わたしは一人、大広間へ続く廊下の真ん中を歩いている。廊下の端にはたくさんの生徒がいて、皆が皆、わたしを指さしてクスクスと笑っていた。
―――おい、見ろよ。コンフリンガーだ。
聞きたくない、そんな声は聞きたくない。やめてよ、わたしを見ないで。そんな声で笑わないで。
ぐらりと場面は変わって、真夜中の闇が横たわるトロフィー室にわたしはへたり込んでいた。目の前には、仁王立ちでコレットを見下すロンの姿がある。
―――お前のせいでフィルチに見つかりそうになって、退学になりかけたんだ!
言わないで、そんな風に言わないで。わたしは止めようとしたわ!大体、ドラコの安い挑発に乗る方がどうかしてる!
次にわたしの目の前に映ったのは、夕日の光が窓越しに差し込む埃っぽい部屋―――オリバンダー杖店の店内だった。私の背後には、最初に出会った時と同じTシャツと長ズボンを纏い、スニーカーを履いたハリーが立っている。
―――君も、マルフォイと同じような奴なんだね。
ルベインアンツの屋敷を取り囲む鬱蒼とした森よりも暗く、冷たい新緑の瞳。決して睨んでいる訳じゃないのに、その視線は誰のものよりも冷たく、わたしの心臓を射抜いていた。
違う、違うわハリー。そんな風に見ないで。わたし、わたしは―――。
「っぁあ!」
喉から絞り出したような甲高い悲鳴を上げながら、コレットはベッドから上半身を勢いよく起こした。ヒュウヒュウと音を伴わない不規則な呼吸を吐きながら胸を押さえ、背中に掻いた冷や汗にぶるりと身体を震わせる。
『ここ最近、随分と夢見が悪いみたいだね』
「・・・最悪だったわ」
セイバーの冷静沈着な声が頭に響いたことでコレットは平静さを取り戻した。額に張り付いた前髪を払い、人心地つけようと深呼吸をする。静けさに包まれた部屋の中で、コレットの息遣いだけが音を立てていた。
その異様なまでの静けさに、コレットははっと周りを見渡す。パーキンソンとその取り巻きたちと共同生活を送るコレットは、常に早起きすることを心掛け誰とも鉢合わせしないようにしている。その弊害としてパーキンソンの五月蠅い鼾に辟易としていたのだが、今日に限ってその鼾が聞こえてこないのだ。コレットは恐る恐るサイドチェストの上に置いてある時計を見ると、既に朝の七時半を過ぎていた。
「何で起こさないのよこの馬鹿使い魔!」
『何回も起こしたさ。それでも起きなかった君が悪い』
「その何回もって何回よ!」
『一回』
「アンタってそういうヤツよね知ってたわよもう!」
コレットは急いでベッドから起き上がる。ドタドタと足音を立てながら慌ただしく身支度を済ませ、異様なほどにボロボロになった教科書を両手に抱えてスリザリン寮から全速力で走り出した。行き先は一限目の授業である妖精の魔法の教室である。
寮がある地下一階から一気に一回の廊下へと駆け上がる中、コレットの空っぽの胃が空腹を訴えて腹の虫を鳴らす。始業時間ギリギリの今の現状の中、大広間に用意されている朝食安堵手に付ける暇などない。まだちらほらと生徒が廊下を歩いている中、コレットは泣く泣く腹の虫が泣いている腹部を抑えながら教室へと急いだ。
ホグワーツに入学してから何度目になるかも分からないほど、コレットは自分の運の無さを呪う。彼女の慌ただしい学校生活は、今日で二ヵ月を過ぎようとしていた。
学校生活が二ヵ月を過ぎる頃になっても、コレットを取り巻く人間関係は悪化の一途を辿っていた。
その要因は噂だけではない。ドラコがハリー達を退学させるために虚偽の魔法使いの決闘を申し込んだ日の翌日のことである。コレットにとってスリザリンで唯一気軽に話せる存在であったドラコが、ハリー達を唆したことに対し叱れたことが気に食わず、彼女を無視するようになったのだ。
それに追随するように他のスリザリン生達もコレットに対する態度が変化した。“ドラコの幼馴染”という関係に庇護されていたコレットは、彼と仲違いしたことでそれがなくなり、あからさまに爪弾きされるようになってしまったのだ。一ヵ月前までは孤立したコレットを遠目から眺めては噂を囁き合うだけだった生徒たちは、ここ最近では廊下を歩けばわざと肩をぶつけてきたり、教科書やノートを隠されるなど陰険な行為を行うようになった。それが要因となって、コレットは毎夜悪夢に魘されるようになってしまったのである。今朝の悪夢も正しくそれであり、ここ二週間近くコレットはまともに眠ることができず常に睡眠不足に悩まされていた。
「はあ、はあ・・・!」
『ほら、頑張ってコレット。もうすぐだよ』
霊体化したセイバーは、言葉だけでしか哀れな主を励ますことができない。寝不足と空腹で意識がぼんやりとしながらも、息も絶え絶えな様子で妖精の魔法の教室に到着した頃には授業は迫っていた。せめて目立たないよう、できれば教師に見つからないように出来るだけ音を立てずにそっと扉を開けたのだが、教室の奥で積み上がった分厚い教室の上で教鞭を執っている教師のフリットウィックには見えていたらしい。どうにか空いている席を探そうと身を屈めてこそこそしていたコレットに苦笑を漏らしつつ、彼女の名前を呼ぶ。
「ルベインアンツさん、すぐに席に着きなさい。今日はせっかく“浮遊呪文”を実践するんです。あなたもやってみたいでしょう?」
「その前に羽を爆発させるんじゃないからしら?」
パーキンソンのその一言で、教室中にどっと笑い声が溢れた。
哀れにもその対象となったコレットは、目尻に涙を浮かべながら屈めていた腰を少しずつ直立させる。フリットウィックの言葉に従って空いている席を座ろうと前髪の隙間からちらちらと周囲を伺った。
ニヤニヤと陰湿な笑みを浮かべるスリザリン生側の机に空いている席はない。淡い期待を込めてドラコの座っている席に視線をやると、彼はむすりとした表情で頬杖をつき、コレットの顔を視界に入れないようにしていた。その代わりに彼の隣に座るパーキンソンは嘲るような満面の笑みを向けていた。
「コレット、こっちに座ると良いわ」
教室内で物理的に孤立したことで捨てられたような子犬のような表情を浮かべた彼女に、救いの声が降ってくる。声のした方へ視線を向けると、そこには心配そうな表情でコレットを見つめるハーマイオニーの姿があった。
「ハ、ハーマイオニぃー・・・!」
降って湧いたような救いの手に、コレットは情けない声を上げる。
コレットはハーマイオニーの元へと駆け寄ろうとするも、数歩もしない内にあることに気づきその歩みを止めた。ハーマイオニーは一番端の席に座っているのだが、その横にはロンが座っているのだ。ハーマイオニーの横に座るものだと思い込んでいたコレットは、ぎこちない声で問いかける。
「あのー・・・ハーマイオニー・・・」
「何かしら?」
「わたし、どこに座ればいいの・・・?」
「私の席の前よ。ハリーの隣に座ればいいわ」
「?!」
