悪いひとたち ~南方深海泊地へようこそ!~ 作:シャブモルヒネ
これはガダルカナル島奪還作戦の後、隠された真実を知ったときの新貝の記憶。
けして忘れてはいけなかった記憶。
死んだときの記憶。生まれなおすまでの記憶。
最悪な気分で目が覚める。
今にも吐き出しそうなむかつきで呼吸が乱れ、その波が収まるまでひたすら耐えるしかない。
額を床に押しつけ、鼓動を無心で数える。十を数え、五十を越え、そして百を過ぎてから、ようやく新貝貞二は顔を上げることができた。
そこは、暗闇だった。
狭い部屋。ドアの中心には丸い窓があり、そこから見えるのは墨を流したような純粋な黒。全ての光を閉じ込める宇宙の大穴に似た暗がり。それに新貝は見覚えがあった。あの黒は、恐らく星のない夜空だ。
(ここは、どこだ?)
立ち上がろうとして腕を動かせないことに気付く。手首に、鈍い痛み。後ろ手にきつく固定されている。どうやら縛られているようだ。少し身体を動かしてみる。腕以外に不自由なところは無い。どうやら壁などに繋がれているわけではないようだ。ただ両手のみが拘束されている。
見えず、動けず。
しかし分かることもあった。壁に押しつけた肩から伝わる振動、そして身体の芯で感じる僅かな慣性。恐らく何かの乗り物――船の中にいると予測する。
深呼吸を一つ。
身をよじると全身が汗にぬれて気持ち悪かった。まるで悪夢を見た直後のようだ。
(――悪夢、か)
その単語と連動するように記憶が浮かび上がる。
この現実がただの悪夢ならどれだけ良いか。
握りしめた拳。
黒井の顔を殴りつけた記憶。
怒りのままに激情をぶつけても、焼けつくような憎悪は収まらなかった。
下士官たちに取り押さえられなかったら一撃では済まなかっただろう。
海軍の一施設を取り仕切る立場でありながら上官に対して暴行事件を起こした。誰が見ても大問題。しかし新貝は微塵も後悔していない。人の部下を見捨てたうえに救助も出さないような男を殴らずにいる方が恥だ。
だが、ここにいたって重要なのはそこではない。
新貝はその後の記憶を辿る。
独房に放り込まれた後に知った情報こそが問題だった。
顔面蒼白になった雲龍がもたらした機密。見張りの目を盗んで渡されたそれは、常軌を逸した代物だった。
『艦娘の深海棲艦化における要因と変質後の特性についての研究と推定』
それは文字で見るのもおぞましい類の資料であり、そんな研究が海軍内で密かに行われているという事実を示していた。
更には、その実行と秘匿を行ったのが誰であるかという証拠まで揃っていた。
黒井成一。
それはガ島奪還作戦総指揮官の名前だった。
ここに至って新貝はようやく真実を知った。
なぜ、練度の低い清霜が、今回の作戦メンバーに選ばれたのか。
なぜ、彼女の護衛退避が許されなかったのか。
なぜ、単独待機を命じられたのか。
なぜ、救助隊が編成されなかったのか。
『新しい検体が必要であり』
その時もしも営倉に入っていなかったら、新貝は何をしていたか分からない。目の前が赤く染まる錯覚。まるで冷静さを保つことができない。
怒り。それに支配されそうになったとき、新貝は目の前で不安そうに覗き込む雲龍の姿で我を取り戻した。
こんな情報を知ったとばれたらどうなる?
