3/20 34:17投稿なのでギリギリ間に合いましたね。
ある朝気がかりな夢を見て、私がベッドの中で意識を芽生えさせると、一匹の蛇が身を固くしているのを目撃した。
下着とパジャマを押し上げて、不自然な膨らみを作っているソレに手を添える、ソレは規則的に脈を打ち、身体から余分な熱を吸い取ったかのように滾っていた。
灼けた鉄の棒を、連想してしまう。
「あー」
考える気力が失せていく。思考をクリアにしようと声を発してみたけれど、明晰になるにはまだまだ時間がかかりそう。現実感のない硬い感触は私の自己防衛本能とでもいうべきものに阻まれて、いまいち実像を正しく認識できないでいた。
「朝起きたら性別が変わってたとか、いや、無いでしょう……」
そこまで言葉にしてようやく、むくむくと私の中で好奇心が鎌首をもたげた。我ながら規律にうるさい性格であることは自覚しているが、欠片も興味がないわけではないのだ。自分の身体を観察して、いったい何が問題だというのか。
むしろ自分の身に起こった異変を正確に把握するべきではないか。ワンピースタイプのパジャマの裾をたくし上げ、ショーツを下ろすと考えたところで、その間抜けな図にやる気が削がれた。
眉間を揉んで、枕に顔を埋めた。
「さて」
意識的に声を出して、気持ちを切り替えようと試みる。はたして一体何がさてなのか。転換の接続詞を用いたところで時間の流れは連続しているし、起こり得たバッドステータスは無かったことにはならないのに。
手軽な薬を飲めば治るのか。はたまた教会で祝福を受ければ回復するのか。どちらかと言うと悪魔祓いの仕事ではないのか。
つらつらと益体もない思考ばかりが脳裏を駆け抜けていくが、言いたいことはこの一言に尽きる。
「毒虫になった方がマシだわ」
ああ。なぜ私は氷川紗夜であり、グレゴール・ザムザではないのだろう。どうせ醜く姿が変じるならば、突き抜けた存在になった方がまだマシではないだろうか。グレゴール・ザムザは家族から見捨てられることはなかった。殺処分されるわけでも、野に放たれるわけでもなく、自室の中に幽閉されてその生涯を閉じたのだ。
翻って私はどうだろうか。親に相談すべきか。けれど幸か不幸か両親はこの三連休を利用して箱根で羽を伸ばしている。今日は月曜日であり、三連休の最終日。……最終日で合っているのだろうか? 日曜日に寝た記憶はある。ならば今日は祝日のはずなのに、なぜか腑に落ちない。いや、曜日感覚なんて些末な問題だ。両親が帰ってくるのは月曜夜。猶予は半日もない。
人生の身の振り方を決めるには、半日という時間は少し短いような気もするし、十分なような気もする。
差し当たって、何をすればいいのかはわかっている。こういうままならない状況に陥る経験は、並の人よりも一家言持っているのだ。越えられない壁。変えられない現実。そんなものはうんざりするほど見飽きているし、どこまでいっても私の日常でしかなかった。
これから氷川紗夜は何をすべきか? 決まっている。そう───不貞寝である。
私は布団を被り直した。おやすみなさい、世界。目覚めたときにはすべてが元通りになっていると信じて、私は目蓋を下ろした。
「おねーちゃん! 起きてる!?」
長い夢路を歩もうとしたところで、日菜が溌溂とした声とともに私の部屋に入ってきた。朝から騒々しいことこの上ない。二度寝を敢行しようとしていた私とはテンションが天と地ほどに開いている。
そう。たとえ親に相談しようとも、この悪魔には我が身の異常を悟られるわけにはいかない。
◇
視線という名の研磨剤によって、幾千幾万も磨かれた顔を、私はそっと覗き見る。
