悪いひとたち ~南方深海泊地へようこそ!~ 作:シャブモルヒネ
甘かった。
新貝は冷や汗を流しながら後悔した。
目の前には赤褐色のテーブルが鎮座しており、新貝はその上に無造作に放り投げられた短刀を凝視した。その色は、柄も刃も真っ黒で、ところどころには赤い管が浮かび上がっており、周期的に脈を打っている。どう見てもただの短刀ではない。
「私ノ骨デ作ッタ。前ニ沈ンダ時ノ、千切レタ腕カラナ」
テーブルの奥で、口裂け女が嗤う。
それは一世代前の自身の千切れた腕を削りだして作ったという、曰くつきの短刀だった。深海製の武器。つまりは、通常兵器が効かない深海棲艦をも傷つけることができる代物というわけだ。
新貝はごくりと唾をのみこんだ。まさかこんな事態になろうとは――もう幾度目になるか分からない後悔を心中で呟いた。
口裂け女。
あるいはコンゴウ。
始めは友好的ですらあったのだ。それにまんまと騙された。
交渉のためにマキラ島に訪れ、無線で交渉の意図を伝えると、コンゴウはあっけなく快諾した。交渉場所を浜辺と定め、ヤシの木の陰を指差してこう言った。
「涼シイトコロデ、ユックリト話ソウジャナイカ?」
そこにはマホガニー製のテーブルと椅子が用意されており、席に着くと値の張りそうなティーカップまで運ばれてきた。護衛は二人まで、という新貝の提案もすんなり通った。現れたコンゴウと護衛の二人のル級――多分ヒエイ・ハルナ・キリシマの誰かだと思うが新貝には区別がつかない――と、陽気に挨拶まで交わした。
これは楽勝なんじゃないか? と油断した新貝を誰が責められよう。
コンゴウはともかく、その後ろで護衛役の二人が笑顔の裏で敵意を滲ませていることに気付けなかった。
交渉の席につくと、新貝は包み隠さずに計画と要求を伝えた。
勝算があること。
そして、そのためには手を組む必要があるということを。
「ナルホド、ネェ?」
コンゴウは鷹揚に頷く。
「ショートランドヲ、落トセルト。実ニ魅力的ナ提案ジャナイカ」
「ああ、協力してくれるなら、そのための資源を渡してもいい」
「オォ、ソレハ助カル! 我々ハ今マサニ、干上ガッテシマウトコロダッタンダヨ!」
胸の前で柔らかく手の平を合わせ、人間の女のように喜んでみせる。
新貝もつられて笑みを浮かべそうになった。待て待て喜ぶのは早すぎる、と自制していると、コンゴウの後ろからル級が水を差してきた。
「……自分デ奪ッテオイテ、今度ハ報酬トシテ与エルダッテ?」
虫のいいことをよく言えるな、と冷たい視線を送るル級に思わず言葉に詰まる。
すると、コンゴウが助け舟を出してきた。
「ハ~ル~ナ~?」
不満を漏らす姉妹を宥めるように言い含める。
「ヤラレタ方ガ、馬鹿ナノダ。アレハ、私ノルート設定ガ、甘カッタ。ソウイウ話デ終ワッタダロウ?」
「デスガ、コレデハ、アマリニモ……」
「ソレトモ、何ダ? 一本デハ納得デキナイト?」
「イエ、ソンナ事ハ……!」
狼狽えるル級――どうやらハルナらしい。
「ヒエイハ、ドウダ?」
「異論ナド、アリマセヌ」
「ウム、宜シイ」
(……一本?)
何のことだろう。そう新貝が考えていると、コンゴウが話を戻した。
「契約金ノ、話ヲシテモ?」
「あ、あぁ」
新貝は座り直して、背を伸ばす。
ここからが本当の交渉だ。コンゴウは恐らく、奪われた資源を丸々返せと言ってくるはずだ。しかし自分たちに反抗できるほど多く返すわけにはいかない。あくまで手綱はこちらで握れなければならない。どれだけ額を引き下げられるか? それが争点だった。
しかしコンゴウは、ここでも新貝側に都合の良い要求をした。
「燃料弾薬ヲ、ソレゾレ五千」
「そ、それだけでいいのか?」
思わず聞き直してしまう。
ちなみに新貝たちがコンゴウから奪った資源の量は大体五万ほど。だというのに返すのは五千でいいと言う。はっきりいってありえない。どこの世界の提督だって同じことをされたらブチ切れる。
しかしコンゴウはあっさりと頷いてみせた。
「仕方ナシ。手ヲ組ムナラバ、妥協セネバナルマイ」
なんだ、これ。あまりにも話が簡単に進みすぎている。
(いや、別段ありえない展開でもないのかもしれないぞ)
前提条件が間違っていたのかもしれない。話がまとまらないと困るのはコンゴウ側も同じだとしたら? 彼女たちは本当に資源不足で干上がりそうで、無駄なハッタリをかましてる余裕も無いのかもしれない。交渉を速やかにまとめるためには必要最低限な報酬額で妥協せねばならず、その結果が“燃料弾薬それぞれ五千”なのかもしれない。
新貝は心臓が激しく脈打つのを感じ、口元を手で隠す。思わずにやけてしまいそうだった。
(見ろ、大井! お前の模擬面接は必要なかったんだよ!)
