皇女戦記   作:ナレーさんの中の人

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イルドアにて
苦労人の肖像


どうも私には『苦労人』という役がお似合いらしい。

 

 

「何を馬鹿な」と仰る方もおられるだろう。

連邦議会議員、連邦政府国防大臣をはじめ、様々な顕職を務めたエーリッヒ・レルゲンが何を言うのか、と。

 

――だが、実のところ、そもそも私が政界に転身したこと自体、受動的な選択であった。

…そのことを知る人間は、ほとんどヴァルハラへと旅立ってしまったのだが。

その経緯を語るには戦前のライヒ、当時存在した『帝国』の状況について語らねばなるまい。

 

 

 

 

 

私が少尉任官したころ、帝国には三つの頭脳があった。

 

「政府」と「軍」、そして「官僚」。

 

いずれもその道のプロフェッショナル、エリート集団であり、帝国が誇る頭脳集団と言って過言ではなかった。そのこと自体を疑う余地はない。

しかしそれは同時に、最高意思決定権がどこにあるのか、実のところ曖昧だったことを意味する。

 

『政府』および『議会』は世論を注視し、目下の支持率を何より重視した。――その選択の先に、最終的に何が待ち受けているのか、吟味することもなく。

 

『軍』は軍事的合理性のみを信奉し、ただ「勝利」だけを追い求めた。――何を以て「勝利」とするのか、実のところ定義せぬままに。

 

『官僚機構』は体制保持を叫び、前例踏襲と言う名の保守頑迷に終始した。――停滞と国家目標の喪失が何を引き起こすのか、彼らは全く想像すらしていなかった。

 

『経済人』は戦前には不況を嘆き、開戦となるや武器弾薬の製造に活路を見出した。――支払いのツケが結局どこに回るのか、彼らは目を逸らし続けた。

 

…ああ、『貴族』とやらの存在も忘れてはならないだろう。

そのころには実際の権力をほとんど喪失していたものの、彼らは政財界に厳然たる影響力を残していたから。当然、それに連なる『帝室』や『宮中』といった世界のことも忘れてはならない。

 

 

 

『帝国、それは勝利である』と高らかに謳いながら、その内実は御覧の通り。

 

それらは互いに絡み合い、あるいは対立し、またある時は足を引っ張り合った。

強力な指導者、調整役がいれば話は違ったのだろう。

――否、それこそが帝国における『皇帝』の役割であり、そのための『皇帝大権』だった筈だ。

 

…だが、それはプロイツフェルン王国以来の「伝統」であり、「神話」であり、実際のところ、帝国が列強の一角を占めるころには権力と切り離された「権威」になっていた。

 

時代を経るにつれ、帝国の実際の政治は政府によって、立法は帝国議会によって差配され、皇帝は大権を有するものの、実際には承認という名の追認を行う存在となっていた。

司法についても、表向き「法の解釈は、最終的には皇帝陛下のみが決定しうる」とされていたが、その実態は最高裁判所の判事らが熟慮と議論を重ね、奏上し、それに対して皇帝陛下は裁可を下すというものだった。

実際の行政も各省庁の官僚によって担保されており、軍もまた、専門家たる参謀将校らに差配されていた。

 

それ自体を誤りと言うことは出来ない。

 

専門家に実務を委ね、皇帝がそれにお墨付きを与えるという方法は、なるほど、近代国家の支配秩序としては理に適っていたのだから(何しろ皇帝は世襲制だったから、幼児がその座に就くことも十分あり得た)。

 

 

 

『帝室は名誉と伝統を司る』

 

 

そう言い表したのは誰だったか、実に正鵠を射ていただろう。

軍、官僚、政治のスクラム。

それに裁可と言う名のお墨付きと権威を与える『皇帝』という存在。

建国当初において、それは三つの頭が相互補完し、かつ切磋琢磨する三位一体の政治体制として機能していたに違いない。

彼らは時に対立を孕みながらも、帝国の勃興期においてはただ一つの目的を追求する『同志』たりえたのだ。

 

――そう、「母なるライヒ、()を統一する偉大なる帝国」という単純な共通の目標を追い求めている間は。

 

