ごゆっくり読んでいただけたら幸いです。
何も聞こえず、何も見えず、感覚もない。
まるで、奥深い水底へ沈むようにーーー。
「ありがとう…」
澄みきった空を謳歌するウミネコのさえずりに
、暗闇の中にいた僕の意識が世界に足をつく。
そこは見たことも無い、綺麗な海だ。
何か、何かとても大事なことを忘れているような気がする。
「さっきまで、友達と登山してた気が…」
しかし、この行き先の見えない何処までも続く空に、海に向かって吸い込まれる冷たい風とともに考え事など吹き飛んでしまった。
俺の考えていた事はこの海に比べて、些細で、ちっぽけで、なんてこともない。と、思ってしまうほどにーーー
あれ…?さっきまで何を考えていたんだっけ?
ふと、少年は思った。
気が付けばテトラポットに座り込み、ただただ海を眺めていた。
記憶が曖昧だ…どうしてだろう。
まるで、記憶喪失のように、何をしていたか、自分はどこにいたかも思い出せない。
そうだ。この海が、この果てしない空が原因だ。
どうしてだろう。無性に海の先へ、もっと遠くへ行ってみたい。
でも、一歩進んだら、なぜだか二度と戻れない気がする。
…もどる…どこに?
そう考えながら水平線に手をかざした。
もう何時間経つだろうか。太陽は水平線に溺れ始め、夜を呼ぶかのように辺りを紅紫に染め始めた。
だんだんと陽の光と影を伸ばし始めた海は、少年と太陽の間に紅い光の線を結んだ。まるで海を渡り、果てを目指す紅い橋のようだ。
…渡れそう。
少年はゆっくりとテトラポットを降り、果てへ続く光へ、足を伸ばす。
不思議だ。ここは海の上のはず…。
テトラポットから降りた少年は海に落ちる気配など微塵もなく、夕陽の光に立っていた。
行かなきゃ。今なら何処までも行ける。
今の俺は風のように自由だ。
行こう。
何処までも、終わりの見えないこの道を進もう。
少年は光の終わりを目指し、海の上を繋ぐ光の道を歩み始めた。
ひたすら歩いた。
陽は完全に沈み、光の橋は月の光へと変わっていた。
後ろは見ない。何故かそう思った。
見えた。光の終わりだ。
少年は薄らと光の先に見える小さな島を見つけた。
風が冷たい。夜の暗さの所為か月の静かな光の所為か、何故か寂しそうな島に見える。
しかし、島に近付くにつれて気分が聖水のように澄んでいくようだ。とても安らかな気分になる。
そう感じながら、まだ遠くに浮かぶ島へ向かっていると
「おーい、
この声は…。
遠くに浮かぶ島、光の向こうの島に薄らと人影が見えた。一人…いや、二人見える。
近付くにつれ、二人の正体が露となる。
それは、茶髪の似合う少しチャラい格好の慶太に、夜の空に染み渡る黒髪…。
「慶太と裕美じゃないか!今そっちに行く!」
2人は手を繋いでこちらへ手を振っている。
涼也は少しずつ歩く速さが増し、走り始めた。
その時だった。
空が光った。何か、小さな光が涼也の歩いて来た方向へ落ちていった。
なんだろう。何か懐かしい。
実際にその光の何かが、見えた訳でも記憶にもないが、何故か懐かしく感じた。
すごく気になる。
「慶太ーー!今の光見えたーー!?」
涼也は光の落ちた方向へ指を指し、大声で慶太に尋ねた。
「光ーー?そんなもの見えなかったぞー!」
首を横に振る慶太。
「流れ星じゃない?そんなことより早く来なよー!」
裕美も気付いていないようだ。
見ていなかったのか、見えていなかったのか、どちらにせよ、涼也には気になって仕方がなかった。
「ちょっと待って!俺が来た方向に何か落ちたみたい!見に行ってみる!」
涼也は二人のいる島を背に。光の落ちた方向へ走り出した。
走る方向の遠くに薄らと光が見えてきた。恐らく落ちてきた光だろう。
島は大分遠くなり、陰り始めている。
早く2人の元へ行きたいが、どうしても気になるんだ。
忘れた何かを…思い出せるような気がする!