「本当はシェーマスが座る筈だったんだけど、先走って浮遊呪文の使って爆発させちゃったから、保健室に行っちゃったの。だから、丁度のその席が空いてるのよ」
自分以外にも魔法で爆発を引き起こす生徒にどこか親近感を覚えつつ、コレットは口元を引き攣らせた。
選択肢が残されていないコレットは、おずおずとハーマイオニーの前の席に近づく。そこには彼女の言う通りハリーの姿があった。ハリーは見上げるようにコレットに視線を向けると、何を言うでもなくじっとコレットを見つめている。
コレットは無言のままハリーの隣に座った。二人の間に存在する深い溝に居心地の悪さを感じる。それに耐え切れなくなり、コレットは緊張した面持ちでハリーの方へ顔を向けた。
「・・・お、おはよう」
「・・・や、やあ、コレット」
それ以降、会話が続くことはなかった。ハリーは手に持った羽ペンでノートを取っており、コレットもそれだけに集中するようにどうでもいいフリットウィックの小話までノートに書き綴っていく。
コレットの背中には、グリフィンドール生の隣でのうのうとノートを取っているコレットが気に食わないと睨みつけるスリザリン生達の視線が突き刺さる。それはコレットの悪名や噂によって齎されるものではなく、明らかに彼女を軽蔑した感情を含めていた。
『ほらコレット、呪文の発音の子音が違ってる。ここは“s”じゃなくて“f”で発音するんだ』
「・・・あ、ほんとだ」
視線から逃れるために無心でノートに噛り付いていたコレットは、セイバーの指摘をぼんやりと聞きながら訂正する。
「ビューン、ヒョイ、ですよ。いいですか、ビューン、ヒョイ。呪文を正確に、これもまた大切ですよ。覚えていますね、あの魔法使いバルッフォイは、“f”でなく“S”の発音をしたため、気が付いたら、自分が床に寝転んでバッファローが自分の胸に乗っかっていましたね」
フリットウィックはキーキー声を奏でながら、正しい杖の振り方を生徒たちに教授していく。
生徒たちはフリットウィックを真似て杖を振る練習をするものの、どの生徒も初々しいぎこちなさを感じさせる振り方だった。ただ一人、ハーマイオニーだけは音楽を奏でる指揮棒のようにリズムよく杖を振るっている。
「さあ、皆さんもやってみて」
その言葉を皮切りに、生徒たちは机の上に置いてあった白い羽に向けて杖を振りだした。
また爆発させるのではと杖を振ることに軽い恐怖を覚えていたコレットは、せめて呪文が成功した生徒を手本にしてから杖を振ろうと決め周りを見渡す。横で練習しているハリーを始めとして、他の生徒たちも机の上に白い羽を乗せたままであった。どうやら羽を浮かせることは容易でない難易度のようだ。
『これ、基礎の基礎だよ。こんなのもできないんじゃ魔法使いとはいえないね』
『しょうがないでしょ。始めたばかりなんだから!』
『君に言ったんじゃない。あそこで無駄に杖を振り回しているお坊ちゃんに言ってるのさ。・・・よくもまあこんな初歩の魔法も使えないで、純血の魔法使いだと胸を張れるものだ』
そう言ってセイバーがコレットに見せたものは、ドラコやその隣に座っているパーキンソンが羽を浮かせられず苦戦している姿であった。二人とも滅茶苦茶に杖を振って呪文を唱えているが、羽はぴくりとも動かない。時折ふわりと羽が浮き上がるのは、教室の窓から入ってくる風か、もしくは杖を奮う腕が生み出す風圧が原因であった。
その様をじっと見ていたコレットに気づいたドラコが、一瞬驚いたように目を見開いた。しかしすぐにその顔の眉間には皺が寄せられ、見せつけるように舌打ちをするとコレットから顔を背けて練習を再開した。
以前では嫌味を言われても無視されることのなどなかったコレットにとって、二人の間にできた深い溝には胸を締め付けられる思いであった。その痛みに耐えるように息を吐き出していると、後ろの席からロンの叫び声のような呪文とハーマイオニーのとんがった声が聞こえてきた。
「“ウィンガディアム レビオーサ”!」
「言い方が間違ってるって言ってるでしょ!“ウィン・ガー・ディアム・レヴィ・オーサ”!“ガー”と発音が長く綺麗に言わなくちゃ」
「おおー・・・流石ハーマイオニー」
ハーマイオニーは、無作為に杖を振り回すロンを見かねて指導していたのだ。それに従うほどロンは
素直であるはずもなく、口煩い母親を睨みつけるようにハーマイオニーを横目で見ている。
杖を振り回すロンを見つめるハーマイオニーの視線が、徐々に養豚場の豚を見るような冷たさを帯びていく。それを一部始終見ていたコレットは、良かれと思ってロンに声をかける。
「・・・少しくらい、ハーマイオニーの言うことも聞いたら?」
「こっち見てる暇があるなら、さっさと羽でも爆発させろよコンフリンガー!」
「なっ!」
余計なお世話だと言わんばかりにコレットに噛みつくロン。彼は一ヵ月前にコレットの怒声を浴びてから、今だにそのことを根に持っていたのだ。
警戒されていることは分かっていたこととはいえ、これほどまでに堂々と暴言を浴びせられるとは思っていなかった。コレットは怒るべきか落ち込むべきかと、どうすればよいか分からず狼狽えている。
そこで助け船を出したのは、ロンのコレットに対する暴言に青筋を立てていたハーマイオニーであった。
「ロン、あなた他人のこと言えないじゃない?それに、ある意味では爆発させる方がマシなんじゃないかしら」
「君、訳分かんないこと言ってる自覚ある?」
「だってそうでしょ?どういう結果であれ、魔法をかけようとした対象に変化を起こしてるってことは、魔法自体はかかってるんだから」
「あれで魔法がかかってるって言うのかい?!」
信じられないと言わんばかりの否定的なロンの声に、ハーマイオニーは臆せず弁舌を奮う。
「いい?私たちは呪文を唱えて魔法を使ってるけど、それは魔法を使うための源である魔力に、より明確な指針を持たせ簡単に発動させるためなのよ。だから世の中には無言呪文なんて高等テクニックを扱う凄い魔法使いもいるわ。とどのつまり、呪文を唱えることで、呪文をかけた対象に何らかの効果を齎したということは、呪文によって魔力が行使され、魔法が発動しているということ。多分コレットの場合は発動して効果が現れるプロセスの中で何らかの問題があるから魔法が暴発してるんでしょうけど、それが改善されれば魔法を扱えるはずよ。窓から入ってくる風で羽を動かしているだけの誰かさんと比べれば、明らかにコレットの方が魔法を扱えているわ」
「そ、そうなの・・・?!」
優秀な頭脳から弾き出されたハーマイオニーの魔法の理論はまだひよっこの魔法使いであるロンの稚拙な頭では反論できる筈もなく、ぐぐぐと唸る他なかった。
対してコレットからすれば、そのハーマイオニーの言葉は一筋の光明のように思えた。入学式の翌日から始まった変身術の授業での爆発事故から始まり、既に杖を扱う授業で幾多もの爆発事故を引き起こしてきたコレットにとって、呪文を唱えることと爆発させることは既に同義であったのだ。それを覆したハーマイオニーの言葉は、正しく天の救いだったのである。
