悪いひとたち ~南方深海泊地へようこそ!~ 作:シャブモルヒネ
港には猫がいるものだ。
にゃあんと愛嬌を振りまいて、人間の足にまとわりつく猫が。
体毛を擦りつけながら餌をねだってくる姿には偏屈な人間でさえも目尻を緩める。
自由で、奔放で、愛らしい。それが猫。そんなイメージを大体の人間が持っている。
……そうではない面も勿論あるけれど、例え見せられたところで誰も覚えようとはしない。
猫は可愛い、それでいいじゃないか。そんなふうに誰もが思っている。
猫は『可愛い』から猫なのであり。
『可愛くない』のは、猫じゃない。
だから、死んでしまったその猫も、多くの人からすれば猫ではなかったのだと思う。
そこはショートランド泊地の港、倉庫前。物資搬入口のすぐ近く。コンクリートで舗装された道の隅っこで。その猫の死骸を見て、まだ艦娘だった当時の清霜はそんなふうに思った。
かつて猫だったモノ。
物資を運ぶトラックにでも轢かれたのだろう。黒い血にまみれて酷い有様になっている。可愛さなんて欠片も無い。だから誰も直視しなくなっている。
その猫は世界から取り残されてしまっていた。
それがなんだかとても可哀想で、どこかに埋めてあげようと思って……けれど清霜は動くことができなかった。
考えてしまった。
(この猫の死にはどんな意味があったのかな……)
慰めとなる言葉を探してしまう。
けれど何も浮かばない。
その猫の死は、誰のためにもなっていなくて、どこにも繋がっていない。ただ途切れて終わっただけ。
そんな死体は誰も見ない。記録にすら残らない。
けれど。
居なかったわけじゃない。
哀れな猫は確かに居たのだ。
それは、猫だけに限った話じゃない。
生ゴミを漁ることでしか生きられない貧乏人とか。
愛の無い躾で未来を閉ざされた幼児とか。
そういう、話題に上げることさえ否定されてしまう人たちは確かに存在する。
誰も見ようとはしないけど、記憶から消し去ってしまおうとするけれど。
確かに、存在はしていたのだ。
――では、そうやって皆から忘れられてしまった人たちの気持ちはどこにいくのだろう? 覚えていると気分が悪いというだけで否定されてしまうなら、その人生は無かった方がましだとでもいうのだろうか? ……せめて。せめて、居たことぐらいは覚えておいてあげなければ可哀想だとは思わないのだろうか?
@
清霜の右拳が、南方棲戦姫のヒビに直撃した。
鋼鉄の皮膚に新しいヒビが何本も走り、装甲が砕けて、破片が海にぼろぼろと落ちていく。グロテスクな中身が晒された。黒いボディに、赤と白の筋組織のような筋が走っていて、胸の中央には鮮血のような輝きを放つ炉心が覗いていた。
崩壊はそこで止まった。
それ以上の破壊はもたらされなかった。
「……コレガ、答エダ」
全エネルギーを注いだ清霜の右拳から力が抜けて、ゆっくりと垂れ下がる。
もう動けない。
自分で分かる。
ボイラーが焦げ落ちてしまった。
「無能ガ、存在シテイイ理由ナンテ、有リハシナイ」
棲戦姫の右腕の筋肉がトドメを刺すために引き絞られる。
清霜の首が締まりに締まって口が自然と半開きになった。
どうにもならない。
「ビ――――ッ」
そこに奇妙な音がやってきた。
清霜は眼球だけを動かして確認する。
真っ黒い少女が立っていた。
その側頭部には穴が開いていて、血がダラダラと垂れ続けている。胸部には弾痕が四ヶ所も刻まれていた。左足の損傷は一番酷い。魚雷の衝撃にでも巻き込まれたのか、装甲と肉が千切れて中の鉄骨が覗いていた。
ぼろぼろの駆逐水鬼。
彼女の右手には誰かの腕が握られていた。
もぎ取られてしまった誰かの腕。
脱力して半開きになった指がよく見える。腕の断面からは折れた鉄骨と焼け焦げた肉片が飛び出していて、血がぽたりぽたりと垂れていた。
自分の腕かな、と清霜は思った。
さっき南方棲戦姫に撃ち落とされた自分の腕を拾われたのか、と。
けれどすぐに違うと気がついた。
駆逐水鬼は無表情のまま、その腕を掲げた。狩ってきた獲物を飼い主に捧げる猟犬のように、ずいと南方棲戦姫に突きつける。
「ビ――――ッ」
その腕の、傷一つ無い柔肌に、清霜は見覚えがあった。かつてガ島の浜辺で確かに見たことがあった。
入渠経験ゼロのエースオブエース。
無敵のはずの重雷装巡洋艦。
北上の腕だった。
「……フン。姫級、一匹……イイダロウ。確認シタ」
黒井はねぎらいの言葉を一つもかけず、駆逐水鬼も不満を一つも漏らさない。
清霜は理解した。
もう全ては終わったのだと。
駆逐水鬼は、用無しとなった腕を海へとドボンと棄てて、踵を返して去っていく。
清霜には見向きもしない。
だって、この場にはもう敵が居ないのだから。
後はもう、最後の生き残りを処理するだけなのだから。
棲戦姫の握力が更に増す。
ビキキ、と首の骨が軋む音が聞こえた。
あの時と同じだ、と清霜は思った。駆逐艦清霜が沈んだときと同じ。骨が軋み、折れる音は、身体の中によく響く。
(どうして、こうなったの……?)