好奇心でできた瞳。熟れた果実のように朱の差した頬。濡れた唇。雪原のように真っ白な肌は、まだ誰も踏み入っていない処女地のようで、つい私の跡を残したくなる。物言いたげななよやかな花は綻ぶこともなく、漫然と流しっ放しになっているお昼のロードショーを眺めていた。
───日菜。
なぜか、呼びかける言葉が声にならない。それこそ星の数ほども呼んできた名前なのに、口に出そうとすると喉につっかえて、宝石箱にしまうように私の中に留まり続ける。
リビングのテレビモニタの中では派手なアクションシーンが展開されているが、話の内容は一向に私の頭に入らない。それっぽい爆発と銃声を延々と流し続けているだけなのではと疑ってしまうほど、私の意識の大部分は日菜に向けられていた。
テレビの対面に置かれた二人掛けのリクライニングソファに、私たちは身を寄せるように座っている。腕が触れるか触れないかといった微妙な距離。もどかしいようで、無いと困るような曖昧な隔たり。少しでも身動ぎすれば密着するくせに、ゼロにするには躊躇われる数センチにも満たない彼我。
この隙間を埋めてしまおうかと考える。考えるものの、実行に移すことはしなかった。しないと言うよりもできなかった。ほんの少し身体を日菜の方へ寄せるだけなのに、覚悟とか、勇気とか、そういうものを問われていた。
私が何十回目になるかもわからない決心を付けている横で、くぁ、と気まぐれな猫のように日菜が欠伸をする。口元を押さえた手はそのままするりと私の腕を絡め取って、私が二の足を踏むばかりだったわずかな開きを無に帰した。
日菜の指と私の指が祈るように絡み合い、日菜は私に寄りかかって、こてんと私の肩に頭を預ける。
心臓が荒れ狂う。
それは耳元で聞こえる息遣いのせいなのか。腕に当たる柔らかさのせいなのか。普段とは違うどこか甘い香りが鼻腔を擽るせいなのか。それとも、日菜だからなのか。私は速くなるばかりの鼓動を日菜に聞かれないよう、身を強張らせて、心臓をなだめるのに精一杯だった。掌が汗ばんでいるのがわかる。温かいと思った日菜の体温よりも、いまでは私の方がより多くの熱を抱いている。
少しでも平静を取り戻そうと、いつもより深く呼吸をする。
ふと、手を繋いでいない日菜の手が私の頬に添えられた。日菜の手はひんやりと心地よく、どれほどの熱を溜め込んでいるのか自覚させられる。
「おねーちゃん、具合悪いの? ライブ前の彩ちゃんみたいになってるよ?」
「そ、そこまでひどくはないでしょう。私は別に、どこも悪くなんてないわ。平気よ」
悪くない、と言えるのだろうか。明らかに平時とは異なっている。自分の身体に異物が付いているのもそうだが、日菜相手にここまで心を乱されるなんて。いや、確かに心が乱される時期はあった。けれどあのころ抱いていた感情は、劣等感とか嫉妬とか憎悪とか反骨心だとか、冥く黒く暴力的なものばかりだった。
いま胸の裡から湧き上がるものは、あのころとはまるで正反対のもので───
「えー、でも、顔は真っ赤だし───」
さらに日菜は身を寄せて、ほとんど私に抱きつくように、私の胸へ耳を押し当てた。
「ほら。心臓だってバクバク言ってるよ。おねーちゃん、寝てた方がいいんじゃない?」
無防備にこちらを見上げ、私を案じる双眸に、ごくりと喉が鳴った。
「なんなら膝枕してあげよっか?」
なんて、冗談めかして日菜が言う。
部屋着ということもあって、日菜はとてもラフな格好をしていた。胸元が大きく開いた薄手のシャツに、丈が短すぎて見ている側が不安になるようなホットパンツ。むき出しの白い太ももが眩しく輝いて、蠱惑的な色香を放っている。
「だ、大丈夫って言ってるでしょ。これは、ただ、ちょっと日菜のことを───」
煩悩を振り払うように咄嗟に口にした言葉は、心の裡のあるがままを形にしようとしていた。すぐに口を噤んだものの、もう、後の祭りだ。