「そんなに言うなら、君がやってみろよ!」
完全に論破されたロンは、怒鳴り声を上げてハーマイオニーに詰め寄った。
迫り来るロンの気迫に負けることなく、ハーマイオニーは「いいわ」と悠然と答えると、ローブの袖を捲り上げ羽に杖を向ける。
フリットウィックと同様に、ビューン、ヒョイ、と杖を振り、はきはきとした正確な発音で呪文を唱える。
「“ウィンガーディアム・レビオーサ”!」
その呪文と共に、コレットとロンの視線は空中へと向けられた。
視線の先には、明らかに窓から入ってくる風のせいで浮き上がった羽ではない、意思を持つようにふよふよと浮いている羽があったのだ。
天井近くまで舞い上がっていくハーマイオニーの羽は、フリットウィックの小さな両の手の平から盛大な拍手を生み出した。
「皆さん、見てください!グレンジャーさんがやりました!」
コレットも両目をきらきらと輝かせながらハーマイオニーを見つめ、小さな拍手を送っている。
それに照れたハーマイオニーははにかむような笑みを浮かべるが、隣にいるロンは机に突っ伏し機嫌の悪さを隠そうともせずに口を尖らせている。
「じゃあ、わたしもやってみる・・・!」
ハーマイオニーというお手本を見つけ、更には彼女の言葉によって幾許か自信を取り戻したコレット。ハーマイオニーと同じようにローブの袖を捲ると、ビューン、ヒョイと杖を振り、呪文を唱えた。
「“ウィンガーディアム・レビオーサ”!」
―――刹那、教室中に爆発音が響き渡る。
音源の隣に座っていたハリーは、反射的に横を見やった。
そこには、白い頬と黒い髪を煤だらけにしたコレットの姿があり、机の上には原形を留めないほどの消し炭と化した羽が置いてあった。
「・・・先生、羽を取り替えた方がいいみたいです」
ハリーの的外れな言葉は、静寂に包まれた教室にいやに響き渡った。
妖精の魔法の授業を終えたコレットは、人目を避けるように小走りで廊下を通り抜け、やがて人気のない中庭に出る。
渡り廊下の近くにあった石造りのベンチに座り込むと、膝に両肘を置き、俯けた顔を両手で覆った。
『・・・』
「・・・何か言いたいなら、言ってもいいのよ」
『いや、まあ・・・ハーマイオニーの言葉を借りるなら、魔法は・・・発動しているんじゃ、ないかな・・・』
「慰めるくらいなら罵ってくれた方がマシよぉ・・・!」
コレットはこの時初めて、慰められる惨めさを知った。
顔を覆っている両手の隙間から、小さな嗚咽が聞こえてくる。
妖精の魔法の授業中に、見事に羽を消し炭にしたコレットはその後も淡々と続いていく授業時間の中で生きた心地がしなかった。教室へ入室した時よりも強烈に向けられた視線は今朝の悪夢に出てきた視線とそっくりで、何百本もの針に刺されているのではと錯覚するほどだったからだ。
コレットはひたすら時間が過ぎることを心の中で祈り、その時間の中では決して杖を握ることはなかった。
授業終了のチャイムが鳴ったと同時に席を立つと脱兎の如く教室から走り去り、人気のない場所を探し当て、今に至るのである。
「セイバー、わたし、もう駄目かもしれない」
嗚咽混じりのその言葉は涙に濡れていた。小さな肩を震わせながら縮こまるその姿は、今にも手折られてしまいそうな花よりも脆い。
『・・・君、言ってたじゃないか。“エドワードのくそジジイの時より、よっぽどマシだ”って』
ホグワーツに入学しておよそ二週間ほどしか経っていない頃、周囲から孤立し孤独に苛まれていても、その一言を呟きながらコレットは立ち直ってきた。
しかし、今のコレットには露ほどの効果もない。それは、ほぼ一人孤独に生きてきた暗い幼少期と比べても、この学校生活の方がより辛いものだと証明しているに他ならなかった。
「あの時は、そう思ってた、思ってたのよ・・・。でも、今は違う・・・!」
震える肩が更に縮こまり、スカートにぽたり、ぽたりと涙を零す。
『コレット、君は何も恥じることはない。寧ろ恥じるべきは周囲の生徒たちだ。君は悪くないんだから、周りに気を病む必要はないんだよ。それに悪いことばかりじゃない筈だ。屋敷にいた頃よりも、君は生き生きしてるじゃないか』
「っでも!あの頃はこんな恐怖を知らずに済んだ!」
塞き止められていた濁流が一気に流れ出すように、コレットの口からはするすると悲痛な言葉が漏れ出てきた。
「あの頃は軽蔑した目で見てくるのは一人しかいなかった!周りから避けられたりすることもなかった!」
『・・・それは、周りに人がいなかったからだろう?』
「その方がマシだったわ!周りに誰もいなければこんな寂しさなんて知らずに済んだ!こんな痛みも知らずに済んだ!それに、それに・・・周りから孤立していくのが、こんなに怖いことだって知らずに済んだ!」
『コレット・・・』
「こんなことなら、あの屋敷で一人でいたかった!」
それは、紛れもないコレットの本音だった。
これまで人生のほとんどを一人で過ごしてきたコレットは、学校生活の中で様々なことを学んだいた。それは魔法の扱い方であったり、箒の乗り方でったり、バイキング形式で配膳される食事の中で、如何に早く人気メニューを素早く奪取するかであったり、様々だ。しかし、彼女が何より学んだこととは、集団の中で自分だけ孤立する疎外感―――寂しさだったのである。
エドワードとメント、ドラコやルシウス、ナルシッサといった片手の指で足りる程の存在としか関わりを持たなかったコレットにとって、その孤独感は何よりも彼女の心に深い傷を残していた。
―――孤立していることは、拷問と変わらない。わたしが罪人で、わたしを見ている生徒たちの目が拷問用の凶器。わたしの身体を、ぶすり、ぶすりと刺してくる。
今や、彼女の身に降りかかる視線は、彼女を痛めつける凶器と何ら変わりはないのだ。
人気のない中庭のベンチで泣き崩れる少女の姿を、目に見えない従者だけが見守っていた。
『・・・辛いなら、学校を出てもいいんじゃないか』
「・・・え?」
頭に響いてきた言葉に、コレットはふっと顔を上げる。
『君はエドワードの元で十分苦しんできた。それを継続させて・・・いや、寧ろ悪化させてまで、ここにいる意味なんてないだろう』
「・・・で、でも。それは、」
『僕は、君がその選択をしても、軽蔑したりしない』
ぶっきら棒に告げられるセイバーの言葉からは、彼なりの優しさが込められていることをコレットは感じ取った。
この学校を出て行く。それは、彼女が今まで考えないようにしていた選択肢であった。そんな弱音を吐けばセイバーになんて言われるかわかったもんじゃない。そうやっていつも頭の隅に追いやっていたというのに、当の本人から告げられたことで、コレットは呆気に取られたのだ。
―――ここを、辞めてもいいんじゃない?
