──我は《ロア・エレボニウス》。これより《最後の試し》を
変わった景色は……懐かしい場所だった。
ガイウスは、朧げに呟いた。
「ここは……ノルド高原……?」
『試し』と、恐ろしげな声がそう語った瞬間、自分の自分たる所以がなくなったような恐怖を感じた……いや、
思い出せる。自分はガイウス・ウォーゼル。ノルドの民。Ⅶ組の一員。明日を掴むために、仲間とともに試練に足を踏み入れたのに。
「どうして、ノルドが──」
突如として、脳が灼けるような爆音が背後で響いた。長身の自分が思わず浮くほどの振動。
「なんだ──」
振り返り、大地を見る。どうして自分にそれが降り注がなかったのかが不思議なほどに、巨大な砲弾がばら蒔かれた跡だった。
草原が焦げ付く匂い。鳥たちのざわめき。全てを感じる。
──此なるは、写し鏡。汝の守れなかったもの──
声が、響いた。
そして気づいた。自分はノルドの集落にいた。すぐにそこだと気づけたのは高原の原風景だったからではない。その景色が、
だったら、そこにいるのは──。
「っ、シーダ!? トーマ!?」
駆け寄るまでもない。今まで、何度弟や妹を抱きとめたか。何度愛すべき家族を見てきたか。
その家族
膝から崩れ落ちるなど、しない。そんな聞き分けのいい絶望など、どうしてできる。
後ろに転げ落ちて、何もわからなくなる。
けれど、視界には入ってしまう。逞しく尊敬していた父だったものと、僅かに目を見開いている、美しかった、母だったもの。
「とおざん、があさっ……!!」
嗚咽とともに、胃から何かがぶちまけられた。
虚ろに光る、母の白い眼がガイウスを捉え、
「……ガイ……ス」
口をパクパクとさせ、
「リリは……どこ……?」
ただ、それを壊れた人形のように。
戦争? 燃える故郷?
こんな最悪なんて、想像したことがない。
ガイウスの奥底に、黒い炎がちらついていく。
この世界は、なんだ。
──此れなるは、絶望。汝を裏切る魂の刃──
「何をやっているんだ……ユーシスッ!!」
マキアスの眼前にあったのは、かつて競い合ったいけ好かない
牢獄。自分は閉じ込められたのか。いつかいた場所。五月のバリアハート実習。ほかならない、目の前のユーシスに助けられたあの地下牢。
未だこちらを向かないユーシスがいて、そしてその隣には、やはり実習で見かけたユーシスの父親が得意気に。
その足元に転がっていたのは、無残に暴力を加えられ、転がって動かないカール・レーグニッツだった。
「ユーシス! やめろ! 父さんから離れてくれ! そんなのは君の
こんな景色が現実なわけがない。それはそうだ。わけのわからない不思議な空間に迷い込んでしまったのだから。
これは夢だろう。こんな、壇上の演者のように、典型的な配役なんてない。人生はそんなに簡単じゃないのに。
確かに、ユーシスは嫌いだ。大っ嫌いだった。
それでも、誇りがあった。妥協をしなかった。仲間想いだった。
例えリィンたちの手助けがあっても、あいつは逃げないで正面から僕と向き合ってくれた。
そんなあいつが、革新派というだけで、自分の父親を処刑なんてするはずがないのに。
なんで、僕はこんなに怖がっている?
「問題があっても、貴族は誇りを持つ血族じゃなかったのか!?」
ユーシスは答えない。
「僕の啖呵を正面から受けたじゃないか!? あれは嘘だったのか!?」
ユーシスは振り向かない。顔が見えない。
「Ⅶ組の仲間だと思っていたっ……みんなを、僕を裏切るのか!?」
騎士剣が振り上げられる。
「やめろ……やめてくれ……!」
やめろ、やめろ。やめろやめろやめろ。
頂点で、止まった騎士剣が、振り下ろされて──
「やめろぉぉぉぉ!!!!」
この悪夢は、なんだ。
──絶望。憎悪。空虚。世はそれらを糸にして紡ぐ織り糸に過ぎない──
トワ・ハーシェルが死んだ。
《内戦》が始まったのはいつのことか。水面下で争っていた帝国二大派閥の勢いは止まらず、その行き着く先に生じた内戦でトワは死んだ。いつものように、小さい体で一生懸命にトリスタの住人を学院に避難させて、そうして最前線で砲撃に巻き込まれたんだってよ。
アンゼリカ・ログナーも死んだ。
あいつはルーレでの一件で親父さんを怒らせてほとんど軟禁状態だった。そんな中始まった内戦、放蕩娘は当然閉じ込められたままじゃいられねえよな。そのままトワが亡くなった事を知ったアイツはタガが外れて、柄にもなく無茶の線引きを引き間違えてログナー侯爵に一殴りかまして、自制できなくて兵士に捕らえられて、それでも暴れて……
