夕刻。景色は黄昏色に染まり、同時に外来患者や見舞いに来た人々がクロスベル市へと帰っていく。人の数が減るにつれ、聖ウルスラ医科大学は静寂を取り戻す。地平線には未だ触れていないが、静寂の中、ぼやけたオレンジ色に染まる湖畔と医科大学の白の色彩は、それだけで心を満たす何かがあった。
そんな中、病室で休むシズクは本を読んでいた。眼は見えなくとも、点字の本を読むことはできる。
シズクにとって、今日は嬉しいことの多い日だった。遊撃士だが、兄のように優しいカイトに会えたこと、アリオスから誕生日プレゼントを貰えたこと、友達のアルスと話せたこと。
シズクにとって、かけがえのない大切な思い出だ。
アルスの父親については怖くもあったが、病院にはいろいろな境遇の人々がいることは判っていた。だから、そんなに投げやりな感情はない。聞こえる冷徹な声と無機質な足音に、少しやるせない思いがないでもなかったけれど。
それでも、今日は楽しかった。それに変わりはない。
「……」
アルスの身の上と病気のことは、当たり障りのない程度に聞いていた。お互いのことを話して、そしてお互いに頑張ろうと励まし合ったこともある。アリスとも、少しだけ話したこともあった。頻度は少ないけれど、カイトのように姉のように慕っている。
「遊撃士は、困っている人を助けるお仕事」
尊敬する大好きな父親と同じ、素敵な職業。
カイトのことを思い浮かべる。きっとあの優しい兄のような人は、きっと二人のことを放っておかないのかなあと、そう思った。
シズクは本を置いた。《陽溜りのアニエス》、不思議な魔法やネコのカゲマルの存在が好きで、シズクはよくこれを読んでいた。
闇色の視界の中、本を避けてベッドの端をまさぐる。
そこには、アリオスのプレゼント……ポンチョがあった。
「……もう少し、着てみたいなぁ」
そう思うのは、我が儘だろうか。部屋の中はともかく、病棟に出るには誰かを呼ぶよう言われているが。
一度躊躇うも、シズクは今日の出来事を思い出した。アルスの言葉だ。
『シズクちゃん、その素直さを大人の人たちの前でも発揮出来たら、きっと君を心配する人も安心すると思う』
そう言っていた。
「……」
「少しくらい、勇気を出してみようかな」
シズクはナースコールを押す。それほど間を置かずに鳴りやんだ。
『はいはーい、ナースステーションですー』
「あ、シロンさん。こんにちは」
『シズクちゃーん! どうしたの?』
「えっと、ちょっと外へ出たいんです。ご迷惑かもしれないけど……」
『あら、そうなんだー! なら、ちょうどお兄さんたちに頼んでもいいかな?』
「え?」
ナースコールの向こう側、シズクの研ぎ澄まされた聴覚には、聞き覚えのある人の声がざわついていたのが聴こえた。
何が何だかわからなくて、待つこと数分。しかし部屋にやってきたのはシズクに予想通りの人物だった。
「シズクちゃん、また会ったね」
「カイトさん、それと、アリスさん」
少年はもはや気軽に部屋へ入る。その後ろに続くのはアリスだ。シズクには足音で分かった。
「なんか、看護師のシロンさんに『散歩に付き合ってあげて』って言われたんだけど……大丈夫」
「はい……あの、二人がよかったら、ですけど」
「今からまた、アルスの所に行くんだけど。ちょっと、記念写真を撮りに」
「……記念写真?」
カイトは笑う。その手に持つ借り物のカメラを危なげなく動かしながら。
「ちょっと、意趣返しにね。今なら入院の手続きで親父さんも受付にいるって言うし、ちょうどいい」
「?」
シズクはただただ、疑問符を浮かべるのみだ。
カイトは言った。
「せっかくアリスが来たんだ。でも日帰りじゃもったいない。だったら、今日を楽しい思い出にしよう」
それがアリスとアルスの記念写真だ。アルスへの配慮として、導力を用いない種々の道具があるのは僥倖だった。
カイトは考える。アリスが何をすればいいか判らないなら、迷えばいい。たくさん悩んで、そして答えを見つける。自分はその手助けをする、と。
まずはアレスレード伯爵への意趣返し。
「だからシズクちゃん、ちょっと行きたい場所とは違うかもしれないけど……」
「……」
そういうカイトに対し、シズクは考え込む表情を浮かべた。少ししてから、その様子を気にしたアリスがシズクの目の前でかがむ。
「シズクちゃん? どうしたの?」
