──夜。季節外れの豪雨によって、視程は五メートルを切る程度しか無かった。バケツの水をひっくり返す、とはまさにこの事を言うのだろう、とレオは思わざるを得なかった。
事前の作戦通り、レオを乗せたガンシップは基地の南側、スルガ湾上空からアプローチを行なっていた。
戦前の日本軍が使っていた基地のレーダーは今や整備する者が居らず、劣化したバッテリーは約一時間しか保たない。その為、この交換作業の為に十分超の索敵不可能時間が生じる……。セイトの情報が、彼らをここへと導いた。
操縦席のリヒャルトが、機体を荒れ狂う海面スレスレまで降下させる。リヒャルトがサインを発したのを確認すると、レオは長方形の耐水ケースを背負い、キャビンのドアを引いて顔を外に出した。その顔面には潜水用のゴーグルを装着済みだ。顔の大半を占める大きなレンズは、昔の映画に出てくる“蠅男”を連想させた。
躊躇う事無く、レオは海中へとダイブする。海面より上の荒れ具合に反して、水中は不気味な程に静まり返っていた。自らの呼吸音だけが響く中で、レオは予定されているルート通りに、増水した河を目指す。
ここスルガ湾は、かつてのブリタニア侵攻の際、ブリタニア軍上陸部隊が一大上陸作戦を展開した地点だ。サクラダイト産出地帯であるフジ鉱山を確保すべく投入されたブリタニア軍の大部隊は、フジ山を目前にして旧日本軍最後の抵抗に遭い、多大なる出血を強いられたという。当時の旧日本海軍の精強さは世界に知られており、ブリタニア軍もここの攻略に際し、各艦隊から選りすぐりの精鋭を集め太平洋艦隊を編成、万全の備えで当たっている。レオが下方に目を向ければ、旧日本軍、ブリタニア軍双方の艦艇の残骸が、未だ形を保ったまま沈んでいるのが見えた。
日の丸。艦首を水面へ向けた姿勢で着底している艦隊の艦首に、日本国の国旗が描かれている。掠れ、色褪せ、藻類とフジツボに覆われていても、その旗印だけは明確に存在を保っている。
その特徴的な艦影を、レオは近代戦史の講義で既に知っている。伊弉諾級戦艦二番艦、伊邪那美……当代最強格と謳われた、旧日本海軍第一艦隊の旗艦。ブリタニア太平洋艦隊と正面から対決し、轟沈しながらも差し違えて旗艦レクレールを中破せしめた艦である。既に戦局はブリタニア側の勝利で決していながら、最後までブリタニア海軍の前に立ち塞がったのだ。
奇跡の藤堂然り伊邪那美の最期然り、第二次太平洋戦争における旧日本軍奮戦のエピソードは数知れない。それは戦後七年を経た今も、イレヴンの心の中に宿っていたのだ。戦争には敗れても、日本人は屈しない。そうした精神が、ゼロという起爆剤を得て表出したのが現在の情勢だ。
荒れ狂う水面に顔を出して、レオは行く手を確認する。戦争によって破壊され隆起した地形が、この河の河岸をちょっとした断崖として形成していた。指定ポイントに達したレオは、その断崖を登って基地への潜入を開始した。
「こちらエルフォード、潜入ポイントに到着」
≪了解、陽動を開始します≫
崖を上り切った所はちょっとした丘のようになって、基地に向かって緩やかに傾斜していた。ここからならば、基地が一望出来る。耐水ケースを開封し武器一式を装備すると、レオは岩場に隠れ、すぐそばにある監視櫓のサーチライトを避けながら基地の様子を窺った。
明らかに、様子がおかしい点が一つあった。降りそそぐ雨の向こう側、基地の北側が、異様な紫色に染まっている。雨の匂いに紛れて微かに漂う独特の匂い……すぐに分かる。炎上しているのだ。サクラダイト由来の紫の爆炎が立ち昇っている。
「……まだ何もしていないぞ」
