眺むる人の心にぞすむ――
法然上人「月かげ」
「なにしてんだ、大将!」
刃金がかち合う音の彼方で、誰かの叫びが聞こえた。
猛然と迫る剣戟の嵐に、それでも武蔵ちゃんは慌てることはなく、ただこうなったのならば、と冷徹な視線で眼前の男の発剣からの所作を見極めていた。
見事な抜刀術だった。四間もの間合いを瞬く間に埋め、相手の胴を狙った真一文字。疾風のような縮地に反応してこちらも抜刀するか、あるいは後ろへ飛び退くしか防ぐ手立てのない必死の一撃だった。
あの赤い月の夜を超えた武蔵ちゃんでなければ、最初の抜刀で致命傷を負っただろう。
「残念だけど、あなたじゃ私を斬れないわ」
「……っ」
幾合かの打ち合いで、黒装束の男もそれはわかっていた。
息を詰めるほどの連撃の中で呟かれた言葉が、なによりの証拠でもあった。
男は必死に己の武を発しているにも関わらず、武蔵ちゃんは泰然としたまま一刀一刀を丁寧に受け流している。数合前からは紙一重の回避も織り交ぜはじめ、いよいよ見切られるのも時間の問題だと思われた。
「大将、やめねーか! なんだってんだ、らしくねえ!」
「ぐ……っ!?」
サルが黒装束の男を背後から覆い被さるように羽交い絞めにすると、一瞬武蔵ちゃんへ恨めしそうな視線を向けた後、己の未熟さを悔いるように刀を鞘へと納めた。
「私の勝ちー」
「やめて? 煽るのやめたげて?」
「絶対ぶった切ってやる!」
「乗るな大将!」
武蔵ちゃんも遅れて納刀すると、手を握り解きを繰り返す。
なんちゅう馬鹿力だ、と。斬鉄するほどの力ではないものの、骨にまで痺れが残るような剣戟だった、と思い返す。
まだ少し興奮した様子の残る黒装束の男のもとに、サルの他、キジ、犬が集まってくる。
一同は男の興奮度合いに困惑気味で、その説明をしろと視線で武蔵ちゃんへと訴えかけている。
「知らないわよ。名乗ったら突然襲いかかってきたもの」
肩をすくめてそれに応えると、三人は次に黒装束の男へ問いかけるような視線を向けた。
が、男は説明するつもりがないらしく、口を不機嫌そうに結んだまま、武蔵ちゃんをにらみつけるばかりだった。
武蔵ちゃんはといえば、もちろん心当たりはない。
だが、もう一度名乗ることでなにかしら情報を得られるのではないか、と再び名乗った。
「私は宮本武蔵。それは間違いないことよ」
「おいおい、そりゃいくらなんでも笑えねーな姐さん」
「貴女のそれが真実であるという証拠は?」
「証拠って言われると~……その~、困るんだけど、なにか不都合があるの?」
「宮本武蔵は俺の師だ」
表情そのままの声音で、黒装束の男がそう答える。
武蔵ちゃんはそれに瞠目する。そんな話聞いたことない……!!