なればこそ、帝国は「遅れてきた」統一国家でありながら、列強の中でも頭一つ抜きんでた国力を手に入れたのである。

だが、帝国が列強の一角を占める大国となったとき、その「帝国というただ一つの目標」は喪われた。

 

 

共通目標を失った三つの頭はバラバラに動き始め、帝国は分裂し、分断され、迷走した。

 

 

何よりも哀れで、いっそ滑稽ですらあったのは、当の帝国人ですらその事を自覚していなかった――あるいは見て見ぬふりをしていた――ことだろう。

かくいう私自身、その病巣に囚われた一人だったことを白状せねばなるまい。

「軍人たるもの軍事に専念すればよく、むしろそれ以外に関わるべきではない」と…。

誰も彼もが国家への献身、帝室への忠節を叫び、その実、互いを無視して気にも留めず、挙句、無意識のうちに我こそが帝国の『頭脳』であると考え、一つしかない体を別々に動かそうとする始末。

 

…こうしてみると、あの時既に――あるいはそれ以前、それこそ史上初めて『ライヒ』を統一するという使命を果たした時点で――、帝国は国家としての命数を使い果たしていたのかもしれない。

 

無論、この問題に気付き、帝国の再生、延命を図った人物もあった。

誰あろう、最後の皇帝陛下、ツェツィーリエ・フォン・プロイツフェルンその人である。

 

彼女が帝国の現状、特に皇帝権力の有名無実化を熟知していたことに疑いの余地はない。

なにせ、『皇帝機関説』という用語を造ったのは彼女なのだから!(この点は、多くの歴史学者も認めている)

 

統一歴1926年当時、陛下はまだ皇太女殿下であったが、その肩書は多岐にわたっていた。

「統合作戦本部名誉議長(のちに統合作戦本部総帥)」「皇女摂政宮」「帝国軍最高司令官代理」などなど、私がぱっと思い出せるだけでも5個くらいはお持ちだったように思う。

…これ以上は軍機に触れるため、詳しく話せないのがもどかしいが、ともあれ戦後、政界を渡り歩くうち、私は陛下の意図に気付かされることとなる。

 

 

――あれは「キメラ」と化した帝国を、なんとか集約しようとする試みだった。

 

 

その試みは統一歴1915年ころに始まり、足かけ10年を経てようやく形になりつつあった。既存の官僚組織、国家体制を破壊せずに権力を掌握する――力による短期間での権力掌握は大抵碌な結果にならない、それは歴史が証明していると、陛下はよく仰っていた――ためには、それだけの時間が必要だったと言うことだろう。

 

…ああ、多くの人間が誤解しているのでここで言っておくと、ツェツィーリエ陛下の本質は「歴史家」であった。

驚かれることだろうが、少なくとも本人は自己をそのように定義していたし、私自身、陛下の歴史知識の多さには幾度となく驚かされたものである。曰く…。

 

――実のところ、歴史をひも解くと『似たような事例』は何個か転がっているものさ。ゆえにそれらを分析し、現下の情勢と突き合せれば、自ずと「次に何が起こるか」は想像がつく――

――『歴史は繰り返す』という言葉を君も聞いたことがあるだろう。それも大抵ネガティブなニュアンスで。だがそれは違う。『歴史に正しく学ばなかったからこそ、似たような失敗を繰り返す』のだ――

 

あの大戦終結から50年近くが経とうとしているが、これらの言葉は私の中で重みを増すばかりである。

…話を戻せば、「絶対王政の末路」「恐怖政治の結末」という歴史を知悉していた皇女殿下が、それにも拘らず、迂遠な方法を取ってでも国権を掌握する必要があると判断する程度には、帝国の病は深刻だった。

 

 

今日の議会制民主主義に慣れ親しんだライヒ連邦国民からすれば、陛下の試みは許しがたい暴挙、絶対君主制への逆行と映るだろう。実際、ツェツィーリエ陛下の治世は、半ば絶対君主制だった。

だが、弁解させてもらえば、当時の帝国の民主主義は――帝国議会こそ成立していたとはいえ――、今日のそれとは比べ物にならぬ、ハッキリ言ってしまえば「虚弱体質の子供」であった。この子供はあまりに脆弱で、ライヒという領域を統べるには経験も能力も不足していた。