まず命はないだろう。
それだけ危ない案件だった。
しかし逃げようにも、新貝を閉じ込めている鉄格子はびくともしない。それに、仮に脱走できたとしてもこの狭い島から自力で逃げ出せない自分は、その時点で詰みだ。どう足掻いても逃げ切る手段が無い。
ならばせめて雲龍だけは第二の生贄にされる前に逃がさなければならない。
そう思って彼女を必死に言いくるめた。「ブイン基地へ逃げろ、あそこの提督には貸しがある」「自分は後から脱出する手筈があるから大丈夫」――そんな嘘をついて、混乱する雲龍をどうにか退室させるだけで精一杯だった。
新貝に分かるのはそこまでだ。
果たして雲龍は無事に逃げ切っただろうか。囚われの身である新貝には知る由もない。
僅かな足音が、耳に届く。
新貝は思考を中断させて顔を上げた。
その足音は新貝のいる部屋の前で止まり、ドアノブをゆっくりと動かした。
潮風で錆びた扉が甲高い音を立てて開く。
部屋に灯りがつく。
新貝は眩しさに顔を歪めた。
「――大事な、大事な、機密情報を、簡単に見つかるような場所に置いておくとはな」
よく知っている声が聞こえた。
「軍警察の質も落ちたものだよ。貴様もそう思うだろう? 新貝貞二」
ゆっくりと目を開けた先でこちらを見下ろしていたのは、新貝のよく知っている男だった。
真っ白いフラッシュメモリを手の中で弄ぶその男は、前作戦の総指揮であり、階級に従うならば敬意を払わなければならない相手であり、同時に最も憎い仇だった。
黒井成一。
線の細い優男。柔和な表情で語りかけてはいるが、その笑みは偽りであることを新貝は知っている。こいつは見た目通りの人間ではない。地獄の鬼も裸足で逃げ出す悪逆非道そのものだ。
その男が今、目の前にいる。余裕綽々な様子で新貝から没収した記録媒体を胸ポケットにしまいながら、こちらに向けて片眉を上げてみせた。
「おお痛い、痛い。貴様のせいで奥歯が一本抜けてしまったよ。そんな体力が有り余っているなら陸軍にでもいけばいいものを。それとも本当は、陸の猿どもの諜報員だったりするのかな?」
「だったら後ろから誤射できたんだがな」
全ての元凶を目の前にして何も出来ないとは情けない限りだ。新貝は悪態をつくしかない。
黒井はわざとらしく肩をすくめてみせる。
「スマートで、目先が利いて、几帳面。貴様とは正反対だ。まったく、貴様のように粗暴な人間が同期とは、まったく信じがたい事実だよ」
言ってくれる――新貝はカッと熱くなりそうな気持ちをどうにか噛み殺す。
「それはこっちの台詞だ。こんなクソ野郎と同期だなんて、吐き気がするぜ」
そう、目の前の男は同期だった。
仲が良かったわけではない。ただ軍大学で有名だったから知っていただけだ。成績優秀にして冷静沈着、周りをよく気遣い、振る舞いは紳士的。完璧を絵に描いたような人間だった。
新貝はショートランド泊地に着任する直前、先だって提督になっていた彼に習うために佐伯湾泊地を訪れたことがある。その時のことは強烈に印象に残っている。その泊地では、戦争を生業としているはずの艦娘たちが目を輝かせ、希望をもって活き活きと働いていた。こんな軍施設が存在するのかと驚き、同時に彼のような提督に成りたいと密かに尊敬の念さえ抱いていたのに。それがどうして、たかが半年見なかっただけでこんな、こんな――
「クソ野郎だって? この私がか?」
「他のなんだというんだ? この期に及んで取り繕うのはやめろ。俺をこんなところに連れてきたのは、お前の正体を知ったからだ。違うか?」
「ふん。その通りだ。これから貴様は海の底に沈むことになる。……が、話次第ではその限りではない」
「なんだと?」
意外な言葉。半ば覚悟を決めていた新貝は面食らう。
しかし、続く言葉は到底受け入れがたい提案であった。
「ショートランド泊地は南方海域の最前線だからな。そこの提督であるお前ならば検体確保の機会には事欠かないだろう。今後の協力を約束するならば助けてやってもいい」