「俺は宮本武蔵の弟子……! 桃太郎だ!!」
やっぱり桃太郎だったか、と思う反面、どうなっているんだと混乱する武蔵ちゃん。
金太郎――坂田金時がいたのなら、桃太郎がどこかにいても不思議ではない、とは思っていたものの、それが宮本武蔵の弟子だなんてどこを探しても聞いたことのない話だ。
そもそも童話の中に、宮本武蔵が入り込む余地はない。
おじいさんは山へ芝刈りに、おばあさんは川へ洗濯に。
上流から流れてきた桃を拾って割ると、そこには赤ん坊が。
すくすくと育った彼を、老夫婦は「桃太郎」と名付けた。
やがて桃太郎は村を荒らす鬼の噂を聞き、鬼退治に向かう。
おばあさんは手製のきびだんごを持たせ、それを見送る。
道中、桃太郎は犬、猿、雉の三匹のお供を仲間に、鬼が棲む鬼ヶ島へ。
鬼ヶ島で鬼を退治した桃太郎一行は、貯め込まれた財宝の山を手に、村へと帰ってくる。
めでたしめでたし……。
確かに、童話通り何の訓練もなく鬼を退治するならその手腕は恐ろしい。
物語の裏で宮本武蔵に師事していた可能性も、なくはない。
「なくはないけど、ありもしないってところかな。いつも通りね」
「なにをぶつくさ呟いている。師匠の名を騙る女狐め、何が目的だ?」
「騙ると
「なんだ」
「そんなに怖い顔しない。別にあんたらをどうこうしようって話じゃないわ」
もはや敵意なし、と示すため、諸手を挙げて武蔵ちゃんは続ける。
「私はただ旅をしているだけ。ここにもたまたま立ち寄っただけ。さいわいなことに止まり木のような人もいる。通りすがりの女剣士ってところね。よろしく」
「ふざけているのか。この時世で旅だと……?」
「ああ、鬼が出るんだものね。でも、充分力は示したはずでしょ?」
「そうだな。それは認めざるを得ない」
「あら素直」
「…………」
桃太郎は武蔵ちゃんへと不満の色を隠さずにらみつける。
確かに、武蔵ちゃんの言う通り、鬼に対しても、己に対しても、桃太郎はいやというほどその実力を味わった。激情に身を任せて切りかかったのが間違いだと――今、頭と胴体が繋がったままなのは、彼女の恩情によるものなのだと、理解している。
認めたくはない――それは、師の神格化に近い感情だった。
だが、認めねばならない。
この女剣士は師よりも――宮本武蔵よりも強い、宮本武蔵だ。
「俺を鍛えてくれ、と言えばうなずいてくれるか」
「……ふうん。すぐ頭に血が昇るけど、考えは柔軟なのね」
「世辞はいい。どうなんだ」
「衣食住……は求めすぎだから、そうね、私も旅についてくわ。どうせやることないし。その道中のごはんの面倒見てちょうだい。あとできれば宿も。そこまでしてくれるっていうなら、一時の用心棒兼地稽古の相手を努めましょう。なんなら全員面倒見てもいいわよ」
「是非もない。よろしく頼む」
「じゃあごはん! ごはん食べに行こ! もうお腹ぺこぺこでさぁ~!」
と言って、武蔵ちゃんはずんずんと歩き始めてしまった。
それに慌てたのは桃太郎の仲間三人だ。犬とキジが戦い始めたのも、サルと桃太郎が駈け付けたのもまだ夜明け前の黎明時。今になってようやく日の出となったのだから、まずは方角を確認しなければ村へと戻ることもままならない。
「ちょっと待ってくれ姐さん。今村の方角を――」
「なんで君らが忘れてるのよ。みんなこっちから来たじゃない」
「……は」
「すごい。オレ、ニオイ消えてわからなくなってた」
「いや、しかし本当に我々がそちらから来たと?」
サル、犬、キジの三人は懐疑的だった。
あの激しい戦闘の中で誰がどの方向から来たかなど覚えていられるものか?
よしんばわかるとして、それが一面の砂漠であればどうだ?
「サルよ、俺とお前の差はそこだな」
と、桃太郎。
その物言いからして、彼もどの方向から自分がやってきて、どの方向へ帰れば村へ着くのかがわかっている様子だった。それが強さと何の関係があるのか、とんとサルにはわからない。方向がわかったって勝負に勝てなければ元も子もないと、サルは思うのだが。
不満顔になっていただろうサルに、桃太郎はどこか嬉しそうに笑って馬の腹を足で叩く。
馬鹿にした、というよりはもっと優し気な雰囲気だった。
やっぱり不満そうなサルが犬とキジを馬に乗せて桃太郎に着いていく。