それが「民主制ライヒ連邦」に成長できたのは、ひとえに帝国崩壊という絶体絶命の窮地、言い換えれば「自立せざるを得ない状態」に追い込まれたからに他ならない(異論はあるだろうが、私自身はそのように考えている)。

 

 

 

 

話を統一歴1920年代に戻そう。

そういう訳で、脆弱な民主主義を頼みに出来ぬ以上、多頭政治の弊害を除去するには皇帝権力の確立による一元指導しか道は無かったのである。

実際、同時期の軍首脳部も『予備計画』、すなわち「ツェツィーリエ殿下を推戴しての軍事独裁政体樹立構想」を検討していたくらいである。

まぁもっとも、他ならぬツェツィーリエ殿下ご自身に却下されてしまったのだが(歴史を知る殿下ならば、当然の却下だったろう)。

 

かくてツェツィーリエ陛下による国権掌握の試みは漸次実行され、即位と共に完成された。…尤も、その様なゆっくりとした、言い換えれば穏健な方法であっても、『抵抗』があったのはよく知られているとおり。

現代の極右団体が口にする『背後からの一撃』という言葉は適切ではないが、的外れとも言い難い。

 

 

 

――実際、帝国は敗れたのだから。

それ自体()()()()()が、少なくとも、当時の帝国軍人にとっては「負け」だったのである。

 

 

 

元帝国軍人の「戦後」は、まさにその認識から出発したといって過言ではない。

彼らは――彼らは、という主語を使ったが、当然そこには若き日の私、エーリッヒ・フォン・レルゲン准将も含まれる――必死に考えた。

 

「なぜ我々は敗れたのか」、と。

 

辿り着いた結論は、「軍と政治、官僚の著しい乖離と無関心、国家戦略の欠落」であった。

三権分立は近代国家の大原則である。しかし、それは相互の連絡、関心、注視、なにより監視が失われたとき、容易く亡国への一本道と化す、と。

かくして軍の代理者、代弁者、あるいは政界への刺客として、参謀将校の中から誰か一人を代議士として新生ライヒ連邦議会に送り込むという計画が実行されることとなったのである。

 

 

…そう、それが私である。

 

 

もっとも、この計画の立案者にして、ライヒ連邦軍初代参謀総長、ハンス・ゼートゥーア閣下に呼び出され、立候補に必要な書類を手渡されたとき、私の胸中はまさに「白羽の矢が立った」気持ちであった。

――さもありなん。

先祖代々軍人という家に産まれ、軍人として務めてきただけの若造に政治のあれやこれが分かるはずも――。

 

――いや、分かってしまったのだ。

なにしろ、私は戦中、イルドアを介しての和平交渉、所謂『イルドア・ルート』に深く関与していた。

本来それは外務省が所管すべき事柄であったが、諸般の事情から、そのルートはゼートゥーア閣下から私を経て、イルドア王国のカランドロ大佐、ガスマン大将に接続されていた。

そこには帝国外務省のコンラート参事官――後のコンラート外務大臣その人である――も参加してはいたが、彼はどちらかというとアドバイザーのような立ち位置であり、『イルドア・ルート』は、帝国とイルドア相互の陸軍同士の外交ルートとして成立していた。

 

いやはや、こうしてみると、軍が外交を司るという時点で、当時の帝国もイルドアも異常だったと言わざるを得ない。

ともあれ、そういう訳で私は軍人であるにもかかわらず、戦時中から政治と外交にどっぷり首まで浸かっていた。それこそが、私が選ばれた理由だったろう。

 

 

 

…さて、この度、縁あって回顧録を書き記すことになった訳だが、差し当たってその『イルドア・ルート』の前段から話を始めることとしたい。

何故ならば、先ほど触れた通り、それこそが私が初めて経験した政治、外交であり、「政治家、エーリッヒ・レルゲン」が生まれた瞬間だったからである。

 

 

~統一歴1975年刊行『エーリッヒ・レルゲン回顧録』序文より~

 

 




前半部分になる予定が、予想以上に長くなったので分割投稿
後半?…年度内に出来るんじゃないかな(目逸らし

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