①来年度当初予算編成!
※なお、首長肝いりの新事業開始のため、設計積算見積もり徴取等目白押し(白目
②艦これイベント!
※多分こっちの方が難儀する(ん?
統一歴1926年10月21日 夕刻
東部戦線 ルーシー連邦西部オゼリシェ村 サラマンダー戦闘団
「諸君、待たせたな」
接収した民家を使っての臨時戦闘指揮所。
そこに居並ぶ戦闘団幹部を見回して、ターニャ・フォン・デグレチャフはにやりと笑う。
「第2装甲軍から知らせが入った。『穴熊が巣から出た』だ」
それは、連邦軍スモレースク守備隊が退却を開始したことを意味する符牒。
「…間違いないのですか?」
「あぁ、複数の部隊が確認しているうえにこちらでも通信位置の移動を確認した。連邦軍守備隊は一部を残して撤退を開始しているぞ」
「
そう、この日のために帝国軍はわざと後退する連邦軍部隊を見逃していた。
全ては、『帝国軍は補給に苦しみ、何とか連邦軍を包囲しようとしているが限界に達しつつある』『後退する連邦軍を撃滅する余力は残されていない』と誤認させるため。
連邦軍とて馬鹿ではない。
本当に帝国軍は限界なのかを確認するため、先遣隊を幾つかモスコーに向けて先発させていたのだ。
それが今日、本格的な撤退を開始したということは、つまり――
「化かし合いは我々の勝ちだ。…ヴァイス少佐!」
「ハッ!」
「第203航空魔導大隊は着弾観測機器を携行して直ちに発進せよ。夜間作戦になるが、問題は無いな?」
「大佐殿、我々はライン帰りですよ?」
「そうだったな。では、よろしく頼む」
「ハッ!直ちに進発いたします!」
「メーベルト大尉!」
「ハッ!」
駆け出していくヴァイス少佐を横目に、砲兵隊指揮官は目を爛々と輝かせていた。
その姿はまさに、獲物を前にしながらリードで繋がれている猟犬。
「着弾観測は203が行う。喜べ大尉、今日は砲弾使用無制限だぞ」
「まさにこの世の春ですな、お任せください!」
その喜びようたるや、夢がかなった少年のよう。
だが、さもありなん。
彼が率いる自走砲中隊は「補給に苦しむ帝国軍」を演じるため、極端な使用量制限をターニャに課せられていたのだ。
「ただし、攻撃開始は敵がポイントDを通過した後に行え」
「理由をお聞かせください」
「背後からの砲弾の方が混乱を誘いやすく、効率的だ。射撃開始後は私が止めというまで撃ち続けろ。詳細は一任する」
「了解!」
「その意気だ。さて、アーレンス大尉」
駆け出すメーベルト大尉に苦笑しながら、幼女は続ける。
「ハッ!」
「機甲中隊には戦果拡大の役を任せたい」
「つまり、しばし待てと?」
「そうだ。メーベルト大尉の腕を疑う訳ではないが、最初の内は誤射の危険もある」
「…彼らの腕なら問題ないのでは?」
アーレンス大尉が首を傾げるのも無理はない。
そもそも、ターニャが極端な砲弾使用制限を課した背景には「自走砲中隊の腕が良すぎる」ことがあった。呆れたことに、彼らは進撃途中の遭遇戦で
「…補給で苦しんでいるということになっているのに、15榴で気持ちよく吹き飛ばす馬鹿があるか!」
それゆえの砲弾使用量制限――砲一門あたり、一日4発――である。彼らの腕前ならば誤射の心配は無用なのでは、というアーレンス大尉に、ターニャはそっと窓の外を指さした。
「アレを見て、まだそう言い切れるかね」
『聞いて喜べ野郎ども!!本日は砲弾無制限だ!!』
『『『『『ヒャッハー!!!!!!!』』』』』
『大尉殿!それは真でありますか!』
『勿論だとも!サァ野郎ども、日頃の錬磨の成果を見せる時だ!!ありったけの砲弾を共産主義者に叩きこめ!!』
『『『『『うぉおおおおおおおおおお!!!!』』』』』
――とまぁ、お祭りのようなテンションで、砲弾の積み込みを開始している自走砲中隊。
中には興奮のあまり、スキップしながら砲弾を両肩に担いで運んでいる者まである。
…おかしい、新型フンメルの弾は重量40キロくらいあるはずなのだが……。
「…機甲中隊は追撃に備えたく思います」
「分かってもらえたようで何よりだ」
◇◇◇