――ぶっ殺してやる、と新貝は思った。
そんな感情を誰かに向ける日がくるとは思わなかった。
「ふざけるなッ!! 誰がそんなことに手を貸すかッ!」
対する黒井は、心底厭そうに顔をしかめただけだった。
これ見よがしに溜め息までついて、吠え立てる狂犬をぎろりと睨む。
無言を貫くのは、獣相手に話す言葉はないと知らしめるためだ。自由を奪われた今の新貝はまさしく捕縛された狂犬の体。
とはいえ新貝だって、このまま吠え続けても意味が無いと悟る程度には人の理性を残していた。
「――いちいち、大声を、出すな。五月蠅いやつめ」
そう蔑視する黒井の目に、新貝が想像する狂気は無かった。悪夢のような任務を遂行している奴は、その中身も悪魔のように狂っているのだと思っていた。しかし、黒井成一はただの人間である。そんな当たり前のことに新貝は初めて思い至る。
ふと、思う。
この男は何を目的としているのだろう。
善行・悪行の区別なく、人は理由なくして動かない。
まして、黒井は誰からも認められたエリートだ。気まぐれでこんな悪事に手を染めるはずがない。何か理由があるはずだった。
傲然とした態度を眺めるだけでは何も読み取ることはできない。
黒井は腕を組んで壁に寄りかかると、ようやく冷静さを取り戻した新貝にこう問いかけた。
「人類は、深海棲艦に勝てると思うかね?」
「……」
戯言はいい、さっさと殺せ――そう叫びたい気分だったが、新貝の諦めの悪い部分が生存を訴えていた。生きてここを切り抜けて、全ての悪行を公のもとに晒してやる。そうしなければ犠牲となった清霜が浮かばれない。そう思い直してこっそりと拘束を外そうと試みる。
しかし両腕の拘束は固く、緩みそうにない。今は時間を稼いで別の方法を探すしかなかった。
「おい、さっさと答えたまえよ」
新貝は聞こえよがしに舌を打ち、渋々ながら会話を続けることにした。
「深海棲艦に勝つことが、俺たちの――いや、提督の仕事だろう」
「模範解答は要らん。聞いているのは貴様の考えだ」
「へっ。勝つって簡単に言うがな。そりゃ深海棲艦を滅ぼすってことか?」
「ああ、そうだ」
さりげなく部屋の隅々に視線を巡らせて使えそうなものがないか探す。
何も、無い。
憎たらしいほど物の無い部屋だった。
「そんな先のこと、知るかよ。局所的には勝ててはいるが、手に入れた土地を維持できていない。良く言っても一進一退。向こうの総力も生態も把握できていない以上、今後の予測なんてできるわけがない」
「まあ、貴様の立場で分かるのはそんなところだろうな」
黒井は大仰に腕を組んで目を細める。
「実は深海棲艦の勢力分布と総数はそれなりに分かっている」
「なんだと?」
「レーダー観測の技術は確立しているのだよ。それも機密情報ではあるがな。……とにかく、我が国とその周辺の深海棲艦の動向ぐらいは把握しているというわけだ」
「それで? 敵の数が分かったからどうだっていうんだ?」
「結論から言えば人類は敗北する」
黒井は憎々しげに顔を歪めて、虚空を睨む。
「貴様のような新米提督には知らされていないが、南方海域は艦娘で対抗できるだけマシなのだ。例えば西方海域では、深海棲艦の勢力が拡大しすぎてどこの国も手がつけられなくなっている。周辺の国は機能しておらず、国連の戦力も半年前に撤退している」
「なんだと……」
「東南アジアのある国では百匹の空母棲鬼による絨毯爆撃が行われていくつもの街が文字通り地図から消えた。しかしよく聞け、それは別段、人類を狙った攻撃ではない。空母棲鬼たちは他の郡体に対抗する拠点を作るため、掃除のつもりで爆撃したにすぎん」
「他の、郡体だと?」
「そうだ、西方海域では深海棲艦で構成された複数の郡体が合い争っている。現在確認できているだけで六つ。全てが大規模以上だ。人類ではもはやその縄張り争いに横槍を入れることすらできん」
――大規模が、六つ?