ジョルジュ・ノームも息絶えた。
トワもいねぇ。学院の統率はバラバラ。ゼリカもいねぇ。貴族生徒も怖気付くわ平民生徒も離反するわ。やがて
そして、俺はまあ……死ぬんだろうな。
捕らえられ、後ろ手に組み伏せられている。どうしてそうなったかという記憶はない。けれどまあ、状況はわかる。トワや、アンゼリカや、ジョルジュも戦争に巻き込まれた。それなのに、俺が戦争に殺されねぇわけがねぇよな。
顔を上げる。微かに、誰かの気配を感じた。視界の半分は自分が這いつくばる地面。もう半分、地から見上げる視界には、規則正しい靴の音。
首筋に当てられる、鋭利な冷たさ。
笑ってしまう。
「いいぜ。お前らにだったら、殺されたって文句はねぇよ」
その服の色は、よく知っている色だった。
──在りえた景色。これより迎えし黄昏。此れなるは、夢にして現なり──
森の中にいる。いつか見た、懐かしい景色だ。
団長に拾ってもらった。《西風の旅団》のみんなと出会った。私はまだ、自分の誕生日も知らないくらいの子供だった。
家族になった団のみんなと生活した。一定の拠点を持たなかったから、こんな森の中でもよく過ごした。
懐かしい景色だ。
でも、今、私は一人だ。
そうだ。みんないなくなったんだ。団長も。ゼノも。レオも。アイーダも。みんな、いなくなった。どうしてかわからないけど、サラに再会するまで、独りぼっちになった。
ただ、突っ立ったまま。見渡す。
「……また、独りぼっちになっちゃった」
カイトがいない。
ラウラがいない。リィンがいない。
委員長が、アリサが、ミリアムがいない。
マキアスが、ガイウスが、クロウがいない。
Ⅶ組のみんながいない。
その理由はわからない。でも、ここに来るまでの
下を見る。血に染まった両腕。頬も同じように汚れているってわかる。
右手にはナイフ。
私は今、猟兵なんだ。
「……そうだよね。みんな、いなくなっちゃうよね」
みんな、私の過去を許してくれた。それは嬉しい。みんなのことをわかっているから、本当に私を信頼して、受け入れてくれたってわかっている。
でも、どうやら世界は許してくれないみたいだ。
いつの日か、私は戻る時が来る。世界は、私が
大好きなみんなと──離れてしまえって。猟兵として生きろって。
「……」
手が上がる。ナイフを持つ右手。
「……いやだな」
大好きなみんなと、一緒にいれない世界。
ミリアムと朝寝坊ができない。
委員長に朝の支度を手伝ってもらえない。エリオットの演奏を聴けない。
ガイウスと登校できない。教室でマキアスにいたずらできない。ユーシスと勉強ができない。
アリサとお昼ご飯を食べれない。屋上でカイトとお昼寝できない。クロウとブレードで遊べない。リィンと一緒に戦えない。
ラウラに、園芸部の花を渡せない。
「こんな世界、いっそ──」
右手が降りる。肘が曲がる。
ナイフが寸分の狂いもなく、首筋へ──
──受け入れ難き鏡写しの己自身。それこそ、何よりも相克の贄に相応しい──
この力は、いつから俺の中にあったのだろう。
五歳までの記憶がない。気づいた時には、父さんと母さんと一緒にいた。
母さんは記憶のない俺を、どこの誰かも知らない子供を抱きしめてくれた。
父さんは、今日から私たちがお前の家族だと言って、頭を撫でてくれた。
エリゼが、おっかなびっくりしながら俺を見て──でも、悪意なんてどこにもない、可愛らしい顔をしていた。
ユミルで過ごした。自然豊かな郷は広くて、そこに住む人々も受け入れてくれた。
日曜学校。友人ができた。数年遅れでエリゼも参加した。
あの雪の日。エリゼを怖がらせた。何より自分自身が怖くなった。
俺は、俺の力を恐れてしまった。
老師に師事して八葉の剣術を学んだ。
しばらくして、老師に修業を打ち切られて。
自分の道を見つけるために、トールズに入学した。
頼れる先輩たちと出会った。尊敬する教官たちと出会った。
仲間たちと──もう、自分以上に大切な仲間たちと出会ったんだ。
受け入れがたい、自分の力も吐露した。浮浪児という立場も明かした。
仲間たちは受け入れてくれた。
こんな俺でもいいんだと。恐れをありのまま認めていいんだと、思えるようになったんだ。
あの雪の日を乗り越えるために、自分を保ったまま力を御することもできた。
けれど、それでも。
『シャァァァアアッッ!』
どうやら、俺は駄目だったらしい。
銀色の髪。紅い瞳。黒い覇気。それはあの時の俺の力と変わらない。