統一歴2006年10月22日配信
連合王国衛星放送制作 『ミリタリー・チャンネル特別編』
みなさん、こんにちは。
ちょっとディープなミリタリー情報をお届けする紳士の番組、ミリタリー・チャンネル。
司会はおなじみジョン・スミスです。
この番組はその特性上、色々と専門用語が出てきます。そんな時は番組公式ホームページにアクセス!番組で出てきた用語について、図解などを使って分かりやすく説明しています。
…さて、前置きはこれくらいにして本題に参りましょう。
私は今、かつての激戦地の一つ、スモレースク近郊のハティカという場所に来ております。
80年前の今日、この場所で帝国軍と連邦軍の間で戦闘が行われました。
『回廊の戦い』
今日そう呼ばれる戦いは、しかし、あまりに一方的なものとなりました。
東西冷戦の間、ルーシー連邦がひた隠しにしてきた悲劇。それが、連邦崩壊後になって明らかになったのです。
早速ですがこの『回廊の戦い』、従来はさほど重要視されておりませんでした。
多くの戦史、文献では「1926年の冬、帝国軍はスモレースクを攻略し、モスコーへと迫ったが、冬将軍の前に撤退を余儀なくされた」とだけ記されていることが多かったのです。
この今まで注目されてこなかった戦いが、最近になって脚光を浴びてきたのは一体どういうことなのか?
「そもそも、この戦いが注目されていなかった理由は、
ロンディニウム大学のオーウェン教授はこう言います。
「まず、この戦いの直後、連邦は例年より早い厳寒期に突入しました。
帝国軍は大規模な後退を余儀なくされたため、戦果確認も不十分なものとなってしまったのです。
第二に、皆様もよくご存じのとおり、連邦の秘密主義は筋金入りでした。
実際、冷戦終結後開示された資料から、この地で起こった
こちらの映像をご覧ください。
こちらは今年行われた、
帝国軍の撤収後、連邦は自軍の受けた壊滅的被害が知られないよう、軍を動員して犠牲者を一カ所に埋葬していました。
「それだけの損害だったということでしょう。
実際、開戦以来連邦軍は負け続きでしたから、隠せるものなら隠したいという心理があったのは間違いありません。
その点、この場所は連邦にとって好都合でした。当時のハティカ村は人口も少ない寒村でしたから」
話を統一歴1926年10月に戻しましょう。
開戦以来、破竹の進撃を続けている帝国軍でしたが、その前線では奇妙なことが起こっていました。
「『T-32ショック』です」
長年、先の大戦を研究している軍事評論家のターナー氏は言います。
「ルーシー連邦は当時、革命に伴う混乱から立ち直り、計画経済、社会統制という社会主義の強みを発揮する段階にありました。さらに、旧体制時代からの技術者がいなくなってしまったことは、却って既存の常識にとらわれない、画期的なマシン製造に役立つこととなったのです」
そうして統一歴1925年から量産されたのが、こちらの中戦車「T-32」、重戦車「KV-75」、「KV-152」です。
特にT-32は大量生産体制の確立と優れた先進的設計、何より高性能さから帝国軍を大いに苦しめることとなります。
「車体全体への傾斜装甲の導入、長砲身57ミリ戦車砲の搭載によって、当時存在したいかなる戦車にも有利に戦いを進めることが可能でした。翌年には主砲が76mmに更新され、攻撃力のさらなる向上を達成したのです。
帝国軍のⅣ号戦車は機動性を重視した結果、装甲厚は砲塔正面で50ミリでしたから、57mm主砲の時点でも貫通されたのです」
従来、当時の帝国軍Ⅳ号戦車は新開発の対戦車榴弾『成形炸薬弾』を用い、十分に対処できたと言われてきました。
ですが近年、連邦側の資料が公開されたことで、意外な事実が明らかとなります。
「実のところ、Ⅳ号戦車はT-32を殆ど撃破できていなかったのです。
…そもそも、多くの方が成形炸薬弾を『高温のガス・メタルジェットによって装甲を融かして穴を開ける』『高温のガス・メタルジェットが車内に吹き込むため、これにより車内が焼き尽くされる』ものだと勘違いしています。