ぼんやりとした意識の中で、清霜は何が悪かったのかを考えていた。
最後の右ストレートが通用しなかった理由。
それは、手打ちの一撃だったから。足が浮いていて、腹筋が片側死んでいて……そんな状態で打ったから、威力が乗らなかった。
――いいや、違う。それ以前の問題だ。
相手は姫級で、何にでも成れる天才で。
こちらはただの戦艦で、何にもできない敗北者。
最初から勝敗は決まっていたのだ――
「何カヲ成セルト、思ッタカ? 貴様ノヨウナ、負ケ犬ガ……」
ゴキリ、と折れた音がした。
死んだと分かった。
身体を動かすための全ての神経信号が死に絶えた。これはきっと即死というやつで、それでもまだ意識はあるのだなと他人事のように思った。
――どうして刺し違えることができると思ってしまったのか。
現実はいつだって冷酷だと、散々身を持って知っていたのに。
最期だけは何かを成し遂げられるなんて希望を抱いてしまっていた。
「貴様ニハ、何モ、デキヤシナイ」
黒井の顔からあらゆる感情が消えた。
怨みは無く。
嘲りも無い。
残骸となった清霜を、まるで波に飲まれて消えてゆく木の葉を眺めるような眼で見つめている。
もう終わってしまった相手に感情なんて篭める価値もないのだから。
――ガラクタ。
南方棲戦姫の16inch三連装砲が火を噴いて、清霜の炉心を貫いた。
――何が悪かったのだろう。
きっと何もかもが駄目だったのだろう。
だから何も成せずに消えるのだ。
死ぬのは……怖くない。
けれど、独りで死ぬのは怖かった。
司令官……? どうして、いないの……私を置いていっちゃったの……?
暗い海の中に、ただ独り。
……いや、
違うか……。
置いていけと言ったのは、私だった。
あのときと同じ。
あの月の無い夜と同じことをしちゃったんだ。
意地を張って突っ走って、そのせいで独りになって、誰にも知られず死んでいく。
凍えるような寒気だけがここに在る。
やけに寒い。
ここは南方のはずなのにどうして熱が逃げるのだろう。
身体に穴が開いたから?
そこから血が抜けていくから?
そのせいだけではないと清霜は思った。
なにか、傍にあるべきだった大切な温かさを手放してしまったからだ。
だったら、手放さなかったら勝てたかな?
仲間との絆をもっと大切にしていたら?
自分の意地よりも仲間の傍にいることを優先していたら?
そんないい子ちゃんを貫いていたら、望んでいた勝利と都合の良いハッピーエンドを手に入れることができたのだろうか?
そんなわけがない。
正しさを貫いて、善行を積み上げて、誰からも非難されることのない道を歩いていればどうにかなるなんていう考えは、甘えに過ぎないと清霜は知っていた。それだけは黒井に同意する。この世には、どんな状況でも打開できるような唯一絶対の信条なんて無い。
その教訓を前世で得たからこそ、今世はできうる限りの手段を用いて努力した。
努力した、はずなのに。
どうして私は、まだ勝てないの……?
強い身体を手に入れて、無敵の先輩の指導を受けて、死に物狂いで訓練した。
仲間たちのおかげで宿敵と一対一の状況にまで持ち込めた。
全てを賭けて戦った。
これで勝てなきゃ、嘘だろう?
どうして私はこうなんだ?
どうして?
どうして?
何が悪いの?
一体、何が……。
いいや、そうじゃない。そんなことを考えても仕方ない。
自分は自分だ。そんな自分を受け入れて前に進むしかない。
だから考える。いかなるときも考え続けている。
勝つためにはどうしたらいい?
どうしたら勝つことができる?
どうすれば?
どうすれば?