日菜の顔を伺えば、彼女はきらきらと目を輝かせていた。
「あたしのことが、なに……?」
期待がこめられた瞳に射抜かれる。けれど、日菜の言葉には少しだけ怯えのような色も混じっていた。物理的に距離を詰められなかった私とは違い、心理的距離を測りかねている。これは間違いなく私の罪過だった。
「今日の日菜、なんだかいつもよりいい匂いね。香水でも付けてるの?」
見惚れていたなんて到底言えず、私は無難な話題をなげかける。
それでも日菜にとっては十分だったようで、ぱぁっと日菜の顔が綻んだ。爛漫たる光を浴びたかのように、生き生きと、日菜は笑顔を振り撒いた。笑顔に乗って、彼女から漂う甘い匂いが強まった気がした。
「うん! そうなんだ! この間仕事でもらったから、ちょっと付けてみてるんだけど、どう、かな……?」
「ええ。悪くないと思うわ」
「えへへ。ありがと、おねーちゃん!」
そして、舞い上がった日菜は私の頭に手を回す。抗議の声を上げる間もなく、私はぐっと彼女の胸元へ抱き寄せられた。胸元に香水を吹き付けていたのか、匂いが強まる。もっと嗅いでと言わんばかりに、日菜は身体を密着させた。
甘く芳しい香りは、蜜を焦がしたように、重く、濃く、私の胸の内に張り付いた。くらくらと頭が揺れる。柔らかな双丘が私の顔を覆い包み、理性の鎖を一つ一つ打ち砕く。
少しだけ収まりつつあった血流が、また荒ぶるのを感じた。存在し得ない場所に血が溜まる。
動揺を隠すように、私は日菜の肩を掴んで押し剥がした。力を込めすぎたのか、日菜は後ろに倒れ込む。その場に留まる気持ちが欠落していたのか、後を追うように私は日菜に覆い被さった。
はらり、と垂れた髪が架け橋となり、日菜と私を繋ぐ。きょとんと私を見上げる日菜の顔に、私は幾度も熱っぽくなった荒い息を浴びせかけた。
「ごめん、おねーちゃん。苦しかった?」
苦しいに決まっていた。苦しくないはずがなかった。この息苦しさを取り払い、何もかもを台無しにしてやりたいという破滅的な衝動を、私はすんでのところで自身の裡に閉じ込めることに成功した。
「ちょっと、びっくりしただけよ。ええ。大したことじゃないわ」
コーヒーでも淹れてくるわ、と私はいけしゃあしゃあと適当な言い訳をし、日菜の前から身を隠した。
私はキッチンに踏み入って、ケトルのスイッチを入れる。蜂が群がるような重低音の唸りがキッチンに木霊する中で、私は膝を抱えて蹲った。ごぽごぽと熱湯が水泡を吐く音を耳にする。自分という殻の中に閉じこもると、音はすぐに気にならなくなった。代わりに頭の中は、私の頬に吸い付いた、日菜の玉の肌の感触に埋め尽くされる。
疑いようもなく、私は実の妹相手に劣情を催していた。不思議と困惑はなかった。泉に水が湧き出るのと同じくらいの自然さで、この感情は私に馴染んでいた。ただ、箍を外したくはなかった。いまはそのときじゃない、と頭の片隅から語りかけてくる私が居る。
カチン、と音がして水が沸騰したことをケトルが知らせてくれる。私はほとんど自動的にマグカップを二つ用意して、戸棚に入っていたインスタントコーヒーを開封する。お湯を注ぐと同時に、バターの強い香りが充満した。適当に選び取ったバターコーヒーを両手に持ち、リビングに戻る。
ぼうっとテレビを眺めている日菜の横顔は記憶された顔よりも綺麗に映っている。どんどん美しくなっていく日菜を見ていると、やがて知らない誰かになってしまうような気がして心がざわつく。
ソファの前にあるローテーブルにマグカップを二つ並べて、私は日菜とわずかに距離を置きつつソファに腰を下ろした。香りとは違って、まったくバターの風味を感じないコーヒーを飲み下していると、いつの間にか流しっ放しだった映画も終わっていることに気がついた。