近付くにつれて、光はだんだん大きくなり、光の中のものが明らかにーー。
「君は…」
見覚えがある。光の正体に、光に包まれた裸の少女に。
その瞬間、脳に激痛が走った。今まで、忘れていた全ての記憶が涼也の脳に流れ込み、脳裏にここに至るまでの記憶がフラッシュバックされーーー、。
「凛月…!」
涼也は少女に抱きつくが、少女は少し動揺していた。
「り…つ…?あなた…は?」
恐らく、記憶を失っているのだろう。
見た目も幼少期の凛月の姿だ。
「おーい!何かあったかーー?早く来いよー!」
もう影しか見えない島から慶太の声が聞こえるが…。
涼也はこの状況も全て知っている。思い出したんだ。
だから、もうあの島へは…2人のいる島へは行けない。
俺は…。何があっても凛月を…。
「必ず元の世界へ届けるっ…!」
涼也は少女を抱き抱え、慶太達の島の反対、自分が来た道へ走り始めた。
頭痛がする。きつい。辛い。もう疲れた…。
島は見えなくなり、どんどん遠くなるにつれて、さっきまでは全く感じなかった疲労が一気に襲いかかり、息が切れ始め全身が潰れそうだ。しかし、諦める訳には行かない。走るのをやめるわけにはいかない。
「どこへ…行くの?」
涼也は、不安がる少女を見つめると、更に速く走った。
「大丈夫だから。心配するな」
必ず、一緒に帰るんだ。
崩れ始めた。光の橋を走る涼也の後ろは崩壊が始まっていた。
「橋が…崩れ始めやがった…!」
感覚が朦朧とする中、更に走るペースを上げ、真っ直ぐ、一点集中し全力を越える力で走った。
「俺の身体なんてくれてやる!だから…だから、もう少しだけ耐えてくれ…!」
千切れそうだ。熱く感じていた足の感覚はもう殆どない。今は冷たく感じる。だが、スピードは落ちない。
けど、まだ足りない。
もっと…もっと!
「光だ…!…もう少しだ…!」
あと、100メートル…
あと、50メートル…
あと、10メートル…
瞬間、遂に橋の崩壊に追いつかれ、足場がなくなり闇へと落ち掛かる…。
「届けぇぇえええっ…!!」
涼也の身体が闇に飲み込まれると同時に光に手が届き、力いっぱい光を握りしめた。
必ず…
一緒に…
少女が光に包まれたと同時に世界は崩れ去った。
凛月…。
気が付けば、視界に、小学生以来の懐かしい天井を、病室の天井が映っていた。
それに左手には、華奢な手…が…
「涼也…」
隣には左手を握った額に包帯を巻いた彼女…凛月がいた。
あの日俺達は自分を含め、慶太、裕美、凛月の4人で登山へ行っていた。その途中に登山道の崩落により、崖へ落ちたらしい。
あの島にいた二人は手を繋いだまま、崖の下で遺体が発見された。
あの島で二人は笑っていた。きっと苦しくは無かったのだろう。
俺は凛月を抱えたまま、瓦礫の上で二人、共に意識不明の状態で病院へ搬送されたようだ。
今も身体の感覚は全くないが、助かってよかった…。
涼也は安堵した。
「ありがとう…」
凛月のその言葉は、海での出来事を感じた。同じ夢を見ていたのだろうか。
「落し物…。俺は届けられたかな?」
涼也は聞いた。
凛月は涙を零しながら笑みを浮かべた。
「届いたよ…落し物…ちゃんと届いたよ…」
手を握りしめながら凛月は言った。
「ありがとう…」
涙が止まらない…。止まるはずがない…。
凛月はあの海での出来事を絶対に忘れない。
「命を…届けてくれて…ありがとう…」
白い布を掛けられた涼也の冷たい左手を頬に当てた。