シズク正面から聞こえた、優しい姉のような人の言葉。
すこしだけ、素直になってみよう。そんな風に少女は思った。
「いえ、私もアルスさんの所へ行きたいです。……それに」
一呼吸。緊張してから、シズクは言った。
「その記念写真……私一緒に写ってもいいですか?」
「え? でもシズクちゃん……」
「目標にしたいんです。その、いつか眼が治った時の想い出にできるように」
シズクは子供だが、自分が付き合っている病気だ。それなりに理解している。直すのが難しく、時間がかかるということ。
でも、自分のために主治医や看護師、父親は多くの時間をかけてくれている。たくさんの人が応援してくれている。今自分ができるお返しは、ふてくされずに頑張ること。
だから目の見えない自分が写真に写る……気まずいことなんて言わずに、目標にしたかった。
そんなシズクの言葉を、カイトは優しく聞き届ける。
「うん、判った。それじゃあ行こうか」
────
カイトにアリス、そしてシズクは特別病棟へ入る。手続きはすでに済ませてあったので、やはりセシルを頼って共にアルスの部屋へとやってきた。
「あれ? 皆さん……どうしたんですか?」
アリスを除く全員が、昼間アレスレード伯爵に連れていかれた時以来の再会だ。
アレスレード伯爵にあんな形で連行されたアルスだが、彼自身はどこ吹く風といった様子で穏やかなものだった。それは彼と初めて会うカイトにとってはまだ納得がしきれていなくて、少しだけ目じりを下げる。だが大した沈黙を作らずに、笑顔を作って言った。
「アルス、写真を撮ろう」
「写真ですか?」
「ああ、記念写真。またしばらくアリスとも会えなくなっちゃうだろう? せっかくだからさ。想い出にしよう」
カイトのその提案は、いきなり聞くアルスにとっては突拍子のないものだったかもしれない。
それでも、カイトの、彼の生来の明るさを感じたからか、リベールの旅で培われた価値観を感じ取ったからなのか。アルスは何も言わず、ただ頷いた。
「嬉しいです。判りました」
アリス、アルス、シズク。そしてセシルに提案され、カイトも写真の中に混じる。
ここではカイトが年長で、背も一番高かった。彼が一番後ろで、反対にシズクが前に。そしてその二人を左右からアリスとアルスが挟んだ。
「それじゃあ四人とも。しっかり笑ってちょうだい」
セシルが穏やかに言った。そして、カイトはシャッターを切る直前、快活な少年のようにアルスとアリスの肩に手を置く。
シャッターを切り、少し画質は荒いが即席で現像された写真が出てくる。
と、そこで、病室の扉が開かれた。そこには、アレスレード伯爵がいた。
カイトが言う。何とか敬語を出すことはできた。
「……アレスレード閣下」
「貴様か。何をしている」
「別に、何もしていませんよ。帰るんですか?」
カイトの声には返事すらせず、そしてアルスとアリスにだけ短く伝えた。
「イステットへ戻るぞ」
「……はい」
「父上、それじゃあ、また」
親子とは言えない、やり取りと言えるかどうか判らない会話にカイトは怒りを覚える。けれどその感情をぐっとこらえて、カイトは努めて明るく言った。
「もう少し時間をつかっても、声をかけてもいいんじゃないですか? 水入らずじゃないけど、久しぶりの親子の参加なんだから」
アレスレード伯爵にとって、ここまで不躾な人間はなかなかいなかったからか。先ほどのように虫を貫くのではなく、アレスレード伯爵・A・アレスレードは睨むような目つきでカイトを見た。
「子は親の言う通りにすればいい。私の指示に従えばいいのだ」
「ふーん」
「何が言いたい? 平民風情が」
カイトはアレスレード伯爵に近づいた。
「そうですね、オレは所詮平民風情です。夕方だし、アルスは今日はもう休むし、アリスも貴方について帝国へ帰ります」
カイトは、アレスレード伯爵に写真を見せる。ついさっき撮った記念写真だ。
四人の写真。カイトが手を置いたことに驚くアリス、のんびりとした笑みのアルス、明朗快活な笑顔のカイト、そして少し緊張したようなシズク。夕焼けを背景とした四人は、少し不器用ながらも素人ながらに良い写真だと思えた。
アレスレード伯爵は、それでも興味がないようでいる。それもある意味当たり前だったが。彼からすれば、どうでもいいことこの上ないがらくただ。
「それがどうした?」
