三玖と恋するフータロー   作:アランmk-2

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マルオを書く時桐生ちゃんがチラついてしかたない


神の雫の生る木には

 つんと鼻の奥に残るような煙草の残り香に少し顔をしかめながら、ガラス一枚隔てて流れて行く光芒を見送る。光が走り抜けると、窓が鏡の様になって私を映した。どこか沈んだような暗い顔。いや、もとからこんな顔か。

「お嬢ちゃん、大丈夫かい? けっこうかかるよ」

 運転席に座るタクシードライバーは、困ったように眉根を寄せて私に問いかけて来た。

「大丈夫です。江ば……お父さんの秘書が払ってくれると」

「秘書? お父さんは社長か偉い人なのかな?」

「えっと……」

 しまった。世間話の口火を切った事を少し後悔しながら視線をさ迷わせると、大きな黒塗りの高級車がマンションの前に停まる。

「あ、来ました」

 ドライバーは私の視線の先を追いかけ、停まった車を見た。後部座席からお父さんが降りてくる。それだけなのに、その洗練された所作は恐怖すら覚えるほどだ。

 コン、と運転席の窓を軽く叩く人がいた。江端さんだ。ドライバーは窓を開けて江端さんと言葉を交わすと、カードを渡されてそれで支払いを済ませる。

「はい、ありがとうございました」

 とドライバーは言うと私のすぐ横のドアが開いた。江端さんは車を駐車場に置くために戻っていった。私は降りると、夜の帳のようなスカートがふわりと翻る。真面目な話をしに来たのだから、私の服装も少しばかしは真面目だ。

 黒のプリーツスカートに白のブラウス、ジャケットを羽織り、胸元には翡翠が光っている。フータロー、私に勇気をちょうだい。

「やあ三玖君。僕に話とは、何だろう」

「お父さんあの……」

「いや、立ち話は止めよう。5月とはいえ今日は風が吹けば肌寒い。夕食をとりながらゆっくり話そう」

 お父さんはそう言うと真っすぐマンションに向かう。私は慌てて追いかけた。自動ドアを抜けてエントランスに入ると、釣りをする休日のおじさんみたいに大きなクーラーボックスを担いだ人とお父さんが会話をしていた。

「今日はよろしくお願いします」

 その人は小太りの体を揺らし、深い皺が畳まれた目元の中は優しい光が宿っている。握手をした手は分厚くて力強い。

「今日は三玖君が来ると聞いていたからシェフを呼んだよ。普段の食生活がどうかは知らないが、たまにはこういう物も良いだろう」

 なるほど、料理人ならあの体系と分厚い手も頷ける。クーラーボックスには肉か魚か、とにかく今の私達には手の届かないような物が入っているのだろう。

「今日はここに泊まるのかな。それともアパートに帰るかい?」

 ちらりと車を置いてきた江端さんの方を向く。帰るなら車を出そうと言いたいのだ。

「……帰る」

「分かった。江端、すまないがゲストルームで待っていてくれないか。三玖君を送ってほしい」

「かしこまりました」

「すまないね」

 私達はエレベーターに乗り込んだ。三十階までの時間、私の胸に気まずさの靄がかかる。それは男の人三人に囲まれているからではなく、私自身の心境の変化から起こるものだ。

 少し前までは、このエレベーターに乗ることに何の疑問も抱かなかっただろう。しかし、この数か月で私はあの狭いアパートの事を、心の底から帰る家と認めているんだ。

 ポーンと到着を知らせる電子音が響き、考え事の岸辺から呼び戻される。お父さんが重々しく足取りを進めて部屋に真っすぐ向かう。私もそれに続いて歩き出した。

 お父さんがキーを通してドアを開ける。江端さんが扉を持ってくれてその間に私と料理人さんも入る。

 久しぶりのマンションは懐かしいような空気がした。でもどこか嗅ぎ馴染みのない匂いがして、この短かったような長いような数か月を思い起こさせる。

このマンションを飛び出して、あのアパートに住むようになった事。皆で協力しながら暮らす中でケンカしたり、仲直りしたりして姉妹の結束を深めた事。バレンタインチョコを一花や二乃の協力を受けて作って、フータローにうまかったぞって言われた事。ただ買い物に行くだけなのに、わざわざフータローの近所まで行って彼を探した事。春休みの旅行の最後、私を見つけてくれた事。……そしてフータローと付き合うようになった事。