目の前に差し出された逃げ道に目が眩みそうになった時、コレットの横を一人の少女が走り抜けた。
茶色のふわふわとした長い髪を靡かせながら、その少女は中庭を一直線に走って行く。コレットにはその姿は見覚えがあった。このホグワーツで出会った人々の中でも、親しくなることができた稀有な存在―――ハーマイオニーである。
「は、ハーマイオニー?」
「!」
いつも颯爽と歩く彼女にしては慌ただしい足取りに驚いたコレットは、思わず声をかけた。
それに気付いたハーマイオニーはコレットの方へ振り返る。コレットを映す茶色の瞳には薄い膜が張ってあるように見え、両の眉が悲しげに顰められている。
彼女はすぐに顔を背けると、そのまま中庭の奥の方へと駆け出して行った。
仲良くなれた数少ない人物であるハーマイオニーからも避けられたと感じたコレットは、泣き腫らして赤くなった目尻に再び涙を浮かべる。
「わたし、ハーマイオニーにも嫌われた・・・?」
『いや、違うようだよ。後ろを見てごらん』
コレットははおずおずと後ろを振り返った。そこには、教科書とノートを抱えたハリーとロンが城内に続く扉から出てきて廊下を歩いている姿が見える。
随分と話し込んでいるため、二人はコレットに気づくことなく廊下を歩いている。コレットが注意深くその会話を盗み聞いていると、ロンの腹立たし気な声が聞こえてきた。
「誰にだってあいつには我慢できないさ。全く悪夢みたいなやつだよ」
「さっきの話、聞こえてたみたいだけど・・・」
「うっ・・・ふ、ふん。誰も友達がいないってことはとっくに向こうも気づいているだろうさ」
その会話は、ハーマイオニーのいつにないあの姿の原因が彼らであることを知るには十分な証拠であった。
会話を聞いていたコレットは、セイバーとの罵り合いで鍛え上げられた米神をひくりとさせる。
「あーいーつーらー・・・」
『あの秀才のお嬢さんも、中々大変だね。・・・コレット?』
優秀な上、自身の技能を惜しげもなく披露すればやっかみを買うのは仕方あるまい。そう考えていた従者とは裏腹に、彼の主は従者のように納得できる筈がなかった。
ハーマイオニーを傷つけたであろう彼ら―――主にロンへの怒りがコレットを奮い立たせた。
彼女は勢いよくベンチから腰を上げると、猪の如くロンの元へと突き進む。
「ロナルド・ウィーズリー!」
「う、うわ!何だよ!?」
「こ、コレット!?」
コレットはロンの肩をぐいと鷲掴んで無理やり顔を合わせる。ロンの隣にいたハリーは「とりあえず落ち着いて」と焦りながら声をかけるが、今のコレットには全く聞こえていなかった。
肩を掴まれたロンはと言えば、まるで自分の母親であるモリーと同等の怒声で名前を呼び上げたコレットの迫力に圧倒されているようであった。男子としてのプライドからか、怖気づいた態度をひた隠しながらコレットの手から逃れようとするも、コレットの腕力はロンの相乗以上に力強いもので中々抜け出すことができない。
「いい加減にしなさいよこのノッポ!女の子泣かせていいと思ってる訳?!」
「な、お、お前今の話聞いてたのか?!盗み聞きなんて卑怯だぞ!」
「聞いたも何も声がでかいのよ!聞こえないとでも思った?トロール並みに頭悪いんじゃないの?!」
「うっ、五月蠅いぞコンフリンガー!」
それは、コレットに押し負けているロンの精一杯の意趣返しであった。
しかし、その悪名は今のコレットに火に油を注ぐような行為に他ならない。肩を掴んでいたコレットの手の力が不意に弱まった。ロンはよろめきつつも即座に距離を取るが、その様を見ていたコレットはふんと鼻を鳴らす。両腕を組み、仁王立ちする姿はさながらスリザリン生の模範とも言えるほど様になっており、ロンを見下していることがすぐに分かった。
ロンは勿体ぶった態度がドラコそのものだと思いつつ悪態をつく。それはハリーの目から見ても虚勢であることは明白であった。
「良いこと教えてあげましょうかロナルド・ウィーズリー?」
「・・・な、なんだよっ」
「あなたそんな風に口だけ達者だから“ハリー・ポッターの金魚のフン”なんて呼ばれるのよ!」
ずいと顔を近づけて放たれたその一言は、ロンに尻餅をつかせるのに十分な効果があった。中庭の地面に茂草の上に座り込んだロンの姿にセイバーは既視感を覚えながら、ハーマイオニーの後を追って走って行くコレットを追う。
「もう愛想が尽きたわ!いや、愛想が尽きるくらい付き合いがあったわけでもないけど・・・ハリーもハリーよ!止めるならちゃんと止めればいいのに、」
ぶつぶつと文句を言いつつ、やはり言い過ぎたと内心後悔している気弱な主にセイバーは溜め息を吐く。 ふと後ろを振り返ると、そこにはロンを助け起こそうと手を伸ばしているハリーの姿があった。
尻餅をついたロンに手を伸ばしながらちらりとコレットの後ろ姿を見つめるハリーの瞳は、霊体化したセイバーを留めることはない。
『お前は、ずっと見ているだけなんだな』
侮蔑の感情が色濃く滲んだ声も、決してハリーに届くことはなかった。
ハリーとロンを後にしたコレットは、ハーマイオニーを追いかけたもののその姿を再度見つけることはできなかった。
その後に予定されていた授業は全てスリザリン生のみで行われ、コレットがハーマイオニーと出会うことは以後なかった。
妖精の魔法の授業の雰囲気を引きずったままのスリザリン生達は、無遠慮な視線をコレットに突き刺す。だが、コレットの心中に渦巻くのは涙を目尻に浮かべたハーマイオニーの姿であった。授業内容など頭に入る筈もなく、コレットは全ての授業を聞き流しハロウィンの御馳走が用意されている大広間へと向かうことになったのである。
「ハーマイオニー・・・グリフィンドールのテーブルにいないんじゃ・・?」
コレットがぼそりと呟いた声は周囲のはしゃぎ声にかき消される。周囲―――といってもコレットの両隣と目の前にはきっちり一人分のスペースが空いているのだが―――には、ハロウィンの御馳走を目の前にして浮かれる生徒たちの姿でいっぱいだった。
特に騒ぎ立てているグリフィンドールのテーブルをコレットが見渡すものの、そこにハーマイオニーの姿はない。
もしかして中庭を走っていった後から授業にでも出ていないんじゃ・・・?一抹の不安が脳裏に過る。
それと同時に、大広間の扉が大きな音を立てて開いた。
「トロールが・・・地下室に・・・三体・・・お知らせしなくてはと思って・・・」
開け放たれた扉から姿を現したのは、恐怖で顔を引き攣らせたクィレルだ。
全速力で大広間の奥へと走って行くクィレルはダンブルドアの元まで辿り着き、震える声で言い終えるとバッタリと気を失った。
大広間は一気に大混乱となる。奥に座っている教師たちでさえその顔に驚愕の色を滲ませる中、ダンブルドアだけは一糸も取り乱すことはなかった。天井に向けて杖を向け、その先端から紫色の爆竹を何度か爆発させ、騒然となっていた生徒たちを静める。
「監督生達よ、すぐに自分の寮の生徒を引率し寮へと戻るのじゃ」
静寂が訪れた大広間に木霊したダンブルドアの声により、生徒達は監督生の誘導に従って迅速に寮へと戻っていく。
大広間の扉に向かって長蛇の列が並ぶ中、それに流されるように列の中で揉みくちゃにされていたコレットは、自身が次に取るべき行動をあぐねいていた。
『どうしようセイバー!もしかしたら、ハーマイオニーはトロールがいることを知らないんじゃ・・・?!』
『どうしようも何も、こればかりは先生方に任せるしかないだろう。仮に彼女が今も校内をうろついていてトロールに遭遇したとしても、君じゃあトロール三匹に敵う訳ないんだから』
