三玖と恋するフータロー   作:アランmk-2

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前回からの投稿間隔が長ぇ……
本文も長ぇ……


大海原に漕ぎ出して

「武田君、さっきの問題なんだけど……」

「なあ武田、次の授業で俺当てられるんだけど……」

「武田君」

「武田」

「武田君」

 休憩時間に入るとすぐに、武田祐輔の周りは人でいっぱいになる。それは彼の人当りの良さと、成績の良さ、加えて顔の良さがもたらす、彼を知っている人なら疑問の一欠片すら思いはしないいつもの光景だ。

 人気者は大変だね、と風太郎は他人事に想いながら食堂に足を運ぼうとする。今日の勉強談義は諦めて、三玖と楽しい昼食を過ごすのも悪くない。

 鞄から財布を取り出している三玖に一声かけようと、席から腰を浮かして立ち上がる。

「おーい三玖……」

「ごめんね、全部を見る事は出来そうにないよ。そうだ、上杉君、一緒に教えてくれないかな?」

「は?」

 自分の名前が不意に呼ばれた事に、風太郎の間抜けに開いた口から思わず間抜けな声が出て来た。間抜けな口を開けているのは呼ばれた本人だけではない。勧められたクラスメート達もぽけーっと口を開いている。

 それはそうだろう。彼ら彼女らにとって上杉風太郎とはただの学級委員長でしかない。中野五姉妹の窓口になってくれる事もあるとはいえ、基本的に風太郎という男は人と楽しく関わり合いを持とうとしない人である事は皆何となく察していた。

「心配しなくても良い。上杉君の学力は僕が保証しよう。何と言っても僕のライバルだからね」

「「おぉ~~」」

 しかし武田祐輔のお墨付きともなれば話は別だ。風太郎を見つめる皆の目にどこか羨望の色が混じる。

 クラスメート達の人生で出会った中で武田祐輔ほど凄い人間はいない。勉強だけを切り取っても全国模試八位という順位は、例える言葉も見つからないほどの、もはやギャグの域にすら思えるほどの凄さだ。その彼にライバルと言わしめるとは、いやはや人とは分からないものである、とクラスメートは各々勝手に思ったのだった。

「武田、お前なに勝手に……」

「まあまあ。誤解を受けやすい友の橋渡しをしてあげるのも、友人の務めではないかな」

 武田は立ち上がり、何人かを指さした。

「付いてきてくれないかい? あまり行儀がいいとは言えないが、昼食ついでに勉強会といこうじゃないか」

「えー、武田君なんで私は選んでくれないのー?」

「君達はまだ余裕があるだろう? 彼らはこの後すぐに間に合わないと、補修や追試をする羽目になるだろうね。課題や予習をしなかったというのは簡単だけど、部活で上の大会をめざして頑張っている姿を知ってるから、おせっかいを焼きたくなってしまうのさ」

 臆面もなく言い切る武田を、皆は眩しい物を見る様に目を細めて見た。

「はぁ~イケメンか? お、イケメンか? ……イケメンだったわ」

「からかいながら落ち込むなら言わなきゃいいのに……」

「はっはっは、それにね」

「それに?」

「おバカな生徒ほど可愛いというだろう?」

「おい言われてるぞ」

「お前だよ」

 軽い漫才に皆の輪の中から笑い声が上がる。

 面倒な事になった。風太郎は小首をかしげてこちら見る三玖に癒されはしながら、気の進まない事態に重いため息を吐いた。

「何でもいい。行くならさっさと行くぞ」

 財布をポケットに突っ込みながら、風太郎は不貞腐れた顔をして歩き出した。なおもこちらを見る三玖にアイコンタクトを送り、教室から出て行った。それに気が付いたのは彼女の姉妹と、彼女が『勝利の女神』と知っている武田の5人だけだ。おかしいな、という風に武田は喉の奥でくっくっと笑う。

「何あれ」

 風太郎の顔が移ったかのように、ついて行くご相伴にあずかる事になった女子はむすっとした顔つきで武田に尋ねる。あまり話したことのない男子に教わる事を認めたとはいえ、それは武田祐輔という人物に対しての信頼からくるものからだ。

「ははは、彼は誤解を受けやすい人だから……ね」

 彼はレフ版から光を受けているかの如くに輝く笑顔を不満たらたらな女子に向ける。その眩さを受けた彼女は明るい髪色をぱさりと振って頬を染めながら、

「まあ武田君がそう言うなら……」

 五時間目の授業である英語の教科書とノート、そして電子辞書を携えて食堂に向かった。

 恋の鞘当てをしている他の女子は面白くないが、武田の選択にケチをつけて嫌われたくないというある種のいじらしさを発揮して、渋々この場は譲ることにした。

 談笑を交わしながら食堂へと向かう。昼休みの食堂は人がごった返しているが、この学校の食堂は広いので、四人掛けの席を見つける事はすぐに出来た。

「あれ、上杉は? あいつ先に来たんじゃなかったか」

「たぶんいつもの席で食事をとっているのかな。呼んでくるから、勉強の準備をしていてくれないかい?」

「うん、分かった」

 武田に言われると二人はノートを広げた。

 彼が風太郎を探しに席を外すと、女子は男子に対して、空気読みなさいと怒り心頭だ。男子は俺だってやばいんだ、と大声で反論して二人の間でしばらく口喧嘩の応酬が続く。それも昼食の喧騒に包まれた食堂では雑多な音の一つにまぎれ、武田はその口喧嘩に気付くことなく、いつもの席で味噌汁をすすっている風太郎を見つけた。

「やあ上杉君。面倒なのは理解するが、中野さん達にふるっている辣腕の一端を見せてはもらえないだろうか」

「よくやるよ、お前」

「お褒めに預かり光栄だね」

 風太郎の嫌味をさらりと受け流して、お新香を齧りながら白米をかきこむ彼の前に座る。

「確かに勉強に対してあまり情熱を持っていないかもしれないが、友達付き合いすればいい奴だということが分かるよ」

「中野姉妹との人付き合いにかかずらう羽目になった俺を、君達が凡人にしたと怒った人のセリフとは思えないな」

「いやはや恥ずかしい。あれは僕の中でもかなりの失言だったと反省はしているんだ」

 全て平らげた風太郎はカチンと箸をトレーに置く。

「で、どこだ」

「中庭に通じるガラス扉があるだろう。そこの四人掛けの席で待っているよ」

 トレーを返却しに立ち上がった風太郎を見送ると、武田は自分の注文をとって席に戻った。

「あーもう役に立たないなあ。マジでこのサーティワンアイリッシュクリーム真夏の雪だるま大作戦野郎」

「意味は分からんがすごいバカにしてる事だけは伝わる。あとお前俺の英語の点数は44点だ」

「死ね」

「ストレートにひどい」

 水を一口飲みながら席に戻ると、二人はケンカしているようだ。男子は女子が慌ててやっている英語が苦手で、女子は男子が追試の危機に陥っている物理を選択していないので、組み合わせとしては最悪の部類だろう。

「やあ二人とも、勉強は……どうやら難航しているようだ」

「あ、武田君。やっぱり私、君じゃないと……」

「今更可愛い子ぶるな」

 女子はさっきまでの威勢は何処へやら、いからせていた肩を落として可愛らしく武田を見上げる。そんな豹変ぶりに呆れた男子は、丸めたノートで軽くぱこんとその頭をはたいた。

「ははは、仲良き事は美しきかな。けど、少し真面目にやろうか」

 たしなめる言葉はひりつくように二人の肌を撫ぜた。ごめん、と二人は謝るとふざけた調子を抜いて真面目な態度を作る。武田は風太郎に手を振って席に呼ぶと、

「では始めよう」

 そう言って慌ただしい勉強会は始まった。

 武田は料理をつつきながら、次回の物理の授業で行われるであろう小テストの対策を話し込みだした。

 男子に武田を取られたことに露骨にため息を吐きながら、女子はその明るい髪色の間から訝し気な目線を覗かせつつも「お願いします」と小さく頭を下げた。

「で、何が出来てないんだ?」

「たぶん今日当てられるんだけど、翻訳が出来てない」

 それは英語の勉強を何もしていないに等しいではないか、と風太郎はため息を吐きたくなるのを堪えてこう言った。

「まずはやってみろ。違ったら口を出すからな」

「そこを何とか、スッと教えて欲しいんですが……」

「じゃあな」

「すみません、嘘です。あーあ、翻訳したいな~。成績優秀者に見守られながら翻訳したいなあ~」

 調子の良い奴だな、と鼻で笑いながら浮かしかけた腰を下ろす。

 しかし彼女は風太郎の見積もりよりは勉強できるらしい。教科書に単語の意味を小さく書き込んで、訳文をノートに書き写す。だがやはり間違える。

「おい、そこのThatは『あの』という意味じゃない。関係代名詞だ」

「えぇ~」

 指摘された彼女は、信じられないという風に口をへの字に曲げる。いや英語の決まりなんだから仕方ないだろう、とモチベーションを下げるような事は言えなかった。家庭教師をしている時に身に着けたスキルの一つだ。