 胸元に輝く緑の魔法を握りしめる。それだけでこれからの事を憂うさざ波の立った心が静まる様に落ち着いた。うん、私は大丈夫。

 キッチンに入った料理人さんはコックコートを身に纏い、大きなクーラーボックスから何かの塊を取りだした。鮮やかな赤色の、赤身のお肉だ。ちらりと見えたクーラーボックスにはいくつか同じ様な塊があって、つまり肉料理のコースだろう。

「どうした、三玖君? 席に着きなさい」

 お父さんの地の底から響くような、威厳と威圧感のたっぷり詰まった声が私に呼び掛ける。言われるままに私はお父さんと向かい合う席に座った。グラスに入ったミネラルウォーターで口を湿らす。お父さんは泡立つ液体を、細いグラスのステムを優雅に持って口に運ぶ。

「模試の結果は見せてもらったよ」

 とん、とグラスを置いてからお父さんは言った。

「こう言っては三玖君に失礼かもしれないが、正直驚いたよ。現時点でこの成績なら、進学にそう不自由はしないだろう」

「お父さん」

「どうやら上杉君の実力は本物のようだ。認めざるをえない」

 言い終わると同時に最初の皿がサーブされる。真ん中に小さく、綺麗な赤色の差したお肉が置かれて、その周りを取り囲むようにソースが半円の軌跡を描く。

 ナイフを入れて私の口に合うように切る。口に運ぶとしっかりとした赤身の旨味が広がり、歯で筋繊維をぷつりと噛み切る柔らかい肉特有の食感を楽しむ。五月に今日こんな肉を食べたと言ったらどんな顔をするだろうか。

「それで、何が欲しいんだい?」

「えっ……?」

 最初の皿を空にした所でお父さんはそう言った。突然の言葉に私は一瞬固まる。

「誤魔化さなくていい。思春期の娘が父親と話がある時は、何か欲しい物がある時と相場が決まっている」

 空にしたグラスに注ぎながら言った。その姿さえ怖く見えるのは、私にやましい事があるからだろうか。いや、フータローと付き合ってることはやましい事なんかじゃないけど。でも父親からしたら娘が異性と付き合うことは許容し難い事だろうか。

「お父さん、最初にこれは言っておきたいの」

「何だい」

「家庭教師を……フータローを私達につけてくれてありがとう」

「ほう」

 ぴくりとお父さんの眉が動いた。驚きだろう。去年の九月の私もこれを聞いたら同じ様な顔をしそうだ。あの時の私ときたら、自分の知っている事だけは一丁前のつもりで、そのくせ外に踏み出す勇気のない臆病者だった。

 続く言葉を探していると二つ目の皿が出される。野菜の上にさっと火を通した薄切りの肉がのっている物だ。

 お父さんはその皿に目を落とし、肉を口に運ぶ。落としていた視線が私に向けられると、私は二の句を続けた。

「そして、ごめんなさい」

「何を謝るんだ?」

「私が、フータローと付き合っている事」

 鬼の様な形相で睨まれるか、声を荒げて怒鳴られるかと思っていたらお父さんは意外な反応を示した。片眉を下げて、疑問に首を捻っている。少しして分かっている問題に挙手する生徒のように控えめに手を挙げて言った。