案ずるよりも生むが易し。ガ島に戻ったらどう自慢してやろうかと妄想する。帰り道でドヤ顔の練習をしよう。などと考えていると、コンゴウが、
「……ダガ、ソノ前ニ」
と身を乗り出した。
「コッチハ仲間ヲ、二人モヤラレテルンダ。ソノ落トシ前、ツケテモラオウカ」
「……え?」
「目ニハ目ヲ、命ニハ命ヲ……ト言イタイトコロダガ……艦娘ト戦ウ前ニ、戦力ヲ減ラスノモ、ヨロシクナイ。貴様……自称提督ノ、新貝トカイッタカナ? オ前ニ代償ヲ払ッテモラオウカ」
そして懐から取り出してきたのが件の短刀である。
深海製の武器。つまりは、深海棲艦である新貝をも傷つけることができる代物というわけだ。
“落とし前をつけろ”
その言い草で真っ先に思いつくのは頭にヤのつく自由業。新貝には嫌な予感しか浮かばない。もしや、指を詰めろとか言い出すのではあるまいか。
そこで新貝は気付いてしまう。
このル級姉妹、やけに傷が多い。コンゴウの口元は言うに及ばず、彼女たちの首元や肩口といった肌が露出している部分には軒並み傷痕が刻まれていた。新貝はそれを戦いによるものだと思っていた。全て被弾によるものだと。しかし、本当にそれだけなのだろうか?
確認のためにさりげなくコンゴウたちの指に目を向ける。
ハルナは、左手の小指が、鋼鉄の輝きを放つ義指だった。
ヒエイは、左手の小指と薬指が、同様に義指だった。
コンゴウに至っては、両の手合わせて七本の指が別物となっており、もはやガントレットと変わりない有様だった。
(おいおい、嘘だろ……。まさか、こいつら……)
新貝のもつコンゴウ一派への認識は、“人類への復讐を目的とする連合艦隊”だった。なるほど、その認識自体は確かに間違っていない。しかし、ぴたりと正鵠を射ているわけでもなかった。所詮はラベリング止まりの認識であり、その本質への理解には至っていない。
新貝は想像する。深海棲艦の最古参――コンゴウたちがこれまでに辿った苦難の道のりを。
世界中を敵に回して戦うためには何よりも一致団結することが不可欠だったに違いない。彼女たちの思想は統一される必要があり、そのために最適化された鉄の掟は命よりも重かったはずだ。破りし者には容赦ない罰が下されただろう。例えばそう、眼前のル級姉妹たちの様相を見るに、こんな一文があったのではないだろうか。
“任務を失敗せし艦隊の責任者は、指を一本詰めるべし”
(そうだとしたら頭おかしすぎるだろ……)
苛烈なだけの、狂ったルール。
しかしそれが当たり前に成るだけの時間がコンゴウたちにはあったのだ。
テーブルの上の短刀を凝視する。
僅かに黒い固形物がこびりついていた。
血。
あれは深海棲艦の血だ。
(誰の血だ……)
顔を上げると、三人のル級が目に入る。恐ろしい三人の深海棲艦。コンゴウ、ヒエイ、ハルナ。四姉妹のはずだが一人足りない。キリシマがいない。先日、言葉を交わしたばかりの彼女が――新貝たちに助言してくれたあのキリシマがいなかった。
裏切り者がいなかった。
それは何故?
(ま、まさか……)
短刀にこびりついた血。
新貝の顔から血の気が引いた。
もしも“そこまでやる”連中だとしたら――今ここで新貝に要求されるのは、何だ?
敵の指揮官を許すために必要な落とし前とは一体何だ?