「ていうか姐さん。ほんとにどっから来たんだ、アンタは」
「どこから来たのか、もう私にもわかんないのよね」
「さっきと言ってる事違うだろーが!」
「いやもう方角とかそういう枠じゃないんだよね~」
お気楽そうに言うだけ言って、武蔵ちゃんは振り向く。
あまり気にしていないようにも、そういう仮面をかぶっているようにも見える、微妙な表情だった。サルは思わずぐっと唇を結び、眉根を寄せた。本人的には聞かれて痛痒もないのだろうが。
「ん~、そうね。……アそうだ、亡国の女剣士ってカッコよくない? それで!」
「アンタなあ……」
「亡国と冠するからには、貴女の国も鬼に?」
「オレと同じ! オレも、鬼に、奪われた!」
尋ねてしまった、という負い目を感じるサルだが、キジと犬は特段気にしている様子もなく追及する。
桃太郎は、ちらりと馬上から武蔵ちゃんを横目で見るだけで、「そんなわけがないだろう」とは思っても口にしなかった。これほどの使い手がいる国が、そう簡単に滅びるとは思わないし、仮にその一歩手前だったとして手放すとも思えない。
とはいえ、もちろんそれを今口にする意味がない。
それでいいと判断して武蔵ちゃんが「亡国の」などと名乗ったのだと察したからだ。
それに、これから旅についてくるというのなら、ここで仲間と距離を詰めておくのも悪くはない。
――と、つらつら考えたところで、桃太郎の本心は「余計なことを言って目をつけられたくない」というものなのだが。
「そうそう、あなたたちは鬼退治をしてるんでしょう?」
今はどこに向かっているの、と武蔵ちゃんは訊ねるのでした。
§
朝餉時にちょうど帰ってきた桃太郎一行と武蔵ちゃんは、村人から暖かく迎えられ、砂まみれの体を清める間もなく食卓へと通された。
食卓ではパンと牛乳、それに一粒が大きめの豆のようなものが出されていた。
いくつかの世界を回った武蔵ちゃんだが、この豆がなんなのかはわからない。
この世界特有の生産物なのか、それとも元から地球に存在しているものなのか。
ただ、感謝の念と共に出された食料なので、決して悪いものではないだろう、と武蔵ちゃんは恐れることなく、両手を合わせていただきますしてから手を付けた。
「んん……、ん! これは……なんだっけ……どこかで……でも、たぶんこういうのじゃなくて……そう、ソース? 確かあれはどこの……」
「なんだブツブツと。気持ち悪いやつだな」
という桃太郎の言葉も耳には入れず、どこかで確かに味わったことのある記憶を武蔵ちゃんは掘り下げていく。今出されているような果実そのまま――完熟しているのかしっとりした食感――ではなく、ソースとして味わったことがある、と彼女の舌は訴えている。
では一体どこのなんのソースだったか。
訛りの強い地域だった記憶がある。
時代は現代に近く、周囲の人々はアジア系の顔つきだった。
じゅうじゅうと焼けるソースの匂いがなんともかぐわしく――。
「思い出した! お好み焼きだコレ!!」
「おい、大声出すな。食事中だぞ」
「あはは、ごめんなさいね。つい」
上機嫌になった武蔵ちゃんは、果実とパンとを交互に食べながら、それらを牛乳で流し込む。果実の芳醇な甘みは、お好み焼きにかかるソースの根幹で味わったものによく似ていた。
とはいえそれだけではここがどのあたりの文化文明を基に続いた世界なのかがわからない。食事の雰囲気だけでいえば中東の砂漠地帯そのままかな、と武蔵ちゃんは中途半端な知識の紙片を持ち上げる。
だとすれば、この果実はナツメヤシ……デーツだ。
「うん、おいしかった。ご馳走様でした!」
「ほんとにたらふく食ったなお前……」
「見ていて気持ちのいい食べっぷり。鳥の王国の馳走も召し上がっていただきたいものです」
「キジよぃ、そんな悠長なこと言ってる場合かよおめーは」
「がふっ! もぐもぐ……んまっ、はふはぐっ!」
いまだにむさぼるように食べる犬を余所に、武蔵ちゃんの食事終わりを待っていた桃太郎一行は、その食べっぷりに呆れるやら感心するやら、反応に困っていた。
牛乳で喉を潤してから、武蔵ちゃんは一行へと質問をする。
「それで、ちょくちょく名前が出てくるけれど、鳥の王国って?」
桃太郎はキジの方を向くと、うなずき合う。