『うっ!た、確かにそうだけどぉ・・・!』
もしハーマイオニーが何も知らずに校内のどこかで泣き続けていたら、侵入してきたトロールに襲われる可能性がある。その考えがコレットの頭を悩ませていたのだ。
最悪の想定を思い浮かべたコレットは、頭を抱えつつもその歩は大広間の扉へと向かっていた。このまま素直に寮に戻ってもいいのか―――思いつめていたコレットの視界に、二つの人影が生徒達の大行列からこっそりと抜け出すのが映った。
その二つの人影の姿を、コレットが見間違える筈がなかった。
「ハリーにロン・・・?」
『ほんとだね。彼ら、寮に戻らずどこに行く気なんだろう』
間違いなく、その二つの人影はハリーとロンのものだったのだ。彼らはグリフィンドールの監督生であるパーシーに気づかれないようこっそりと列を抜け出ると、ハッフルパフの列に紛れ込んでしまう。
真夜中に寮を抜け出して決闘を行うような無謀な彼らではあるものの、まさかトロールを一目見ようと列から抜け出してしまうほど愚かな人間ではない。そう思ったコレットは、すぐに一つの答えを導き出した。
「やっぱり、ハーマイオニーは校内のどこかにいるんだ・・・!」
そう直感したコレットは、居ても立ってもいられなくなった。
自分の寮へと向かう生徒たちの列を押しのけてハリー達の後を追いかけようとするコレット。人の壁を掻き分け、ようやく列から抜け出せるという時に、その行動を制止するように」彼女の左腕が掴まれた。
「お前、前々から思ってたが、ほんっとうに馬鹿じゃないのか?!」
コレットの行く手を阻んだのは、怒りの形相で睨みつけるドラコの手だった。
決して行かせないと言わんばかりに強く握られた左腕の手首はその部分だけ白く変色しており、あまりの強さにコレットが僅かに顔を歪める。
「っつう・・・。い、いきなり掴まないでよドラコっ」
「掴まなきゃ寮に戻ろうとしなかっただろ!」
「別にドラコには関係ないじゃない!大体アンタ、今まで散々わたしを無視してたでしょ!?」
「!」
言外に「わたしに構うな」と宣告されたドラコは、一瞬言い淀みコレットを掴んでいた腕の力を弱める。
それをチャンスとばかりにコレットは抜け出そうとしたが、それに気付いたドラコはすぐに力を込め直した。
「だから、痛いって・・・!」
「何でお前は僕の言うことを聞かないんだ!?屋敷にいた時だってホグワーツに入学したばかりの頃だって、何かにつけて僕の後ろをついて回ってた癖に!」
「っ今それ関係ないじゃない!」
子供の癇癪のようなドラコの物言いはコレットに苛立ちを覚えさせ、今にもハーマイオニーがトロールに襲われているのではないかという最悪の想定が焦燥感を与える。
痺れを切らした彼女は強硬手段に出た。ローファーに守られたドラコの足を思い切り踏みつけたのである。
「いだ!」
「わたしアンタの子分になった覚えなんかないから!」
コレットはそれだけ言い残しハリー達の元へと走っていった。
足を思い切り踏んでしまったことに多少なりとも罪悪感を覚えたが、コレットはそれに囚われる余裕などない。一度も振り返ることなく列を掻き分けて行った。
生徒達の列から離脱したコレットは、ハリー達と同じようにハッフルパフの列に紛れ込み、誰もいなくなった廊下の方へと躍り出る。
ここからハリー達をどう探すべきか―――歩みを止めたコレットの前に、霊体化を解いたセイバーが姿を現した。
「わっ?!い、いきなり姿を現さないでよ!」
現界する度に驚く主に呆れつつも、セイバーは行く手を遮るようにコレットの目の前に立つ。
「何のつもりよ」
「僕だって本意じゃない。だけど、このまま主を危険な場所に飛び込ませるほど鬼でもないんでね。寧ろ感謝してほしい」
「・・・わたしを止めるってこと?」
「君がこの先に進むのならば」
「ああもう次から次へと・・・!」
ドラコの腕を振り払い、行方の分からなくなったハリー達の後を探そうとした矢先に現れたセイバー。彼こそが、最大の難関だったのだ。
一番面倒な奴が立ち塞がってしまったとコレットは舌打ちする。コレットはこれまでにセイバーに阻まれた行動を成し遂げたことなどなかった。いつだってセイバーが一枚上手で正論を示してきたのだ。思い付きで行動する割には意志が弱く世間知らずなコレットに、セイバーに勝つ要素など一つもなかった。
だが、この場面においてはセイバーに諾々と従って寮に引き返すほどコレットの意志は弱くはない。この先でハーマイオニーがトロールに遭遇し、危険に晒されているかもしれないのだ。
「どいてセイバー。仮にもわたしを主と呼ぶのなら、わたしの言うことを聞きなさい」
セイバーに気圧されないよう、コレットは主然として振舞う。明らかに慣れていないであろう毅然とした立ち振る舞いは、一周回って哀れみさえ覚えるほど頼りないもので、セイバーはホグワーツにやって来て何度目になるか分からない溜め息を吐いた。
「コレット、この先にハーマイオニーはいない」
「え?!」
「僕はある程度の範囲なら魔力を探知できる。ここまで来て分かったけど、この先にはあの二人の分の魔力しか感知できないから、君が心配しているような事態にはならない。これで満足かい?」
唐突に知らされたセイバーの能力とハーマイオニーがいないという事実に、虚勢だけで仁王立ちしていたコレットの両膝ががくりと落ちる。
この先でハーマイオニーがトロールに襲われることはない。それに安堵したコレットだったが、すぐにその安堵は消え失せた。この先にハーマイオニーがいなくとも、ハリーとロンが向かっていることに変わりはなかったからだ。
おそらくハーマイオニーを探しているだろうハリー達を放っておくほどコレットは冷酷ではない。今朝の恨みは些か残っているものの、コレットはすぐにセイバーに抗議の声を上げた。
「どいてセイバー!ハーマイオニーがいなくても、ハリー達が危ないじゃない!」
「教師達に任せればいいだろう。運が良ければ間に合うさ」
「そんな運任せにできるわけないでしょう?!いいから、さっさとどきなさい!」
「―――ねえ、いい加減にしなよ」
氷河よりも冷たく、鋭利なナイフよりも鋭い声は、コレットを黙らせることなど造作もなかった。
銀色の鋭い眼光にコレットは硬直し、捕食者を前にした子兎のように委縮させる。
「一ヵ月前のこともそうだけど、どうして君はいつも後先考えず首を突っ込むんだ」
「し、心配だからよ!」
「じゃあ、君にとって彼らは心配する価値がある存在なのかい?親しいハーマイオニーを悲しませ、君をコンフリンガーと罵り、ドラコの子分だと忌避してきた彼らが?」
その言葉に、コレットはヒュウと息を飲み込む。
「そ、それは・・・」
「彼らは、君を苛ませていた他の生徒連中と同じ存在じゃないか?」
それを否定できる言葉を、コレットは見つけられなかった。
彼女の脳裏に過ったのは、入学式の日にドラコの子分だと冷たい視線を向けてくるハリーの姿と、真夜中に校内を彷徨う中でコンフリンガーと罵るロンの姿だ。コレットにとって、彼らのその姿は自身を傷つけてきた周囲の生徒達と何ら変わりはないものだった。
人形のように黙りこくったコレットを見下ろすセイバーは、その沈黙を肯定と受け取り、項垂れている右腕を引く。
「ほら、帰ろう。トロールは先生方に任せて、君は早く寮で寝た方がいい。今朝は・・・というより、“今朝も夢見が悪かった”せいで、寝不足なんだろう」
「っ!」
今朝の夢―――その言葉に目を見開いたコレットは、右腕を引くセイバーを半ば無意識の内に振り払った。