(そんな馬鹿な話があるものか。“大規模”といえば我が国の精鋭をかき集めた総力ともいえる大艦隊をぶつけてようやく勝機が見える相手だ。それが一つの海域に六つ? もし本当の話なら、全人類が一致団結でもしなければ……)
違う、そうじゃない。新貝は頭を振って思考を切り替える。
「……勝手に潰し合っているっていうなら、放っておけば済む話じゃないのか」
思いつきを口にする。
しかし黒井もそのぐらい分かっているとあっけなく切り返す。
「それではなんの解決にもならん。何故なら、深海棲艦は沈んでも復活することが分かっているからだ。総数はほとんど変わらんのだよ。だがそれだけならまだいい。復活した深海棲艦は別の郡体に加わることがあるのだ。つまり、勝利した郡体はどんどん大きくなっていくことになる」
まるで泡と泡がぶつかって一つになるように。
無秩序にひしめく深海棲艦たちが徐々に統率され、雲霞のごとき大軍として進化していく。それは身の毛もよだつ光景だった。
「西方海域の深海棲艦はそれを知っているからこそ殺しあってるのだ。敵を減らし、味方を増やすためにな。五年前には西方海域に大規模郡体なぞ一つもなかったが、今では六つ。情報部の予測ではこの共食いの流れは更に加速するらしい。奴らが一つの超大規模郡体として統合されるのは一年後か、それとも二年後か……。その大郡体が更なる敵を求めて外の海域に進出したときが、人類の最期だ」
「……それで、艦娘を使って深海棲艦の研究ってわけか」
「その通り」
黒井は我が意を得たりとばかりに頷く。
「深海棲艦の復活を止める方法を見つけねばならん。生態に関しては徐々にデータが蓄積されてはいるが、肝心の弱点についてはまだ何も分かっていないに等しい。なにせ、復活を繰り返した継ぎはぎの深海棲艦では良いデータが取れんのでな、活きのいい深海棲艦が必要なのだ」
黒井は壁から背を離し、新貝に向き直る。
暗い笑み。
新貝に予感が走る。こいつの言うことに耳を貸してはいけない。おぞましいことを考えている。
「ここサーモン海で沈んだ駆逐艦の名は、確かそう、清霜といったか」
新貝は嫌悪感に身震いする。人でなしの口から清霜の名が紡がれたことに総毛立つ。目の前の男はきっと許しがたいことを言おうとしている。それを聞いてしまえば殺意を抑えることができなくなるという確信があった。
だというのに、目の前の男は、死んだあの娘の魂までも汚すと平気で口にするのだ。
「清霜が復活したら、捕獲して、実験だ。三回目ぐらいまでは有用なデータになるだろう」
それは絶対に聞き捨てならない言葉だった。
「黒井ッ! そんなことのために清霜を見捨てたのかッ!」
「何を怒る? 人類のために死ぬという意味では、戦って死ぬのも実験のために死ぬのも同じことだ。ましてその清霜とやらは戦果一つ上げる見込みの無い役立たずだったのだろう? 有用に使ってもらえると、感謝してもらいたいぐらいだね」
「てめえ、ぶっ殺してやるっ!!」
「おい、勘違いするなよ。私が殺したわけじゃない。無能が勝手に死んだのだ。確かに死地に追いやったかもしれんが、被弾したのは自分のミスだろう? それを棚に上げて私のせいにされても困る」
「同じことだっ! てめえ、何人沈めるつもりで出撃させたッ!?」
「チャンスをくれてやったのではないか。勝って戦果を得るか、負けてデータになるかのな。安心しろ、練度の高い艦娘は安全に撤退させている」
「艦娘の生き死にを、強いか弱いかで――――!!」
それ以上は言葉にならなかった。意味不明の叫びを喚き散らすが、黒井は一切の痛痒を感じていない。弱者の言葉など聞く価値もないと新貝の醜態を見下すだけだ。
「……ふん。あるいはこちら側に引き込もうとも思ったが無駄のようだな」
「誰がてめえなんかとッ!」
その時、警報が鳴り響いた。
不安を煽る音程が室内に反響する。
黒井は腰元から通信機を持ち上げた。
「報告しろ」
『少将、進路上に深海棲艦です! その数、六隻!』
「撃退指示を出せ」