レオが思わず呟く。その声を
≪サクラダイト保管庫の爆発でしょうか。恐らくは事故か、或いはアスミック卿の陽動でしょう。我々の予定にはありませんが、基地の警備を撹乱する好機です。こちらも動きましょう≫
草むらに身を潜めていると、やがて遠方の空からリヒャルトのガンシップが接近して来るのが見えた。既に基地のレーダーは復旧していて、敵側もガンシップの到来に気付いている。轟音と共にレオの頭上をガンシップが飛び抜ける。無数のサーチライトに照らされ、基地のあちこちから発砲されていたが、ガンシップの速力と視界不良のせいで当たらない。まるで嵐の中を泳ぐドラゴンさながらに、ガンシップは基地の頭上を過ぎ去って行く。逃げ惑う難民を掻き分けて、兵士が基地の対対空砲を稼働させ始めた頃には、ガンシップの姿は北東の空の向こうへと消えていた。
リヒャルトはそのまま北東方面に留まり、反復攻撃の素振りを見せてから離脱、再度のレーダー停止時間を待って大回りし、南岸の
“気を付けて”
脳裏に声が響く。何時ものように、霊体の女もミッションに参加している。
“気が逸るのは分かりますが、焦りは禁物です”
知ったような口を、と思う。けれど実際、立て続けに起こった状況の変化に確かに自分の心は掻き乱されているのだとも分かる。
ユーフェミアの暴挙は、イレヴン達に報復の正当性を与えた。事件からおよそ一週間。同じく皇族であるエリナを含め、捕虜に対する理性的な扱いはもう期待出来ない。怒りと肉欲の捌け口にされることも当然考えられるし、今この瞬間にも、彼女らの処刑が行われていても不思議では無い。そう思えば、焦るし気も逸る。
(分かっている)
深呼吸。
常に最適解を求められる今回のような任務でそういう精神状態は御法度だ。それを思い返させてくれる霊体の女の存在は、今はとてもありがたい。
監視櫓の足元に辿り着くと、梯子を登って上に詰めている監視員を背後から仕込み短剣で処理する。レオは情報端末で基地の全体図を確認した。先刻のフライパスの際、ガンシップが収集した詳細な地形データを加えた最新版。軍事施設は敷地北東側に固まっており、中央にある収容区画を、西、南にかけて広がる難民キャンプがぐるりと取り囲んでいる。
殺した監視員から双眼鏡を奪い、敵地の様子を探る。サクラダイト保管庫の消火作業で人が集まっているだろうから、北側に近付くべきではない。偵察を終え監視櫓から降りると、レオは岩場の上を小走りで駆け抜け、フェンスを飛び越えて基地の敷地内に入った。雨のベールを当てにして、自身でも驚く程に大胆なダッシュでテント群に駆け込む。それでも、彼の姿を見咎める者は居なかった。
視覚、聴覚に制限が掛かる環境で、尋常な人間ならば彼我の存在を早期に認知する事は不可能に近い。だが、レオは別だ。レオは内なる“眼”を開き、周囲を確かめた。
ギアス発動下の彼の視界は極めてクリアだった。敵意を示す赤で塗り潰された世界を、レオは駆け抜けてゆく。時に完璧なタイミングで敵歩哨をやり過ごし、時にはその真後ろを駆け抜けた事さえあった。霊体の女は良い顔をしなかった(勿論、実際に顔が見える訳ではないが)が、蓄積されたレオの潜入技術がそれを成功させた。
途中、駐車された電源車を発見したレオは地面を転がって車体底部に潜り込むと、ベルトのポーチから粘土状のプラスティック爆薬を取り出て仕掛けた。退却時にこれを起爆すれば、基地内に多少の混乱を引き起こせるだろう。