けれど、もうそれを制御できていない。
やつれた体。ボロ雑巾のような衣服。白を基調としたその服には覚えがない。
水も飲まず、何も食わず、腕に繋がれた鎖にも気づかずに。ただ、どこかへ行こうともがいている。
その影差す牢格子の中に閉じ込められるまでに、いったいどれだけの命を奪ったのだろう。
わかっている。最初にたった一人、殺した。
「────を、殺した」
そこから、目の前にいる俺は、自分の制御を失った。
そんな俺を見る俺自身は、もう涙も枯れている。叫び続けて、感情の糸も切れてしまった。最初、自分の意識は目の前の自分にいたはずだった。そこで、記憶を追体験した。ユミルから、この最後の試しの直前までを。
でも、いつの間にか、もう俺は逃げていた。逃げてしまいたかった。だから今きっと、幽霊のように俺は俺を視ている。
出会ってきた人を、大切な人たちを、見知らぬ誰かも殺して回った。
鬼神のように、人を守るはずの八葉の剣で引き裂いた。いや、もうそれは神ではなくて、ただの鬼でしかない。
この力に、《鬼の力》の前に、俺は負けた。
なのに。
「……なにがしたいんだ」
在るのは意識だけ。どれだけの苦しみを、どれだけの拷問を味わっても、直視できない凄惨な光景に神経が摩耗して、もう廃人のようになったって。
意識は、まだ自分がリィン・シュバルツァーであることを告げてくる。
「俺に、大切な人たちを殺させて……っ!」
いつまでだ。
いつまで俺は、誰かを殺し続けなければならない。
恐れる鬼の力が、恐れたように暴走して、恐れたように俺を形成する総てを壊していく。
ロア・エレボニウス。楽しいか。上機嫌か? こんな風に、ただただ意味もなく、俺の心を弄んで。
Ⅶ組のみんなを、同じように弄んで。
「なにがしたいんだっ! 言ってみろぉぁっ!」
ただ衝動のままに。唾が飛ぶのも厭わずに。自分が自分であることを忘れるくらい、純粋な衝動に任せて叫んだ。
寸分の間もなく、異形の影が答えた。
──力を示せ。やがて
「おとうさーん!」
晴天の下。魔獣もいない砂浜。
大声を上げながら、白いキャンバスの上を走る男の子がいる。
五歳になったばかりの、小さな男の子。茶髪の髪は滑らかで、金色の瞳は大きい。この時期ならどの男の子でもそうだが、この子は特別、女の子といってもいいくらいの愛らしさをしている。
「よおし、こい、カイト!」
その子が腕をめちゃくちゃに振って、先に待つ茶髪の男性の広げた胸の中に飛び込んできた。
「わぁ! あはは!」
と、躊躇もなく飛び込む。男の子は笑っていた。
「こいつめ、どんどんタックルが強くなってきたな!」
男の子を受け止め、そのまま抱え上げた男性は精悍な顔つきで、いかにも男らしい。
男性が男の子の父親であることを、疑う者はいない。
そのまま男性は、男の子を上へ軽く放った。腕白な父親なら、小さい子供に対してすることもあるだろう。二十リジュほど浮いた男の子はすぐに重力にかかり、一瞬の浮遊感を楽しんでは、楽しすぎて笑ってしまう。
「あはは! あははっ!」
そうしてもみ合いになったり、男性が体を回転させて遠心力を楽しんだりして、男の子は砂の上に降り立つ。浮遊感や心地よい酩酊感があって、転んでしまう。それが楽しい。
そんな風に父子が遊んでいる。
かけられた声があった。
「カイト。アラン」
振り返る二人。男の子は、今度はその声の主に飛び込んでいく。
「おかあさん!」
快活な印象を持つ薄紅色の髪を持つ女性は、けれど華奢で白い腕を持っていた。田舎の太陽の下でも日に焼けることのない、色素の薄い肌。
けれど、男の子と同じ金色の瞳は、病気なんて知らず、健やかな表情の源になっている。
「カイト! 今日はどこまで行ったの?」
「おとうさんと、およいだ!」
「そっか~。もう泳げるようになったの?」
「ひとりでおよいだんだよ!」
しきりに話す男の子は舌足らずだ。それでも女性はかがんで、男の子と同じ目線になって、しっかり頷いて話を聞く。
「ライラ」
男性も近づいてきた。
「ルーアンでの買い物、ありがとうな」
「ううん、別にいいのよ。近頃は魔獣も落ち着いているし」
「良かったら、この後三人でマノリア村に行かないか? 風車の下で、久しぶりにランチとしよう」
「おひる!?」
「ああ、そうだぞ!」
もう、ひとしきり遊んだのだろう。疲れは見えないが、男の子は満足したようだ。
母親が持っていた荷物を父親が抱える。男性と女性、それぞれの手を男の子が握る。横一列になって、三人で並んで歩く。近くの村へ。