振り払われるとは思っていなかったセイバーはコレットを見やる。セイバーの後ろで呆然と立ち尽くしているコレットは、セイバーに指摘された今朝の悪夢の中で、ハリーに手を伸ばしながら言い募ろうとしていた自分の姿を思い返していた。
―――悪夢の中で冷たく見下ろしてくるハリー。それに手を伸ばしてるわたし。わたし、どうしてハリーに向かって手を伸ばして、何を言おうとしていたのだろう。
夢の中での出来事の疑問がふつり、ふつりと湧いて出ては、コレットはその答えを言葉にしていく。
―――ドラコと同じだと思われたくなかった。冷たい視線を向けられるのが怖かった。これ以上嫌われるのが怖かった。だって、わたし、わたし―――。
「わたし、ハリーと友達になりたかった・・・」
―――あ。
ぽつりと呟いた言葉は、霧がかって不明瞭になっていたコレットの心を露わにし、奥底に眠っていた彼女の願望を引きずり出した。
彼女は、オリバンダー杖店で初めてハリーと出会った瞬間から、自分と彼が似た存在であることを直感していたのである。
だからこそ親近感が湧き、仲良くなれると思った。初めて自分から友達になりたいと思った。その存在がハリーだった。それだけの話だったのだ。
「―――セイバー」
そう従者を呼びかける少女の目に、もう迷いはない。虚勢でしか保てなかった主としての体裁が、今の彼女には真に備わっていた。
「わたし、彼らを助けたいの」
「彼らは君に悪印象しか抱いてないみたいだけど、それでも助ける意味なんてある?」
きっと友達にはなれないよ。耳に痛い言葉だと、コレットは苦笑する。
「関係ないわね。ハリー達がわたしを嫌っても、わたしは嫌ってないもの」
「面倒な方向に開き直ったね・・・。でも一つ、一番の難問が残ってるのを忘れているようだ」
「・・・何よ」
「君には、彼らを助ける方法がないってことさ」
「あら、あるわよ?」
コレットはセイバーにグローブが嵌められた右手の甲を差し出す。そこには、コレットがセイバーのマスターたる唯一の証たる令呪が刻まれていた。
「セイバー、命令よ。彼らを助けなさい」
見せつけるように差し出してきた割に、それを使う様子は見受けられない。その意味をセイバーはすぐに理解した。目の前で悠然と微笑む小さな主は、これを使うまでもなく言葉で従わせると暗に言っているのだ。
無謀にも見えるこの行為だが、無論、そこにはコレットなりの考えがあった。
セイバーは常に辛辣な態度を取る嫌味な従者であるが、その実彼こそが最もコレットを心配しているのである。だからこそホグワーツに聖杯の陰が見え隠れした際にはその存在に口を噤もうとしたし、ドラコの口車に乗って決闘に向かったハリー達を止めようとトロフィー室に忍び込もうとしたコレットを諫めようとした。何より、今この現状が何よりの証拠と言えるだろう。
それを鑑みれば、コレット自身が危険に晒されていない状況で令呪を使用されることをセイバーは黙って見過ごす筈がないのである。仮に見過ごしたとしても、使用してしまえばセイバーはコレットの命令を聞かざるを得なくなる。どちらに転んでもコレットの勝利は決定づけられていた。
果たしてコレットの考え通り、セイバーはコレットに令呪を使用させるわけにはいかなかった。とはいえ、彼女の命令を承諾せずに寮に連れ帰る方法も存在する。強引ではあるが、今すぐ目の前で勝ち誇っている少女を気絶させてしまえばよいのだから。
出来ることならこれ以上彼らに関わってほしくないのがセイバーの本音であった。これからそう遠くない未来にトラブルメーカーとして成長するだろう彼らと関わりを持ってしまえば、コレットの安全な学校生活が脅かされる可能性があるからだ。
―――それをコレットに告げても後には退くまい。この少女は、守りたいものを見つけてしまったのだから。
どうやらあの襤褸切れの帽子の言っていたことは本当だったようだと組み分け帽子の言葉の意味を実感しつつ、セイバーは彼女の望む言葉を口にした。
「了解したマスター。君の望むままに」
実体化したセイバーに先導させ、コレットはハリー達の後を追った。散々走った足が悲鳴を上げるが、すっと背を伸ばし廊下を駆け抜けるのは、ここホグワーツにやってきてから感じたことのない高揚感をコレットに感じさせた。
「実は魔力は感知できても人数までは分からないから、もしかしたら彼女がいるかもしれないんだよね」
「はあ?!」
何気ない口調で種明かしされた能力の実態に、コレットは怒りと驚愕が入り混じった素っ頓狂な声を上げる。ハーマイオニーが無事であることを信じ切っていたコレットからしてみれば、それは無理もないことだった。
「君を諦めさせようとでっちあげた嘘だったんだけどね、逆に面倒なことになっちゃったよ。失敗だったなあ」
「アンタって、ほんっとうに最低な使い魔ね!」
「危険なことに後先考えず頭を突っ込む主を持つとね、従者は世話が大変なのさ」
「うっ・・・じゃあ、お相子ってことにしない?」
「僕にかなり分があると思うけど、いいよ」
軽快に紡がれる軽口の応酬をいくつか重ねるうちに、汚れた靴下と掃除をしたことがない公衆トイレの匂いのような悪臭がコレットとセイバーの鼻を掠める。
その匂いの元凶がある場所を見据え睨んだセイバーは、慎重に歩みを進めながらコレットを先導する。足音を立てないよう、静かに歩を進めていくコレットの目にまず映ったのは、巨大な人型の陰だ。
女子トイレに辿り着いたコレット達の目に映ったのは、三体のトロールの姿だった。トロールは女子トイレの奥へ奥へと丸太より太い足を動かしている。コレットがその進む先へ視線をやれば、そこには追い詰められたハリー達の姿があった。
コレットは思わず叫びそうになるが、その声が喉元まででかかったところで飲み込む。
「っ・・・セイバー、一度霊体化して」
「・・・いいのかい?」
それは、セイバーのことを考慮してのことだった。セイバーの姿をハリー達に視認させるわけにはいかない。だが、逆を言えばコレットが無防備になってしまう。それはコレット自身が一番理解していることであろうが、今の彼女にはその恐怖に立ち向かえる勇気が備わっていた。
セイバーはちらりとコレットを見やり、ふっと笑ってから霊体化する。コレットはそれを確認すると、トロール達からある程度距離を取ったところまで後ずさり、トロール達の注意を引くために三人の名を大声で叫んだ。
「ハーマイオニー!ハリー!ロン!」
「コレット?!何でここにいるんだ!」
コレットの声にいち早く反応したのはハリーだった。ハリーは迫り来るトロールと背後のコレットの姿を交互に見ながら、「早く逃げるんだ!」と叫ぶ。
トロール達は、背後から聞こえたであろうコレットの声に反応を示さず、寧ろハリーの方へと注意を向けた。
「あっ!何でこっち向かないのよっ!」
『あいつらは鈍感だからね。何か直接刺激を与えられればいいんだろうけど・・・』
“刺激”。そのセイバーの言葉にコレットははっとして、懐にしまっていた杖を取り出し凝視する。
「・・・ねえセイバー」
『なんだい、コレット』
「爆発呪文って、確かコンフリンゴだったわよね?」
『そうだけど・・・ってまさか!』
セイバーの制止が聞こえてくる前に、コレットは素早い動きで杖を振り、紡ぐ呪文に力を込めた。
「“コンフリンゴ 爆発せよ”!」
果たしてその呪文は見事にトロールの棍棒に命中した。中央のトロールが持つ棍棒が爆発し、その衝撃はと木片がトロール達を襲ったのだ。
トロール達は爆発した棍棒に驚き、そのまま後ろを振り返った。自分たちより遥かに小さい少女―――コレットをその窪んだ瞳に捉えると、不気味な唸り声を上げて黄ばんだ歯を見せつける。