「上杉君、私思うんだけどさ」

「なんだ」

「英語ってThatをこき使いすぎじゃない?」

「は?」

 その突拍子もない言葉に、風太郎は口をあんぐりと開ける。

「Thatって四つか五つくらい意味があったよね」

「そうだが」

「はぁ~まじブラック単語じゃん。労組に訴えられたら負けるよ」

「もうメーデーは終わったぞ」

「Haveと徒党組まれたら英語サイドはどうするつもりなんだろ」

「単語の労働機会の不平等さを気にする前に、まず自分のまっさらなノートを気にしろ」

 彼女はその後もぶつくさ文句を言いながらも、風太郎が言う単語の意味や構文を素直に聞いていた。もう考えるのも面倒くさいから手を動かしているのか、風太郎の勉強の熱意が伝わったかはこの際どうでもよかった。

なにはともあれ、予鈴の鳴るギリギリには翻訳をノート見開きいっぱいに書き込み、今日の授業でどのタイミングで当てられても問題は無い程度には体裁を整えられたのだから。

「間に合ったー」

 ぐっと女子は伸びをした。どこか晴れやかな彼女に対して、武田に物理を教わっていた男子は死んだように机に突っ伏している。

「よく頑張ったね。これだけすれば追試は免れるだろう」

「あ……そうか……? ありがとな……」

 感謝の言葉にも力がない。

「上杉君もありがと。頭が良いってのマジなんだ。たぶん他の子と協力してたら辞書で構文を調べるのに手いっぱいで終わらなかったよ」

 じゃあねーと手を振りながら彼女は教室へと戻って行った。

「彼女は友人が多い。上杉君の悪いようにはならないさ」

「それが余計面倒を起こしそうだが……」

「上杉? そんな奴いたな、より上杉ってあいつか! の方が楽しいと思うけどね」

「そうかよ」

 ふうと気疲れを吐き出して、風太郎たちも教室に戻る事にした。

 

 

「お前ってすごかったんだな」

「はは、急にどうしたんだい?」

 本日最後の授業が終わり、帰りのホームルームまでの休憩時間にトイレに行った風太郎は、いつもの如く連れションしに来た隣で用を足す武田にそんな事を言った。

「いや、お前休憩時間なんてずっと人の事見てるじゃないか。面倒だろ」

 はあ、と数える事も億劫なほど吐いたため息を深くした。

「何だそんな事か。まあ、性に合ってるとでも言うのかな」

 風太郎のため息の回数が五割増しになるのは、その面倒を被ったからだ。昼休み、食堂から帰った後、駆け込み乗車のように二人の下に飛び込んできて英訳が正しいか尋ねてくる何人かのグループ。六時間目の前に、さっきの授業で分からない事があると聞いてくる女子と次の授業で分からなくなりそうな事を聞いてくる男子。クラスの人気者である武田祐輔にはその両立しえない質問が飛び込んでくるのもしばしばだ。

「今日は助かったよ。それに、皆も君の事を見直すだろう」

 一気に答えられる質問とそうでない質問を分けて、そうでない方を風太郎に丸投げした彼は、しかし悪びれるでもなくどこか嬉しそうに笑う。

「はあ……、一人の方が楽だと、単独行動がもっぱらだった昔の俺を褒めてやりたいね」

「しかしお生憎様、皆は君の事を少しづつ頼りにするだろう」

「面倒を押し付けやがって。ええかっこしい」

「ははは、宇宙飛行士とは皆のヒーローだからね。ええかっこしいにもなるさ」

 臆面もなくそういう武田は、嫌味なほどにサマになる。

「急ごう。ホームルームが始まってしまう」

 手を洗い、アルコールで湿った手をふらふらさせながら武田は急かしてくる。

 面倒だ。全くもって面倒である。

 手を洗いながら、風太郎はそんな事を考えた。

しかし、ありがとうと感謝される事は存外悪くない。そんな事を考えている自分も、また面倒なもんだ、と風太郎は自嘲した。

 

 

今日の予定を全て終了し、クラスメート達は自分の目的の為に教室を後にする。部活に行く者、学校で勉強する者、そのまま家に帰る者。

 部活動に所属していない風太郎と中野姉妹は学校で勉強するか、はたまた第四の道、バイトに行くかの二択だ。今日は姉妹達は家に帰り、そして風太郎はバイトの為に彼女達について行こうとする。

 つまり久しく行われていなかった、正式に給料の発生する家庭教師業務が始まるのだ。

 そのことを嬉しく思いながら、三玖は家庭教師であり大切な恋人である風太郎へ声をかけた。

「フータ「あ、上杉くーん」

「……」

 愛しさが零れそうなほどの呼びかけは、しかし他の声に阻まれる。

 明るい髪色がふわりと揺れて、着崩した制服からははじけるような陽気さが感じられる。昼休みに英語をせかせかやっていた女子だ。

「今日は助かったよ。柄にもなく先生にも褒められちゃったし、今度から英語は家でやらねーわ」

「しろよ。……昼休みに見てて思ったが、お前別に出来ない訳じゃないだろ。単語だって覚えてるようだし、後はやれば慣れるもんだ」

 その言葉に三玖は驚いた。自分の恋人は確かに優しいが、そんなにさらりと褒めるような人だっただろうか。むむむと頬をむくれさせた三玖は、嫉妬の炎を可愛らしくメラメラ燃え上がらせる。

「マジ? おいおい褒め言葉の成績も優秀かよ。そういえば模試の順位ってどんくらいだったの? 武田君とライバルって二桁台くらい? ま、それでもとんでもないのは変わらないけどね」

 フータローは二位だよ、と三玖は言いたかったが、それは身に着けたブランド品をえばって見せつけるような浅ましさにも似た下品さを感じて、二人の会話の成り行きを見守る事にした。

「……まあそんな所だ」

「真ん中より下をうろうろしてる私には想像できない世界だね。でも分かっちゃったなー。何聞いてもポンポン答えが出てくるのってヤバイわ。天才か? 頭ジーニアスか?」

 貶すような口調で、英語の辞典になぞらえて彼女は風太郎をそう評した。

「おーい」

 廊下の向こう側から手を振っている女子のグループが、大きくこちらに声をかけて来た。彼女の友達だろう、手を振ってこたえると、

「あ、呼んでる。じゃあね。また教えてもらうわ」

「人を当てにすんな」

 からからと陽気に笑いながら、軽やかに彼女は駈け出して行った。

 疲れたようにため息を風太郎は零すと、ほったらかしにしていた恋人の方を恐る恐る見る。つーんと唇を尖らせて、分かりやすく拗ねている三玖は可愛らしいが放置していると後が怖い。

「どうした三玖」

「茶髪が好みなの?」

「拗ねるなよ」

 風太郎は三玖の小さい手を取ると、彼女はふわりと笑って嬉しそうだ。そんな三玖を見ていると、風太郎は自分も嬉しくなる。

「フータローやっぱり変わった」

「そうか?」

「そんなに褒める人だったっけ?」

「褒めてやらねば人は動かじ、という言葉があってだな……」

「知ってる。山本五十六でしょ」

「お前達に教えて分かったが、人ってのは基本的に褒めた方がやる気になる生き物だ。そんな何回も教える相手じゃないんだ、気分良く勉強させてやった方が良いと思っただけさ」

「ふーん」

 納得いかない三玖は繋いでいた手をほどいて、鞄から一枚の紙を取り出す。

「ん」

 二つ折りのその紙を風太郎受け取って開く。六時間目の理科で風太郎は物理で三玖は生物を選択している。その生物の授業で小テストがあったのだろう、これはその答案用紙だ。一つ、二つ、マルが続いて、その行進は最後まで続いている。名前の横に満点の証である花丸が大きく踊っていた。

「小テストか。満点じゃないか」

「それだけ?」

 三玖は上目遣いに風太郎を見上げて、分かりやすくおねだりした。彼は小さく笑うと、三玖の頭に手を置いて髪をすくようになでる。

「頑張ったな、三玖。偉いぞ」

 三玖は嬉しさに頬を赤らめた。

「……もっと」

 小さくそう囁くと、三玖は一歩踏み込んで風太郎に抱き着いた。背中に手をまわし、ぎゅっと力を込めて体をくっつける。

「えへへ」

 気の抜けるような幸せな笑いが三玖の口から漏れる。そのまま彼女は甘える猫のように風太郎の首回りに頬をすりすりする。

「キスしていい?」

「小テストで調子に乗るな」

 いつになく大胆な三玖のお願いを、風太郎は軽くデコピンすることで答えた。

「うぅ……」

 さして痛くもないはずだが、三玖は大げさにおでこをさすって恨みがましく風太郎をにらんだ。

「それに……」

 まだあるの? と三玖は身を固くしたが、予想に反して落ちて来たのは柔らかい感触だった。

「んっ……ふぁ……」

 一瞬、何が起きたのか三玖は分からなかった。見開いた目から、風太郎の黒い髪と伏せられた目が見えて、鼻が一番近い所にある彼の匂いを嗅いで、不満に尖らした唇には温かくて柔らかい感触。

 ああ、キスされたんだ。

 三玖は嬉しくなって、うっとりと目を閉じる。びりびりと全身を駆け巡る愛の鼓動に、今は静かに聞き入る事にした。

 少ししてゆっくりと離れると、照れくさそうに頬をかきながら風太郎は言った。

「キスくらい、いつでもしてやる」

 その言葉に、同じ気持ちを抱いている事に、そして行動に移してくれる事に、三玖は例えようのないほどに嬉しくなって、もう一度を欲しがる。

「でさー」

「えーマジ?」

 しかしそれ案は、廊下の向こうからする声に立ち消えになる。

「帰るぞ」

 そういう風太郎の耳が赤くなっている事を目ざとく見つけると、フータローは可愛いなと胸が疼いてしまう。だからこそ、おあずけを食らうのは辛い。

「うぅ……辛いです。……フータローが、大好きだから」

「何言ってんだ?」

 最近野球ファン役をもらった一花に教えてもらった、広島生まれのスラッガーみたいな事を言いながら、風太郎の後をついて行く。

 何回も教える訳じゃないから褒めておく、か。もし私がたまにしか勉強会に参加できないなら、褒める言葉を多くかけてくれるかな。と、三玖は考えたが、手持ち無沙汰に遊ばせている風太郎の手を掴むとそんな策は問題外だと思い至る。