これは完全な間違いです。
あらゆる固体には【ユゴニオ弾性限界】という、『その限界を超えた固体は流体のように振舞うようになる』
成形炸薬弾はメタルジェットの圧力で目標の装甲にこれを引き起こすものであって、熱線による貫通ではありません。
加えて、当時の成形炸薬弾には敵戦車の内部を焼き尽くす能力はありませんでした。ジェットの軸線上に燃料や弾薬といった可燃物があったときに限り、火災や誘爆を引き起こしたのです」
最近の研究では、Ⅳ号戦車の砲撃で穴を開けられたにもかかわらず戦闘を継続し、さらに修理を受けて戦線復帰したT-32が相当数いたことが明らかになっています。
「実際、当時の帝国軍側資料を見ると『命中し貫通したはずだが、撃破できなかった』という報告が多く見られます。つまりはそういうことだったのでしょう」
結果、帝国軍はT-32に遭遇した場合は後退し、Ⅳ号駆逐戦車ナースホルンの来援を待つほかありませんでした。
「こちらは帝国軍戦闘車両の生産数の推移を示したデータです。
御覧ください、1926年中ごろにはⅣ号戦車の生産数は若干減少し、ナースホルンの製造数が激増していることが分かります。1927年初頭、両者の製造数はほぼ同じとなります。
ナースホルンは当時世界最強の72口径88ミリ対戦車砲を搭載しており、2,000m以上の遠距離からでもT-32の正面装甲を打ち破ることが可能でした。
実戦においては『Ⅳ号戦車が誘導し、あるいは榴弾で履帯を切断した敵戦車をナースホルンが仕留める』という戦法が多用されたとされます。
……奇妙なことは、ナースホルンの設計、開発がⅣ号戦車と同時並行で進められていたということでして…。まるでⅣ号戦車では対処できない戦車と遭遇する日が来ると
T-32そのものは極めて優れた戦車でしたが、それを実際に運用する連邦軍に問題がありました。
連邦はその成り立ちから、旧体制派と目された人物を徹底的に排除、殺害していました。このため、戦車運用のノウハウもほとんどない状態でした。
目先の勝利を望んだ現地部隊指揮官による反撃命令、党からの死守命令もあり、1926年当時、この高性能戦車は戦線に逐次投入されて失われていきました。
しかし、それでもなお連邦には強い味方がありました。
その広大な『国土』です。
「恐らく、帝国が最も苦しんだのが連邦の広さでしょう。
連邦はあまりに広く、帝国軍は常に兵力不足に苦しみました。
さらに連邦領内に踏み込めば踏み込むほど兵站も伸び、悪いことに規格の違いから鉄道を敷きなおす必要もあったため鉄道輸送が使えず、武器弾薬の使用に制限がかかっていたのです」
帝国軍の進撃速度は日に日に低下し、1926年10月ごろにはほぼ停滞します。
連邦軍は各地の都市に立て籠もって頑強な抵抗を続けていました。
――このままではジリ貧になる――
そう考えた帝国陸軍が目を付けたのが連邦西部の都市、スモレースクでした。
この地は連邦首都モスコーから西部に続く、当時の連邦で最も整備された道、『モスコー街道』上の主要な都市であり、同時にここを落とせば連邦首都モスコーまで近距離爆撃機が届くようになります。
この都市を陥落させることで、モスコーを危機的状況に陥れる。あるいは、モスコー攻略の足掛かりとする。帝国軍はそのように考えていたのでしょう。
当然、その重要性を熟知している連邦政府は守備隊に『死守命令』を出し、最後の一兵までこの町を守り抜くことを命じました。
「まさに地獄でした」
数少ないスモレースク守備隊の生き残り、イワノフ氏はこう語ります。
当時氏は17歳でしたが、スモレースク市民だったことから強制的に動員され、気付けば小銃を手に守備隊に組み入れられていたといいます。
「スモレースクは私の生まれ故郷です。そこを守るために銃を取ることに躊躇いはありませんでした。…もっとも、そのせいで家族と離れ離れになってしまったことは未だに悔やんでも悔やみきれませんが…」