「いいえ、ただ見てほしいと思った。ただそれだけです」
カイトは言った。
今、少年が何をしたからって、アレスレード家の歪みを治せるわけじゃない。
それでも、意味がなくても、アルスとアリスが笑顔でいられるように動く。その決意表明だった。
カイトは引かない。例え相手が帝国に列挙する大貴族であっても。
どうせ興味のない子供遊撃士の戯言だ。それならとことん、抗ってやる。
やっと少しは苛ついてくれたのか、アレスレード伯爵は感情をほんの少しあらわにする
「……邪魔だっ」
アレスレード伯爵が無造作にカイトを押しのけた。背丈の高い男が少年に真正面からぶつかると、想定していなかったカイトはよろける。
戦いに身を置く遊撃士と一般人の差か、アレスレード伯爵も僅かによろける羽目になった。
そして、男の懐から落ちる紙切れ。
アリスはよろけたカイトに慌てて近づく。カイトはアリスを制すると、あくまで平静を務めてその漆黒の紙切れ──小さな封筒を拾った。
「落としましたよ」
小さい子供の粘着に苛ついて、アレスレード伯爵はもうカイトに見向きもしなかった。
「そんなものは知らぬ。気も失せた」
そしてアレスレード伯爵は部屋を出ていく。
再三の沈黙が広がった。
「ふぅ……」
カイトが息を吐く。少し疲れてしまう。
「カイトさん……」
「気にするなって。アリス、これを」
写真は二枚撮った。一枚はアリス用、もう一枚はアルス用だ。
「ありがとう、本当に」
頭を下げる少女に、カイトは少しだけ照れて頬をかいた。
「さあ、行きなよ。これ以上はアリスもどやされるかもしれないし」
「ええ」
「あ、そうだ。これ、返そうか?」
カイトが封筒を差し出した。アレスレード伯爵が落としたものだ。彼はこちらに見向きもせずに行ったので、彼は何を落としたのかも見てはいないだろうが。
アリスはその封筒を受け取ろうと、覗き込む。
「そう、ね。ゴミじゃなさそうだから何か言われたら後が怖い──」
と、アリスはそこで時間が停止したように言葉を詰まらせた。
何事かと聞き返そうとすると、急に両腕を伸ばして突き返す。
「い、いや! ああなった父は中々取り繕ってもらえないから、カイトさんがどうぞ」
まさかの、というより文字通りの掌返し出会った。カイトは二の句がつけない。
「え、ええ……?」
そして、カイトが何も言い返せないままアリスはいそいそと身支度を整えて、そして病室の扉へ。
「そ、それじゃ! セシルさん、ありがとうございました! アルスもまた!」
「ええ、また会いましょうね」
「気をつけてね、姉さん」
穏やかに返すセシルとアルス。
「シズクちゃん、カイトさんも、本当にありがとう!」
シズクは少しだけ戸惑うも、それでもしっかりと再会を約束した。
「はい、また会いましょう」
静寂が訪れたアルスの病室。黄昏時、物静かなはずの少女がいなくなったことで、そう変わらないはずの部屋は急に寂しくなった。そうかいとは感じた。
そして、返す相手のいなくなったその返事を、カイトはゆっくり噛み締めて言ったのだった。
「……ああ。またな」
そして、図らずも置き土産となった黒色の封筒を見る。
「どうすっかなー、これ」
帝国貴族、伯爵の落とし物だ。アリスがなぜカイトにつき返したのかは知らないが……勝手に捨てるのは後が怖いので止めておいた。
「……もらっておくとするか。後学というか、情報収集のためにも」
カイトは一先ずそれを懐にしまう。
一呼吸おいて、アルスを見た。
「アルス。今日は楽しかったか?」
個人的にはああいった父親に対して思う所がないわけではない……というよりありまくりだ。だがアルス自身は変わらず笑顔でいる。彼は彼で思う所があるのかどうかは、今はまだ、判らない。
だから、今日の所は、それだけを聞いてみた。
「はい。とっても、素敵な一日でした」
最大限の笑顔だった。
だから大したことはできなかったとしても、カイトにとっても今日は、とても素敵な一日だった。
シズクの兄のようになれて、アルスの友として太鼓判を貰った。
そしてアリス。彼女が求めた、今はまだわからない何かを、きっと自分が渡すことができたから。
病院での再会と出会いでした。
さあ次からは、舞台ががらりと変わります。
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第35話「影の国」