「一ついいだろうか」

「何?」

「二乃ではなかったのかい?」

「え、どういう事?」

 お父さんは力の入った眉間を親指でぐりぐりと押してほぐした。

「どういう事も何も、上杉君が来て最初の定期考査で嘘をついてかばったのは二乃だったろう? それに少し前の学年末考査で二乃は『私達を見てて』と言って上杉君のバイクの後ろに乗り、そして上杉君も『娘さんを頂いていきます』とさえ言ったんだ。おまけについこの間の家族旅行、夜中に旅館を飛び出して誓いの鐘の下での逢瀬を重ねようとしたのも二乃だったかな」

「……」

 お父さんの言葉を聞いて分かった。二乃もフータローの事を好きだったんだ。いつからだろう。少なくとも春休みの旅行の前からな事は間違いない。バレンタインチョコを作るのを協力してくれた時はどうだったんだろう。知らなかったとは言え、私はとても無神経な事をしていたのだろうか?

「そうか……二乃ではなかったのか。いや、でも三玖君と付き合っているのか……」

 お父さんはほっとして、でもすぐに沈み込むような顔色をした。感情の打ち寄せる波に表情をころころ変えるお父さんを見るのは面白かったが、そんな感想はタンポポの綿毛の様に容易に吹き飛ばされる。

 重力が倍になったかのように部屋の空気が重くなった。冷や汗が一筋私の頬を流れて、突き刺すような視線を感じる。お父さんの黒い瞳が私を真っすぐに見据えていた。それはただ睨んでいるだけじゃなくて、相手の奥底まで確かめるような、そんな瞳だ。人間の奥のさらに奥底を切り開く医者であるお父さんだから持てる、メスのように鋭い目に恐怖で身がすくむような感覚を覚えた。

 気を紛らわそうとした頭はこんな話を思い出した。それは生物の解剖の問題の時にフータローの話してくれた事。

『メスっていうのはその切っ先の重さだけで肉を切ることができるらしい。肉の塊である人間を切るんだからそれくらい当然か。……とてもじゃないが三玖には持たせられないな』

 そう理解はしても慰めになるだろうか。メスは突きつけられ、お父さんがちょっと力を入れれば……いいや、逆だ。切り裂かないようにお父さんは力を入れているんだ。その気遣いが無くなった時、探求の刃が私を切り裂くだろう。

「いつからだ」

「え……」

「いつごろから付き合うようになったのかと聞いているんだ」

「あの、家族旅行から帰った後」

 そうか、と小さく空気を震わせると料理に箸をつけ、飲み物で口を濡らす。

「せっかくの料理だ。遠慮せずに食べなさい」

 と言われて素直に味わえる人がどれだけいるだろう。……いや身近に一人いるな。けど私はとてもあの子のようなメンタルで食事ができない。舌に感じる美味しさも、どこか上滑りしてまともに味わえなかった。

「やめておいた方がいい、と僕としては言わざるをえないね」

「でも、認めるって……」

「家庭教師としては、だ。ある人物が嫌いという感情と、その力量を認めるという事は両立する事柄だよ」

 お父さんは一つ息を吐いてポケットからスマホを取り出して数回タップする。落としていた目線をまた私に向けて言う。

「三玖君、学生時代の恋愛なんて熱病と同じだ。その時は辛かったり苦しかったり、この人がいないと生きていけないと強烈に思うかもしれないが、なんてことはない。数日休めば熱が引いていくのと同じで、数か月、数年すればその熱病は引いていくだろう」

「そんな事ない。私はフータローのこと……」

「風邪と恋には特効薬がないとはよく言われる与太話だが、目の前の君を見てるとその言葉もあながち嘘じゃないと思えてくるね」

 お父さんはそう吐き捨てるように冷たく言い放ち、グラスを傾けて休符を打つ。指揮者がタクトを振る様に、トントンと一定の間隔で指先を机に打ち付ける。

「なぜよりにもよって彼なんだ? 君の前途にはいくらでも道があって、いくらでも素敵な出会いを手繰り寄せることができるだろう。それこそ本物の愛さえも」

 机を叩いていた手を上げる。メインであろう大きな肉が、脂が熱で溶けてキラキラと美しく一種の宝石のように輝いていた。その皿がサーブされると同時くらいに、お父さんの部屋から黒い瓶を持った江端さんが出てくる。

