り世話をしてやっていたが、最近では生意気にもほとんど手がかからなくなりよった。……だから、安心して任せられる」
ホロは、優しく囁くように言った。
きっと、これから先倉太さんの家では麦を育てるのが今までよりも大変になるだろう。
でも、あの人たちなら大丈夫。
ホロはそう信じている。
なら、おれもそう信じるとしよう。
「そうか。……じゃあ、名を返すよ」
「うむ、頼む」
「ふん、これでまたしばらくお前の顔を見ずに済むと思うと、せいせいするわい」
友人帳を取り出すおれの足元で、憎まれ口を叩くニャンコ先生。
先生はいつもこうだから、本心からそう思っているのかもしれないし、ひょっとしたら昔からの友人を惜しんでいるのかもしれない。
友人帳を開き、名を返す、と強く思う。
すると、ぱらぱらと風にめくられるようにしてひとりでにページが進み、最後にピシリとそのうちの一枚が天を指すように伸びて止まった。
これが、ホロの名を書いたページだ。
友人帳からそのページを抜き出し、畳んで口にくわえる。
友人帳に記された名を返すために必要なのは、礼子さんの孫であるおれの唾液と息吹。
――ヨイツの賢狼ホロ、名を返そう
ふうっ
両手を打ち合わせ、ページをくわえたまま空に向かって息を吹く。
ページに書かれたホロの名が息吹とともに舞い上がり、秋の満月に照らされながら空を踊り、ホロの額へするりと吸い込まれていった。
――夢を見た。
昼なお暗く、それでいてどこか穏やかな空気の漂う深い森の中、何匹もの狼を引き連れてゆっくりと歩く、尻尾の先だけが白い巨大な狼の姿をしたホロがいた。
森を出て、人の姿で人に混じり、小さな少年とどこかぼんやりした少女と共に旅をする女の子の姿のホロがいた。
そして、どこまでも続く麦穂の中に埋もれるようにして気持ちよさそうに昼寝をするホロの姿と、広い広い空の下、倉太さんに良く似た異国の青年と荷馬車の上で寄り添い合うホロの姿を、ホロに名が届くまでの一瞬の間の夢に見た。
うっすらと目を開けると、目の前にはさっきまでと変わらずホロが立っていた。
名を返されるときにつぶっていた目をゆっくりと開き、おれを見据える。
その表情はさっきまでよりも一層爽やかで、夢に見た、旅の途上のホロの姿と重なった。
「すまんの、夏目。これでわっちも長年の荷が下りた気分じゃ」
「ああ、ならよかった」
そう言って微笑み合うおれとホロ。
さっき垣間見たホロの記憶は途切れ途切れではあったけれど、ホロがとても長い時間を生きてきたことだけは良く分かった。
人が好きで、人と共にあり、それでも遥かに人より長い時間を生きることは、きっと幸せなことばかりではなかったのだろう。
でも、今この場所は紛れも無くホロの居場所だ。
いつか旅に疲れて体を休めたくなった時、ここに帰ってくれば倉太さん達がいつでも暖かく迎えてくれる、ホロの故郷だ。
だから、旅に出るホロとの別れの言葉には、これがふさわしいだろう。
「またな、ホロ」
「……ふふっ。うむ、またの、夏目に斑」
おれの言葉に一瞬目を丸くして、それからうれしそうに笑ったのを見届けた瞬間、ホロの周りから強い風が吹き付けた。
おれもニャンコ先生も思わず目を覆うほどで、風が止んだ後に目を開くと、ホロの姿はどこにもなかった。
何もこんなに急いで旅に出なくても。
半ば呆れるような気持ちでため息をついて、おれはニャンコ先生と一緒に家路についた。
来年も、おいしいドーナツが食べられることを期待して。
翌日、その日の真夜中に町中の人たちが「狼の遠吠えを聞いた」と証言しているというニュースが新聞の片隅に載ることになったという。