それは、とても幸せな光景だった。
そんな風景を見て、涙を流さずにはいられなかった。
「……父さん、母さん」
後ろから三人を追いかける。
灰色の丘陵からすべてが歪んでいった。意識を視えるものだけが残された。そうして気づいた時、カイトは故郷ルーアンの砂浜にいた。
いや、それだけじゃない。覚えがある。
「オレって、本当にルーアンで生まれたんだな」
ライラの初産。産婆から赤子だったカイトを受け取り、抱きかかえ、涙を流してライラと抱擁を躱すアランを
冬の日。ルーアンの跳ね橋の上。一人で立てるようになった頃。親子三人で、初日の出を見た瞬間を
秋口。ルーアン空港。
夏の日。商業を営む父親の店でトラブルが発生した。他国からの貿易船が国境で海の猟兵に襲われたという。けれどそれを船上で瞬く間に解決し、事後処理のために顔を出したカシウス・ブライトとアラン。その後ろ姿を、ライラと一緒に眺めていたカイトを
「カシウスさん、会ってたのかよ。オレのこと……さすがにわかってはないか?」
カイトが生まれてから、成長する日々。それが脳裏にある。生まれてから五歳の時に至るまで、自分の軌跡を辿っていた。ただ、灰色の丘陵から自我のすべてが消えうせ、自分の意識に気づいたのがたった今、自分が五歳の頃だ、というだけだ。
いや、「後ろから視ている」と気づくまでは、自分は確かに生まれたばかりで、幼子のカイト・レグメントだった。
もう、思い出せもしない父親と母親の顔。でも、不思議とそうだと確信する。あれは、オレの両親だ。
赤子の頃なんて、記憶はない。これは自分の記憶だとは思えない。けれどやっぱり、これは自分の軌跡だと理解した。
頬を伝う涙は、冷たくなんかない。
暖かく、懐かしくて、嬉しい。
幸せだった。楽しかった。
自分は、カイト・レグメントだ。間違いない。その自分を形成するもののほとんどは、マーシア孤児院から始まっている。
けれど、自分は間違いなくあの二人の子供だった。
三人を追いかける。会話の通り、マノリア村に向かうらしい。砂浜から街道に出ようとしていた。
(……でも)
この光景だけは、この後に起こることだけは、覚えている。やはり遠い過去のことだから鮮明ではないが、記憶として知っている。
百日戦役の始まりの日。
帝国軍の砲撃によって、ハーケン門は破壊された。けれど、進軍したのは陸軍だけではない。帝国海軍もまた、海からリベールの大地に押し入ろうとしていた。そ
だから、この後に起こることは。
「帝国軍の砲撃に巻き込まれて……父さんと母さんは、死ぬ」
自分はボロボロの身体でルーアンまで走りきって、混乱する群衆の中、一人さまよっていた。
そして、クローゼと出会ったのだ。
マーシア孤児院での日々があった。ジョセフやテレサとの暖かい日々。家族を喪った悲しみも、少しづつ癒えていった。
やがてクローゼは王都へ帰り……順々にマリィ、クラム、ダニエル、ポーリィが入ってくる。カイトは誰かの兄になった。
いつしか遊撃士を目指すようになって、そして──今に繋がっている。
「……いったい、何を見せたいんだよ。ロア・エレボニウス」
カイトは振り返った。そして見上げた。ルーアンの晴天。どこにいるのかもわからない、けれど確かにそこにいるはずの、異常な現象の支配者に。
「オレたちの心を、そうやって苦しませるのが目的か? 《最後の試し》なんて言って」
だんだんと理性が戻ってきた記憶の旅。その中で、カイトは《第一の試し》を思い出していた。
オル・ガディアとの戦い。それは確かに苦しいものだった。リィンに至っては身に潜む闇を曝け出すことになった。
それでも自分たちは乗り越えてきた。《巨イナル影ノ領域》という《第二の試し》も、全員で乗り越えてきた。
これが《最後の試し》。戦いでも迷宮でもない。さしずめ、心の探索とでも言うべきか。
でもそれが何だと言うんだ。過去の情景を見ても、むしろ暖かいものが流れてきた。
この後、確かに凄惨な景色になるだろう。辛い光景だろう。けれど。
「……オレは、オレたちは、お前の幻想なんかには──負けない!」
きっと他のⅦ組も同じ目にあっている。それでもきっと、乗り越えられる。仲間たちと一緒なら。
声が聞こえた。鋼鉄のように重々しくもどこか懐かしい呼び声が。
──ならば、示すがよい。汝の
どこかからか砲撃音が聞こえた。反射的に身構える。自分の運命を別つもの。
そうして、爆発音が聞こえた。