―――2097年6月9日、日曜日。
悠元は武術訓練の名残で朝4時半に目が覚める。外を見やると、小雨で風は無い状態。梅雨の時期に入ったのだから仕方がないことだが、ベゾブラゾフからすれば絶好のコンディションなのは間違いない。
悠元はそのまま浴室に向かいシャワーを浴びる。昨晩は『考える事とかがある』と言い含めて久々に一人で寝たが、この先のことは出来るだけ婚約者を巻き込みたくないという我儘であった。
体を乾かすと『神将会』の戦闘服を纏い、CADを身に着けていく。流石にすべてのCADを使用するという状況にはならないだろうが、今回は[
悠元はそのまま屋上に上がる。普通ならば雨に濡れるわけだが、[ファランクス]で小雨をシャットアウトして相手の出方を待つ。悠元は[
◇ ◇ ◇
悠元に捕捉されたという感覚を覚えることもなく、ベゾブラゾフは二人の[イグローク]―――アンナ・アンドレエヴナ、ベロニカ・アンドレエヴナを無菌カプセルごと大型CAD[アルガン]に収容し、自身はオペレーター席に座る。
アルガンは単なる通称に過ぎず、意味は楽器の『オルガン』。ベゾブラゾフのチームは『パイプオルガン』の意味で使っている。こんな通称が付いたのは、一車両を丸々占拠するほどの規模を持つCADを見た政府高官が発した感想から名付けられた、という至って単純な理由。
似ているとはいっても、サイズの大きさと筐体の左右前後にパイプが走っている形状だけであり、別に演奏するための装いがされているわけではない(実用性を重視する新ソ連にとって、そういう“遊び”の要素など皆無なわけだが)。
更に、[イグローク]だけでなく術者のベゾブラゾフ本人も豪華な椅子に座ったまま筐体の中に閉じこもる。
[イグローク]は七人いるが、全員を一度に使うことはない。[トゥマーン・ボンバ]を使うだけならベゾブラゾフ一人で事足りる。彼女たちはあくまでも補助であり、安全装置でしかない。
USNAが[シャイニング・バスター]と呼称した戦略級魔法の存在も気に掛かるところではあるが、所在どころか正体すら掴めないものを一々気にしていては、今回の作戦を遂行することは出来ない。
まずは司波達也を抹殺し、然る後に[シャイニング・バスター]と呼ばれる戦略級魔法をUSNAよりも先に暴き出し、その術者も抹殺する。現在の時刻は朝6時、日本時間は朝5時。ターゲットがいると目される現地の天候も[トゥマーン・ボンバ]の発動に最適だと判断。
未だ眠りについているであろうターゲットを永眠に変えるべく、ベゾブラゾフは魔法発動の準備を始めた……その思考の全てが、ベゾブラゾフの中に漂っている小さな想子の塊に“読み取られている”とも知らずに。
◇ ◇ ◇
ベゾブラゾフの[トゥマーン・ボンバ]では、離れた2か所を同時に狙い打てない―――ベゾブラゾフの中に仕込んだ想子のマーカーから情報の全てを得た悠元は、狙いを達也たちがいる伊豆の別荘一本に絞ったことを確認し、[
行き先は伊豆の別荘の中庭に指定して飛ぶ。
飛んだ先は静かな雰囲気を漂わせていて、達也と深雪はまだ寝ているが、水波は辛うじて起きて家事をしているような様子が気配で感じ取れた。傍にはピクシーもいるので、特に問題は無いと判断しつつ悠元は頭上を見上げた。
薄暗い雲から降り注ぐ小雨。それを[ファランクス]で凌ぐ形を取っている。悠元は持っていた端末に目を落とし、現在の時刻を確認する。もうすぐ朝5時を指そうということろであり、ベゾブラゾフの攻撃を迎撃すべく、意識の抑制をより一層“深める”。
◇ ◇ ◇
大型CAD[アルガン]に付属する大型コンピューターが、観測機器から得られるターゲットの位置データをCADが利用できる形式に変換する。併せて、魔法式構築に必要な起動式の元データがベゾブラゾフのオペレーションにより大型コンピューターで作成される。