その答えは、単純にして明快だった。
「腹ヲ、斬レ」
思わず立ち上がった雲龍に、ハルナの主砲が突きつけられる。
「オイオイ、姉チャン? 上官ノ晴レ舞台、邪魔スルモンジャア、ナイヨナァ?」
「……っ!」
雲龍は止まらざるをえない。が、その頭上には既に白い髑髏型の艦載機が音もなく浮遊している。いざとなれば刺し違えてやる、と幾重にも連なった瞳が睨みつけていた。
コンゴウは感心したように手を叩く。
「イイネェ! 根性ノアル空母ハ、珍シイ!」
口の端を吊り上げる。余裕のある表情、に見えるがそうじゃない。その意識は明らかに新貝の後ろで棒立ちしている女に向けられ続けていた。
北上。
その顔からは色が消えていた。緊張感も、敵意すら。まるで無機物になってしまったかのようで、だからこそ恐ろしい。そんな面相をする生き物をこの場の全員が知っている。獲物に飛びかかる直前の、猛禽類。
戦場さながらの緊張感。
きっかけ一つでこの場は鉄火場になるだろう。
コンゴウ側は堂々たる振る舞いだ。以前の戦いでは北上一人にいいように弄ばれたくせに恐れる素振りがまるでない。膝を突き合わせるようなこの近距離で火蓋が切られればタダでは済まないのは明らかなのに、先に撃ってみろよと挑発するガンマンそのものの態度なのだ。イカレているとしか思えない。
(ブ、ブラフに決まってる!)
新貝もかろうじて虚勢を張ることができた。そうやって交渉相手に譲歩を引き出せという大井の言葉を思い出したからだ。しかし、目の前で戦艦の主砲と空母の艦攻が睨みあっているにも関わらず平然と薄笑いを浮かべていられる女たちが正気とは新貝にはどうしても思えない。
「ソコナ雷巡ヲ仕留メラレルナラ、是非モナイ。我々ハ栄エアル第三戦隊デアル。ソノ続キハ、生キ残ッタ誰カガ継ゲバヨイ。……ヒエイ」
声をかけられたル級――ヒエイも次いで主砲の狙いを定めた。北上に向けて。
「五ツ数エル。ソレデモ、コノ男ガ腹ヲ斬ランナラ、遠慮ハ要ラン。撃ッテシマエヨ」
雲龍はキッと目を見開いて叫ぶ。
「やってみなさい! その時はあなた達も粉々よ!」
「ホォォ?」
コンゴウは俄かに立ち上がり、眼前で唇をぎゅっと結んでいる雲龍の顔を覗き込む。まるで珍獣を見つけたかのように、まじまじと。それからすぐに首をぐるりと動かして、今度は新貝に顔を近付けた。
「オ可愛イ部下ヲ、オ持チノヨウデ?」
コンゴウは目を細めてみせる。そうして右手の親指を立て、自らの腹の上で横一文字に動かしてみせた。
「貴様ラハ、我々ノ仲間ヲ、二人モ沈メタ」
そのまま親指を鳩尾につけて、今度はゆっくりと縦に下ろす。横と縦の動作。合わせて十字の形。
「ダカラ貴様ハ、二回斬レ。イワユル十文字腹トイウヤツダ」
コンゴウは両手を軽く広げてから胸の前でパンと合わせた。硬直する新貝に、いっそ愛らしく首を傾げてみせる。
「ガダルカナル島ニハ、入渠施設ガアルンダロウ? 急イデ帰レバ間ニ合ウカモシレンジャナイカ。ナラバコノ腹切リ、何ヲ恐レルコトガアル?」
「勝手なことを!」
歯噛みする雲龍に、コンゴウは心底嬉しそうに肩を揺らしてみせた。
「ナァ新貝トヤラ? 仮ニモ提督ト名乗ルナラ、コノ信頼ニハ応エテヤルベキダト思ワンカネ?」
「なん、だと……?」
「部下ノタメニ命モ張レン野郎トハ、手ナゾ組メルワケガナイ……ソウ言ッテンダヨ」
無茶苦茶だ、と新貝は呻いた。
こんなのは嫌がらせでしかない。コンゴウたちはきっと提督という名のつく者なら誰でもいいのだ。その存在を怨みすぎて、当てつけすること自体が目的となっている。彼女たちは怯む新貝をただ嘲りたいだけなのだ。それ見たことか、と。どうせ提督なんてこの程度だ、と。
「チナミニ。遠イ昔、己ノ意地ヲ見セツケルタメ、三文字腹ヲ斬ッタ男ガ居タラシイ。凄マジイ覚悟ト精神力ダ。尊敬ニ値スル。……モシモ、貴様ガ部下ノタメ、三文字腹ヲ斬レタナラ……同盟トイワズ、傘下ニ入ッテヤッテモイイ。モシモ、本当ニ、デキタナラナァ?」
嘘か、誠か。確かめる術は新貝にはない。
許された選択肢は二つ。
交渉を諦めて、この場で殺し合いを始めるか。
それとも自ら腹を斬ってみせ、同盟を成すか。
新貝には意味が分からない。
どうしてこんな事態になった? コンゴウたちは資源不足に喘いでいるのではなかったのか? 生存よりも嫌がらせを優先するなんて想像もしていなかった。そこまで人間を――提督という存在を憎んでいるのか? そんな疑問が頭の中を飛び回る。しかしその一方では冷静なままの自分もいる。現実逃避しても意味がない。そんな腹立たしい正論をぶつけてくる。
