「キミは、何を読んでいるの?」
彼女はボクにそう言った。時は三月、天候、曇り時々晴れ。体調は良好……なんてことはない、ただの一日だった。
突然現れた彼女の質問に、ボクは何と答えようか迷っている。たしかに本――より正確には古書店で入手した月刊誌――を読んではいるが、その内容はほとんど理解していない。理解を伴わずただ文字を追うだけの行為を「読む」と言っていいのだろうか?
「ねえ、教えて」
ボクの悩みなどお構いなしに彼女は訊いてくる。さんざん迷ったのち、彼女の笑顔に導かれるように僕は本を持ち上げて表紙を見せることにした。試験飛行中の超音速旅客機の写真と、その上に"1969"という年号が刻まれている。
「『航空技術』、ね。ふーん」
そう言って彼女は黙ってしまった。これで彼女は興味を失ってどこかへ行くものと思っていたが、彼女はボクのほうから目を離そうとしない。書いてあることがわからなくてもとにかく関心があることには違いないので彼女を無視するように紙上の字を追いかけようとしたが、うまくいかなかった。
誰もいない広いだけの教室、例外はボクと彼女。たまには自習によって自己鍛錬に励もうと思って学校に来たものの、ここよりほかは集中できそうな環境になかった。そこで仕方なく流れ着いたのがこの教室だった。はじめはこの理想的な世界の住人はボクひとりだったが、彼女はなぜかボクの存在に気付き、ここにいる。
ひとつの机を挟んで向かい合っているボクたちはなにも語らなかった。ボクは文字の世界に飛び込むことによって、彼女はただボクを見ることによって。ふいに雲間から差し込んできた光はとても眩しかった。
「貸して」
彼女は突然、沈黙を破ってボクの手元から雑誌を奪っていった。とっさに抵抗を試みたが彼女は見事な機動力と手つきは強奪を成功させた。ところどころしみのある薄い紙をめくる彼女の手つきはとても鋭い。先ほどまでの調子の彼女がつくりものであったかのようで、今はとても手出しをできそうにないほどの威圧感があった。
ときおり手を止めながらも彼女はボクよりも速く略奪したそれを読み進める。化学や数学、物理の知識がないと読むのに苦労するその内容を彼女がどれだけ理解しているのか知らないが、少なくともボクの倍は早かったに違いない。
「もういいや。キミに返してあげる」
返還の時は十五分で訪れた。彼女はその時間で半分ほどを読んでいた。机の上に置かれた雑誌に手を伸ばす。言葉通りに返還は履行されたものの、もはやこの無音の教室で学習を続ける気分にはなれなかった。
「さてはキミ、暇だな? 暇になったな? ついてきて!」
彼女は有無を言わさずボクの荷物を片付けた。手を引かれるまま彼女の進路に追従する。三階の教室から一階層だけ階段を上って、細い通路から別の校舎に入る。突き当りを右、左、右と曲がるとそこは露台だった。小高い丘の上にある学校だったから周囲を見渡すのに苦労はしない。いまでも北のほうに山地が、西南から南東にかけては街が広がっているさまがよく見える。彼女は肩に掛けていた鞄から一眼レフを取り出すと写真撮影を開始した。彼女の意図がわからなくて困惑するボクをよそに、彼女は露台から見える風景を撮り続けた。ときおりボクの顔も撮りながら撮影を続ける彼女の姿はまるで風のようだった。
「よーし、さあ帰ろうか」
大きなカメラを鞄に収めながら、満足げな彼女は言った。そこへ行き、そこに居ただけのボクは納得しかねて、彼女がなにを考えていたのか問いたださずにはいられなかった。
「うんうん、なるほどなるほど。キミの言いたいこともわかるよ」
それでは、何のために?
「今なにもないように見えても、五年後十年後には取り返しがつかなくなっているかもしれない。そんな瞬間にキミといたことを、どうしても残したくて」
それ以上彼女はなにも教えてくれなかった。それは三月、春分。風の強い日のできごとだった。