テーブルに置かれたリモコンを手に取り、テレビの電源を落とす。
その足で、私は自室に戻るために立ち上がろうとした。くいっと服の裾が引っ張られる。
「日菜……?」
「おねーちゃん、さっきのこと、怒ってる?」
また、不安に揺れている瞳がそこにあった。
「馬鹿ね。そんなことあるわけないじゃない」
反射的に私は言葉を返した。立ち上がろうとしていた腰を、再びソファに落ち着ける。日菜の手を握り、諭すように言葉を投げた。今ならば、柔らかな笑みを浮かべられているはずだ。それだけで日菜は感極まったように私の胸に飛び込んでくる。
さっきとは逆に、私の髪がソファに広がり、日菜が覆い被さってくる。思わず、目を瞬かせる。この光景はこれまでに見覚えがなく、不思議と強烈な違和感を私に与えた。あたかも白い烏を目にしたかのような物珍しさと、道理にそぐわない異物感が私の胸に去来した。
視界の中で日菜が艶然と笑う。蠱惑的でどこか淫靡な日菜の表情は、サキュバスといった架空の生物を連想させる。思わず息を呑むような魔力が日菜から漂っていた。
「ああ。だからおねーちゃん様子がおかしかったんだね」
そして彼女の好奇心の赴くままに、蛇が捕らえられた。びくん、と半ば反射的に私の身体が跳ねる。
「ちょっと日菜!」
「いーじゃん。結構るんってするよ? ねぇ、おねーちゃん。ゆうべの続き、しちゃおうよ」
ゆうべ? ゆうべとはいつだろう? 日曜夜から月曜朝にかけて? いや、私は本当に日曜日に寝たのだろうか。たしか、たしか記憶では土曜から日曜にかけて完徹して───日曜の朝に眠って───あれ? 日曜の昼に起きるつもりだったけれど、はたして起きただろうか?
「え? 待って。ひょっとして、これって夢……?」
実はここはまだベッドの中で、私はいまから目覚めるの?
「あ。起きれる?」
そう意識すると、私の瞼が開かれた。
◇
「め、明晰夢……っ! 初めて見た……」
ベッドから飛び起きるや否や、私は感慨深く呟いた。
本当に現実と遜色がないくらいにリアルだった。調度品や細々とした小物まで、完璧に再現されていた。私を記憶を元に作られた夢なのだから当たり前だが、当たり前であるがゆえに、どうしてよりにもよってあんな夢をと思わずにはいられない。
気怠い熱を無視して、掛け布団を取り払う。一糸まとわぬ私の身体があった。
「──────は?」
部屋の床を見れば、脱ぎ散らかされた衣服が二人分、無造作に放られている。
「──────ちょっと?」
そうだ。だんだん思い出してきた。昨夜は一睡もせずに完徹した。徹夜してまで何をしていたのかというと、それは私の隣で、私と同じように全裸で寝息を立てている日菜がすべてを物語っている。
夢は脳が記憶の整理中に見せる光景なのだという説がある。つまりそれだけ一夜の記憶が私の海馬に深く刻まれて、夢にまで出てきたということなのだろう。
シングルベッドに押し込まれるように寝ている日菜は窮屈そうで、しかし幸福を噛みしめるように安らかな寝顔を晒していた。その無防備な寝顔や白い首筋に浮き上がる静脈の青い筋を見ていると、夢の中で耐え忍んでいた熱が現実のものとなって私の下腹部を疼かせる。
今日ばかりはフロイトの夢診断が的確すぎて腹立たしいが、いまはそんな些事に気を取られている場合ではない。残された時間は少ない。両親が箱根へ小旅行に行っているのは現実であり、明日にはもう帰ってきてしまう。気兼ねなく日菜とともにいられる時間は、あと一日しかないのだ。
夢の中の私はどうしてあんなにも自制を働かせていたのかが、いまならわかる。
「歯止めが利かなくなるものね」
穢れを知らない花の蜜を、私は心が思うままに貪った。
蛇に唆されて食べた果実は抗いがたいほどに甘かった。