「何だ?」

「なんでもないよ」

 褒め言葉の一つ二つが貰えないからって、わざとフータローから離れるなんてありえないよね。

 掌から彼の体温を感じながら、そんな思いを送るようにぎゅっと握る。

 君と一緒にいる時間は、こんなにも特別なんだ。だから、一緒にいれる未来を手に入れるために頑張るよ。

 三玖は静かに秘めていた想いを改めて確認する。手から伝わる優しさに、温もりに、こんなにも頑張ろうと思えるのは、これが愛だからだ。こんな思いを抱けたことは、人生で一番誇れることに間違いない。

 歩幅を合わせてくれる風太郎に、未来もずっとこうありたいなと三玖は思いながら、並び立つ決意をもって隣を歩いて行った。

 

 

 友人は世界を広げてくれる翼だなどと言う言葉を、どこかで聞いたような聞いていないような。

風太郎はいつものように中野姉妹と登校して、まだ疎らに埋まった席の中から他力本願の光を宿した瞳で見られると、上記のセリフに疑問を抱かざるを得ない。

「おはよう上杉」

 昨日少しだけ教えた男子だ。にこやかな挨拶も、その後に続く言葉を考えれば素直に受け取れないのは仕方ないだろう、と誰に言い訳するでもないが風太郎は思った。

 姉妹の輪がすっと解かれて、それぞれの友人たちの下に向かっていった。

「いきなりで悪いんだけど、ちょっと教えて欲しい事があって」

「武田はどうした、あいつは」

「女子にひっ捕らえられてる」

「罪人か何か?」

「イケメンはもう生きてるだけで罪だから」

 はっはっはと可笑しそうに笑いながら数学チャートを開いた。何回も解いたのだろう、その単元のページはくたびれていて直ぐに目的のページに行き当たる。

 おっ、と風太郎は思った。そして適当そうとか軽そうとか勝手に思った事を反省する。まだ実っていない努力を貶すほどに、傲慢な人間ではないと自分では思いたい。

「何だ」

 そう言って、彼の頭の中で関数の神経をつなげる手伝いをする。とは言っても、赤点まみれだった中野姉妹に教えるよりはよっぽど簡単だ。意欲はあるし、知識も無いわけではない。ショートホームルームが始まるまでに登校してきた彼の友人達も交えて、即席の勉強会を開く。

「寂しい?」

 そんな風太郎をぼうっと見つめる三玖に、二乃は雑誌に落としていた目線を上げて問いかけた。

「そんな事ないよ」

「ほんとかなー?」

 ニヤニヤとからかいの色が多分に含まれた笑みを浮かべながら、二乃はすまし顔な三玖の頬をつついた。

「フータローは凄い人だもん」

 だから皆が彼の凄さを知って、彼が頼られている事は喜ばしい。

 ……はずなのに。

 三玖の胸の内にもやもやと複雑な気持ちが湧き上がる。

「あー、そういう事」

「最初からそう言ってるだろ」

「あっはっは、バーカ」

「うるせーバカって言う方がバカなんだよ」

「小学生かお前ら」

 そんな会話がとても楽しそうに見えるのは、男子同士が持つ気安さからなのだろうか。バカなんて罵倒が飛び出しても、それはコミュニケーションの一つだ。風太郎の顔も可笑しさに白い歯を零す。

「……やっぱり、ちょっと寂しいかも」

 優れた才能の持ち主は、その才能を世界に還元すべきであるとは誰の言葉だっただろうか。

 その言葉になぞらえるなら、武田祐輔と上杉風太郎は今も、そしてこれからも誰かの為にその才能を振るう運命にあるのだろうか。三玖はそんな事を考える。

「やあおはよう上杉君。なんだかんだ楽しそうで何よりだよ」

 薔薇の花に溜まった朝露のように爽やかなキラキラを放つ武田は、大仰に手を広げると風太郎にそんな事を言った。教室の前には女子達がたむろしていて、こいつらにひっ捕らえられたんだなとすぐに分かった。

「楽しすぎてお前にもこの幸せをそっくりそのまま差し上げたいぜ」

「そうしたいのは山々だが、僕も女神の茶会にお呼ばれしている身でね。男子の語らいは君に譲る事にしよう」

 笑顔を煌めかせながらそんな事を言う武田に、他の男子からは「ずりーよ」と非難の声が上がる。しかし言うだけで武田について行こうとする奴らが一向に出ないのは、女神の茶会なんて可愛らしい表現を用いているが、その内実は武田を狙う獣の伏魔殿である事を知っているからだ。

狩りをするのは雌ライオンだと言う事は、この歳になれば誰でも知っている。いくら色恋の血気にはやる男子高校生とはいえ、女子の恋愛狩場に首を突っ込んで大怪我したいと言う男は一人もいないのだった。

「武田だからな。しょうがない」

 と言う諦めにも似た言葉を嘯きながら、

「寂しい同士、仲良く勉強でもしようぜ」

 馴れ馴れしく風太郎の肩を叩いた。

 誰が寂しい同士だ、なあ三玖。そう一つ余裕をぶちかましても良かったが、それを言えば際限なく勉強以外の質問が飛んでくる事は明らかだ。

 面倒に面倒を重ねるほど愚かではないと思いたいし、わざわざ三玖との幸せな付き合いの一端をおすそ分けするほどのお人好しでもない。

 この場は流れに逆らわず、適当に頷いて乗り切る事が賢明だろう。

ノーデリカシーとも評された、言いたい事をずけずけ言っていた自分はどこに行ったのだろうか。これは進化か退化なのか、うすぼんやり考えているとこちらを見るクラスメートの顔は怪訝なものになっていて、風太郎は誤魔化すように咳払いを一つした。

 

 

 

 人とは必要に迫られて行動を起こす生き物だ。朝早くに起きるのは、学校や職場が決めた時刻にその場にいるため。やりたくもない課題を、額に汗水たらして終わらせるのは、それによって評価を得るためだ。締め切りに追われない芸術家は、作品を完成させられないとは決して大げさな言葉ではない。

 必要に迫られないなら? それはこの弛緩した空気の教室を見れば、答えは明白だ。午前の授業を終えて、午後の授業は体育と、せまる修学旅行のためのロングホームルームという頭を使わない授業の二連投という事もあり、必死に勉強する空気はほとんどなかった。

 ここ最近、クラスメート達に勉強を教えていた風太郎はその空気を感じ取り、軽い気持ちで昼食をとりに行こうと席から腰を浮かす。

 久しくフリーな風太郎と一緒に昼食をとろうと、三玖は声をかけようとした。

「フータロ…「飲み物買いに行かね?」

 しかし風太郎投げかけた言葉のパスは、軽やかに飛び出してきた男子にインターセプトされる。奇しくも彼らはバスケ部だった。

「お、いいね。上杉もどうだ?」

「いや、俺は……」

「勉強の礼だ。奢ってやるよ」

「一番高いのは何だったかな」

「そういう所、俺は良いと思うぞ」

 男子は少し前まで、まるで風太郎と言葉を交わさなかったとは思えない気安さで肩を叩きながら自販機へと歩を進めた。

 当然、声をかけた三玖は面白くない。女子に取られた訳ではないのでそこだけは救いだが、しかし嫉妬しないという事ではない。

「みーく」

 三玖は膨らませていた頬をつつかれた。ぷしゅうと空気が漏れて、その間抜けさに顔が熱くなる。つついて来たのは誰だろうと半眼になって睨む。

「むぅ……一花」

 つついてきた不届き者は自分の姉だった。鞄を肩にかけ、帰り支度をして友人に手を振っている。

「どうし……あ、撮影だっけ?」

「うん、これからね」

 その言葉で、昨日の夜にご飯はいらないよという会話を二乃と交わしていた事を思い出した。

「修学旅行に行くためにちょっとは無理しないと。今のうちに撮りだめしておかないと、他の人のスケジュールを圧迫しちゃうし、そうなったら時間に融通利く子に変えられちゃうかもしれないからね」

 難しい顔をしながら、一花はそれでもどこか楽しそうに笑う。最悪、修学旅行を欠席しても構わないという覚悟はあるが、姉妹と風太郎にとって京都という土地は特別なものなので、出来る事なら参加したかった。

「頑張って」

「三玖もね」

「私?」

 何か頑張るようなことがあったかな、と三玖は頭をひねった。

「フータロー君が取られて寂しいのは分かるけどさ、だったら自分から行かないと。別に隠してる訳じゃないんでしょ?」

「そうだけど……」

 照れくささに頬を掻いて、一花への返事を濁す。確かに隠している訳ではない。手をつないで帰った事だって、片手で数えるほどだがある。けれど、この人が自分の恋人ですと喧伝できるほどの図太さは三玖にはなかった。