「制空権は帝国軍に握られていました。そのため、我々は昼の間はビルの廃墟に息をひそめ、移動や弾薬の補給、食料の受け取りは全て夜間に行っていました。
それはもう辛いものです。
明かりがあると帝国軍の砲撃が降ってきますから、暗闇の中、明かりもない野外での作業です。10月にもなると夜間は凍えるように寒く、歩哨にあたった時など最悪です。初めの内は交代制で、少しは暖炉のある建物内で休養を取ることも出来ましたが、仲間が帝国軍にやられ、交代要員もままならなくなると……。
そしてモスコーへの鉄道が破壊され、弾薬は勿論、その日の食糧も半分に減らされました」
このような状況で、スモレースク防衛は絶望的でした。
現地指揮官から悲鳴のような報告が届けられるに至り、10月18日、モスコーにあった連邦軍最高司令部は方針を転換します。
――スモレースク守備隊は、21日日没を以て後退を開始すべし
「この方針転換の背景には、モスコー防衛陣地の完成と工場群の疎開完了があります」
オーウェン教授は言います。
「そもそもスモレースクなどの都市守備隊に出された『死守命令』自体、時間稼ぎのためのものだったのではないか、彼らはモスコー防衛のための捨て石とされたのではないか、という指摘も根強いのです。実際そのようになりましたから」
ともかく、モスコーの防衛陣地が完成した時点で、スモレースクを死守する必要性は低下しました。
いえ、スモレースク守備隊の窮状を考えれば、このまま守り続けたところで勝利の可能性は低く、無駄死にしかならないと判断されたのかもしれません。
「決め手になったのは帝国軍の攻勢です。
皮肉なことに、スモレースク守備隊の抵抗による戦線膠着は、帝国軍にも兵站状況を改善する余裕を与えることとなったのです。兵站連絡線は強化され、鉄道敷設も順調に進みました。
無論、それでも帝国軍の補給状態は万全とは程遠いものがありました。
ですが、…いえ、だからこそ、帝国軍は状況を打破するために動いたのです」
連邦軍への撤退命令が出される数日前の10月15日。
帝国軍は抵抗激しいスモレースク市正面を避け、その南北から進撃を開始します。
この動きを連邦側は『帝国軍はスモレースク包囲を企図している』と判断し、動揺します。
「そう思わせることが目的でした。
なにしろ、この時点で帝国は『ライン包囲戦』『ミルスク包囲戦』などといった、戦史に燦然と輝く包囲殲滅戦を複数回成し遂げた実績がありました。
この状態で帝国軍の動きを包囲殲滅に向けた第一歩だと
そしてそれこそが、帝国の仕掛けた壮大な罠だったのです。
「帝国が企図したのは包囲ではなく、『回廊計画』。
つまり、意図的に包囲に穴を開けることで敵軍を誘導し、巨大な蟻地獄を形成することだったのです」
ターナー氏の意見に、オーウェン教授も同意します。
「そもそも帝国軍は補給に苦しんでいました。彼らに連邦軍3個師団を包囲殲滅する力は残されていなかったのです。だからこその誘引撃滅、『回廊計画』だったのでしょう」
そうとは知らぬ連邦軍は、10月21日夜、撤退作戦を開始します。
それ以前にいくつかの部隊を試験的に撤退させて交通路を確認し、さらに帝国空軍の活動がやむ夜間を狙うという実に念入りな後退計画でした。
「ですが、この場合は裏目に出てしまいました。
そもそも夜間の軍事作戦というのは難易度が高いものなのです。夜間は視界が低下しますし、かといって軍事行動でサーチライトを使う訳にもいきません。こちらが見つかってしまいますからね。
そんな真っ暗闇の中、数個師団を後退させるという計画そのものに、いささか無理があったというべきでしょう」
これに対し、オーウェン教授は異を唱えます。
「撤退戦ということで、スモレースク守備隊は重量級装備、特に野砲の類を悉く破壊、遺棄していました。素早い後退にはそれしかなかったためです。
敵制空権下で火力支援も受けられない以上、リスクを勘案しても夜間後退しかなかったというべきです」
この点は他の研究者、評論家の間でも意見が分かれるところです。
ですが、次の一点については意見が一致しています。
――相手が悪すぎた。