そんなことは百も承知である。
胃がせり上がるように縮こまる。指はコントロールを失って勝手に震え続けている。
頼みの綱の北上は電池が切れてしまったかのように反応を示さない。
対照的なのはヒエイとハルナ。熱に浮かされたように新貝にまくし立てている。
「サッサトヤレ! 腹ァ、掻ッ捌イテミセロ!」
「金玉ツイテンノカァ? アァ!?」
コンゴウは無言。もはや言葉は不要とばかりに眼前の自称提督をじぃっと見つめ、右手をよく見えるように持ち上げてパーの形にしてみせる。そして指を一本ずつ折りながら無慈悲にカウントを始めた。
「五ォ」
(マジか、マジなのか……)
交渉を諦めるわけにはいかない。コンゴウたちの力がなければショートランドを相手にできない。数で押しつぶされるのが目に見えている。だからどうしてもコンゴウたちを納得させなければならない。
「四」
(畜生!)
腹なんて斬りたくない。斬りたくないが、もしどうしても斬らねばならないとしたら、どのように斬るのが一番痛くないだろう。最初は横一文字。腸の向きに沿って上手いこと刃を通すことはできないだろうか。まず肋骨の下に刃を突き立てて……そんな想像をしただけで臓腑が嫌がるように蠕動する。気持ち悪い。
「三」
知らず、呻き声が漏れる。こうなりゃ自棄だ、と息を大きく吸い込みながら汗を拭う。覚悟をしている時間も無い。勢いでやると決めた。
「二」
目を閉じる。清霜の顔を思い浮かべ、今度こそ守ると誓ったことを思い出す。
「一」
目を開ける。
そして、新貝は、
「おっさん、早くやりなよ。一人分の命でいいならお得じゃん?」
北上が、よく通る声で、そう言った。
その場の全員の視線が集まる。
「北上……さん? 今、なんて?」
雲龍に問われた北上は、それが聞こえていないかのようにテーブルに置かれた新貝用のティーカップに手を伸ばす。ズズズと黒い液体を飲み干して、顔をしかめる。
「まっず」
言いながらウェーと舌を出してみせた。
「こういうのってさぁ、
誰も、何も、言えなかった。
この場に誰もいないかのような沈黙。
呆けたように動きを止めていたヒエイが、ようやく我に返る。「ハハッ」と嗤ってハルナの肩を小突いた。
「随分ト、ゴ立派ナ仲間意識ジャアナイカ、エエ?」
そう嘲って、身を揺すり、やがて腹を抱えて笑い出す。
北上もそれに同調するように笑みを浮かべた。
「もし死んじゃったらどれぐらいで復活するのかなぁ? 死因がお腹の傷だけなら直るのも早そうじゃない? っていうかさ~、そこの口裂け女も言ってたけど、運がよければガ島に戻って入渠できるでしょ。斬り得、斬り得」
「お、おま、」
新貝は演技だと思いたかった。
「やろうよ、おっさん。ちょっと死ぬかもしれないだけで同盟が成るんなら儲けモンじゃん?」
しかしどうやらこれは演技ではない。
「お前……」
マジで言ってるのか。その言葉すら出てこない。新貝はただただ信じられないとばかりに茫然とした顔で、仲間であったはずの女を見上げることしかできない。
それを見て北上は「あはっ。何その顔、ちょーウケる」と失笑する。
「だってもう作戦は教えてもらったしー、あとは実行するだけだしー。もうおっさんに出番はないよね? だったら
コンゴウの肩がぴくりと震える。
北上はよっこらせと立ち上がり、「アタシが取ったげるよ」とテーブルの上の短刀に手を伸ばす。
北上はマジだった。
彼女と少なくない時間を過ごしてきた新貝にはそれが分かる。北上はそういう女だ。最も効率的な解決法のためには、他人の命なんて芥にも思わない。
この場で最も頼りになるはずだった味方は、実は最も薄情なただの他人だった。
新貝がせっかくかき集めた覚悟めいたものは一発で霧散してしまった。もはや指一つ動かすこともできない。
雲龍はあまりの事態に開いた口が塞がらず。
ヒエイは何がそんなに愉しいのかゲタゲタと哄笑していて、ハルナは思わぬ裏切りに何もできずにいる新貝を煽り続けている。
「ドウシタ、ヤラナキャ貴様ノ部下ハ全滅スルゾ? ソレデモイイノカ? ……イインダヨナァ、貴様ラ提督ッテ生キ物ハサァ!」
新貝の頭の中は真っ白で、ただそこに居ることしかできない。
北上の手が、いよいよ短刀に届く。
「ソンナンダカラ、
――ドガァッ!