「古来から女性は様々な物に例えられてきた。船、花、勝負事」

 江端さんがその瓶を机に置いた。瓶に張られたエチケットに力強い文字が記されている。私達が生まれた年だ。

「そしてワイン」

 そっと赤ちゃんを抱くように、お父さんはそのワインボトルを手に取る。

「これは君たちが生まれた年の物だ。購入したのは二・三年前だが、その時でも百万はした。君達が飲める歳になったら一緒に開けようと思っていたが、そのころには二百万の値が付いていたとしてもおかしくないだろう」

 そこまで言うとボトルを置いて私を見てきた。先ほどのような鋭い目線ではなく、諭すような目だ。

「君達はこのワインになる実をつける葡萄の木だ。常人にはそうそう触れられない価値を実らせるだろう。それは単に母親譲りの見目麗しさからだけではない。歳を経て得る経験に、教養に、君達の円熟味は増して益々素晴らしい女性になるだろう。その価値が分からないような男に渡したくないと思うのは、そんなにおかしい話かな?」

 お父さんはグラスを空にする。江端さんがそのグラスを満たして、もう一口お父さんは口を湿らせた。ナイフとフォークを手に取り、芸術品の様な肉にナイフを滑らせる。

「素晴らしい君達に、このクラスの肉の様に素晴らしい人を引き合わせようと思うのは特段変な事ではないと思うが、どうかな」

 言いたい事は色々あるはずなのに、喉に引っかかったように言葉が出てこなかった。何て言えばいいんだろう、どう言えば納得してくれるんだろう。胸の内でぐるぐると言葉がかき回されて、意味のない奔流が渦をつくる。

  トン

 何かが私の胸を叩いた。思わず胸元を抑えると冷たい石がそこに揺れていた。フータローがくれた、幸福の意味を持つそれを握ると心が落ち着いて胸のつかえがとれたように思えてくる。ここにいないフータローが私を見かねて、この石を通じて勇気づけてくれたと考えるのは、いくら占いが好きとはいえスピリチュアルが過ぎるだろうか。

「お父さん。私はお父さんが言ってくれるような、そんな大それた人間じゃないよ」

「謙遜することはない」

「ううん。謙遜じゃなくて、本当の事。私はお父さんがくれる物を、ただぼうっと受け取っていただけの、ダメな木だった」

 でも、と一旦言葉を切り、水を一口飲む。

「でもフータローが変えてくれたんだよ。自分で根を張ることも、葉っぱを広げる事も忘れた私達に、このままじゃダメだって向き合ってくれた。怒られたり、叱られたり、でもそれを乗り越えて私達は成長できた。私達が価値のある物を実らせるようになったとしたら、それはフータローのおかげ」

 思いの丈を打ち明ける事に、体がかっと熱くなる。でもここで思いをぶつけないと、あの鉄仮面の奥に響かせることなんて出来ない。

「だから私はフータローと一緒にいたい。フータローと一緒に成長していきたい。子供の戯言だってお父さんは言うかもしれないけど、でもこれが私の気持ち。何て言われても、この恋を諦める事なんてできない」

 とうとう言ったんだ。あのお父さんに、私がフータローの事を好きなんだって、フータローと一緒にいたいんだって。

 お父さんはその変わらない表情のまま私を見ている。怒っているのだろうか、悲しんでいるのだろうか、顔色からはうかがい知ることができない。

「……つまらない物だね」

「え……?」

「食べなさい。冷めたらせっかくの肉も台無しだ」

 そう言われて私はこのメインディッシュに一口もつけてない事を思い出した。言わなくちゃという思いで頭がいっぱいで、物を食べる何て思考がどこかに飛んで行ってしまっていた。