道中の要所……大型電源ユニット等、派手な爆発を起こせるもの、或いは車両など追撃の足となり得るものに同じようにしてプラスティック爆弾を仕掛けつつ、南寄りのコースでテント群を抜けると、急に目の前が開けた。舗装が破壊され剥き出しの地面。そこにちょっとしたサイズの穴が掘られている。
先刻から、雨の臭いに混じって妙な臭いが漂っていた。この臭いにレオは覚えがある。再び匍匐姿勢になり、レオは慎重に穴のそばに近寄った。遮蔽物が一切無い中で、時間を掛けて移動する。
(やはり、か)
穴の底には、人間の死体が山積みになっていた。裸に剥かれ、徹底的に破壊されたブリタニア兵の骸。個人識別どころか人数の把握すら困難な程にバラバラになった、人間の残骸。イレヴンによる凄惨な私刑の痕跡がそこにはあった。
(……ユリシアやオリヴィエが、混じっていると思うか)
“いえ、大丈夫です。この中には居ません”
霊体の女はそう断言する。流石にレオのギアスといえど、既に魂の失われた死体にまでは効力が及ばない。女の言葉を信じることにして、レオは再び移動を始めた。
死体置き場からやや進んだ所で、レオは収容区画を囲う金網にぶち当たった。死角は無く、出入り口は北側の一つのみ。そこには監視塔も設けられている。区画内には等間隔で大きな檻が野晒しのまま置かれており、中に何人かの捕虜が裸に剥かれ収容されている。
これは既に、捕虜に対する扱いから明らかに逸脱していた。冬の気配が色濃く残るこの季節。食事を与えられていた形跡も無い。殆どの捕虜は寒さと雨に気力、体力を奪われてぐったりと倒れ込んでいる。
これは虜囚ではない。どちらかと言えば、緩やかな公開処刑だ。彼らに残された道は、檻の中で野垂れ死ぬだけ。そしてその様を、イレヴン達は檻の外から眺めるのだ。
「……」
“敢えて言いますが、全員を救出する事は出来ません”
(分かってる)
事実として、ガンシップの収容人数には限界がある。それに、連日の扱いやこの雨で消耗した捕虜達をそう何人も南岸の
ここでの目的はただ一つ。唯一エリナの移送先を知っているであろうユリシア、オリヴィエの両名を救出する事。それだけだ。改めて自分に言い聞かせ、レオはフェンスに沿って北側へと移動し始めた。
ユリシアやオリヴィエの檻を特定するのは、ギアスを使えば容易い。が、その後檻に接近するにあたって、障害となるのはやはり監視櫓の存在だ。収容区画内に遮蔽物は無い。潜入開始して最初にそうしたように、櫓の上に登って監視員を仕留められるならそれに越した事は無いが、基地の外れにあった先の監視櫓とは異なり、この監視櫓は難民区画からの視線が通っている。下手に梯子を登って、無防備な背中を見られれば終わりだ。
致し方ない。リスキーな手と知りつつ、レオは監視櫓に可能な限り接近した後、ホルスターから拳銃を抜いた。
即死でなければ、増援を呼ばれる可能性が残る。だが、この距離、かつこの天候で正確にヘッドショットを決めるのはとてつもない難易度の狙撃だ。しかも用いているのは狙撃用のライフルでもなんでもないハンドガンに過ぎない。もっと言えば、どんなに環境が整った状態の狙撃であっても、人間の頭蓋という曲面で構成された物体に対して放たれた銃弾はしばしば有効角度を逸れ、致命打を与え損ねてしまう。
だが、レオにはギアスがある。レオは瞳を赤く輝かせ、銃のアイアンサイトを覗き込む。目指すポイントは、視覚ではなく感覚で理解できる。
“上過ぎます、僅かに下へ”
霊体の女も、彼の狙撃をアシストしてくれる。
引き金を、引く。ゆっくり、絞り込むように。反動によるズレなど論外だ。