コレットは、天井につきそうなほど巨大な体躯を持つ化け物に足を竦ませた。それから自分を欺くように、トロールの注意を引こうと思いつく限りの罵倒を吐いていく。
「不細工!デカ物!魔法界一馬鹿っぽい生き物!このクラップ&ゴイルもどき!」
『最後のやつ逆じゃない?』
冷静なセイバーの突っ込みを他所に、トロール達はより一層大きな雄叫びを上げた。どうやらトロール達は、馬鹿にされているというニュアンスだけは感じ取った様子である。トロールは臭い息を吐きながら、どしん、どしんと重い足取りでコレットに向かっていく。
コレットはその二体から逃げようと踵を返す直前、ハリー達の方へ向き直り再び大声で叫んだ。
「ハリー!ロン!わたしがこいつらを引き付けるから、その隙にハーマイオニーを連れて逃げて!」
「駄目よコレット!あなたが危ないわ!」
「わたしは大丈夫!いいロン?!もしまたハーマイオニーを泣かせたら、手に持ってる杖を爆発させるだけじゃすまないわよ!」
「何でお前にそんなことっ・・・わ、分かったよ!」
ハーマイオニーに腕を小突かれ睨まれたロンは、一も二もなくコレットの言葉に頷いた。
「駄目だコレット!今すぐ逃げろ!」
ハリーはその言葉だけを必死に繰り返していた。
自分を心配してくれているんだ―――ただその事実だけが、コレットの心にじんわりと温かいものを溢れさせる。
「大丈夫だから!」
その言葉を最後に、コレットは脱兎の如くその場から走り出した。「このウスノロ!クラップとゴイルの方がまだ足が速いわよ!」と後ろに声を張り上げると、コレットの後を追うトロール達はがなり立て、地響きのような足音を立てる。
出来るだけハリー達から引き離し、尚且つセイバーが戦える人気のない場所へと誘導しなければならない。コレットはその一心で背後から迫り来る怪物からある程度距離を保ちつつ走り続けた。
薄暗い廊下を走り抜け、階段を登り、三階へと辿り着く。窓越しに差し込まれる月明かりだけが唯一の光源だった。
『ここに人の気配はない。いけるよ』
セイバーの言葉にコレットは立ち止まり、背後へと身体を向けトロールを待ち構える。階段から唸り声と地響きのような足音が近づき、コレットの額に冷や汗が滲んだ。恐怖を殺すように下唇を噛む。
階段を登り三階へとやって来たトロールが姿を見せた。だが、その数は三体ではなく二体だった。
「んなっ!?」
『そういえば、ハリー・ポッターが杖を投げつけて、一匹だけ注意を引いてたよ』
「何でそれを先に言わないのよ!」
『彼が選択したことだ。そんなに心配なら、さっさとあのデカブツ共を倒せばいい』
「それ、そっくりそのままアンタに返ってくるんだからね・・・!」
薄暗い廊下の中でコレットの姿を見つけたトロール達はもう一度雄叫びを上げると、棍棒を振り回しながらコレットに迫り来る。
コレットは目の前の怪物達を真っ直ぐと見据え、右手を差し出した。
既に彼女の顔からは、恐怖の色は消えていた。何故なら彼女には、“最強の騎士が守ってくれる”という自信があったからだ。
「セイバー、勝ちなさい!」
「了解した、マスター」
―――黒衣の騎士が、その姿を現す。
どこからともなく現れたセイバーの姿を見たトロール達は、少しだけ驚いたようなそぶりを見せる。警戒心が勝ったのか加速していた足取りを止め、コレットを睨みつけていた目がセイバーを映した。
「どうした?」
セイバーは不敵な笑みを浮かべながら言い放つ。その一言だけで、侮辱を込めているのがコレットにはありありと感じ取れた。同様にそれを感じ取った二体のトロールは怒りに任せて棍棒を振り上げ、セイバー目がけて勢いよく振り下ろす。
「“プロテゴ 守れ”」
それが振り下ろされるより先に、セイバーは杖を振るった。しなやかに振られた白く色褪せた杖からは薄く白い膜が展開される。その光景にコレットは既視感を覚えた。セイバーと初めて出会った日に、彼女を守ったそれだったのだ。しかし、今繰り広げられているその守りは以前のものより遥かに巨大なものだった。何せ二体のトロールが振り下ろした棍棒を防いでいるのだ。トロール達はセイバーを潰そうと両腕で体重をかけ棍棒に力を籠めるが、セイバーは微動だにすることなく棍棒を防いでいる。
「凄い・・・」
「コレット。後ろにある扉に隠れていてくれ」
「わ、わかった!」
セイバーの言葉に従い、コレットは背後にあった扉の中へと入り、隙間を開けてこっそりとセイバーの様子を伺うことにした。
「そこでよく見ているといい。少しは、魔法の使い方を覚えるかもしれない」
ちらりと背後へ視線を送ったセイバーに目敏く気付いた一体のトロールが、セイバーの右側から棍棒を振るう。プロテゴの守りの刺客を狙った攻撃だ。どうやら少しは頭を使えるらしいと思いながら、セイバーは右から迫る棍棒を横目で見ながら、杖を持っていない方の腕で腰に携えた鞘から剣を抜き、棍棒を防ぐ。
「(嘘?!片手で受け止めるの?!)」
その光景はコレットからすればあまりにも異常だった。成人男性の体格とはいえ、その三倍も四倍もある巨体から振り下ろされる棍棒を軽々と防いだのだ。片手では呪文で、もう片方の手では剣。“最上の使い魔”たる所以を、コレットは初めて目視した。
「・・・あまりこの剣は使いたくないんだ」
ぼそりと呟かれた言葉を、コレットが拾うことはなかった。
セイバーはタイミングを見計らって呪文を中断し剣を握る手の力を緩めると、即座に後方へと飛び退いた。棍棒に力を込めていたトロール達は、勢いあまってその場でよろめき床に倒れ込んでしまう。
抜身の剣を鞘へと納め体勢を立て直す。既に立ち上がっていたトロールの一匹が棍棒を投げつけた。セイバーが杖を一振りして棍棒を横に反らすと、セイバーの眼前にトロールが走り迫っていた。棍棒を目眩ましに使ったのだ。トロールが掴みかかろうとすると、セイバーはもう一度後方へと飛び退き、杖を向ける。
「なるほど、あの二人よりも頭は良いらしいね。“ペトリフィカス・トタルス 石になれ”」
その呪文と共に、セイバーに掴みかかろうとしたトロールの腕がピタリと停止し、そのまま床に転がった。
その呪文が金縛りの呪文であることをコレットは知っていた。その上、魔法生物に魔法をかけることは非常に難しい。魔法生物はその名の通り魔法界に住む生物であり、体が大きく力が強いものや、特殊な能力を持っている生物ほど魔法に対し耐性を持っているものだ。だというのに、セイバーはいとも容易く魔法をかけた。それだけ熟練された技術だという証拠である。
背後にいたトロールは仲間の変わり果てた姿に歯を剥き出しにして怒りを露わにすると、手に持った棍棒をでたらめに振り回しセイバーに迫る。
セイバーはそれを身軽な動作で回避していく。痺れを切らしたトロールは、仲間が持っていた棍棒を奪い取ると、今度は両腕を使って棍棒を振り回し始める。
「全く、トロール、っていう、生き物は、馬鹿の、一つ覚え、みたいにっ!」
倍に増えたトロールの攻撃は容赦なくセイバーに襲い掛かる。身体を反らし、飛び退き、時折剣を抜いては受け流す。決して剣は使わなかった。
徐々にセイバーがトロールに押されていく。コレットはその様を扉の隙間から見守ることしかできない。
「危ないコレット!」
しかし、それがいけなかった。扉の隙間から見え隠れしてたコレットに偶然気付いたトロールが、片腕の棍棒を彼女に向けたのだ。
棍棒の風圧がコレットの顔にかかる。瞬きの瞬間に振り下ろされるだろうそれに、コレットは恐怖のあまり身動きが取れなくなった。
「(死ぬ―――!)」