 そんな妹の様子を微笑ましく思いながら、一花はポンと三玖の肩を叩いた。

「私の分まで話し合いに参加しといてね」

 じゃ、とおどけて敬礼をしながら一花は教室を後にした。

 フータロー君はうまくやってるかな、とふと思った一花は真っすぐ下足場へ向かおうとしていた足を近場の自販機へ方向転換させる。

 三年生の教室がある階の、外階段の踊り場から自販機を見下ろすとたむろしている男子達がいた。心配していたよりも風太郎は普通に会話に混じっている。なんでだろ、と一花ははてなを浮かべながらゆっくりと階段を下って行った。

 風太郎が意外にも受け入れられているのは、三年になったからという要因が大きかった。そろそろ勉強に身を入れなければならない、そういう事が得意な友人が三年になったら必要だろう、という需要に風太郎はドンピシャだった。

 風太郎には友人がいない。

それはかえって今から一対一の関係を築くのに都合がよかった。それに皆が接してみて感じた事だが、思っていたより上杉風太郎は普通の人間だった。少し眉を顰める所もあるが、それは天才性からくる偏屈さだと思えば、かえって『らしい』と思える範疇にとどまっている。

「でもさ、武田もそうだけど、何でそんな勉強できんの?」

「そらお前アレだよ。真面目にやってきたからよ」

 某引っ越し会社のCMのようなことを言いながら、からからと大きな笑い声をあげる。テレビを見ない風太郎は、その冗談に首をかしげながら奢って貰った飲み物をちびりと飲む。

「まあそうだ」

「ほらやっぱり。ヒゲの配管工の元カノも歌ってただろ。毎日コツコツ生きる奴がすげえんだってさ」

「なんだそれは?」

「知らねえの? 多分、体育祭の三年生色別対抗ダンスの選択曲になるあれだよ」

 そんな普通の高校生らしい会話をしている風太郎に、おかしい気持ちになるのは失礼かな。そう一花は思いながら階段を下りる。

 飲み終わった男子の一人が、缶を指先で弄んで、そして力強く握った。

「はい一発で入れまーす」

 そう言って立ち上がった彼は、少し先にあるゴミ箱を見据えた。

「外したら今日の片づけお前だからな」

「ひでえ」

 投げかけられる軽口に答えながら、投球フォームに入った。風太郎は変な恰好と思ったが、一花はその恰好が何か思い当たった。

 上体を水平に倒して右腕を軽く前に出し、投球コースを見定めるような仕草。

「お、キンブレル」

「一花さん」

 男子達は声がした方を向くと驚く。そこにはクラスの男子の憧れ、中野一花が立っていたからだ。

「よくご存じで」

「うん、ドラマで野球ファンの女の子を演じるんだ。だから最近スポーツニュースを見てるの」

 へへっと照れくさそうに鼻を掻いて微笑む一花に、男子達は目が釘付けになる。

この男以外は。

「これから仕事なのか?」

 風太郎はいつもの調子で問いかけた。いつものフータロー君だなあ、と一花は内心嬉しくなりながら答える。

「そうだよ。ほら君、早く投げて。結果が気になりすぎて遅刻しちゃう」

 一花に急かされた彼はドギマギしながら、もう一度手短にルーティンの真似事をして缶を投げた。緩やかな放物線を描いたそれは、

 カコン

「しゃあ!」

 見事にゴミ箱にストライク。彼は憧れの女子の前で、なんとか面目を保つことに成功した。

「おー、お見事。よし、良い物見れたしお仕事頑張って来ますか。ばいばーい」

 微笑みながら立ち去る一花は、春風のような温かな余韻を残して彼らをなおもドキドキさせる。

「この辺に残り香が……」

「それはマジでキモイからやめろ」

 空気をかき集めようとしている友人を見かねた一人が、持っていたアルミ缶の腹でかつんと殴った。

「いった。金属はダメでしょ」

「うるせえ、今度は温かいココアの缶で殴るぞ」

「スチールはヤバイってスチールは」

 見咎められた彼は頭をブロックしながらベンチに座った。

「やっぱ一花さん良いわー」

 そして反省したそぶりもなく、一花が歩いて行った下足場への道を見ている。

 あ、と思い出したように彼は風太郎の方へ身を乗り出す。

「上杉さ、中野さん達と仲良いだろ。誰かと付き合ってんのか?」

 そう切り出された質問に、風太郎は喉が変に鳴った。飲んでいたジュースが気管に入りかけたが、ちびちび飲んでたケチ臭さが幸いしたのか、不法に侵入してきた液体の量は多くなく軽く咳をするだけで違和感はなくなった。

「別に、二年の時に末妹の五月と同じクラスだったからだ」

「ごじょじょちゃんと」

「ごじょじょ!? あいつそんなあだ名があったのか」

「一部界隈ではそう言われているらしい。てかそれ言ったら俺だって三玖ちゃんと同じクラスだったぜ」

 納得いかないように彼は肩をすくめる。二年の時は五姉妹はバラバラのクラスだったのだから、風太郎の言い訳を信じるなら他にも五人と仲が良い奴が出てきてもおかしくない。だがそんな奴はいない。これは何かあるのではないだろうか、と疑うのも無理からぬ事ではあった。

 風太郎は何を言うか考えると同時に、三玖と同じクラスだったと言う目の前の彼にむかむかするいら立ちを抱いた。

 腹立たしい。羨ましい。そして思いを端的に言うなら『テメエなに人の彼女をちゃん付けでよんでんだコラ』であった。

「頼むー、一花さんじゃないと言ってくれー」

 彼はそんな怒りに似た感情を向けられているとは露知らず、風太郎に対してお祈りをささげる。

「一花さんは競合必至だからやめとけ」

「いやだ~、諦めとうないわ~」

「下手くそな関西弁やめろ」

 そんな風にふざけていると予鈴が鳴った。ふざけて笑っていた顔がぴきりと固まり、風太郎を残して一斉に駈け出した。

「やべえ次体育じゃん」

「飯食うの忘れた」

「どっち?」

「体育館」

「ギリギリだな」

 風太郎も最近はランニングをしたりと体力作りに勤しんでいるが、放課後いっぱい部活動で鍛えている彼らにかなうべくもない。あっという間に水を開けられ、風太郎は悪態をつく。

 なんで俺はあんな無駄な時間を。奢って貰った飲み物代と比して、明らかにマイナスだ。こんな風に考える俺は、きっと人付き合いに向いてない。

武田やそれに二乃は、と風太郎は身近な友好関係が広い二人を思い浮かべて、本人たちのあずかり知らぬ所で尊敬の念を深めた。

「上杉君? どうしたんですか、早く移動しないと授業に遅れますよ?」

 これからの体育が不安になる足取りで教室に着替えを取りにきた風太郎は、すでに体操服に着替えた五月と鉢合わせた。

「ごじょじょ」

「何ですか?」

「いや、お前のあだ名らしいぞ」

「初耳です」

「だろうな」

 風太郎は体操服を取り、五月は取り忘れていた室内シューズを取りながらそんな会話をした。

「あ、上杉君」

 すると何かを思い出したかのように五月は風太郎に詰め寄った。

「クラスメートとの交流も大いに結構ですが、三玖をないがしろにしてはいけませんよ」

「してねーよ」

「あと」

「まだあるのか」

「もう間に合わないので、言い訳を考えておいた方がいいですよ」

 そう言い残すと五月は体育館に走り出した。時計を見ると授業開始一分前だ。

「勘弁してくれ」

 

 

 くたびれた。

 あの後分かり切った遅刻に言い訳じみた走りを加えて、その上教師に怒られて肉体的にも精神的にも疲弊した所に、追い打ちの如く六時間目のロングホームルームでは学級長としての雑務と司会の仕事があった。

 京都の観光地図を職員室から班の(この班は京都を歩く自由班ではなく、席順に六人区切り五人区切りの)数だけ持って行き、いわゆる鉄板コースの道順、バスの本数、それに付随する料金などなどを調べ、授業終わりに班ごとの発表をするのだ。

 四葉はいいですね、楽しそうですねとニコニコ笑っているので、必然的に風太郎が案に突っ込む役になる。楽しい計画に水を差すなという顔をされたりして、ああ何て面倒なんだ、と風太郎は頭を抱えたい内心を抑えて学級長の役目を務めた。

 まとまりの無い原案を、いくつか活用できる案に落とし込んだ所で終業のチャイムが鳴った。

 担任はそのまま一言二言で解散を告げると、教室中に雑談の波が押し寄せる。その波涛に押されるように風太郎は頭を振った。

「フータロー、大丈夫?」

 そんな風太郎を見かねてか、とてとて三玖が歩み寄ってきて、肩にそっと手を置いた。なぜだろう、そんな気遣いが嬉しかった。心配な上目遣いに、もっと近づいてその体温を感じたかったが、ざわざわとうるさい教室ではそんな訳にもいかないだろう。

「大丈夫だ。五月が先生に話があると言っていたから、先に図書室で待っておこう。四葉も、行くぞ」

 鞄を取り、あとは要領の分かっている中野姉妹の家庭教師をすれば今日は終わりだ。しかしこのくたびれる一日は最後まで、そうは問屋が卸さないとばかりに面倒を投げかけてくるらしい。