放たれた9mm径の刺客は、吸い込まれるようにして敵歩哨の脳髄を撃ち貫いた。頭蓋骨の曲面に弾道を逸らされる事もなく、歩哨の生命を破壊する。誰にも気付かれぬまま、櫓の上の歩哨は崩れ落ちた。これで、暫くは監視櫓の存在を気に掛けずに済む。レオはフェンスの冷たい扉を押し開いて、ギアスを発動させつつ慎重に区画内に足を踏み入れた。
敷地に並べられた檻は、古典的な仕様をしていた。鉄格子で囲われたそれは、遮蔽物としては全く機能しない。それはレオにとっても、捕虜達にとっても同じだ。雨曝し同然となった捕虜達は、雨風に体力を奪われ地面に倒れて動かない。すぐ横を通った時に、雨音に混じって助けを求める声が微かに聞こえた。だが、その捕虜は最早死人同然であり、レオがその視界を横切ったとしても全く反応出来ない有様であった。
少し進むと、そんな捕虜達でもまだマシな環境下にあったのだ、と思い知らされた。檻が退けられ、広場のように開けた空間に幾つかの晒し台が無造作に建てられていた。これまた裸に剥かれたブリタニア兵の遺体が、台に嵌め込まれたまま放置されている。その肌は徹底的に痛め付けられ、かつ見るも無惨に汚されている。近くには脚を切り落とされたり、まるでギロチンに掛けられたかのように首と手首を切断されたものも残っている。
これは見せしめだ。残る捕虜達に、自らがこの先辿ることになる運命を見せつけていたのだ。拷問、私刑、虐殺。囚われた人間というものに対し行われるであろう悪業を全て揃えたかのような現実がここにはあった。だがそれは、かつてイレヴン達自身がずっと受けて来た仕打ちでもある。ブリタニアへの報復心が、イレヴン達を暴走させている。そしてその報復の嵐に、レオの大切な人は晒されている。レオは立ち止まって暫し瞑目し、それから再び目を開く。その眼には、ギアスの赤い光が妖しい光を放っている。
ギアスを用いて、レオは目当てとする檻を探し当てた。ギアスにより塗り替えられた闇の世界の中で、金色に輝く存在。見違えようが無い。オリヴィエが、檻の中に転がされていた。
「オリヴィエ」
レオは檻の外から小声で呼び掛けた。反応が無い。最悪の事態が脳裏を過ぎる。振り払うように首を振り、もう一度呼びかける。
既に息も絶え絶えの他の捕虜達と違い、オリヴィエだけは辛うじて服を……ボロ布同然のものではあったが着せられていた。それが他のブリタニア兵からの気遣いなのか、はたまたイレヴン側が良心の呵責にでも駆られたか。何にせよ、結果として彼女の体力消耗は他の者よりも抑えられている筈。だから、彼女はまだ生きている筈だ。そう自分に言い聞かせ、レオは彼女への呼びかけを続けた。
「オリヴィエ……!」
「ぁ……お兄、様の、声……?」
やがて、微かに反応があった。レオは檻の鍵をピッキングで突破する。錆び付いた扉が音を立てて開かれ、レオは彼女の様子を覗き込んだ。
「オリヴィエ、生きているか。助けに来た」
「お兄様……?」
虚な眼差しのまま、オリヴィエが顔を上げる。雨と泥に塗れ、憔悴しきった顔。普段の気の強さがすっかり踏み躙られ、散々に傷付けられた少女の顔がそこにあった。自然と、レオの拳に力が篭った。やがて彼女の両眼が焦点を結び、琥珀色の瞳に再び光が戻る。
「お兄様……本当、に、お兄様……?」
もぞもぞと身体を動かす。後ろ手に拘束されて上手く動けないのだ。レオはそっと彼女を起こしてやり、顔の泥を拭ってやった。
「ああ、私だ」
抱き寄せて、安心させるように背中を撫でる。
「助けに来た。もう大丈夫だ」