コレットは身を縮め、瞼を強く瞑る。
「―――全く、世話のかかる主だよ」
「セイ、バー・・・?」
瞼を開くと、そこには剣で棍棒を受け止めたセイバーの姿があった。
セイバーは剣を振るい棍棒の軌道を逸らすと、間髪入れずに杖をトロールに向け呪文を放つ。
「“ウィンガーディアム レビオーサ”」
トロールの両腕に握られた棍棒はするりとその手から抜け出すと、トロールの頭を挟み込むように両側から勢いよく叩きつける。鈍い音の後に、トロールの巨体が崩れ落ちる音が廊下に響いた。
セイバーは床にひれ伏したトロール達が起き上がらないことを確認すると、鞘に剣を収めてからコレットが隠れていた部屋の扉を開け、彼女を迎えた。
「セイバー!」
セイバーの腰辺りに、思わぬ衝撃がやってくる。コレットが抱き着いてきたのだ。
「そんなに怖かったのかい?」
「怖かった・・・怖かったし、セイバーが強かった!」
そこには、恐怖と喜悦が入り混じったコレットの感情が見え隠れしていた。 襲い来る二体の化け物と、それを相手取る騎士の戦い。目の前で展開される激戦は息を呑むことさえ忘れるほど迫力が有り余るものだったのだ。
セイバーはコレットの興奮した様子に溜め息を吐きながら、頭を撫で落ち着かせる。
「ほら、もう一体のトロールの様子を見に行かなくていいのかい?」
「そうだった!行こうセイバー!」
「はいはい、仰せのままに」
ハリー達のいる女子トイレに駆け出すコレットの後に、セイバーは現界したまま後に続いた。もう一体のトロールの存在を考慮してのことだった。
彼らの安否が気になってしょうがないコレットは、背後を着いてくるセイバーに構わず階段を駆け下りていく。
「っ・・・」
苦痛に歪んだセイバーの顔を、コレットが気付くことはなかった。
生徒達がトロールから避難したことで、コレットとセイバーは誰とも鉢合わせすることなく女子トイレにたどり着いた。女子トレイにたどり着き、二人がまず目にしたのは、破壊された水道管から漏れ出た水浸しの床と、そこに倒れ伏しているトロールの姿だ。
そこにコレットの探すハリー達の姿はない。コレットは人心地ついたのか、肺から大きく息を吐き出した。
「良かった、三人とも逃げられたみたい・・・」
「後から教師も駆け付けたみたいだしね」
「え、そうなの?」
「トロール達が棍棒を振り回してくる合間に、この女子トイレに近づいていく魔力を感じたんだ。コレットみたいな物好きじゃなきゃ、トロールを退治にきた教師くらいしかいないだろ」
調子が戻ったセイバーの皮肉にコレットはぴくりと眉を吊り上げるものの、今回の功労者である彼に言い返すことなどできる筈もなかった。罵倒の言葉を飲み込み、「ごめんなさいねえ物好きで!」と、皮肉を言う程度に収めた。
長居は無用だ。コレットは教師に見つからない内に寮に戻るべきだと判断し、セイバーに話しかける。
―――瞬間、セイバーの身体が崩れ落ちる。
「セイバー?!」
水浸しになった床に両膝と両手をつき、荒い呼吸を繰り返すセイバー。決して余裕を崩すことのなかったセイバーの豹変ぶりに驚いたコレットは、彼に駆け寄り顔を覗き込んだ。
額に脂汗を浮かべるセイバーの姿は、心なしか透けてみえた。
「セイバー、セイバー!」
「耳元で騒がないでくれ・・・やっぱり、バックアップもなしに魔力を消費するのはきつかったな・・・」
セイバーのその言葉に、コレットははっと息を飲み込んだ。
本来、サーヴァントの現界を維持するには強大な魔力を必要とする。ルベインアンツの屋敷は力ある土地であるため現界に足るだけの魔力は存在していたが、その地を離れている今、その魔力は主たるコレットに依存している。しかし、彼女にはそれだけの魔力が備わっていなかった。故にセイバーは極力現界を控えることで魔力を貯蓄していたのだ。
だが、先のトロールとの戦いで現界を維持しつつ魔法を連発したことで彼の魔力は著しく低下した。魔力が底をつけば、セイバーは消滅してしまう。その事実を目の当たりにしたコレットは、背筋がぞっとせずにはいられなかった。
つい先ほどまでセイバーにトロールを倒させることを名案だと思っていた自身に、コレットは激しく後悔した。
「いや、いやよ。お願い、消えないでっ」
ハリー達を救えても、セイバーが消えてしまっては意味がない。コレットはセイバーに必死に呼びかけ、彼の頬に両手を添える。右手に嵌められたグローブがちらりと目に映ると、コレットは自分が持つ強大な魔力の存在を思い出す。
「セイバー!令呪を使って!」
セイバーに差し出された黒いグローブの下には令呪が眠っていた。令呪はセイバーを従わせる絶対命令権でもあるが、同時に最上位の使い魔たるサーヴァントを使役できるほどの魔力を秘めた刻印でもあるのだ。
それを使えば、残り少ない魔力を回復できると踏んだコレットは、黒いグローブを外し令呪を使用しようとした。
その様子を見ていたセイバーは、グローブを外そうとしたコレットの左手を優しく振り払い、苦痛に歪んだ表情をコレットに向ける。
「駄目だ、それを、使うな」
「っどうして!今使わないで、いつ使えっていうのよ!?」
「君が、危険に晒されたとき」
今にも倒れ込みそうなほど青白い顔をしているというのに、セイバーは目の前に差し出された魔力に目もくれず、コレットの不安げに揺れる瞳をじっと見つめてそう言った。
「これは、君を、守るために・・・使うものだ。僕のために、使うものじゃ、ない」
「で、でもっ!」
「大丈夫、だから・・・。魔力が、完全に、切れたわじゃ、ない・・・少し溜まったら、すぐ、また・・・」
徐々に掠れていくセイバーの声は、全てを言い終えることはなかった。空気に溶け込むようにして消えてくるセイバーの姿を、コレットは涙を浮かべた目で見つめることしかできなかった。
セイバーの頬に添えていた手が空を切る。パスの繋がりがあるからこそ、コレットはセイバーが霊体化しただけであることを理解できるが、それでもセイバーが消滅してしまったような感覚はコレットの手にまざまざと残っていた。
「っあぁ・・・!」
わたしのせいだ。わたしがセイバーに無茶な命令をしたから。
泣き崩れたコレットの膝の黒いソックスには、床に浸透した水が染み込んだ。コレットの頬を伝う涙は床に落ち、小さな波紋を幾重にも作った。
コレットは感覚的に、セイバーの残された時間を悟ったのだ。パスによって齎される情報によれば魔力の残量は少ない。セイバーは「魔力を貯めれば」と言いかけていたが、それよりも日常で微量に消費していく魔力の方が上回るだろう。
何も気付けなかった自信を責め続け、両手に握り拳を作る。爪が掌に食い込み、血が滲むほど強く握りしめた頃、コレットの脳裏にふとある単語が浮かび上がった。
「・・・聖杯」
コレットは、一度だけエドワードから聞いたことがあった。聖杯はただ願いを叶えるだけの道具ではない。その器の中に強大な魔力を秘めており、その魔力こそがおおよその願いを叶える願望器足りえる所以なのだと。
―――聖杯があれば、セイバーは消えずに済むのではないか。
「聖杯が、あれば」
一瞬、エドワードの嘲り声が耳に木霊した。「お前なぞに聖杯が見つけられるはずがない」。その声をかき消すように頭を振り、コレットは右手に刻まれたセイバーとの絆をじっと見つめた。
「(見つけなくちゃ、セイバーのために)」
それは、コレットが最も忌避していた存在が、最も望む存在に変化した瞬間だった。
落ち着いてきたと書いたなあれは嘘だ。
頑張りたい、書きたいことがいっぱいあるのに・・・。コメントとかくださいますと狂喜乱舞します・・・。