「おーい上杉くーん、助けてくれー」

 調子のいい茶髪が揺れて、その主はこちらに手を振っている。三玖は思わず眉根に力が入るのを感じた。

この前フータローに教わっていた女子だ。今日は友達と一緒なようだけど。

「悪いが先約が入ってる」

「そこをなんとか。一問だけ、一問だけだから。これ出来ないと部活の時間減っちゃう」

 ねえ、と彼女は三人の友人振り返って同意を求める。あのなあ、と呆れの言葉が風太郎の口から意図せず出て来たのもしょうがない事かも知れない。前髪をいじりながらどうやって断ろうか考えていると、

「私はいいよ、フータロー。いじわるせずに教えてあげたら?」

 三玖はそんな提案をしてきた。

「三玖?」

 風太郎は呆気にとられて間の抜けた顔で三玖を見た。彼女の顔は風のない日の水のおもてのように平穏で、風太郎は久しく感じなかった『三玖は何を考えているんだ』という感覚に陥った。

「行こ、四葉」

「え……三玖、いいの?」

 風太郎との時間が何よりも幸せな三玖がそんな事を言ったから、四葉の姉を見つめる目が怪訝な物にもなってしまう。

 先に歩き出した三玖を追いかけて、四葉は風太郎を振り返り、約束忘れちゃダメですからねと言って図書室へ向かった。

「まあ来たまえよ」

 そこらの席を取って置き、そこに座るよう促された風太郎は大人しくその指示に従った。四人の目が興味深げに向けられるが、中野姉妹の大きくて吸い寄せられるような瞳に比べれば、そよ風に吹かれているくらいの圧しか感じない。

「で、どの問題なんだ」

 面倒だなという内心を隠しもせずにため息を吐き、風太郎は勉強へと水を向ける。

「ねえねえ、誰なの?」

「何がだ?」

 問題集に落としていた視線を上げると、女子四人がにやーっと抑えきれない興味に顔を歪ませていた。

 この顔は、俺と三玖の事を聞き出そうとする姉妹の顔と同じだ。

 風太郎はそう結論付けて、質問の二の矢を受け止める準備をした。

「だから、中野さん達の誰と付き合っているのかなって話」

 やっぱりそうだ。内心悪態をつきながらその質問を受け流そうとする。

「どうでもいいだろ。要件はそれだけか?」

 付き合ってられないとばかりに席から腰を浮かせると、肩に手を置かれて無理やり座らされる。

「上杉君がさあ、中野さん達の誰かと手をつないで帰ってる姿を見たって子もたくさんいるんだよ。いいじゃん教えてよ、減るもんじゃなし。何か教えてくれるまでぜーったい帰さないから。あと問題が出来ないとヤバイのもマジだから」

 こいつらその意思の固さを勉強に向けろよ、と呆れて物が言えなくなった。しかしふと思い出す事がある。あれはまだ家庭教師を始めたばかりのころか、泊まり込みで勉強を教えていた時に三玖が好きな女子のタイプはと聞いてきた事があった。そのときは質問の答えというご褒美をぶら下げて、ノートを埋めさせたものだが、おそらく同じ事が今回も使えるだろう。

「全員が問題を解けたら、アルファベットを一文字教えてやる」

 そう言うと四人は色めき立つ。喜々としてノートを広げて快調にペンを滑らせ始めた。途中分からない所があると言う質問に答えて、彼女達が問題を解くのを待った。

 十分ほど経つと先に終わった者が出てくる。その答え合わせと解説をしていると、全員を見終わるのに合わせて三十分も使っていた。

 参ったなと風太郎は頭を掻いた。もう五月の用事も終わって、仕事があって今日はいない一花以外は図書室で待っているはずだ。焦れるような気持ちで最後の一人に教えると息を吐く。

「これで分かっただろ。じゃあな」

「ちょっと待ってよ。ちょっと、ちょっとちょっと」

 茶髪の彼女は双子芸人の鉄板ギャグで呼び止める。しかし風太郎はテレビを見ていないので、笑いは生まれず彼の顔を胡散臭い物を見る目にするにとどまった。

「忘れないでよ。名前を教えてくれるんでしょ?」

「アルファベットと言ったはずだが」

「なんだ覚えてるじゃん。さあ教えてよ」

 風太郎はこの期に及んでもったいぶるほどの余裕はなかった。一緒に帰っている場面を見られたのだから、放っておいても三玖という結論にたどり着けるだろう。少し遅いか早いかの違いしか生まないなら、さっさと教えて姉妹の下に行く方が有意義だと思ったのだった。

「iだ」

 そう短く言い切ると、風太郎は鞄を手に取り真っすぐ図書室へと向かった。

 それを聞いた四人は声を上げた。こんなんもう一花ちゃんじゃんと盛り上がるが、一つ引っかかる。

「ねえちょっと待って」

 四人のうち一人が、さっきまで数学の問題を解いていたノートの片隅に中野姉妹の名前をアルファベットで書いた。

 一花――ICHIKA

 二乃――NINO

 三玖――MIKU

 四葉――YOTUBA

 五月――ITUKI

 やられた、と思った。iというアルファベット一文字では四葉しか候補から外れない。そもそも四葉は本人が付き合っているなんてありえませんと言っていたので、最初から候補から外していたのだ。

 こんな簡単な落とし穴に嵌るなんて、と四人は自分達の浅はかさを悔やんだ。と同時に、絶対に風太郎から聞き出してやると無駄に決意をたぎらせるのだった。

 

 

「あ、来た来た。おーい」

 図書室に向かうと、一番最初に風太郎に気が付いた四葉が小さく手を振って呼び掛けた。

「すまん、思ったより時間を使った」

「そんなの断ればいいじゃない」

「そういう上手い人付き合いを考えて、お前や一花への尊敬を深めていた今日この頃だ」

「あら、どうしたのかしら? 頭でも打った? それはそれとしてもっと褒めなさい」

 二乃は得意気に胸を張ってふふんと鼻を鳴らした。

「フータロー大変じゃない?」

 隣に座った風太郎の手を、隠れるように机の下で握りながら三玖は尋ねた。

「三玖、心配しなくてもあと少ししたらこんな引っ張りだこじゃなくなるわよ。皆新しいおもちゃで遊びたいだけなんだから」

「おもちゃの上杉さん」

「とうとう人間ですら無くなったか」

「あんたはもう三玖の物なんだから、ぶーぶー文句たれないの」

「二乃」

 三玖の声が、つんと二乃の意識の腹を突く。ひやりとするような言葉とは裏腹に、三玖の顔は優しく微笑む。

「フータローは私の物じゃないよ」

「でも、付き合ってるじゃない」

「うん。フータローは私の一番だよ。でも、私の物じゃない」

 ぎゅっと、三玖は風太郎の手を握る力を強くする。

「一人の人間だから、あっちに行ったりこっちに行ったりする事を止められない。でもね、最後に帰ってくるのは私の所だよって、それは絶対に譲りたくないんだ。フータローは私の物じゃないよ。でも私の所にいてくれるから、それでいいの」

 それを聞いた二乃と四葉、そして五月は呆気にとられた顔をする。

「このー、良い女かよー」

 二乃につつかれて、三玖はくすぐったそうに笑う。しかし風太郎は釈然としない物を感じて三玖の真意を確かめる。

「三玖、それはお前の言葉か?」

「どうしたのフータロー?」

「いや……何というか分からんが……無理してないか?」

「私は大丈夫だよ」

 きょとんした顔をする三玖に、風太郎は考えすぎかと思い直した。

「帰って勉強しましょう。これだけ人数が揃うなんて最近では珍しいですし」

 五月の言葉に皆は頷いて帰り支度を始めた。

 青い空の西の端が、柔らかな朱色に染まっていく。野球部のノックや、声を出しながら走る陸上部に、吹奏楽部の音出しの音色が青春の交響曲を奏でる。風太郎は部活動に入らなかったことを後悔してはいないが、ここ最近ではあるが話すようになったクラスメートが努力している姿を見ると、不思議な感覚に捕らわれた。あれも努力の一つの形か。

「一花がいないのが残念だなー。上杉さん、今度のドラマは大きい仕事らしいので応援しましょうね」

 ぼんやり部活動を眺めていると、話しかけてくる四葉の声で現実に引き戻される。どうやら話題は今ここにいない一花の事のようだ。

「応援って、俺はテレビを持ってないんだぞ」

「録画して何かにコピーしてあげますから、うちか図書館のパソコンででも見ましょうよ。改編期にある特番、宣伝の為に出演するバラエティー、番組前に差し込まれるCM、選り取り見取りですよ!」

「今の時期に撮影してるって事は、放送するのは秋か冬くらいだろ? その時はもうドラマがどうこう言っていられる状況じゃないぞ」

 呆れと共に吐き出された風太郎の言葉に、四葉の背筋を冷たい物が流れる。

「あはは……」

「笑ってる場合か」

 修学旅行という高校生活最大といっても過言ではないイベントが控えているのだ、浮ついた気持ちになる事もしょうがないのかと風太郎は思った。

だから先生は最近締め付けがきついのだろうか。まあそのあおりを俺は思いっきり受ける羽目になったのだが。

 零したため息は誰に聞かれる事も無く風に紛れて行く。

「フータロー?」

 と思っていたら、三玖は気が付いてくれたらしい。自分を見てくれている事に嬉しくなった風太郎は小さく言った。

「ありがとう、三玖」

「どうしたの?」

「いや、言いたかっただけだ」

「変なフータロー」

 三玖はくすくす笑って彼の手をとった。

「私達の方こそ、ありがとう」

 そう言って華やぐ笑顔を向けられると、くたびれた心に活力が戻ってくるような心地になる。この子の事が好きなんだと改めて思うと、今更ながら照れる気持ちが顔を熱くさせる。

