わたしはとても疲れていた。闇の中でわたしが見つけたのは、大きな建物と、一人の女。

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旅旅館・桜都

 とても疲れた。

 わたしは暗く鬱蒼とした森の中を一人ぼっちで歩いていた。

 わたしはどこから来て、どれだけ歩いて、どうしてここにいるんだっけ…。それさえももう覚えていない。むせかえるほど甘いバニラのような臭いが霧のように立ち込めていて、わたしの意識を混濁させるのだ。

 ああでも、そろそろ休まなきゃ…もうこれ以上、歩けないわ。

 月も星も見えない、どす黒い森の中をさまよっていると、やがて煌々と光る橙色の建物が見えた。

 こんな町も村もない森の中に建物が? わたしは不思議に思ってその光のするほうへ向かうと、とても大きな、煉瓦造りの豪邸がそこにあった。

 鉄製の、わたしの背よりもかなり大きい門は初めから開け放たれている。わたしは縋るような気持ちでその門をくぐり、正面玄関のほうに向かうと、その前には手燭を持った若い女がぼうっと立っていた。

「ようこそ、旅旅館・桜都へ。わたくしどもは、あなた様を待っておりました。…ええずっと」

「お願いです。わたしはもう歩けないんです。どうか、どうか泊めてはいただけませんか?」

「もちろん構いませんよ。ここには、なんでもあるのですから」

 女は使用人服を着ていた。漆黒のドレスと純白のエプソンに身を包んだ彼女に誘われ、わたしはその建物の中に入った。

 薄暗い廊下を歩きながら、わたしの前を歩く女がうわ言のように言う。

「ようこそ旅旅館・桜都へ。ここは素敵な場所、ここにいるのは素敵な人々。あなたが望むものは、なんでも与えましょう。ここは、あなたのためにあるのですから」

 

 部屋に入ると、女はそのままわたしを風呂に連れて行き、服を脱がせた。

「お疲れなんでしょう? お背中をお流しいたしますわ」

「そう…、ありがとう」

 わたしを背中から包み込むその女の手で、わたしの体が洗われていく。

 わたしの小さな頭を、長く艶やかな黒髪を、細い腕を、白い首を、二つの丸い胸も、くびれた腰や、柔らかいお腹、お尻、そして、すらりとした両脚を。その女の手が、わたしにこびりついた汚い物を一つ一つ、丁寧にこすり落としていった。

「わたしの体、汚いでしょう?」

「ええ、でも、わたしがすべて、綺麗にして差し上げますわ」

 シャワーで泡を落とすと、わたしは湯を張った湯船の中でその女に抱擁されながら、わたしの自慢の髪で遊ばれることを許していた。

「背徳的なほど綺麗な髪…そして美しい肌。魅せられずにはいられませんわ」

「………」

 風呂からあがったわたしは、その女に体を拭かれ、なにも着ないまま、その女と一緒にベッドに入った。

 

 わたしは体を斬られていた。

 髪を切られ、泥をかぶせられ、腹を殴られ、手足を折られる。

 わたしは涙を流さなかった。流すことは悪だと思っていた。

 わたしは唇をかみしめて、ただ為すがままにされていた。

 だってそれが、美徳だと思っていたから。

「………」

 わたしが目を覚ますと、その女はわたしを腕の中に包んだまま、わたしの寝顔を眺めていた。

「おはようございます。目が覚めましたか?」

「…どうかしら。まだわからないわ」

 ベッドから出ると、わたしは女の用意した服を着せられて、部屋の外へ出た。

「外は少し…怖いわ」

「大丈夫ですよ、わたしがついていますから」

 今日の女は透明感のある青のパーティードレスを着ていて、宝石を身に着けていた。

「なにかの催しものでもあるの?」

「いいえ、ただ、わたしが着たいから来ただけですわ」

 廊下を歩いて大きな部屋の中に入ると、酒を浴び、狂ったように踊っている小さな男たちがいた。

 彼らは青のパーティードレスを着た女を見つけると、誰もがみな我先にとその女に迫り、妙な植物を差し出しはじめた。

 女は彼らからのプレゼントを一切受け取らず、穏やかな笑みを浮かべたまま、わたしに言う。

「馬鹿な人たち、わたしは彼らの事は、友人としか思っていないというのに」

「あなたはわたしのことも、友人としか思っていないの?」

「さあ、それはどうでしょうか。すべてはあなた様次第ですわ」

「………」

 わたしは女から目をそらした。

「わたしはあなたの恋人にはなれないわ。きっと世界が、それを許さない」

「それで、あなた様の幸福はどうなってしまうのでしょう?」

「………」

 女は悲しそうに笑うと、男たちに大皿に乗った、焼いた獣の肉を持ってこさせた。

「あなたが幸福を望むなら、その肉を召し上がってください」

「………」

「あなたがそのまま、重圧の下で生きていくことを選ぶなら、この旅館からお逃げなさい」

「………」

 女はわたしを押し倒した。あれだけ騒がしかった男たちはいつの間にかどこかに消えていた。

 女は素手でちぎった獣の肉をわたしの前に差し出すと、自分の片方を膝でわたしの股ぐらを小突いた。

 か細い嬌声がわたしの喉から零れた。

「もう、素直になったら良いではありませんか。さあ、わたしと一緒に獣になって、そこのない幸福の海の中に……溺れましょう?」

「……そうね」

 女は獣の肉を咥えると、そのままわたしに口づけをした。わたしは獣の肉を飲み込み、女の愛を受け入れた。

 視界が光に包まれて、女の姿と、女の声と、女の感触だけを感じる。そうすると、溶けてしまいそうな多幸感に包まれて、わたしの体が軽くなったように感じた。

 ああ……きっと、これで良かったんだわ。

「……幸せ」

 わたしは名前も知らない女と一緒に、海に落ちて沈んだ。


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