ベゾブラゾフは自分の精神内で魔法式の諸元を指定する代わりにコンピューターのコンソール上ですべての条件を指定して、それを元に起動式を組み立てている。彼はそうすることで、普通の魔法師には不可能な、極めて複雑な魔法式を構築していた。
[アルガン]と同じように大型コンピューターを使用したCADは、新ソビエト科学アカデミー極東支部にも置かれている。むしろ、性能という面ではそちらの方が上になる。だが、[イグローク]を使用できるシステムがそちらに備わっていないため、態々[アルガン]を持ってきた。
電気的な刺激により、強制的に眠らされている二人の[イグローク]から想子を抽出する。無菌カプセルの中で体温と同じ温度に調節された生理食塩水に浸かった二十代前半の全裸の女性は、意識のないままに呼吸用マスクの下で苦悶の表情を浮かべた。
だが、カプセルには[イグローク]の様子を確認するための覗き穴はなく、既に[アルガン]に収容されている為に彼女たちの様子を伺い見ることは出来ない。そもそも、そんな様子を見たところでベゾブラゾフも彼のスタッフも眉一つ動かさないだろうが。
[アルガン]の本体部分へ想子が注入され、直ぐに起動式の準備が始まった。ベゾブラゾフは自らの意思で、[イグローク]の二人は意識によらずに強制的に。[アルガン]がイグロークの起動式の読み込みを調整することで、三人の魔法式出力タイミングを合わせる。
ベゾブラゾフを含めた三人が、魔法式構築終了を以て自動的に、そのタイミングはベゾブラゾフすら彼の意思によらず、戦略級魔法[トゥマーン・ボンバ]を発動した。
◇ ◇ ◇
『マスター、戦略級魔法クラスの魔法行使を確認しました』
「―――来たな」
[アリス]からの警告を確認したように呟くと、明確な殺意が上空から感じ取れた。この感じは一昨年秋に[
すぐに動くことも考えたが、別荘の中から達也が魔法を行使した。[
そして、深雪は[
「―――だが、まだ終わりじゃない」
悠元の視線の先には、既に次の[トゥマーン・ボンバ]が達也や深雪の認識外で発動準備を整えていた。正直、大規模魔法の行使は普通時間がかかるのが当たり前だが、悠元は剛三という埒外を目の当たりにしている為、ベゾブラゾフの魔法すら遅く感じてしまうほどだった。
この状態だと、いくら原作よりも強化した達也たちといえども無事では済まない。悠元は[布都御魂剣]を抜き放ち、頭上に構える。
「天を貫き、地を裂け」
悠元は全ての気配抑制を切り、自身の魔法力を手に持つ[布都御魂剣]に注ぎ込む。その力の波動は、当然別荘の中にいる達也たちも強く感じていた。
「お兄様! この感覚は……」
「悠元……まさか、先に完成させたというのか。あの時言っていた“アレ”を」
それは当然、別荘の中に限った話ではなく、監視小屋の中にいた夕歌も、別荘の周囲にいた人々も、悠元から発せられる力の波動を強く感じていた。だが、想子を感知するセンサーには何も映らないし、反応しない。
「[叢雲]―――天魔抜刀」
想子ではなく、魔法師の本質の力―――霊子を発する悠元が光に満ちた[布都御魂剣]を振り下ろす。すると、それまで白銀の太刀であった[布都御魂剣]の刃が漆黒に染まり、CADに無かった筈の漆黒の鍔には竜の紋様が刻まれていた。
悠元は上空に視線を向けると、地面を蹴って上空に飛ぶ。急上昇する彼の目前には、逆漏斗状の霧の塊が見えてくる。紛れもなく[トゥマーン・ボンバ]による攻撃のバリエーション。そして、[トゥマーン・ボンバ]によって酸水素ガスに分解され、外側から内側に、同時にではなく連鎖的に燃焼した。その衝撃波の先にあるのは達也たちがいる別荘。
「させねえよ、ベゾブラゾフ。月牙、天衝!!」