暫くして、啜り泣く声が聞こえてくる。囚われてから数日の間に、彼女の身に降りかかったこと、目の当たりにしたこと。限界まで打ち砕かれた精神で、それでもずっと耐えて来たのだろう。それが今、ようやく終わる。
オリヴィエに自力で移動するだけの体力は残っていなかった。拘束を断ち切り、レオは彼女を背負って檻を出た。
彼女は何を見た。何をされた。あの気丈なオリヴィエをここまでへし折るものとは何か。尋ねるわけにはいかない。だから想像するしか無い。そして、これまでに見たものを総括して考えるに……。ぐったりとしたまま微かに震える身体を撫でてやりながら、レオは怒りに震える眼で周囲を見回した。
オリヴィエの確保には成功した。しかし、ユリシアの姿が無い。既に区画の殆どを確認した。情報では、オリヴィエと同じ場所に収監されているという話だったのだが……。
「オリヴィエ、ユリシアは?」
監視小屋の屋根の下に入ると、レオは一度動きを止め、漸く落ち着きを見せ始めたオリヴィエにそう尋ねた。
「ユリシア、中尉……?」
「一緒に囚われているものと思っていたが」
「い、一緒には、居ました……でも、つい、さっき……あれ……? 違う……? 昨日……?」
オリヴィエの言葉はあやふやだったが、移送済みである、ということだけは推察できた。レオは混乱するオリヴィエを落ち着かせ、端末で地図情報を呼び出した。
彼女の居た区画以外に、捕虜収容区画があるとすれば、やはり東側に広がる旧軍事施設だ。
「……リヒャルト、こちらエルフォード。オリヴィエの回収に成功したが、ユリシアの姿が無い」
≪何処かに移送されましたか……。とにかく、捕虜を連れての捜索は危険です。予定通り合流ポイントへ向かって下さい≫
「了解」
無線を切ると、レオはオリヴィエを背負い、再び移動を開始した。彼女の身体は、氷のように冷たかった。
これまでと異なり、オリヴィエを背負っての行軍とあってはどうしても目立つ。故にレオはより慎重に身を伏せながら進み、ギアスもフルに稼働させて南岸を目指した。
フェンスの戸を押し上げたところで、レオは違和感を覚えた。難民キャンプ区画が、妙に手薄だった。広場状になっている区画を避けてテントの合間を抜けていったが、ギアスによるとどのテントも無人だ。
(妙に人が少ない……どう見る?)
“分かりません。先のサクラダイト爆発の件で難民を退避させるにしても、それなら炎上した北部から最も遠い南側のこの区画に退避させる筈……”
とにかく、人が少ない事自体は好都合と言える。そう言い聞かせ、レオはキャンプを抜けた。
ちょうど目の前に、半壊した小屋があった。窓も扉もすっかり無くなり、壁も腐植が進んた木造小屋。レオは一度その中に入り、一息吐いた。
緊張のせいだろうか、先頃から、頭に締め付けるような違和感を感じている。それに、レオとてこの豪雨の下、海中からここまでノンストップで動いているのだ。オリヴィエほどでは無いにせよ、疲労は出て来るはずだ。そう自分で納得しつつ、レオは霊体の女に呼び掛けた。
(軍施設の方の偵察、任せて良いか?)
余裕が無かった。救出、捜索対象者にエリナのみならずユリシアも加わった形だ。皇女という立場上おいそれと殺されはしないであろうエリナと違い、ユリシアは士官とはいえ、イレヴンから見れば単なるブリタニア兵だ。しかも、オリヴィエのような従卒ですらない。オリヴィエの時のような目溢しに与れるとは限らない。
“分かりました。では、合流はこの場所で。オリヴィエの体力も心配です。急いで下さい”