それだけ言うと通信機を切る。
興奮収まらぬ新貝。しかし黒井のベルトには拳銃がぶら下がっており、逃げ出す隙も飛びかかる隙も見当たらなかった。せめてこの手の戒めさえどうにかなればと歯噛みするが、ナイフやライターのような便利な道具が都合よく手に入るわけがない。
新貝は目の端に涙さえ浮かべて慟哭する。
悔しい。
何もできない己の無力さと、何も防げなかった己の不甲斐なさがただ悔しかった。
怒りのままに狂うことができたらどれだけ楽か。同時に、そんな意味のないことを考える自分を殴りつけたい気分だった。
新貝は冷静さを取り戻すため、意識して大きく深呼吸する。
己の無力さを嘆いてもどうにもならない。とにかくこの場は話を続けるしか道はないのだ。
「……ここには艦娘も同行してるのか」
黒井は、深海棲艦を撃退すると言った。そんなことができるのは艦娘しかいない。つまり、艦娘もこの任務に従っているのだ。このおぞましい任務に。
「うちの連中をどうやって納得させたか知りたいか? 残念、何も教えていないだけだ。あいつらが知っているのは、“深海棲艦を捕まえる”ということだけ。……もっとも、薄々感づいているとは思うがね」
(ということは……)
この部屋を抜け出して外の艦娘に助けを求めれば、あるいは助けてもらえるかもしれない。そんな新貝の考えを察したわけではないだろうが、黒井はその逃げ道をあっけなく潰してしまう。
「感づいた上で、従っているのだ。分かるか? 艦娘というのは所詮、我が身可愛さで仲間さえ売る生き物なのだよ」
「そんなことはない!」
「ほう、ならばどうして行動に移さない?」
「分からないのか? お前を案じているんだ。いつか目を覚ましてくれるのではないかと!」
吠える新貝に、黒井は片眉を上げて訝しむ。と思ったら突然、腹を抱えて笑い出した。
「おめでたいことを言う奴だ! 貴様が性善説を信じているとは知らなかったよ!」
尚も笑いを止めない黒井を、ただ見つめる。
かつてはこんな男ではなかった。むしろ黒井こそがお人よしで、だからこそ人望があり、佐伯湾泊地の艦娘たちも信頼を寄せていたのだ。
「お前は、どうしてそこまで……。俺が佐伯湾で見た光景はなんだったんだ……?」
その呟きに、黒井はぴたりと笑うのをやめた。遠い目をして、新貝と佐伯湾、その関連性に思いを馳せ、すぐに心当たりを見つけた。
「……あの時の私は、まだ何も知らなかった」
苦々しい表情で、絞り出すように零した。
「私の家族はな、深海棲艦に殺されたのだよ」
唐突に、黒井はそんなことを言った。
「仇のためには何でもすると誓った。だが仲間であったはずの艦娘こそがその前身だと知った。滑稽な話だとは思わんか? 共に戦おうと手を取った相手こそが将来の敵になるのだ。奴らは一様に好意をふりまいて人類のためにと嘯くが、いざ時が来れば笑いながら人を殺す化け物になる。艦娘を仲間だと思うな。あれは擬態だ。深海棲艦に成るまでの防衛機能に過ぎない」
これこそが黒井の本音なのだろうと思う。
新貝の同期の中で最も優秀で、真っ直ぐに理想を体現し、誰からも好かれていた男は、しかしたった一度の裏切りが原因でそれまで築いた全てを捨てたのだ。
くだらねえ、と新貝は心中で吐き捨てる。辛い目に遭ったからなんだというのだ。お前がどれだけ憎かろうと、お前の家族を殺した深海棲艦と全ての艦娘の間には、何の関係もないじゃないか。
自分の部下たち――ショートランドの艦娘たちの顔を思い出す。彼女たちの好意を演技と言われては新貝も黙ってはいられない。一年に満たない期間でも艦娘たちと接してきた一提督として、けして譲れないものがある。
「そんな思い込みでこんな馬鹿をやらかしたのか? お前は佐伯湾で何を見てきたんだ? 憎しみを正当化したいだけの奴が、分かったような口をきくんじゃない!」
新貝の反論に、しかし黒井はあっけなく首肯する。