「赤くなってるよ」

「夕日のせいだ」

「そういう事にしておいてあげる……えへへ」

 そう三玖自身の顔も赤くなった。繋いだ手から、交わした目線と言葉から、相手と心が繋がっていると感じれる事は幸せだな、と二人に共通の認識が芽生えた。

「なにイチャイチャしてんの? 置いていくわよ」

 先を行く二乃が大きく手を振って呼び掛けてきている。

 二人は顔を見合わせて苦笑いすると、姉の下に駈け出して行った。

 

 

「おー上杉君。おいでおいで」

 風太郎は教室に入った瞬間、あの茶髪の女子に声をかけられて、今日は厄日に違いないと確信した。三玖は素知らぬ顔で離れて行ったが、怒っているに違いない。後でご機嫌をとりに行こうと思いながら、とりあえず目の前に迫る面倒事の対処をしなければ。

「おいでおいでって、上杉君の彼女かよ」

 周りの席に座っている彼女の友人達が、はやし立てるように言い放ってからから笑う。

「この結果によっては要検討もありえる」

「武田君からハードルを下げていくスタイル」

「おまえー、人を前にしてハードル下げるとか失礼だろー」

 あははは、と集まった女子特有の甲高い笑い声が響く。居心地の悪さを感じながらも、茶番に付き合っていられないぞとばかりに風太郎は切り出した。

「何の用なんだ」

「そうそう。上杉くーん、昨日はやってくれましたね。あんなに喜んだのに、全然ヒントじゃなかったんだから」

「俺は嘘はついていない」

「分かってるよ」

 そう言うと彼女は机の上になにやら蛍光色なプラスチックの入れ物を置いた。その蓋を捻って開けるとスッと鼻を抜けるような甘い香りが鼻に飛び込んでくる。中身は白いクリームのような物が入っており、風太郎にはそれが何だか分からなかった。

 怪訝そうな顔をする学級長に、彼女はおかしくなりながら説明した。

「ヘアーワックスだよ。カッコよくしてあげるから、気分よくしてどんどん口を滑らしてね」

「……じゃあな」

 逃げようとする風太郎の肩を、そうはさせまいと掴む人がいた。

「逃がさん、お前だけは」

 昨日一緒の机に付いていた彼女の友人達だ。右肩と左肩、おまけに首元を掴まれたので、仮に風太郎が男子の平均程度の体力があっても逃げられなかっただろう。

「まあまかせなさいって。悪い様にはしないからさ」

 ワックスを手になじませた彼女は、ニッと唇をゆがめると無遠慮に風太郎の髪を弄りまわした。

…………

「おおー。いいじゃん。どうですかーお客さん。ダメな韓流アイドルみたいな髪形やめて、こっちに鞍替えしませんかー」

 髪を弄っていた彼女はしばらくすると、満足そうに手鏡を見せてきて仕事の成果を報告した。

 まず全体の形が、風太郎の今までの髪型は跳ねた所がなく黒いヘルメットを被ったといった風だったが、ワックスによりところどころ跳ねて鋭角な物がのぞくシルエットになっていた。重く垂れこめるような前髪が分けられ、跳ねさせられ、尖らせられ、イマドキな物に仕上がっている。目にかかるような前髪が分けられた事で、闇の底から見据えるような黒い瞳に光が入り、普段の怖いという印象からクールな印象へと軟着陸する。

「整髪剤って結構するんだろ。そんな無駄遣いをしている暇はない」

 そういうぶっきらぼうな言い方も、髪形のせいもあって「ツンデレ」「ツンデレだわ」と言われると調子が狂う。

「おはよう。皆集まって何か楽しい事でもあったかな?」

 教室のルクス値が跳ねあがったかと思えば、ダイヤモンドダストを放っているかのようにキラキラした武田祐輔が入って来ていた。

 武田は風太郎を認めると、ふむと一言呟き、少し考えてから口の端を釣り上げてこう言った。

「君は新しい仲間かな? 歓迎するよ。イケメン税高額納税者ランキングはマンネリしていたから、新顔が加わってくれると刺激があっていい」

「本気で言ってるのか?」

「まさか。君の友人は髪形を変えた程度で誰だか分からなくなるような、そんな薄情な男だったかな」

「というか自分で言ってて恥ずかしくないのか。イケメンがどうこうとか」

「もう言われすぎて麻痺してしまったね。君も呑気している場合じゃないよ。イケメン税は累進課税だから自分磨きするたびに重くのしかかってくる仕組みさ」

「とんだクソ税だな」

「恋人がいたら控除もあるけれど」

「誰が決めたんだよ……」

 くだらない雑談をしていると、次第に人が増えてくる。そこで風太郎は馬鹿みたいな名前であるイケメン税とやらの一端を垣間見た気がした。

 なにせ人が来るたびにいじられる。笑われて、笑ってと言われるのはまだいい方で、「写真撮っていい?」なんて言われる事もあった。

 朝休憩が終わっても受難は終わらない。

昼休みには何故か二乃も混じってきて様々な髪形を試された。ワイルドな容貌が好みの彼女はオールバックがお気に召したようで、ピンの写真もツーショットも撮られた。連射で。

「なあ二乃。三玖が全然会ってくれないんだが」

 風太郎は隙を見つけて、撮った写真をによによ見つめている二乃に聞いた。

「おかしいわね。興味津々であんたの事見てたのに」

「そんなそぶりは全く無かったが」

「これ見てそんな事言える?」

 二乃はカメラモードからギャラリーへと切り替え、こっそり撮影したのだろう、カメラに全く気が付いていない三玖がそこには映っていた。

 風太郎は息が詰まって涙が出そうになった。それは写真の中にいる三玖が、背ける様に顔を伏せ、けれども気になり上目遣い、頬に朱色が差したとて、物憂げな色は消せはせず。なんとも複雑な表情を浮かべていたからだ。

 急に会いたい気持ちが胸を打ち、駈け出しそうな思いが体を巡る。

「三玖がどこ行ったか知らないか」

「知ってるわ」

「どこだ?」

「それは……」

 そこで二乃はもったいぶる。焦れている風太郎は、そんな駆け引きに付き合っていられないぞと問い詰めようとしたが、すぐに二乃がもったいぶったその意味が分かった。

――キーンコーンカーンコーン

「教室にいるわよ」

 くすくすわらって二乃は立ち上がった。

 今鳴ったのは予鈴だ。予鈴という事は、もうすぐ授業が始まるという事である。授業が始まるという事は、該当教室にて待機しておかなければならない。五時間目は現代文で、これに選択は無いのでクラス全員が受ける。つまり当然三玖は教室に戻ってきている。簡単な論理の帰結だ。

 しかし求めていたのはそんな状況ではない。

 二人きりで会って、そして彼女のあの物憂げな色を拭ってあげて、抱きしめて、あわよくばキスをして、そういう状況を風太郎は求めていたのだ。

 教室に戻ると当たり前だが三玖がいる。一瞬目が合うと視線を反らされて、らしくもなく落ち込んだ。絶対に放課後は三玖と話そうと、決意を新たにして授業を受ける事にした。

 

 ホームルームが終わり、風太郎はようやく解放されると伸びをした。今日の日直は真面目な奴だったので煩わされる事は無いだろう。このクラスになって二月も経っていないが、面倒事を引っ提げてくるはた迷惑な奴くらいは風太郎も覚えていた。

「あ、上杉君」

 声の方を向く。その女子の茶髪を見るだけで気が滅入る思いがした。ここ最近の厄介の種である。厄介すぎて厄介筆頭伊達政宗などとくだらない冗談を思いついてしまうのは、疲れているのだろうか。

「何だ。急いでいるんだが」

「あげる」

 と、彼女は言うと蛍光色が毒々しいヘアーワックスの入れ物を手渡してきた。どこぞの不良ではないが、貰えるものは病気以外貰うとばかりに、風太郎はとりあえず受け取ろうとする。しかし彼女は風太郎から伸ばしてきた手をよけた。

「何のつもりだ」

「まあ迷惑料? そんな高い物でもないし、あげるよ」

「なら早くよこせ」

「ヒントと引き換えになります」

 こいつ小賢しい策を弄しやがって、と風太郎は舌打ちしたくなる気持ちを抑えながら答えた。どのみち通路を塞がれているから、答えなければ通れないだろう。

「Kだ」

 ひったくるようにヘアーワックスを取り、開けられたスペースを通って教室から出た。今度こそ一花ちゃんでは、と思ったが候補に残った四人のうちKを使わないのは二乃だけだ。あいつやりやがるぜ、とバトル漫画みたいな事を彼女達は思いながら、かいてもいない汗を拭って悔しさを誤魔化した。

 教室を飛び出した風太郎は廊下を左右に見やる。当然だが三玖の姿はない。時間を取られすぎたか、と思って悔やみながら、仕方なしに近くにいたクラスメートに尋ねた。見覚えのある女子だ。読者諸兄に分かるように言うと「上杉君すごいね」「ありがとう」の二人である。