破壊音。
握り拳が、テーブルごと短刀を叩き潰した。
その腕の持ち主は――コンゴウ。
「――黙レ」
テーブルにヒビが走り真っ二つに砕け折れる。
「不愉快ダ」
ヒエイもハルナも一発で硬直した。先程までの振る舞いが嘘のように、唇を噤んで石のように黙り込む。その顔色は明らかに青ざめてさえいた。
新貝には何が何だか分からない。
「……フン」
コンゴウは拳を引き抜いて、カァンと妙な音を立てて地面に落ちた短刀を凝視した。真ん中で折れてしまっている。それがまるで憎い仇であるかのように、彼女はただじっと睨みつけ続ける。
誰も、何も言わなかった。
そうして沈黙が充分に行き渡るのを確認してから、コンゴウはゆっくりと顔を上げた。
そこに新貝は騙し絵を見た。
コンゴウもヒエイもハルナも、口元に大きな傷がある以外は同じ顔。三つ子のように区別のつかないル級たち。その中で、コンゴウの顔だけがこの瞬間、全く別の顔に変化した。ともすれば愛らしささえ残る人間味ある顔立ちに。まるで艦娘のようなその顔を、新貝はかつて資料で見たことがあった。
金剛型一番艦、金剛と同じ顔。
「厭な奴デース」
変わったのは見た目だけではない。その声色も、口調も、艦娘を思わせるそれと同じに変わっている。
北上をギロリと睨む。
「アナタ、分かってて言いましたネ? この私の前で、わざわざ身内切りを見せるなんて、本当に……本当に厭な奴デース」
今のコンゴウは冷静を装ってはいるが内心は怒りで煮えたぎっている。それを新貝は直感で理解した。
(怒り……ああ、そうか)
新貝の抱えた未練の一つ、誰かを許せないという想い。それと同じ感情が表出したためにコンゴウは新貝と同調したのかもしれない。
彼女の顔と声を認識できるようになったのはそのせいだろう。
ふと、雲龍の様子を確かめてみる。彼女は、場の空気を一変させたコンゴウに警戒はしているが、他の何かに気付いた様子はない。どうやら雲龍はこの変化を認識できていないようだ。
見る者によって姿が変わる。
(そんなことがあるとはな……)
一人慄く新貝。
それを意に介さず、コンゴウは北上に顎を向けた。
「そこのアナタ。名前は?」
「北上」
「ミス北上。アナタ、私が止めなければ本当に腹を斬らせていたでショウ?」
目を細めて問いただす。折れた短刀を拾って弄びながら、まるで罪状を読み上げる裁判官のように。
「何か問題あんの?」
対する北上は、いかにも白けたとばかりにサッと表情を消して、冷えた口調で言い返した。
「腹を斬ったら手を組むって言い出したのはアンタでしょ。だからそうしてやるっつっただけ」
「……ヘェ」
「都合の悪いモンを見たくないなら始めっから吹っかけるんじゃねーよ」
明らかな挑発に、コンゴウは耐えてみせた。
「……フッフッフ。こいつは一本とられたデース」
低く声を上げてみせるコンゴウ。だがその目は全く笑っていない。目尻が震えて、怒りを抑えこんでいるのが丸分かりだった。
両隣のル級姉妹は黙り込んで不自然なまでに前方の空間を直視して、怒りに震える長姉を視界に入れようとしなかった。触らぬ神になんとやら。特に姉の地雷を踏み抜いてしまったハルナは哀れなほどに固まってしまっていた。
コンゴウは偽りの笑みを浮かべて膝を叩く。
「いいでしょう、落とし前は無しで結構!」
「え、……え?」
「たった今から私たちはビジネスパートナーデース!」
コンゴウの即断は奇怪ですらあった。右手をずいと新貝に差し出してくる。
なんだ、この手は。まじまじと見つめてから、遅まきに気付く。
握手。
新貝は不恰好にズボンで手を拭いて、なんとか合わせる。
「あ……ああ。宜しく、頼む」
二人の手の平が、親睦を深めるようにやんわりと繋がった。
コンゴウもようやく肩の力を抜いた。そうして悩ましげな溜め息を吐いて、この場にいる全員に聞こえるように呟いた。
「ただしこの契約が終わったらミス北上は殺しマース」
左手の短刀を固く握り締めたまま、顔を般若にしてみせる。