それに割り込む形で、悠元が天魔抜刀[
だが、悠元はこれで終わらせる気など無く、新ソ連の方向に視線を向けた。
「達也にはああ言ったが、人様を殺そうとした報いを忘れたと見える……今度は半殺しだ。万が一手足をもがれても因果応報だと思え」
達也なら先程の[トゥマーン・ボンバ]からベゾブラゾフの位置を割り出して攻撃を加えると信頼しつつ、悠元は右手に[ラグナロク]を構えて[
今回の目標点はただ一つ―――新ソ連の首都モスクワにあるクレムリン宮殿。そして、宮殿の執務室に国家元首の姿を捉えると、躊躇うことなく引き金を引く。
「[
そして、悠元が引き金を引いたタイミングとほぼタイムラグが発生することなく、クレムリン宮殿に光の柱が落ち、折角再建した宮殿の半分が消え去るという前代未聞の事態に新ソ連が混乱することになるのは、別の話。
悠元は魔法の発動を確認した後、直ぐにベゾブラゾフがいるであろうウラジオストクに眼を向けた。当人はCADの外に脱出している様子で、この辺は達也が上手くやったのだろうと思う。
悠元は天魔抜刀を解除して[布都御魂剣]を鞘に納めると、地面に衝突しない程度の速度で降下した。そのまま別荘のベランダに降り立つと、それを見計らったように窓が開いて寝間着姿の深雪が走って来て、そのまま悠元に抱き着いた。
流石に寝間着の下に下着は身に着けていた(そもそも、そんなことをすれば達也が窘めるだろう)ので、内心でホッとしたような心境を抱いたのは決して口に出さない。
「悠元さん! ありがとうございます。また助けられてしまいましたね」
「まあ、達也がいれば万事切り抜けられると思ったが、流石に心配だったからな。怪我はないか?」
「はい。ただ、妙なことになりまして」
深雪の述べた“妙な事”という単語を聞き、流石に首を傾げる。
「妙な事? もしかして、ピクシーが人間になったとか?」
「それはそれでほのかがまた困りそうなことですが……ともかく、来てください」
少なくとも、達也と深雪、水波とピクシーに怪我はおろか、魔法行使の後遺症が残る様な事象は発生していない。深雪に急かされる形で悠元が靴を脱いで中に入り、1階に降りると深雪の言っていた妙な事が目に見える形で確かに存在していた。
「達也」
「悠元。また助けられてしまったな」
「まあ、ベゾブラゾフへの直接的な対処は達也に任せてしまったが。それで……何で水波が
「それは俺が知りたいところなんだが……」
深雪と来たときの構図を示すと、応急処置を施す達也と横になって倒れている水波。それを見て気絶したと思しき水波を支えるピクシー。まるでドッペルゲンガーを見てしまったような感覚に陥ったと考えれば、気絶するのも止むを得ないだろう。
「俺らも困惑してるが、一番困惑したのは水波だろうと思うが……ピクシーの意見は?」
『概ねその通りで間違いない、と判断いたします』
ピクシーに支えられている方は気絶しているが至って健康で、[
見るからに魔法演算領域のオーバーヒートによる衰弱状態なのは間違いない。悠元がそのまま治療してもいいのだが、彼女がどういう経緯で
それに、同一の魔法を施したことで、この世界の桜井水波に対してどんな影響を及ぼすのかも不透明。故に、今すぐ治療するという段階に無いのは確かだった。
「心当たりがあるとしたら……達也の許に送ったあの黒い立方体かな」
「あの箱か? 俺が改めて[
「魔法障壁を張る役割があるのは間違いないが、あの術式は戦略級魔法級の霊力を感知すると発動して、何かを引き寄せる効果があるらしいとは分かっていたんだ。ただ、半信半疑の部分も多かったからな」
「成程な……それにしても、こんな事象に遭遇するなど、お前に関わらないと出来ない経験だな」