女の気配が消えると、レオは進んだ。幸い南岸側の地形は戦争で破壊されたまま放置されて久しいようで、歩哨の配置などは不可能と思えた。だから、ここでは敵の視線を気にする必要はない。とはいえ、この豪雨の中で、かつぬめり気の強い、苔むした岩場だ。滑落の危険だけ気を付けて、レオは足早に合流ポイントを目指す。
合流ポイントは、沿岸部に突っ込む形で座礁した旧日本軍駆逐艦の残骸の上だった。ブリタニア軍の雷撃によるものだろう、船腹に空けられた大穴から船内に入ると、漸く一息ついてレオはオリヴィエを下ろした。
ガンシップのランディングには、後部甲板跡が使えそうだった。リヒャルトに無線でそう伝えると、レオはオリヴィエに寄り添う形でガンシップを待つ。
「オリヴィエ、味方のガンシップが来る。もう大丈夫だ」
「……お兄様、は……ユリシア中尉を探しに……?」
「ああ、それとエリナ殿下も」
やがてガンシップの光を確認し、レオは立ち上がって再びオリヴィエの手を取った。途端、オリヴィエはその腕をがしっ、と掴む。
「だめ、です……!」
衰弱した身体の、一体どこにそんな力が残っていたのだろう。オリヴィエはレオの腕に殆ど縋り付くような勢いでしがみつき、上手く動かない口を必死に動かして言った。
「行っては、だめ……! あの人たち……狙っているのは、ユリシア中尉、でも……エリナ殿下でも……無くて……!」
「オリヴィエ……?」
ガンシップのサーチライトが、窓越しに二人を照らす。
時間が無い。基地のレーダー停止時間の合間を縫って来ている以上、ガンシップもそう長く待機させている訳にはいかないのだ。レオはオリヴィエを担ぐと、VTOLポートに上がって待ち構えていたガンシップに急ぐ。甲板上に上がったレオの前に、特有の駆動音を響かせながらガンシップが降り立つ。雨粒混じりの冷たい突風を撒き散らしながら、ガンシップのキャビンのハッチが開かれた。同時に、レオはオリヴィエを機内に押し上げる。操縦をオートパイロットにして待機していたリヒャルトが、すぐにオリヴィエの身体を引き込み何枚もの毛布で包む。
「よしリヒャルト、離脱しろ! 彼女を頼む! 」
「最善を尽くします。ご武運を」
ハッチが閉ざされ、レオは後ずさる。ハッチが閉まる直前、オリヴィエが必死にレオに向けて手を伸ばしていた。
間違いない。彼女は何かを伝えようとしている。けれど、それを待っている余裕も無い。
ガンシップの離脱を確認すると、レオは再び元来た道を戻り始めた。雨足が少しずつだが弱まりつつあり、視界も僅かばかり開け始めていた。
「リヒャルト、安全圏まで離脱したらオリヴィエに無線を渡しておいてくれ。何か情報を持っていそうだ」
≪了解ですが……恐らく話すのは無理でしょう。機内に収容して以降、殆ど反応がありません。体力の殆どを使い果たしたようです。応急処置はしましたが……恐らくここまでも気力だけで喋っていたのでしょう≫
冷たい感覚が、脳裏を過ぎる。息があるだけまだ幸運だ、と思うべきか。
「そう、か……仕方ない。一刻も早く味方と合流してくれ。とにかく、頼むぞ」
無線を切った所で、霊体の女との合流地点に辿り着く。女の方は未だ到着しておらず、レオは先の小屋で身体を休めた。
……頭の違和感が酷くなっていた。というより、それは徐々に痛みへと変質し始めていた。だが、体調不良とは思えない。頭のそれ以外に身体に不調は無く、思考もクリアだ。
とにかく暫く待っていると、霊体の女と合流出来た。が、その頃になって俄かに車の移動が増え始めた。窓枠だけの窓から外の様子を窺う。雨のカーテンを煌々と照らしながら、旧日本軍の高機動車やトラックがしきりに軍施設の内外を走り回っている。
(何だ……? 何だか分かるか?)