武蔵ちゃんと向き合ったのは桃太郎だったので、事情を抱えているのがキジらしいことがわかったが、説明自体は桃太郎が行うのだろう。
いわく――。
鳥の王国には護国の双子戦士がいたという。
兄の名はカラス。鳥の王国の〝力〟。畏怖と暴威の象徴だった。
弟の名はキジ。鳥の王国の〝愛〟。博愛と融和の象徴だった。
決して仲が良かったわけではないが、互いが互いを補い合い、鳥の王国の発展に大いに貢献した偉大な勇者だった。
その繁栄は彼らが続く限り長く、長く続くものだと誰もが思っていた。
鬼。
鬼が現れた。
鳥の王国は双子の勇者を将に据え、果敢に挑んだ。
だが、その人智を超えた力の前に、徐々に追い込まれていく。
カラスの心が奪われた。
圧倒する力。灰塵すら残さぬ猛火。踏み潰されていく尊厳と、折れる心。
万物を塵芥の如く粉砕していく鬼の力に――魅入ってしまったのだ。
カラスは己の軍団を引き連れ、鬼へと転身した。
キジは、離れゆく兄の心を繋ぎ止めるべく、大きく翼を広げた。
伝心の舞。全身で伝える愛を、毎日毎日、ひたすらに踊り続けた。
愚かだったのかもしれない。
だが、必死だった。
砕けゆく兄の心よ、わが舞に絆を見いだしたまえと、その大翼を模した大袖の鎧をさらに大きく、もっと大きく、色鮮やかに華々しく、信じ続ける姿は悲壮すら漂いながらも、キジは兄の心を取り戻すため、その舞踏を続けた。
キジの愛は、とても大きかった。
カラスのことだって、愛していたのだ。
強い人だった。憧れていた。だから、知っていた。
兄はいつだって張り詰めていたことを。
カラスは、だけど確かに、鳥の王国を愛していた。
支配と映るその治世が、兄の愛であることを、キジは知っていた。
ただ鬼の振るう怪力乱神に、心が千切れ、己を見失っているだけなのだと、信じていた。
――だから届く。
――届けてみせる。
民たちは確かに、カラスをおそれていた。
だが、同時に、やはりカラスは英雄だった。
荒ぶ人。そして、気高い人。
心の片隅で、彼らも確かに、彼の愛を受け取っていた。
――翼をたため、と鳥の王はキジに言った。
今いっとき羽を休めるがいい、と、王は言った。
諦観さえ覗くキジの瞳に、しかし王は言った。
足りぬのならば、みなで舞おう。
想いを繋ごう。手を取り、羽を絡め、比翼となって大空を征こう。
おまえまでが翼を折ることはない。お前だけがはばたくことはない。
祈りによってわれらは繋がっている。
兄に届けと舞ったお前の心は、われらの心もゆさぶった。
われらもおそれずはばたこう。
今、おまえに願いを託す。一族の翼をまとい、飛べ。
われらの、おまえの英雄を取り戻すのだ。
あの行方の知れぬ力に冒させてはならぬ。
完全なる鬼に堕としてはならぬ。
それは間違いなく、われらの願いであるのだ――。
果たしてキジは、鳥の王国の一族全員の願いを託された。
英雄に愛を届けるため。
兄へ愛を伝えるため。
「つまり、その鬼になったカラスって人をどうにかするってことね」
「そういうことだな」
「……今鳥の王国はどうなってるの?」
「王を中心に民たちが祈祷と舞によって王国を守護している。時間は然程かけられん」
「なるほどねえ」
おそらく王国に踏み込めない鬼たちは、王国から出たキジの行方に向かって派兵しているのだろう。戦力の逐次投入で一見愚策のようにも見えるが、時間稼ぎが目的ならまだうなずける。
鬼の心境は完全に見通せないものの、武蔵ちゃんはカラスが故郷を落としたがっている理由を想像してみた。考えられるものとしては、己を疎んでいた一族への復讐か、あるいはしがらみを切り捨て、完全に鬼へと転じてしまおうというところか。
最悪なのは「力をふるってみたい」という餓鬼くさい理由だったときだ。
だが、武蔵ちゃんはその心配はあまりしていない。というのも、そこまで堕ちたのならばもはや容赦のしようがないからだ。前者二択ならばまだ、キジらの言う「愛」を伝える余地はあるのだろう。
だが、怪力乱神たる鬼になって後者を選ぶのならば、それはもう完全なる鬼だ。
斬るしかなくなる。武蔵ちゃんからするとあとはもう斬るだけ! となるなら簡単だ。だが、桃太郎一行がそう簡単に終わらせてくれないだろう。
そのあたりが面倒だ、と武蔵ちゃんは思うところだ。