 肉にナイフを入れる。さして抵抗もなく切れて、一かけらを口に入れる。食べるというより、飲めるとでも形容するような、これが最上級の物だという味が口いっぱいに広がる。

「なるほど、三玖君の気持ちがそれなりに本気なのは間違いない様だ」

「それなり、じゃなくて、本気」

「失礼。本気なようだ」

 先に食べ終えたお父さんが丁寧にナイフとフォークを置いて、指を組みながら私に語り掛けてくる。

「では、将来はどうするつもりかな?」

「将来……」

「近い所でいうと……そうだね、進学するか就職するか、というところか」

 あっ、と思った。私はお父さんに言う事ばかりに躍起になって、そういった説き伏せるプランを練ってきていなかった。

「考えていないとなると、君の言ったように子供の戯言と言わざるをえないな」

「……進学はする」

「何の目的を持って? ただモラトリアム期間を得たいだけなら駄目だとは言わないが、さっきの君の言葉は軽くなるだろうね。それは問題の先送りだ」

「大学で資格をとって、給料は高くなくても、産休や育休をちゃんとくれる所に勤めたい」

「それはどこかな?」

「それは……これから調べる……」

 お父さんはふうと少し呆れたように息を吐いた。こういう先の事を考えられるのが、大人という事だろうか。

 甘かった。私は気持ちをちゃんと話せば分かってくれると、やっぱりどこか甘えていたんだ。説得する、なんて偉そうな事を言っておいてこの体たらく。私は目頭が熱くなって、鼻がつんとする感じがして、泣いちゃだめだと自分に言い聞かせる。

「A大学なら……」

 とお父さんは口を開いた。私が顔を上げた所を見て、話を続ける。

「そこならここからでも、今君達が住んでいるアパートからでも無理なく通えるだろう」

 何だろう、お父さんは何を言っているのだろうか。

「そこで簿記なり事務仕事の資格でも取ればいい」

「え……お父さん……?」

「社会人の先輩として言いたいが、メモを取ったりしなくていいのかな。覚えられるというなら、取る必要はないがね」

 そこまで言われてようやくわかった。お父さんは進路相談をしてくれているんだ。スマホを取り出してメモのアプリを立ち上げる。さっき言われたことを手短にまとめた。

「早く自立したいなら、B短大に通うという手もある。学費の事は気にしなくていい。君達五人が全員大学に進学しても不自由はさせないよ」

 それは何となく分かっていた。中野家という家は、私達の想像の上を行くお金持ちの一家なのだ。

「そして……そうだね、うちの病院に事務員として勤めるというのはどうだろう。産休も育休もある。そして病院には保育園もある」

 喋った分を取り戻すようにお父さんはグラスの中の物を飲み干す。

「と、これくらい考えてずっと一緒にいたいとのたまって欲しいね」

「……うん、考えてみる」

 最後のデザートが運ばれてくる。すっきりとしたレモンのアイスクリームだ。思い通りにいかないような酸っぱさと、打ちのめされるようなほろ苦さ、そして最後に教えてくれたほのかな甘さ。今日のこの会食を締めくくるに、これ以上ふさわしい品はない、と思った。