私は今、ハティカから南に15キロほど離れたオゼリシェという町に来ております。
この地には1926年10月当時、スモレースク南方から進撃した帝国軍の先鋒集団が集結していました。
その名は、『サラマンダー戦闘団』。
帝国陸軍の中でも最精鋭を謳われ、当時の帝国陸軍参謀本部作戦次長、ルーデルドルフ大将が『その戦力は、実に一個師団に相当する』と評したほどの部隊です。
なにしろ、基幹の第203航空魔導大隊からして「全員がネームドクラス」といわれるほどの精鋭集団。これに加えて戦車や自走砲、機械化歩兵からなるのが、サラマンダー戦闘団でした。
「戦闘団はこの戦いの一月ほど前に結成されたばかりの部隊でしたが、203魔導大隊は勿論、それ以外の部隊も実戦経験豊富な第二親衛師団からの転属です」
「あるいは連邦軍の夜間後退を見越しての部隊配置だったのかもしれません」
いずれにせよ、戦いはあまりに一方的なものとなりました。
戦闘団の戦闘詳報によれば、21日の夜、第203航空魔導大隊が夜間撤退中の連邦軍集団をハティカ村付近で発見します。
「見つかっていたなんて、我々は思いもしていませんでしたよ」
生き残ったイワノフ氏はいいます。
「なにせ夜間行軍です。見通しは利かないし、そもそも私たちは疲れ切っていました。前を歩く戦友の後を何も考えずただひたすらに付いていく。そんな状態だったのです」
「それもまた、仕方のないことではあったでしょう」
ターナー氏はいいます。
「連邦軍3個師団に対し、203航空魔導大隊は全部で48名、実際に偵察を行ったのはそれよりもっと少ない人数だったでしょう。どちらが見つけやすいかなんて、容易に想像がつきます。
しかもヘリや航空機と違い、魔導師は空を飛んでいても音を発しません。実戦経験豊富な203航空魔導大隊ならばなおのことでしょう」
あるいは相手がサラマンダーでなければ、この後の悲劇はなかったかもしれません。
ここに、サラマンダー戦闘団が保有していた自走砲の存在が大きく関係してきます。
実は、T-32ショックの陰で忘れられがちですが、当時の帝国軍にはもう一つ困った問題がありました。
野砲の射程で、連邦軍に劣っていたのです。
「当時帝国軍の重砲で主力を占めていたのは『28口径15.5センチ榴弾砲sFH19』です。
この砲はそれまで口径が149.1ミリと155ミリの二種類に分かれ、しかもそれぞれに榴弾砲と加農砲、臼砲があったのを統合するために開発された傑作砲ですが、一つだけ問題がありました。
射程距離の短さです。
これは使い勝手の良さ、特に重量を5トンクラスに抑えるために短めの砲身を採用したことからくる問題で、その射程は13,000メートル程度でした。
対する連邦側の152ミリ榴弾砲のそれは18,000メートルと1.5倍近い開きがあり、連邦軍重砲を鹵獲してこのことに気付いた帝国軍は愕然としたと伝えられます」
この点があまり問題とならずに済んだ理由は、ひとえに『制空権』にありました。
東部戦線は膠着状態にありましたが、制空権は常に帝国側にあり、このため射撃データや着弾観測を受けられない連邦軍砲兵隊は、持ち前の長射程を活かすことが出来なかったのです。
また、移動に際しても帝国空軍に重点的に狙われたため、そもそも前線に辿り着けないことが多かったのも要因だったでしょう。
実は、帝国側にも長射程の重砲は存在していました。
それがこちらの『40口径15.5センチ加農砲Kanone19』です。
「帝国も榴弾砲の射程の短さ自体は認識していました。Kanone19はそれを補完し、また、それまで保有していた173ミリ、211ミリ級の重砲を代替、一本化する目的で開発されています。
40口径という長砲身の採用により、その射程は実に20,000メートルに達しました」
この時期の帝国軍の武器の特徴として、『偏執的なまでの互換性重視』があります。
sFH19とKanone19も例にもれず、同じ砲弾を発射可能でした。もっとも、発射装薬はまるで別物だったようです。