当の北上は全く怯まずに、
「ブスが調子に乗んな」
と侮蔑した。
コンゴウの右手に十三万馬力の握り力が篭められる。
「ちょっ、あがががっ!」
ベキバキと鉛筆を折るような音が響く中、コンゴウは仮面を貼りつかせたままだった。
「細かい連絡はまた後ほど。ウチの駆逐艦をよこすのでそこで伝えて下サーイ」
そう言ってようやく新貝の手を離す。
新貝は、まるで時間が止まったように握手の姿勢のまま固まっていた。脂汗を垂らしながら、僅かに顎だけを動かすのが精一杯。
「お、お、折れ、潰れ、た」
雲龍は恐る恐る、新貝の手に視線を向ける。
「う」
轢かれた蛙。……という表現が一番近いと思った。
「マ、マジで、痛いん、だが。これ、どうしたらいい? い、医者?」
「そんなのがいるわけないでしょ」
辛辣な北上、手首を抑えて呻く新貝を尻目に、コンゴウは我関せずとばかりにさっと立ち上がって背を向ける。
「See you later」
その横顔は、いつの間にかル級のものに戻っていた。
セミロングの髪を翻す。もう一秒たりともお前らのツラは見たくないからさっさと失せろ、そうとしか受け取れない鮮やかな所作だった。
@
帰り道。
痛みに呻く新貝に、北上は「我慢しなよ。男の子でしょ」と言った。
無情な仕打ちに雲龍はいよいよ不信の目を向ける。
「あなた、誰の味方なの?」
北上は口を開きかけ、何かを言おうとして止めた。後頭部をぼりぼりと掻いて「むぅ」と唸る。
「なんか面倒な事になりそうだから説明するけど、あの場面で腹を斬らないって選択肢はなかったからね?」
「そんな事は聞いてないわ」
「いいから聞いてよ。あのね、イカレてる奴にはイカレてる奴なりのルールがあんの。それを納得させないとどうしようもないわけ」
「だから提督を売ったの?」
「最初からそうしようと思ってたわけじゃないってば。一番良かったのはね、おっさんが自力で三文字腹を斬ること。そうすれば優位に立てたと思うよ。あいつらは吐いた唾は呑まないだろうからね」
「ぐぐぐ……」
移動の揺れで潰れた右手が痛むのか、新貝は呻いた。その様子を北上はチラリとも見ずに説明を続ける。
「次点は合格ラインの十字腹。でもアタシは無理だと思った。……アタシは切腹した経験は無いけどさ、想像はつくよ。切腹といえば、それが名誉だって洗脳教育されてきた連中でもできなかったりしたわけでしょ。介錯なんていう救済措置もつけてるしさ、そんだけ痛くて覚悟が要る事なんだと思うわけ」
「そんなのをやらせる方がどうかしてる」
雲龍の抗議を、北上はスルー。
「で、最初の一太刀なら勢いでできると思った。けど二太刀目はちょっと怪しいなって思ったわけ。刃を抜いて、刺し直さなきゃいけないからね。勢いじゃできない。その時に必要な覚悟の量は一太刀目の比じゃないと思う」
「……」
解決法を淡々と説明していく北上を、雲龍は冷ややかに見つめる。彼女が聞きたいのはそういうことではない。しかし、目の前の女はどうやらそういった機微が分からないらしい。
「だから切腹案は中止にして煽ることにしたわけ。あいつらの一番見たくないもんを見せようとすれば絶対に止めてくるって分かってたからね。でもやれって言いだしたのはあいつらなわけだから……」
「もういいわ」
「そう?」
「もう、分かったから」
北上もまた、まともではないという事が。雲龍は口に出すことを諦めた。
「なら良かった。別に悪意があったわけじゃないんだよ。最善の策ってやつ? そういうのってどうも理解されなくてさ~」
「……私にも私のルールがあるわ」
「ふーん?」
「提督を傷つける者は許さないってことよ」
「じゃあアタシは許されないってわけだ」
「……あの場を切り抜けてくれたことは感謝している」
あの場で口裂け女たち戦えば、きっと誰かが死んでいた。下手をすれば全滅していたかもしれない。そうならなかったのは恐らく北上の打算的な考え方のおかげだろう。それぐらいは雲龍にも分かっている。しかし、だからといって納得はできない。