私はただ強くなりたいだけ。
誰にも恥じない自分になれればそれでいい。
一人前になりたいだけなんだ。
けれど、それだけのことを、いつまでたっても叶えられない。
だから、清霜は、
@
爆雷の雨を潜り抜けて、辿りついた先は島だった。
誰も知らない無人島。
そこはかつて新貝と清霜が漂着し、脱出した無人島。
出て行ったときは、新貝と清霜の二人で。
今は、新貝とイムヤの二人だけ。
何もかもを失って戻ってきた。
「はぁ……はぁ……」
浜辺まではまだ遠い。
足先が海底に届かない。
けれどここはもう青い海。敵はどこにもいなかった。
ようやく安全圏へと辿りついた。
もうイムヤの補助も必要ない。二人で海面に顔を出して、ぷかぷかと浮かびながらゆっくりと進んだ。
あと少し、もう少しで休むことができる――そう気持ちを奮い立たせて、新貝は溺れかけた犬のように喘ぎながら泳いだ。
イムヤを庇ったときの背中の傷が刺すような痛みを訴えていた。海水が染みる。始めはじんじんとした痺れのような感覚だったのに、今ではマイナスドライバーをざくざくと突き立てられているような激痛だ。顔が歪み、時折呻き声を堪えることができなくなる。
(イムヤには、島に着くまでバレなきゃいいか……。致命傷じゃなけりゃ、いいんだが……)
苦悶の表情を見せないために顔を合わせないようにしていた。
だから声をかけられるまで気付かなかった。
イムヤが遅れてしまっていることに。
「あの、さ……私の未練って、言いましたっけ……?」
イムヤは潜水艦娘だ。
泳ぎは得意中の得意で、艤装がついていない新貝よりもずっと速く進むことができる、はずだった。
「謝らなきゃいけない、人たちがいてね……それが多分、大井さんと北上さんで……そのことを話したら、怒られちゃった……」
振り返って、気がついた。
彼女の顔が、まるで死人のように真っ白で、新貝と同じように苦悶を浮かべていることに。
「お前……」
首から下が海に隠れていて、波に揺られて泳ぐのに必死だったから分からなかった。
彼女の背中もまた大きく傷ついていることに。
それがいつ出来た傷なのか、新貝には分からない。
逃避中、爆雷の衝撃に何度も晒された。そのどれかで彼女は致命傷を負っていた。
彼女はそれをずっと隠しながら泳いでいた。新貝と同じように、相手に心配をかけまいとして。
「聞いて……。大井さんったら、こんなこと言ったのよ……?」
イムヤは引き攣りながらも笑みを浮かべて話し始めた。
「――で? だから? 貴女が私を見捨てたとしたら、それでどうしろというの?」
「どうしろ、って言われても……」
「言っておくけどね、私が轟沈したのはそのせいだけじゃないの。単純に私が対処しきれなかったのも悪いし、そこの北上がさっさと諦めたのも悪いし、その主機に細工をした黒井も悪い。もっと言えば、北上一人の力に頼り切った作戦を通した司令部も悪いし、ガ島攻略にあれしか戦力を集めなかったもっと上の連中だって悪いのよ」
淡々と事実ばかりを並べられ、イムヤは口を挟めない。
「じゃあ、その全員に文句を言ってまわれっていうの? 嫌よそんなの、みっともない。大体、そこに悪意があったならともかく、そうじゃないなら責めたってしょうがないじゃない」
「悪意マシマシの奴が一人入ってると思いまーす」
茶々を入れた北上を、大井はうるさいと一喝して黙らせる。
「――とにかく。貴女はね、自分がすっきりしたいだけなのよ。私の気持ちなんておかまいなし。どうしたらいいか分からないから謝ってるだけ。違う?」
「どう、でしょう……。そうなのかな……?」
「言っておくけどね、誰にどう謝ったってその“気持ち悪さ”は消えないわよ。負い目なんて一つもないキレイな自分になんて一生戻れないって自覚しなさい。死ぬまで抱えていくの。それが罪ってやつなのよ」
完全な贖罪なんてどこにもない、と大井は言った。
他人が外から見て納得する罰はあるかもしれない。
けれど当事者が納得できる許しなんて、この世のどこを探したって存在しない。
自分で作り出して、誤魔化しでもしない限りは。
「そんなことをする奴はクソよ」
大井は言った。負い目という気持ち悪さを棄ててはならない、と。
意味もなく苦しいだけかもしれない。そのせいで前に進むことが難しくなるかもしれない。
「だったら何だっていうの? 知らんぷりして無かったことにする方がよっぽど気持ち悪いわ。そういうのをね、不実っていうのよ。少なくとも私はそう思うし、そういうことをする奴は大嫌い。……で、貴女は? どっちなのかしら? 不実? それとも誠実?」
「――そんなこと、言われたらさ……私は不実です、なんて、言えないよ……。でも、おかげで最期まで頑張ることが、できたのかも……」