「ただし、この砲にはどうしようもならない、唯一最大の欠陥がありました。
重すぎることです。
その重さは実に28口径榴弾砲の
氏によれば、この動かしづらい重砲の問題解決策として、この砲を自走化する案は、フンメルの設計当初から存在しました。
「ですが、これもまたその重量と強烈な反動がネックとなりました。
Ⅳ号戦車の車体にこの重砲を載せるためには、車体を前後左右に大型化し、構造部材を強化するなどして、もはや別モノにする必要があると分かったためです」
しかし、連邦軍野砲の性能が明らかになった以上、もはや躊躇ってはいられません。規格化に拘泥し、なかなかゴーサインを出さなかった陸軍兵器局もついに折れます。
こうして開発されたのが『フンメルⅡ』だったのです。
「こちらがその『フンメルⅡ』を横から撮影した写真です。車体は前後左右に拡大され、強度も引き上げられました。それに伴って足回りや車内配置にも変更が加えられており、もはやⅣ号戦車とは言えないものとなりました。
それでもなお反動吸収に不安があったため、砲口にマズルブレーキを増設の上、車体後部にはこの『
計画自体は元々あったことから作業は急ピッチで進められ、1926年7月には早くも試作1号車が完成します。
…とは言え、新型自走砲が一気に製造、配備されることはありえません。
多くの場合、増加試作、
事実、フンメルⅡの正式採用は統一歴
「連邦軍の運が悪かったのは、その先行量産型が
オーウェン教授はそう指摘します。
「彼らは帝国陸軍参謀本部直轄部隊でした。運用成績のフィードバックという観点から、中央に直結する彼らに試験運用が任されたのでしょう。
また、戦闘団の基幹を成す203航空魔導大隊も『97式突撃機動演算宝珠』の先行量産型を受領していたという経緯がありました。その手の手続き、運用データ報告になれていたというのもあったでしょう。あるいは初代戦闘団長、ターニャ・フォン・デグレチャフ大佐が中央と強いコネクションを有していたという事情も作用したと考えられます」
こうして、連邦軍の悲劇は運命づけられました。
ときに、統一歴1926年10月21日深夜。
サラマンダー戦闘団自走砲中隊の砲撃によって、攻撃が開始されました。このとき、連邦軍は自分たちが捕捉されたことに気付いていません。
スモレースク市街地からの脱出に成功し、あと少しで友軍支配地域に到着する。その気の緩みが悲劇を招いたと後の軍法会議で指弾されています。
「何が起こったのか、全く分かりませんでした」
生存者のイワノフ氏はこう語ります。
「突然、隊列の後ろの方で大きな閃光と爆発音が轟いたのです。最初は運んでいた弾薬の類が事故で爆発したのかとも思いましたが、次の爆発が起こったとき、誰かが『敵襲!砲撃されているぞ!!』と叫んだのです。
私はそのとき初めて、これが帝国軍の砲撃だと気づきました。射撃はきわめて正確で、爆発音が轟くたび、味方は宙を舞いました」
サラマンダー戦闘団の戦闘詳報にはこのように記載されています。
『敵部隊は行軍体形のまま進行中。こちらに気付いた形跡なし』
『我が方の砲撃は、初弾よりきわめて正確に着弾し、殆ど修正の要を認めなかった』
「砲撃ははじめ我々の後方に着弾していましたが、徐々に前の方へと移ってきました。
そうなるともうパニック状態です。兵士たちは砲撃から逃れようと前へ前へと走り出し、一部は将棋倒しのような状態になりました。
部隊指揮官や政治将校殿が声をからして制止しようとしていましたが、その瞬間、空から帝国軍魔導師が襲い掛かってきました!
彼らは指揮官らを正確に狙撃しました。あとから聞いた話だと、同時に師団本部も吹き飛ばしていたようです。それでもう完全に統制は失われ、我々はとにかく前の方へと走って逃げようとしました」
とにかく東へ、友軍支配地域へ逃げ込もうとした彼らでしたが、その行く手をドルチ川が阻みました………。
<帝国軍重砲の射程不足
史実準拠(白目
対するソビエトは射程20キロ越えの122ミリ砲を持ち込んでいた。あとは…分かるな?