達也は悠元が転生者だと知っているが、そうやって言われると心に来るものがある。ともあれ、とりあえず悠元は意識を覚醒させる魔法でピクシーに支えられている方の水波を目覚めさせた。
「あ、私は……ゆ、悠元様!?」
「大丈夫か、水波?」
「は、はひ、だいじょうれす!……あう、舌を噛んでしまいました」
目が覚めたら、いきなり目の前に自分の主兼想い人がいたため、慌てて取り繕ったところで舌を噛んでしまい、思わず悶えるという光景に場の雰囲気が和んだのは確かだった。だが、それも水波の言葉で現実に戻される。
「あ、そうでした! 私に似た人が突然目の前に現れて……もしかして、悠元様が?」
「いや、一先ずの応急処置は達也に任せた。俺が治療してもいいが、水波に対する影響が未知数だからな。暫くは様子を見ることにした。水波はどうしたい?」
「……そういうことでしたら、悠元様と達也様に委ねます」
水波も自身に対する影響が分からないとなれば、下手に“治してほしい”と訴えることも難しいと判断したのか、水波は静かに頷きつつも自分の力で立ち上がった。
すると、達也が悠元に話しかけた。
「達也、そちらの……“桜井さん”と呼称しようか。彼女は?」
「一応[再成]で想子情報体は復元したが、幽体の領域となると難しいようだ。視てくれるか?」
「それぐらいならお安い御用だよ。鏡合わせの世界に飛び込めと言われないだけマシだ」
悠元は達也の頼みに頷きつつ、[
[リンカーコア]自体は魔法師に限らず、この世の“生きとし生けるもの”全てが有するが、魔法師はその中でもコアの性能が優れている。魔法資質に関する遺伝子が存在するのは、魔法師が魔法を行使する上で最適な神経の配列パターンが存在するため。
幸い、生命維持に必要な想子回路自体は修復可能なレベルなので問題はないが、魔法演算領域に接続する魔術回路が損傷している以上、ここを修復しない限り魔法演算領域の修復は望めない。この辺の知識は魔法力訓練を経ることで得た悠元しか知らない知識の一つ。
「……原因は掴めたし、ただ修復するだけならば早いんだが。水波、とりあえず気絶するまでのことを話してくれるか?」
「はい。実は……」
水波の証言では、[トゥマーン・ボンバ]の魔法を感知したピクシーの呼びかけで別荘に対する衝撃波を拡散する性質を付与した[ファランクス]を別荘の上空に展開した。十文字家の秘術である[ファランクス]を水波に教えたのは悠元で、水波が使いやすいように改良を加えている。
ただ、衝撃波は悠元が無効化したことで水波は安全だと判断したところで突然目の前が光り、光が収まった後には、今の自分と全く同じ格好だけでなく、容姿(一部分は異なるが)まで似通った人物が床に倒れているのを見て、思わず自分が突然幽霊になったのだと勘違いして気絶した……というピクシーがいつの間にか録画していた映像をモニターに表示する形で確認した。
なお、水波が恥ずかしさのあまり赤面しているのは言うまでもなかった。
なろう風に言えば『目を覚ましたら、私が知ってるようで知らない世界に迷い込みました』みたいな感じの展開。原作続編で古代文明にも触れ始めていますので、こういう展開はあっても不思議ではないと判断した上でこうしました。
最初は完全なオリジナル展開も考えましたが、どうせならなろう系の“お約束”みたいな展開があってもいいのではないかと思った結果でもあります。
水波がこうなったのなら、当然気になるのは“もう一人の彼”でしょうが、この辺は本編にて語ります。またの名をネタバレ防止。
そして、悠元の天魔抜刀の解放。奇しくも原作の九島烈が九校戦編で述べていた『使い方を工夫した小魔法は使い方を誤った大魔法に勝る』を実証した形になりました。天魔抜刀自体を小魔法と言うには語弊がありますが。