「ま、私はどこまで付き合えるかわかんないからね。ある日宿屋から消えてても驚かないで頂戴ね。自分でもわからないうちに消えちゃうことってよくあるから」
「まるで神隠しにでも遭ったかのように言いますね、貴女は」
「あー、そっか。神隠しか。そうね、私の境遇って神隠しが一番近いのかも」
キジと武蔵ちゃんとの会話に牛乳で口内を潤していた桃太郎は訝し気に顔をゆがめた。
「お前、神隠しに遭ってるのか?」
「そんな感じです。頓珍漢な世界から、今にも滅びそうな世界まで、迷子のようにあっちに行ってはこっちに行って、巡り巡って桃太郎。まさか鬼退治に同行するなんて思ってなかったわ」
「…………つまり、それは……」
桃太郎はそこまで言って、言い淀んで飲み込んだ。
犬とサルは特段気にする風でもなかったが、キジも桃太郎同様になにかに勘付いたようで口をつぐんだ。
想像を膨らませるだけで、背筋をぞくりと悪寒が駆け抜ける。
「そんなに重く受け止めないでよ。私は気にしてないんだしさ」
察するに余りある態度を取った二人に、武蔵ちゃんはそう言って気遣う。
最後にコップを覗き込んで牛乳がもうないことを確認してから、武蔵ちゃんは立ち上がった。まずは装備を整えねばなるまい。砂漠を行くというのなら、それに似合った装備をしなければ死んでしまう。
「誰か買い物に付き合ってくれない?」
「俺は今から村長に報告をあげなきゃならない」
「オレもだ。大将に付き合わなきゃなんねーからよ」
そうすると、残りのキジと犬はどうだろうか。
視線を向けると、キジはゆるりとうなずいた。
犬は無邪気そうにうなずくと、さっさと立ち上がって宿の外へと出ていく。
「じゃあ二人、借りてくわね」
「待て。金だ」
「おっとと」
「今朝の報酬だ」
「そ。ならもらっておきます。ありがと」
武蔵ちゃんは桃太郎から投げ渡された銭の詰まった袋を掲げ、キジと犬とを引き連れて村の市場へと向かった。
武蔵ちゃんが提示した「旅の間の食住」の充実とは別のものだったが、契約締結前の今朝の助太刀分だと言われたのなら受け取らないのは礼に失する。武蔵ちゃんにしても、誰かを連れて行こうとしたのは金がなかったからなので、渡りに船とはこのことだった。
§
キジは目の前の不可思議なる女性の背を眺め、物思いに耽る。
風のように現れ、自身と犬の窮地を救った女剣士。その腕は桃太郎に迫るものがある――と最初は思っていたのだが、実際にはその遥か上をゆく腕前だった。
村の帰り道に、いささか不躾かと思ったものの、キジが桃太郎へ武蔵ちゃんの所感を問い質したところ、彼は難しい表情を浮かべはしたものの、ぽつぽつと語ってくれた。
『あれは奥義に至った剣士だ。己の理想のもと剣の術理を構築し、己の哲学のもと剣の合理を磨き、己の信念のもと剣の道理を通す、その果てにたどり着く剣の究理――それが奥義だ』
キジが桃太郎は、と聞けば、渋い顔をされてしまった。
つまり、彼と互角以上に剣を振るう師である方の宮本武蔵も、まだそこには至っていないということだろう。その途上、あるいはたどり着けずに終わってしまう才能である可能性も捨てきれない。
つまり武蔵ちゃんは、あの若さで奥義に開眼した天賦の剣才を持つということ。
キジは聞かなかったし、桃太郎も言わなかったが、もしかしたら鬼化したカラスでさえ武蔵ちゃんには届かないかもしれない。
この風のように軽やかな女性が、今朝には鬼の返り血にまみれていたなんて、間近で見ていたキジ自身ですら信じられない。それほどまでに、今の武蔵ちゃんは自然体だった。
「ねえ、えっと、犬くんだっけ?」
「んん、オウ、犬だぞ」
「あなたはどうして桃太郎と鬼退治してるの?」
「……母さんが殺された」
朝日が、彼の白髪とまとう毛皮を銀色に輝かせた。
悲しみの表情の中に、怒りを瞳に湛え、唸るように犬は言った。
「母さんは、人間のオレ、自分の仔のように育ててくれた。山で、みんな、狩りをして生きてきた。でも、鬼が突然来て、母さんと、みんな殺した……! だから、オレも殺す! 鬼、殺す!」
「……なるほどね」
毛皮の外套を強く握る様子と、犬の口振りから「親は人間ではない」ことを察した風に、武蔵ちゃんはこぼす。
同情をしているようにはキジには見えなかった。