「ねえ、お父さん」

「なにかな」

「さっき言ってた、つまらない物だねってどういう事?」

 そう聞くと、お父さんは鼻を掻いて伏目がちに言う。

「男親なんてつまらないな、と言ったんだよ」

「?」

「三玖君も、そして他の四人も、こんな風に誰かに取られていくんだなと思うと、つまらないじゃないか。一人くらい男の子がいれば、慰めにもなったのかも知れないけどね」

 そのどこか弱々しい心中の吐露に思わずおかしくなった。

「あはは」

「おかしいかな」

「おかしくはないけど、あのお父さんが言ってると思うと、おかしい」

 お父さんは立ち上がって、時計に目線を向ける。

「もう遅い。早くアパートに帰った方がいいだろう」

 と言うと江端さんを呼んで、私に帰り支度をするように促した。といっても私の荷物なんて小さなポーチくらいのものだけど。

 先を歩くお父さんは振り返らずに、どこか言い訳がましくこう言った。

「勘違いしないで欲しいのは、僕は上杉君を認めた訳ではないという事だ」

「じゃあ何であんな事を言ってくれたの?」

「さあ、何でだろうね」

 その言い方は漫画に出てくる不器用な父親の様で、笑いそうになるのを奥歯で噛み殺した。

「しかし僕が提案した道も楽ではないよ」

「うん。分かってる」

「いや、分かっていないね。君がどんなに優秀な成績を修めたとしても、口さがない奴は言うだろう。『親だけ偉いバカ娘』とかね」

 そういう言葉にどこか力がこもっている気がして、思わず聞いてみた。

「お父さんも言われた事ある?」

「あるね。……君達のお母さんと結婚した時に、『(イツ)コブラクダを貰って、中野は動物園でも始めるのか』というのは最悪だった」

 その言葉の悪辣さを追求するように険のある言い方に、あまりに普段のお父さんのイメージとかけ離れていて思わずくすりと笑いが漏れてしまった。

「笑うような話かい」

「その言葉は最低だけど、それにお父さんが怒ってるのが、なんだか嬉しい。そんな事言ってくれるなんて思ってなかったから」

 お父さんは気まずさを誤魔化すように頭を掻いた。

「飲みすぎたかな」

 こんどこそ我慢できずに声を上げて笑ってしまった。

「あははは!」

「僕だって酔うことくらいある」

「ただの炭酸水なのに?」

 これはフータローから聞いた話だ。お父さんはお酒を特別な日に、と決めているらしい。私がお父さんと話すくらいの事を特別な日と言い張るのは、さすがに自惚れが過ぎるだろう。

 お父さんの力の入った顔から、まいったと言う風に力が抜けた。

「君達のする事は大抵許してきたと思うが、やはり上杉君と付き合うというのは僕は反対だね」

 けれど、と言葉をつなぐ。

「上杉君の事を、僕が認めたくなるような男にしなさい。君も女なら、そのくらいの器量はあってほしい物だ」

「うん。お父さんに『上杉君、三玖を貰ってくれないか』って言わせてみせる」

 私は笑った。お父さんも唇の端を一瞬だけピクリと動かした。

「これを渡しておこう」

 そういうお父さんの手にはカードが五枚握られていた。あのとき投げ捨てたこのマンションのカードキーだ。

「今すぐ帰ってこいとは言わない。だが、いつでも帰ってきて良い」

「分かった。皆に渡しておく」

 五枚を受け取ってポーチにしまった。靴に足を入れた所でまた声をかけられた。

「いけないね、あまり会わない娘にいざ会うと、あれこれ言いたくなるのは」

 そんなお父さんを見た江端さんは、車を出しておきますと言って先に出て行った。

 お父さんは口を開いて……

 

 

 

「今日は来て良かった」

「ええ。きっと喜んでおられます」

「やっぱり、逃げてちゃダメなんだ」

 ふう、とため息を吐く。高い車のソファが私を受け止めてくれる。これに乗るのも久しぶりな気がした。

 窓から外を見る。それは鏡の様に私の顔を映し出していた。すっきりしたような、晴れやかな顔をしている。

 私はお父さんが言った言葉を思い出す。

 

  思考に気をつけなさい、それはいつか言葉になるから。

  言葉に気をつけなさい、それはいつか行動になるから。

  行動に気をつけなさい、それはいつか習慣になるから。

  習慣に気をつけなさい、それはいつか性格になるから。

  性格に気をつけなさい、それはいつか運命になるから。

 

 有名な聖女の言葉だ。お父さんは普段の何気ない事もきちんと考えなさいと言いたいのかな。

 ありがとうお父さん。

私はこの恋を、運命にしてみせる。

(イツ)

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