「イムヤ、もう喋るな!」
声を絞り出しているイムヤに手を伸ばす。波が邪魔をして届かない。たかが二メートル程度の距離がどうしても縮まらなかった。新貝が近付いた分だけ、イムヤの身体は離れた。まるで海に意思があって、死に近づいた者を吸い寄せているように。
「どう、司令官……? 私、頑張ったでしょ? 褒めてくれないかな……いい仕事をしたって、さ……」
「馬鹿! 諦めるな!」
海に浸かっていれば直る、とかつてコンゴウが言っていた。だから終わる必要なんてない。あの無人島の浜辺の波打ち際でゆっくりと休んでいればいい。
なのに、イムヤは。
「イムヤ! 俺はまだ褒めないぞ! イム――」
沈みかかった潜水艦娘、その身体が海中へと消えた。トプンとあっけない音を残して、誰かがその身体を掴んで引っ張ったように、唐突に。
「……」
新貝の伸ばした手が虚しく宙を彷徨った。
海中を覗き込んでも誰もいない。形あるものは、何一つ。ここに在るのは、海と、空と、昇り始めた太陽だけで、生存者は新貝しかいなかった。
「…………嘘、だろ?」
波は激しく、彼を追い払うかのように叩きつけてくる。
何も考えられない。脳が理解を拒否していた。
けれど海は容赦なく、生き残ってしまった男を尚も邪険に扱った。
波から逃れられる場所へと向かうしかなかった。
ただ泳いだ。
背中の激痛を堪えながら。
生き延びてしまった。この命にどれだけ価値があるのだろう。それが分からなくても支えられたからには投げ出すわけにはいかない。ゴールまではたどり着かなければならない。そんな義務感だけを燃料に、ひたすら腕を動かした。
やがて、足先が固い底に触れた。
両足が砂を掴み、歩くことができるようになった。
ざぶざぶと波を掻き分けて進む。
浜辺へと上陸した。
顔を上げる。
原生林が広がっていた。
記憶にある風景だった。
誰も知らなかった無人島。
もう新貝しか知る者がいない無人島。
何もかもを喪って戻ってきた。
振り返る。
海が広がっていた。
視界の一番右から一番左まで、全部海だった。
新貝は浜辺に立ち尽くして、ずっとその海を眺めていた。
風が強い。
潮風は体温を奪い、新貝を追い払うかのように吹きつけた。林に入れば風を遮ることができるだろう。しかし、そこは彼の行くべき場所ではなかった。
「………………」
海。
それは初めて見る海だった。
遠くのほうで時々白い水しぶきをあげている波。
砂浜に打ち寄せて、戻る波。
波にも種類があるということを初めて知った気がする。
黒く濁っていた海面は、太陽に照らされて生まれ変わるように染められていった。
光を反射するオレンジ色に。あるいはキラキラと輝く透明に。空を映す青といえば青に見えるし、水色といわれれば水色にも見える。
たくさんの色。
色というものは人によって見え方が違う。眼球の出来によって同じものでも違う色合いに映る。
新貝は左右の目で視力が違っていて、そのせいかは分からないけど、同じモノが微妙に違う色で見えていた。片目ずつ交互に開くと違いが分かる。コーラの缶に塗られたシンプルな赤が、右目では明るい赤に見えて、左目ではくすんだ赤に見えた。
それで生活に困ることはなかったけど。
ただ聞いてみたいとは思っていた。
皆には、この世界がどんなふうに見えているのだろう、と。
いつのまにか、あたりはとても静かになっていた。
香水をつけているといつかその匂いに慣れてしまうように、波の音が気にならなくなっていた。
海は、もっと淋しいものになった。
色合いだけが鮮やかになっていく。
どれだけの時間をそうしていただろう。
ふと、気がついた。
波とは違う音。バタバタと布がはためく音がする。
目を向ける。
浜辺に大きな流木が鎮座していた。その枝の先に、破れかかった衣服がひっかかっていた。
見覚えがあった。
それは、夕雲型の制服だ。胸元が大きく破れてしまい、縫い直すのもできそうにないから置いていくことにした制服だ。
かつて清霜が着ていた制服だ。
震える指先で手にとって、大事に、大事に抱え込む。
――人事を尽くして天命を待つって言うでしょ? できることを全部やって、最後まで諦めなければできないことはないって言ったのは司令官じゃない。忘れたの?
「お前、まだ俺に」
――諦めるなというのか。何もできなかった、この俺に。
新貝は膝をついて蹲る。砂浜で身を震わせる。
そうすることしかできない。
今は、まだ。
今年の春に数多くのホームページが閉鎖されました。
その中には私が十四年ほど更新を待ち続けていた、とある二次創作小説のホームページもありまして。私の魂は永遠に解放されなくなったようです。悲しいなぁ。