北上はウンと頷き、雲龍から視線を外して前を向く。
「そんな感じでいいんじゃないかな」
遠く、ガ島の島影を眺めながら独りごちる。
「アタシにはそれ以上は難しいや」
@
「只今、戻りました」
「ご苦労」
キリシマが哨戒任務から戻るとヒエイが出迎えた。
すれ違いで哨戒に出て行ったハルナの様子がどこかおかしかったので聞いてみると大体の事情を教えてくれた。
(資源を返すから手を組め、ね。私との裏取引を無かったことにするつもりですか。しかも御姉様まで怒らせて……。これでは暫くコンゴウ御姉様に近付けないではありませんか)
キリシマの尊敬する長姉は第三戦隊の総旗艦として誰よりも重い責任を負っている。常に仲間たちに気を配り、そのために意に反した振る舞いを強いられることもある。だからこそ怒らせると一番怖い。前にキリシマが怒らせたときは、一週間「はひ」しか言えなくなった。あれは鬼。けして逆らってはいけない生き物だ。
「……で、今回も現れたのか?」
ヒエイの問いかけに思考を戻す。
「え、ええ。北からイ級が偵察に来ていました。一匹、逃げられましたが」
「はぐれじゃあないんだよな?」
「見つかると一匹が逃げて、他の連中が身体を張って壁になるんです。戦闘目的ではありませんよ」
「……厭なやり方だな。姉上が知ればまたお怒りになろう」
「ガダルカナル島の偵察でしょうか?」
「あいつらの中に駆逐艦はいない。調べただろう」
「ではショートランド泊地からでしょうか?」
「ガ島を迂回してマキラ島まで来る意味が分からんが……」
ショートランド泊地、ガダルカナル島、マキラ島。この三つの位置関係はほぼ一直線である。ショートランドからすればマキラ島は最も遠い。攻略するならまずはガダルカナル島を選ぶのが定石だ。
「ショートランドではないな。また別の群体がいるのではないか?」
「そう思って調べましたが……」
いくら偵察を飛ばしても、発見できたのは少数で彷徨う駆逐艦だけだった。そうキリシマが説明すると、ヒエイは「ならば、やはりはぐれなのだろうよ」と首を振った。
「奇妙な動きをする奴がいてもおかしくない。ここは南方海域なんだからな」
「そうですね……」
南方海域に棲む深海棲艦は狂っている。
それは、他の海域の深海棲艦たちの共通認識だった。
南方海域の深海棲艦は、野蛮で、頭が悪く、狂気に染まっていると。
その攻撃性は他の海域の比ではない。まず前提として、問答無用が当たり前。一度視認されたが最後、どちらかの命か自身の燃料が尽きるまで襲い掛かってくる。例え親の仇であってもここまで追い回されることはないと言えるほどの執念で。
南の深海棲艦がどうしてそこまで戦いたがるのかは分からない。けれど憶測ぐらいは立てられる。初めに言い出したのは誰だったかは知らないが……憎しみが憎しみを呼ぶ悪循環のせいだというのが通説だった。
曰く、鉄底海峡から全てが始まった。
そこで渦を描き始めた憎しみの連鎖は時を経るごとに勢いを増していき、やがて誰にも止められなくなった。あの狭い海域の中では蟲毒のように殺し合いが続けられ、誰もが知性を獲得する前に命を落としていく。世代交代に伴って精神レベルは退行し、最後には原始的な欲求だけが残る。
敵を沈めるという、艦船のもつ根源的欲求。それはあるいは前世の遺志なのかもしれない。敵を倒す、仇を討つ。だが悲しいかな、鉄底海峡の深海棲艦には知性が無い。敵が誰なのかよく分からない。仇がまだ実在しているのかも分からない。だから彼女たちは目につく者を全員沈めようとするのだ。
ある者は、こうも言った。
あいつらは同じ場所で死にすぎて、誰もが他人と混ざってしまったのではないか。つまり、憎い仇も己の中に在って、それが分かるから早く死ぬために特攻めいた行動に出るのではないか、と。
殺したくて、殺されたい。それが全て。
真実は当人たちにしか分からないけれど。