まして復讐なんてやめろ、とも言わないだろうと感じていた。
剣の道に生きていれば、多かれ少なかれそういう輩が現れる、とは桃太郎。
彼自身は鬼退治に切っ先を向けているため、今は誰からも恨まれるようなことはないはずだが、これからどうなるかはわからないと世間話のように話していたことをキジは思い出す。
目の前を行く可憐な少女も、そういった血腥い道程を歩んできたのだろうか。
そう思うと、キジはどうしてもいたたまれなくなってしまう。
「犬くんはさ、親の仇を殺すだけじゃ満足しなかったの?」
「? ……よく、わからないぞ」
「ああ、そうね……」武蔵ちゃんは思案顔になって、一言一言確かめるように続けた。「あなたの山を襲って、あなたの母上と仲間を殺した鬼を、桃太郎と斃したのよね?」
「そうだぞ。皆殺しにした」
「犬くんの復讐は、そこで終わらなかったの?」
「いいや、終わったぞ」
「あら……」
「今は、桃太郎と一緒に戦ってるんだ。オレみたいな思いをするヒトは、いない方が絶対にいい。だから鬼を殺す。みんな殺す」
「へえ、なるほどね」
慈愛すらにじませる笑顔で、武蔵ちゃんは犬の頭を撫でた。
それにキョトンとした犬も、次の瞬間には褒められていると解釈して無邪気に笑った。
それから武蔵ちゃんは、どこか晴れやかな顔をして、キジに向き直った。
「犬くんの言葉で、桃太郎のこともすべて納得しました。ごめんなさい、私ってば素直じゃないから、あなたたちの善性を信頼するなんてことできないの。でも、あなたたちの中で一番純粋な犬くんが、こうして桃太郎につくというなら、もはや憂いはありません」
「……それは、どういう?」
「この宮本武蔵、心根からあなたたちの助けになると約束します」
「我々に稽古をつけてくれる、用心棒になってくれる、という契約を交わしたはずですが?」
「それって口約束だし、私は対価を要求したわ」
「ではこれからは無償で協力してくれると?」
「それはそれ。これはこれ」
「ふふ……なるほど、私もあなたの性格が見えてきました」
つまり武蔵ちゃんは、契約上の関係のみならず、それある限り仁義にて助太刀すると言っているのだ。素直ではなさそうだが、律儀ではありそうだ、とキジは武蔵ちゃんの性格を見た。
そして、先ほどの犬との問答。
己の中に迷うものはないとはいえ、今一度見つめ直すのも必要かもしれない、とキジは思う。
兄へ愛を伝えること。
それではもう、兄が鬼から戻らぬことは理解している。
だから、打ち倒す必要があることも、わかっている。
それでもわが想いを――われらの想いを伝えたいと、心をつなげたいと願うのは。
「兄上……」
陽も昇り切った蒼天に、キジのつぶやきが溶けていく。
兄を討ったのち、自身の心は果たして、犬のような勇気と共に進めるのだろうか。
生ある限り、終わりではないのだ。
為したこと、選んだ道を噛みしめながら、進まねばならぬのだ。
ああ。であれば。
選んだ道は、決して間違いではないと、胸を張るほかない。
その果てに死ぬるとも、これこそ我が人生と、言わねばなるまい。
だからこそ、揺れてはならぬのだ。
比翼にならぶ連理の枝。
願いこそが翼ならば、意志こそが枝である。
比翼連理を揃えねば、キジはカラスを救えまい。
カラスには愛を。しかし、それだけでは足りないのだ。
この天賦の才を持つ女剣士と征く旅の中で、鍛えてもらわねばなるまい。
さいわい、桃太郎との助太刀契約の内容には稽古も含まれている。
いや、もしかしたら桃太郎はキジの内心を読んでいたのかもしれない。
カラスを越えた、その先をまで見据えて。
「誰もかしこも皆、私よりも逞しく美しい。それでこそ、私の翼も広げ甲斐があるというものか。……私のこの愛、皆の願いを受けて大きく広げるとしようではないか」
旅は続く。
Fate/Grand Order -Epic of Remnant- 英霊剣豪七番勝負
次回更新は4月23日(火)!
次回からいよいよ村正登場で物語も七番勝負本番へ。
圧倒的画力で描かれるFGO屈指の難易度を誇る物語が読めるのは、
マガジンポケットだけ!
単行本もまだ発売予定はたってないっぽいので、
先行公開分以外は全話無料で読めますよ!
やはり大胆なダイマは二次創作者の特権であるな。