「すまない、三玖を見なかったか?」

「え、三玖ちゃん? ねえ見た?」

「んー……、そういえば屋上階段の方に歩いて行くの見たよ。上ったのか帰ったのかは分からないけど」

「いや、充分だ」

 気が逸る風太郎は礼もそこそこに駈け出した。角を曲がり、上りと下りの階段にそれぞれ目をやるとはたして三玖は上の踊り場にいた。

「三玖」

 何を買うでもなくぼうっと自販機の前に立っている三玖に一声かけて、階段を一つ飛ばしで登っていく。

「ふ、フータロー……」

 声をかけられた三玖は風太郎の姿を認めると、彼が一歩踏み出すごとに一歩後ずさる。いつもと違う様子の三玖に首をかしげながら、しかし気持ちが抑えられない。誰も来ていない事を確認してから、ゆっくりと歩み寄るが、また三玖は後ずさる。

「三玖、どうして逃げる」

 一歩、もう一歩、また一歩。風太郎は進み、三玖は下がる。とうとう逃げ場の無くなった三玖は壁を背に感じた。風太郎はそんな三玖に逃げられないよう、両手を彼女の顔の横の壁についた。

「ぁ……」

 三玖の口から熱いため息が零れる。どうやら嫌われた訳ではないらしい。そのことには安心しながら、取り去れない疑問をぶつけた。

「怒ってるのか?」

「ち……違う……」

「ならどうして」

 三玖のそのミステリアスな印象をいや増す前髪が、はらはらと心を隠すように顔も隠す。彼女の奥に秘められた思いを知りたくて、そっとその前髪をはらうと真っ赤な顔が露わになって、潤んだような瞳がきらりと光った。

「フータロー、今から、面倒くさい事言う」

「何だ? 言ってみろ」

 三玖は風太郎のシャツの胸元をきゅっと握ると、ためらいがちに囁く。

「嫌だよ、フータロー。勝手な事って分かってるけど、でも、フータローが皆の物になっていくのが怖い」

「三玖……?」

「昨日、嘘ついた。フータローは私の物じゃないって、分かったような事言ったけど、本当は言いたいよ。この人は私の物だから取らないでって……」

 大きな瞳が、波打つようにゆらゆらと揺れる。

「フータローが、他の誰かに取られちゃうんじゃないかって思うと苦しくて。ごめん……フータロー、弱くて。あんなに言葉をくれても、いつも行動で示してくれても、こんな所で臆病な私で」

「馬鹿な事を言うなよ、三玖。誰かに取られる? そんなくだらない事考えるな」

「……ごめん」

「ああ違う、責めたいんじゃなくてだな……。だって、三玖」

 風太郎は閉じ込めるように伸ばしていた腕を曲げる。ゆっくりと恋人達の顔が近づいて、そして重なった。

「んっ……」

 触れた唇は灼熱のように熱く感じて、溶け合う砂糖菓子ほどに甘い。

「フータロー……」

「君が世界で一番綺麗だ」

 その思いを伝えるために、風太郎は三玖を抱きしめた。

 その言葉と、触れ合う体温に三玖は心臓が雷を送り出して痺れるように体中の力が抜けた。

「はっ……ぁ……フータロー」

 三玖は壁に体重を預け、するするとへたり込んだ。

「三玖、どうした?」

「こ……」

「こ?」

「腰が抜けちゃった……」

 あはは、と力なく笑う三玖に今まで悩んでいたあれこれがどうでもよくなるのを風太郎は感じた。我ながら現金な奴だ、と自嘲気味に笑うが、目の前の彼女が可愛らしく笑う顔を見る事がこんなにも幸せなのだから仕方がない。

「フータロー、大好き」

「俺もだ」

 水を打ったように静まり返った踊り場に、水の一滴が落ちるような音がした。

 ぴちゃり、と瑞々しくも艶めかしい音を、キスを交わす物だと気が付く人はいない。一歩踏み出すだけで、呆れかえる程の日常に戻るとは思えないほど、二人にはこの場が特別なものに感じられた。

 唇を互いに話して、微笑みながら目線を合わせる。しかし少しすると三玖は耐えられないように息を吐いて風太郎から目線を外した。

「何だよ三玖」

 そうっと彼は三玖の細い顎に指を這わせて、それに少し力を入れてこちらを向かせた。

 三玖の赤い顔が、ますます赤くなって伏せられた睫毛が震える。

「いや、本当にどうしたんだよ」

「うぅ……フータロー、かっこいいよ。し……死んじゃうからあんまり見つめないで……」

 そんな言葉を怪訝に思いながら聞いていた風太郎だが、そういえば髪をいじくりまわされたままだった。

お洒落をした女の子に男がときめくように、三玖の心臓は脈打つたびに痛いほどのドキドキが体を駆け巡った。

「はっ……ぁ……フータロー、フータロー……私はフータローの物だよ。壊れるくらい抱きしめて。息が出来ないくらいキスして。……ずっと、ずっと、そばにいさせて」

 三玖の泣きそうな顔が、必死にそんなことを言うのでたまらない気持ちになる。その細い肩を抱き寄せて、愛を確かめて送るように背中に手を回した。

「フータロー……」

とうわ言のように自分の名前を呼ぶ恋人に、そっと口付けを落とす。三玖の思いつめたような顔から力が抜けて、笑顔の花がふわりと咲いた。

「フータロー、大好きな人とするキスって、どうしてこんなに気持ちがいいのかな?」

 壁に背中を預けていた三玖は、風太郎の方に身を乗り出して、倒れこむような押し付けるキスをした。

 はあ、とキスの合間に開いた口から互いに赤い舌がのぞいた。自制心が学校というくびきから解き放たれてしまいそうで、交わる視線が悩むように反らされたり伏せられたり、しかしとうとうその意識を飛び越えた。

「ぁ……んんっ……」

 互いの舌先を遠慮がちに舐めると、確認は終わったとばかりに唇を重ねて、開けたその間で意思を持った赤い炎が絡まり合う。温かい甘い麻薬が口の端から一筋零れて、もっともっと、際限なく二人は深いキスをする。

「はっ……は……、私、フータローとするキスが好き」

 息をする合間に、三玖はうっとりと頬を染めながら言葉を紡いだ。彼女はそっと頬にキスをすると更に言葉を続ける。

「ねえフータロー。気持ちいい事、もっとしよ?」

 そう笑う三玖は何て蠱惑的だろうか。その大きな瞳に、抗える男は存在しないだろう。大きな蒼い宙に、きらきらと銀河の光が瞬く。彼女は宇宙のように深い愛をもって、恋人を見つめるのだ。

「三玖が……」

 風太郎は三玖の頭をなでながら、思った事を言った。

「私がなに?」

「いや、三玖が戦国時代のお姫様とかじゃなくて良かったな、と思ったんだ」

 三玖はその言葉に要領を得ず、首をかしげて言葉の続きを待った。

「三玖を手に入れるために、男達は血みどろの争いだってするだろう」

「そんな……フータロー、言いすぎだよ」

 風太郎の冗談に、くすぐったそうに笑う三玖はそれでも嬉しそうだ。

 彼は三玖の瞼に口付けて、それだけの価値があるんだと知らせるように気持ちを送った。

「耀変天目茶碗って知ってるか?」

「知ってるけど……」

「三玖の瞳を見てると、それを思い出した。黒目の中に、きらきら光が星のように輝いて触れる事が怖いくらいに美しい。戦国時代は茶器のために戦争した武将だっているくらいだから、お前のために争ったっておかしくない」

「あはは、何それ」

 ころころと鈴が転がるような、涼やかで穏やかな笑い声が踊り場に響いた。もうあの悲壮な顔色はどこにもない。

「フータローは同じ時代にいたら、私を迎えに来てくれる?」

 そのからかう瞳、ほころぶ笑顔に風太郎は笑いかけて、そっと口付けた。

「もちろん。毘沙門天の信仰を曲げてでも三玖の下に行こう」

「上杉だから?」

「ダメか?」

「ううん、嬉しい。ありがとうフータロー。私の為にそんな話をしてくれて」

 三玖は風太郎の首に手を回し、頭を抱きかかえて頬を触れ合わせる。甘えてくる猫の様に、その白い頬をすりつけてきた。

「大好き」

 いたずらな猫は妖しく笑う。そのままゆっくりと近づいてきて、鼻を触れ合わせるともったいぶるように、

「好きだよ、フータロー」

 そう言ってなかなかキスをしてこない。その言葉自体は嬉しいのだが、目の前にぶら下がっているキスというご褒美に、どこか聞く集中力が続かない。

「むぅ……聞いてる?」

「あ……ああ、聞いてるぞ」

「本当かな?」

「本当だ。だから三玖……」

「なあに?」

 三玖が話す度に、その息が顔をくすぐる。

「フータロー、言ってくれなきゃ分からないよ」

 くすくすと笑う彼女は、例えようもない程に魅力的で、風太郎はその唇に触れる栄誉を今か今かと待ちわびているが、その事を分かっているのだ。三玖は、普段どんな気持ちで言わされているのかフータローも分かればいいんだ、とやり返す機会に楽しくなった。