――そう間違った推測でもないのでないだろう、と誰もが思っている。
とにかく、そう思わせるほどに南方海域の深海棲艦は単純だった。戦術性がなく、相手にする分にはさほど脅威にはならない。ただ異常。故に、どんな深海棲艦も南方海域に行きたがらない。もしもそこで沈んでしまったら、例え復活できたにせよ地獄の輪廻に巻き込まれて抜け出せなくなるからだ。
「……飛行場姫は惜しいことをしたな」
それは、かつて南方海域にありながら奇跡的に知性をもって集まった一群だ。彼女たちは少しずつ仲間を増やすことであの輪廻地獄に平和の国を築いた。彼女たちならばいずれ南方海域をまともに持ち直すことができたかもしれない。
しかし、そうはならなかった。
一つだけ致命的な欠陥があったからだ。彼女たちは自身のことを艦娘――人類の味方だと勘違いしてしまったのだ。
故に彼女たちは他の海域の深海棲艦たちから差し出された同盟の誘いを全て砲火で振り払い、単体勢力で本物の艦娘たちとぶつかってしまった。
そして、当たり前のように全滅した。
もう少しどうにかならなかったのか、とキリシマは思わなくもない。思い出すたびに暗い気持ちになる。その末路はけして他人事ではないからだ。何故なら、今の自分たちも似たような境遇なのだから。
今の第三戦隊は、他の深海棲艦群から孤立してしまっている。三人の姉たちが怨みに拘りすぎたせいだ。いくら深海棲艦の多くが負の感情を基にしているとはいえ限度というものがある。百の深海棲艦がいれば百の考え方があるのだ。協調性がなければ当然、敬遠される。それはこの深海棲艦の世界といえども変わらなかった。憎しみに振り回されるようではそれこそ南方海域の深海棲艦と変わらない。
いや――そう成ったからこそ第三戦隊は南方海域に引き寄せられたのかもしれない。
(……だとしても、もう少し先延ばしにしたかった)
キリシマは、去っていくヒエイの背中を遠い目で見送った。
艦娘と戦うのは初めてじゃない。トラック泊地と何年も矛を交えた経験もある。勝ちきれはしなかったが、それで良かったのだと思う。一度勝ってしまえば、得た設備を守るために延々と迎撃し続けなければならないから。
延々と一進一退を続けていられれば良かった。
しかし、ガダルカナル島が手に入るかもしれないという絶好の名目を得てしまった。そして南方海域に出てきてしまった。ついにはショートランド泊地と戦争を始めることになった。
その戦いに勝利したとしても、次はブイン、そしてラバウル……。もう戻れない。覚悟を決めて戦い続けるしかない。いつの日か、無残に撃滅されるその時まで。
(それにしても……)
キリシマは振り返り、視界に広がる南方海域の水平線を改めて見渡した。
(思っていたよりも深海棲艦の数が少ない……いや、少なすぎる)
南方海域は空っぽといってもいいぐらい誰もいなかった。まるで過疎地。かつて居た連中は殆どが沈んでしまったのだろうということは分かる。飛行場姫一派と艦娘たちの戦争があったばかりだから。しかし、半月もすれば殆どが復活しているはずだった。にも関わらず、第三戦隊がこれまでに遭遇した数は少なすぎた。
(それに……)
ここ五回の哨戒でキリシマが遭遇したのは駆逐艦だけだった。巡洋艦も大型艦も一切見かけていない。
キリシマにはそれがどうにも不自然に思えてならない。
まるで、誰も居ないと不自然だから沈められても構わない駆逐艦をわざと配置しているようで。
(考えすぎ? それとも御姉様に相談すべき?)
キリシマは少しだけ迷ったが、今の長姉の状態を思い出して身震いし、結局は何も報告しなかった。
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後からなら何とでもいえることだけど。
“それ”に気付く機会は確かにあったのだ。
新貝か、大淀か、キリシマか。
その中の誰か一人でも慎重になれていたら、あんなことにはならなかったはずである。