「ふん、確かにそうかもしれん。だがな、仮にそうだとしてもだ。私はもう奴らの側には立てんよ。疑わしいだけで生かしておけん。許せんのだ。なのに、奴らの力を借りねば深海棲艦一匹殺せない。それがまた忌々しい。どうして仇の前身と知りながらその手を取るしかないのだ?」
本当に、本当に忌々しそうに吐き捨てる姿を見て、ようやく黒井という男の本性を知ることができたように思う。
この男は憎しみにとらわれて、そうと自覚しているのに抜け出そうとも思っていない。ただ怒りを晴らすためだけに生きている。そんな男が、今更ただの一同期の言葉で改心するわけがない。
つまり、黒井に対して新貝ができることは何も無いのだ。
「確かに今の私は復讐だけが生き甲斐なのだろう。だがな、貴様もすぐにこうなるぞ。貴様の信頼する部下も、深海棲艦になれば貴様に牙を剥く。獣となって貴様の大切な者を襲うだろう。それでいいのか? 奪われてからでは何もかも遅いぞ。先手を打つべきだと思わんかね?」
「馬鹿なことを……!」
そこで、黒井の通信機に再び反応があった。
「なんだ」
『し、深海棲艦の群れが……』
「どうした、落ち着いて報告しろ」
『新手です! 数は、十以上!』
「多いな。ガ島の生き残りか? うちの連中は?」
『ま、まだ戦闘中ですが……』
「引き受けさせろ」
『……し、しかし三倍の数を相手にすることになりますが』
「どぉーーうでもいい」
『は?』
「有能ならば生き残る。全滅するならそれまでだ。ああ、我々は撤退できるよう準備はしておけ」
『はっ、はい!』
無情にも通信をきった。
黒井は本気で言っている。自らを慕う部下たちのことを数字としか見ていない。彼にとっては苦楽を共にしたはずの直属の部下ですら、今やただの人的資源でしかない。
「さて、できれば清霜とやらに会わせてやりたかったが、どうやら難しいようだ」
その言葉に消えてしまった清霜の顔が浮かぶ。出撃直前には希望に満ちていた彼女の顔が。しかし、それも今はもう。
「深海化した部下を見れば、貴様のくだらない人道主義も崩れると思ったのだがな」
全てはこの男のせいだった。
「黒井ィ……!」
黒井は関わる者全てを苦しめて、その様を見て喜ぶ外道だ。もし奴を呪うことができるなら、それこそ悪魔にでも魂を売ってやろう。
「お前は、最低の、クソ野郎だ!」
「ふん」
しかし黒井に一切の動揺はなく。
腰の拳銃へと手を伸ばした。
「それこそ、どぉーーうでもいいことだ。私はこの世から深海棲艦とその前身を絶滅させること以外に興味は無い」
話は終わりだ、と今度こそホルスターの止め具を外す。
そこに飛びかかる隙は、無かった。
死ぬのは不思議と怖くない。しかし敢えて未練を一つ挙げるなら、せめて一目だけでも清霜に会いたかった。深海棲艦になっていても関係ない。例え無駄でもここから逃げろと伝えたかった。このまま彼女に対し何もせずに逝くのはあまりにも無責任だと思う。それこそ死んでも死にきれない。
と、黒井の通信機に三度目の反応があった。
「ちっ、忙しない」
忌々しげに応答する黒井。
「今度は何だ!」
『しっ下にっ!』
通信機から飛び込んできたのは、今までになく切羽詰った声。
『とと、突然現れましたっ! この船の真下です!』
その声はもはや悲鳴に近かった。
『目標はっ! この船の真下にいますっ!』
「……っ!? 目標の駆逐艦か!」
『はっ、反応が……魚雷です! きます! うわああっ!』
床が抜けたような浮遊感。
全身を貫く轟音とともに部屋そのものが斜めに振動した。
「ぐぅっ!」
「……っ!」
黒井は転倒し、その胸ポケットから白いフラッシュメモリが落ちて部屋の隅へと滑っていくのが見えた。新貝は必死に床に這いつくばる。
魚雷。
目標の駆逐艦。
この船を攻撃したのは、もしかすると――
(清霜なのか? 本当に、清霜が……)
確信なんてない。ただ黒井がそれらしいことを言っただけで。
顔を上げると、部屋の出口から外の世界が見えた。衝撃でドアが外れていた。
飛び出す理由は充分だった。
新貝は走り出す。バランスを崩した黒井を尻目に、海が見える甲板に向かって。
(清霜!!)