「だから……キスしてくれ」

 そう風太郎は言うと照れくささに目を伏せた。その瞳に、次第に懇願する色が混じって三玖を見つめ、それを彼女はお菓子を買って欲しい子供のようだと思っておかしくなった。

「フータロー、かわいい」

 文句を言いたげに歪んだ彼の眉を愛しく見つめて、ドキドキと逸る胸の内を抑えながら、三玖は一文字に結ばれた風太郎の唇を舐めてゆっくりとキスをした。

「んっ……はぁ、んんっ……」

 裂けた傷口が血によって塞がるような、そのまま唇がくっついてしまうのではと錯覚するほどの、舌が糸の如く絡まる深いキスだった。

 大きく跳ねた心臓の鼓動が、唇の薄い肌を突き抜けて、心に直接突き刺さる錯覚を覚えるキスが、何回も唇を重ねる中で不意に訪れた。

 心と体が一致した時に起きる不思議なそれは甘美な麻薬だ。

 そして麻薬は、じくじくと、胸の内を苛む。

 ここがどこかも忘れて、三玖は呟いた。

「したい」

 それを聞いた風太郎は氷漬けにされたのかと思うほどに固まる。一瞬してその言葉の意味を早とちりした体が、燃え上がるように熱くなって、熱さはとある場所に集まった。

「そんな事を言われた俺は、どうすればいいんだ」

「フータロー?」

 風太郎は三玖のあごに手を当てた。しかしそこから、三玖が描いていた行動とは違う動きをする。

 首筋に指が来て、のろのろと下っていく。彼女のトレードマークでもあるヘッドホンの耳当ての隙間を抜けて、その間にあるブラウスの第一ボタンに、彼は手をかけた。

「したい、三玖。ここがどこかも忘れて」

 熱い瞳に射竦められれば、嫌でもその真意が分かった。風太郎と三玖は、したい事の方向は同じだったが、その歩幅が大きく違った。三玖はキスが出来ればそれでよかったが、男の風太郎はそれだけで終わらない。

全てを露わにして、全てで繋がりたい。あの天にも昇るような快楽をもう一度味わいたいと、雄の本能が雄たけびを上げる。

 しかし、それはどうしても叶わない。分かって言っているなら、こいつはとんだ悪女だな。風太郎は三玖へそんな事を思う。

「修学旅行が終わるまで」

 彼は耐えるように口を一文字に結んで、どうにか思いを零した。

「したいけどしたくない。……したくなるから」

 何て語彙のない文だろう。とても全国模試二位の秀才の言葉とは思えない。

 しかし三玖はその込められた思いを完璧に理解した。

 つまり、キスはしたいけどキスをしたくない……セックスしたくなるから、と。

 三玖の顔が燃え上がるように真っ赤になる。あの震えるほどの幸せと、気絶しそうなほどの気持ちよさが思い起こされて、体の奥から気持ちが溢れそうになる。

「ゃ……ん」

 もじもじと三玖が身をよじると、風太郎は文句の一つも言いたくなる。その可愛らしい姿を見せられたら、ますますしたい気持ちが抑えられなくなりそうだ。

「三玖……」

 せめてもの慰みとばかりに、三玖の体を抱きしめる。その細い肩、甘い香りが立ち昇る髪、服越しに感じる彼女の大きな胸。そのどれもが風太郎を魅了してやまない。自分の恋人がこんにも魅力的なことは、嬉しいはずなのに胸が痛くなる。

「あ……んっ、ちゅっ」

 もっとしたくなるのだから止めておけばいいのに、けれども三玖の瞳が物欲しそうにきらきらと光ると、どうしても引き寄せられた。

  タン、タン

 自分達のすぐ下から物音がした。室内履きが階段を叩く音だ。焦りを感じて、慌てて逃げるように距離をとって、

「また明日」

風太郎は何事もなかったかのように立ち去った。

 踊り場の影からいきなり出て来た風太郎に、不審な目線を向ける二人組の横を抜けて教室に戻った。

 教室に戻ると残っていたのは二人の女子だけだ。それはさっき三玖の行き先を教えてくれた女子達で、風太郎を見ると朗らかに笑った。

「三玖ちゃんに会えた?」

「ああ。助かった」

「よかった」

 二人は顔を見合わせると、またおかしそうに笑う。

「あ、お礼じゃないけどちょっと教えて欲しい事があるんだけど、いい?」

 最近は教わる事がブームなのか? と教える機会が急増した事を思い出しながら、三玖がどこに行ったか教えてくれた恩もあるので前向きに答える事にした。

「何だ」

「私の友達が話してた恋バナなんだけど」

 サイドの髪の一束をリボンで留めた方の女子が話し始めた。

 こいつらどんだけ恋バナが好きなんだよ、と呆れながら黙って話の続きを促す。

「たぶん付き合ってる二人が、ていうか絶対付き合ってる二人がね、なんと学校でイチャイチャしてたんだよ」

「はあ」

「人気のない学校の端っこの方で……こう!」

 そう言うと勢いよく前髪ぱっつんの女子を壁に追い詰め、顔の横に手をついた。

「……ん?」

「それから、こうちゅーって」

「ちょっとやめてよー」

「いいじゃーん」

 いやお前らがイチャイチャすんな、という言葉を飲み込んで風太郎は咳払いをする。彼女達は自分が何を見せつけているのか改めて認識して少し頬を赤らめた。

「こほん。それで彼氏君の方が、彼女ちゃんに抱き着いて何か言ったら、彼女ちゃんはへろへろになっちゃってさ」

 鈍いだとか言われていたとしても、ここまで言われればさすがの風太郎でも分かった。

 見られていたんだ、こいつらに。

「どうしたの上杉君。友達の話でそんなに真っ赤になって、うぶなんだね」

 にやにや緩む頬を隠そうともしないで、なおも話を続ける。

「ねえ上杉君、彼氏君は彼女ちゃんに何て言ったのか、分かる?」

 なんという新手の拷問だろうか。好きだと言った言葉に嘘はないが、改めてその言葉を言ってみろと指示されるのは辛いものがある。

「帰っていいか」

 そんな空しい現実逃避を試みようとしても、こと情報戦略においては彼女達の方が熟練者である。

「そっかー、上杉君でも分からないか。しょうがない、皆に聞こうかな」

「み、皆?」

「そうだなー。高校生カップルの胸キュン動画をアップして、浅ましくいいねを稼ぎつつ意見を求めようかなあー。教えてくれたら、カップルのお二人に悪いから動画消そうと思うんだけど」

 サイドテール気味の髪型の彼女は意地悪く笑いながら、スマホをゆっくりと振った。世事に疎い風太郎でも、それがどれだけまずい事かはラジオのニュースを聞くだけでも十二分に理解している。

 世界中に発信するという事の洒落にならなさと、彼女の友人達に伝わるのと、どちらがましだろう。

「そ、そうだな。きっと……その彼氏はこう言ったんじゃないのか」

 天秤は傾いた。全世界に発信するのは重過ぎる。せいぜい身内の恋バナくらいにとどめておいた方が賢明だ。

 女子二人の瞳が期待にキラキラ光る。

 くそ、何でこんなことをしなければいけないんだ。

 忌々しく心のなかで毒づいて、渋々口を開く。

「お前が世界で一番綺麗だ、って」

「「キャー!!」」

 どんな顔をしてこの場にいればいいんだ、と風太郎は熱くなった顔を反らした。彼女達はお構いなしに盛り上がっている。

「上杉君凄いね!」

「ありがと」

 興奮した赤い顔で二人はそんなことを口走った。彼女達のその無駄にややこしい褒め言葉に風太郎は頭を抱えた。素直に受け取れば分からなかった事を教えてくれてありがとうだが、もちろんそれだけではない。

 お前学校でそんな事を言ったのか、凄いね、と彼女は言葉の裏でザクザクと刺してくる。いっそ殺せ、と恥ずかしさに消えそうな心境になった風太郎を誰が責められようか。

「帰らせてくれ……」

「もうちょっと聞きたいことが」

「もう答えただろ」

「友達はねえ、カップルちゃん達のイチャイチャを邪魔されないように、階段の前に立って他の人が現場に行かないように気を遣ってたんだって。その事をカップルちゃん達が知ったら、きっと恥ずかしがりながらもありがとうっておもうよね~」

 ああ、と風太郎の中で合点がいく。どうりで放課後とはいえあまりに人が来なさすぎた訳だ。

 あれ、もしかして俺やばい?

 冷静に自分の置かれた状況を考えると、どうしてもその考えに行きつき、冷や汗が額を流れる。

 学校内でイチャつくなどという咎められる行為を動画という決定的証拠に残され、しかし恋人の戯れをささやかな手法ながら守ってくれたという恩に思う気持ちが胸の内にあって強く言い返せない。

 詰みでは?

 風太郎はこの先の高校生活に暗雲がたちこめてくる気配をひしひしと感じた。

 そんな彼を見ていた彼女達は声を上げて笑うと、スマホの画面を風太郎に見せながら操作してくる。赤い部分をタップすると『削除しますか』という文字が現れて、その質問に『はい』の方をタップした。処理作業を行っている事を知らせるサークルが数回くるくる回ると、データはこの世のどこからも消えた。

「これで安心した?」

「ああ……でも、良いのか。いい脅しの材料だったろ」

「ひどー。私だって人並みの良心はあるんだから」

「変わりに上杉君、あの動画のカップルの馴れ初めとか、どんな付き合いをしているか、一緒に考えようよ」

「いいね、それ」

 二人は顔を見合わせてにたーっと笑った。考えよう、などと言っているが、その実風太郎に全部話させるつもりだろう。

 やはり厄日だ。

 血縁である姉妹以外にも、こんなに丁寧に三玖とのお付き合いを話す羽目になったのだ。これが厄日でなくて何だろう。

 そして翌日からしばらく、恋バナに鼻が利く奴らにあれこれ言われる日々が続くと、厄日ではない、厄年だったかと認識を改にしたのだった。

 




さすがに間隔が開きすぎだったので、もう少し頑張って投稿間隔を詰めれるように頑張ります
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