目前の道路に停車したトラックのライトを避けながら、レオは霊体の女に問いかけた。
“どうやら、黒の騎士団の幹部が此処へ査察に来るようです。此処の実態に、騎士団が気づいたようですね”
(という事は……難民キャンプが空だった理由はそれか)
救国の英雄、ゼロの率いる黒の騎士団。特区宣言を経た今、その存在はイレヴン達にとっては錦の御旗そのものだ。その幹部の来訪とあっては、イレヴン達が押し寄せるのも道理か。
しかし、この地を実質的に支配する旧日本軍残党“翠玉派”としてはどうか。黒の騎士団の主目的は“弱者救済”。強者が弱者を虐げる事の否定。翠玉派の掲げる過激な日本解放思想とは微妙に相容れないことだろう。
無論、彼らとてそうした思想面での衝突はとうに通過したはずだ。でなければ黒の騎士団はこうして式典会場での捕虜を翠玉派に任せはすまい。
恐らく、ここまでの事態になる事は黒の騎士団とて望んでいなかっただろう。ここで黒の騎士団として、イデオロギー的に許容し難い味方に掣肘を加えたい。今回の査察はその為のものと思えた。
……となれば、忙しなく行き交う敵兵達の目的も察しは付く。幹部には見せられないもの……それこそ収容区画の捕虜の死体などを隠したがっているのだ。
きっと、軍施設の方にもあるのだろう。そういった後ろ暗い証拠が、山ほど。
「……」
敵側の事情はさておき、今重要なのは敵が混乱状態にあるという事だ。人と物の移動が激しく錯綜し、警戒網にも隙が生まれている。この状況、利用しない手はない。
そう判断すると、レオは目前のトラックに目線を遣る。ちょうど運転手が運転席から降りて、近くの草むらに駆け込んでいた。用を足している運転手に背後から近寄り、仕込み短剣で仕留めた。
着ているレインコートと帽子を奪って纏えば、時間帯と悪天候もあってレオの人相はほぼ隠れる。レオはトラックの運転席に潜り込むと、トラックを発進、反転させて軍施設の方へと走らせた。
キャンプ西側と南側は通過した。もしそこにエリナやユリシアが居たのならギアスで気付けている。収容区画も捜索済み。となると、捜査すべき範囲はキャンプ北のサクラダイト保管庫と東側の軍施設を残すのみだ。そして保管庫は潜入直前に炎上した為、もはやレオが捜索すべき場所は軍施設内のみとなる。
軍施設は重々しいゲートに囲われていたが、施設内に入る車列に紛れ込みゲートを通過する。既に何往復もしているのだろう。運転手をチェックする暇も理由も彼らにはない。施設内でトラックを停めると、レオは荷物の積み下ろしが行われている喧騒の隙を突いてトラックから降りた。転がるように物陰に隠れ、行き交う敵の様子を探る。
見えている範囲では、殆どの敵は作業に夢中だ。しかもここにはあまり照明が無く薄暗い。これならば、奪ったレインコートと帽子が変装の役割を充分果たしてくれる。視界は悪いが、ギアスがあれば問題は無い。
(さて、あとはエリナなりユリシアなりが何処に居るのか──っ!?)
ギアスを発動させようとしたその瞬間、突如として襲いかかって来た痛み。左眼だ。左の眼の奥に異様な圧迫感があった。その眼球から、脳髄の奥深く目掛けて何かが逆流しているかのようだ。声を上げそうになるのを必死で堪え、思わずレオは左眼を抑え疼くまる。
“どうしました!? レオ!! しっかり!!”
──恐らくこの時、霊体の女が霊体ではなく実体を持っていたのなら、そして覚醒からここに至るまで、実体をもって自ら動くことができる存在であったのなら、彼女は今、何が起きたのかをより正確に把握できていただろう。例えこの場に居なくとも、租界やアヴァロンで待機していようとも関係ない。今レオに何が起きているのか、それが何をもたらすのか。けれど霊体の女は霊体の女であったが故に、レオを気遣う言葉を吐く以上の事はできなかった。
(──いや、大丈夫だ)
そして、その強烈な痛みから突如として解放されたレオに何が起きたのか、それさえも理解出来なかった。
(どういう事だ。ここに来てギアスを使う度に妙な違和感があったが、今度は何故、こんな痛みが──)
俯いたまま、足元を見る。信じ難い事が起きていた。鳴り響いた雷鳴に照らされ、足元の水溜りに映るレオの顔。その眼は、最早かつてのような美しい
(馬鹿な、これ、は──)
瞬きをして、もう一度水溜りを覗き込んだ。彼の眼は、再び
一体今のは何だったのか。気のせいか、見間違いか。だが、それっきり左眼を押し潰す痛みも消えてしまい、ギアスも結局問題なく発動できるようになっていた。
“……レオ…………?”
(いや……大丈夫だ)
戸惑いながらも、レオは顔を上げる。ここは敵地。多少の不調は無視してでも動かなければならない。
既にエリナは近い。確信を抱きながら、レオは物陰を進んだ。
雨は、既に上がり始めていた。