屈託なく前向きで、誰よりも努力家だった清霜。しかしその寂しげな横顔がなぜか瞼から離れない。彼女の傍に行かなければならないと思った。俺がいるぞと知らせたかった。
ドアを飛び出て、船の縁にへばりつく。
夜の世界。
遥か彼方では探照灯の光と小さな炎が浮かびあがって、それが艦娘と深海棲艦の戦闘だと知ることができた。
他は空間は全て闇。
誰かを探すなんて不可能だ。
(いや、さっきの無線では真下にいると言っていた!)
とにかく清霜を探そうと縁から下を覗き込み、
その時、背中に灼けた鉄棒を押し当てられたような激痛が走る。
「ぐぁっ!?」
背中の筋肉が引きちぎられるような痛みがあった。それが銃弾によるものだと遅まきに気付く。
背中を、撃たれた。
「――ああ、そんなことより小型船を降ろすんだ。そう、脱出用の……そうだ。この船は船底をやられたんだろう? ならば沈没を免れたとしても、航行できなくなる可能性が高い」
後ろから届く声。振り返ると追ってきた黒井と目が合った。通信機を耳に当てながらにやりと笑う。反対の手には紫煙が立ち昇る拳銃があった。
そのままゆっくり歩み寄ってきて、苦しむ新貝の前で立ち止まった。
新貝は船の縁に身を預けるだけで精一杯だ。
「……ぐ、ごほっ!」
「聞いて驚け、お前のところの雲龍が来ているらしいぞ。あそこだ、ようく見てみろ」
「う、……はぁ、はぁ、ぐっ」
「空母が、夜に、単独で! ……ククッ、何をしに来たのだ? 全くもって理解できんよ」
声が上手く出ない。肺が引き攣ったように収縮して呼吸一つするにも痛みが走る。
動けない新貝を捨て置いて、黒井は不意に遠くを眺めた。遠方で戦う艦娘たちを見て、少しだけ嘆く。
「……的が一人増えたぐらいではやはり勝てんか。手塩にかけて育てたつもりだが、数の差は覆せんようだ」
それに応える余裕は、新貝にはなかった。
喉に、そして全身に力が入らない。己の状態を悟る。これは恐らく助かるまい。それでかえって開き直ることができた。どうせ死ぬのなら余力を残す必要はない。
「せん、てを……」
「ん?」
「先手を、打つべき……と、ごほっ! 言ったな……」
「ああ? 艦娘の話か? そうだ、奴らはどうせ深海棲艦になるのだ。ならば大した戦果も残せない艦娘に資源を使ってもマイナスでしかない。そのぐらいの理屈はお前でも分かるだろう?」
黒井の屁理屈にいちいち付き合う余力は無かった。
だから一つだけ、言いたいことを言うことにする。
「話、を、しろよ」
沈んだ者の全てが深海棲艦になるわけではない、とあの資料にはあった。
ならばその条件はなんだ? ただの艦娘や人間が、人語も通じぬ化け物に変貌するのはどうしてだ?
それは“こんなこと”をされたからではないか?
彼女たちは、このような謂われなき悪意に晒されたからこそ人類を憎んで化けるのではないか?
証拠は全く無い。けれど、新貝は自分の直感は間違っていないと思った。
「戦うのは、最後で……いい」
人間も艦娘も、生きているときにちゃんと話を聞いて、助け合って、恨みや苦しみを残さずに死ねたなら、きっと深海棲艦なんかにならないはずだ。その深海棲艦だってきっと同じだ。姫級は言葉を使えるというのだから、もしかしたら話せば分かってくれるのかもしれない。戦うのはそれが上手くいかなかったときでいい。他にどうしようもなくなるまで手を尽くすべきだと、新貝は思うのだ。
「そうか」
黒井はそれだけ言うと銃口を新貝の心臓に向けた。
「つまらん遺言だな」
乾いた音が闇夜に響いた。
心臓を撃ち抜かれた。一瞬で全身が硬直し、爪の先にまで死が行き渡る。肉体はあっけなく終わりを迎え、残す脳の寿命もあと数秒。
黒井はそれを断ち切るべく新貝の眉間に狙いを定めた。
「貴様のような阿呆には、二度と会いたくないものだ」
破裂音とともに意識が切り裂かれて。
新貝貞二は死んだ。
1-5の難破船はこの観測船が座礁したものでぇす。