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慣れない部屋に、聞き慣れた音が響く。
その音に私の意識は引き上げられて半覚醒の瞳を開いた。
真っ白な天井が私を見下ろしている。その見慣れなさに私はここがどこかゆっくり思い出した。
修学旅行で泊っているホテルだ。柔らかなスプリング、嗅ぎなれない洗剤の匂い、そしてベッドは分かれているので寝ぼけた四葉が私にのしかかってきたりもしない。
私は体を起こしてアラームを響かせるスマホを操作して音を止めてベッドから下りる。体を大きく反らして眠気を振り払うとお茶でも飲もうかと冷蔵庫へと向かう。
「あ、おはよー」
洗面所の方から一花が顔を覗かせた。先に起きていた姉の顔はしっとりと濡れている。化粧水でも叩いていたのだろうか。奥の方から音がしている、ということは二乃も起きているはず。
「起きた?」
やっぱり。お洒落に特に気を遣う上二人の朝は、寝坊などをしなければ下三人より早い。
髪の跳ね方、肌の調子、ニキビや吹き出物ができていないか、女子のチェックには余念がない。
「うーん……」
私達の話声が意識の奥底を揺らしたのか、四葉は身じろぎして目を開けた。
「……知らない天井だ」
「ベタねー」
乳液をパタパタなじませながら、二乃は四葉の起き抜けの言葉に笑った。二乃は櫛を片手に四葉のそばに寄って、絡まった髪をとかしてあげている。髪に櫛をいれられている四葉は次第に目が冴えてきたようで、そばに置いていた修学旅行のしおりに目を通していた。
「今日は清水寺に行くんだよね」
「そうね。私達のクラスは先に清水寺に行く方のはず」
今日は奇数クラスが先に清水寺に行き、偶数クラスが伝統工芸体験に行くというスケジュールだ。私達は3年1組なので先に清水寺のコースとなる。
「五月、起きて。朝ご飯の時間」
私は幸せそうにスヤスヤ眠る五月を揺り起こした。
「んん……三玖? ふあ……おはようございます」
「おはよう」
五人で一番長い髪をあちこち跳ねさせた五月は、その髪を鬱陶しそうに払って起き上がった。
「うわ、五月ちゃん髪ぼさぼさ。お手入れしてあげよう」
一花は四葉の髪を丁寧に梳かし終えた二乃から櫛を受け取って、五月のぼさぼさ頭に櫛を入れ始めた。
「境内まで結構歩くの?」
制服に着替えだした二乃は、頭にリボンをつけている四葉に聞く。初夏の緑のようなあざやかな色のリボンを揺らして、四葉はしおりを見ながら言った。
「そこそこ? でもお土産屋さんもいっぱいあるから楽しいよ」
「見て来たような事言うじゃない」
「え? えっと……」
「ま、それなら楽しめそうだわ」
頭にいつものリボンを着けた二乃が、手鏡で変な所がないか確認して鏡の中の自分ににこりと笑いかけた。私はヘッドホンをかけて、五月も星のヘアピンを着けて準備完了だ。
京都一番の名所と言っても過言ではない清水寺に、私はどきどきと胸が高鳴る思いでホテルの部屋を後にした。
バスから降りて整列すると、一組つまり私達から移動し始めた。古い町並みの趣を残した緩やかな坂道を登っていく。
「人がいっぱいね」
「はぐれないようにしろよ」
そう言うとフータローは私の手を握ってくれた。
平日とは言え、京都の一番の観光地である清水寺へ続く道には人がごったがえしている。私達学生は小学校の教科書にでてくるエーミールみたいに一塊になっていた。学生服のシャツの白がぞろぞろひしめき合い、そうそうはぐれる事はないだろうけど、それでもこうやって気遣ってくれるのが嬉しかった。
「おい四葉、転ぶなよ。この坂で転んだら二年で死ぬらしいぞ」
「ええ~!? し、死にたくないです!」
そう言った話は色々な曰くのある京都では珍しくもない話だ。修学旅行の前に私がフータローにいくつか話した事の中にそういう話も混じっていたはず。
「冗談だ。その話が言われてるのは二年坂って所でここじゃない」
「よかったです」
そうフータローに言われると、四葉はほっと胸をなでおろした。
私がフータローに話したとりとめのないような蘊蓄まがいの事を、ちゃんと覚えていてくれる嬉しさに頬が緩んでしまう。
「何か有名な物あるかなー」
一花はキョロキョロと辺りを見渡しながら、スマホで写真を何枚か撮っていた。
「あれはどう? 七味屋さん。四百年近くの歴史があるらしいよ」
「うーん。二乃は?」
「調理系があるとすぐ私を呼ぶの止めてくれない? まあ有名な物なら一つくらい買ってもいいわね」
「フータローは?」
「そうだな。買って行ってもいいが、消え物ってのがどうも。お守りだけでも結構するってのに」
「私が買ってあげるよ?」
「一花みたいな事を言うな」
いきなり出て来た一花の名前に、その当人の顔を見た。視線を向けた先にいる一花は照れくさそうに頬を掻いて笑った。聞けばフータローが欲しがっていた、そこそこのお値段が張る参考書を買ってあげたらしい。
「あはは、見得を張りたいお年頃だったんだよ」
「ずるい。私もフータローに何か買ってあげたい」
「気持ちだけ貰っておこう」
呆れたようにフータローはそう言うと、進みだした集団に合わせて手を引いてきた。人混みの先に、朱塗りの建物が見える。
お土産屋に気を取られている女子の方が女の子らしいのかもしれない。けれど、私はその荘厳な建物の方が好きだった。分かっているのかな? この清水寺の形を作ったのは坂上田村麻呂なんだよ。あの教科書に載っている偉人が遺してくれた物が、今の今まで人々を魅了してやまない事に、想いを馳せたりしないのだろうか。
仁王門を前に私達のクラスは整列しなおして自由行動となった。清水坂で買い物してもいいし、境内に入って参拝するもよし。
私達は昨日の八人で境内を見て回る事にした。
私の気持ちとしては真っ先に駈け出して行きたいけれど、昨日の散策が堪えたのか足がピリピリと筋肉痛に陥っているので、ゆっくりと歩き出した。多分フータローも同じ体の状況のはず。
「えい」
「いっ……!」
ふとそう思ったので確かめるべくフータローの太ももを突いてみた。突かれたフータローは顔をしかめて跳ねた。自分でしでかした事だけど、そんな姿が笑いを誘う。
「何するんだよ三玖」
「ふふふ、お客さん凝ってますね」
「くそっ。……どうせお前もだろ」
「きゃっ」
笑いすぎてしまったかな。フータローは手を伸ばして私がしたみたいに太ももを突いてきた。
「いたた、やめてよフータロー。恋人同士でもセクハラは適用されるんだよ」
「ならお前のさっきした事だってそうだろ」
「女の子のした事なら受け止めてよ」
「男女平等の観点に背く考えだな」
「もう、その公民意識なに?」
「あんた達そのトリッキーなイチャイチャを止めなさい。早く清水の舞台行きましょう」
声のした方を向くと、仁王門への階段を登った二乃が呆れてそう言っていた。
私達は顔を見合わせて苦笑いすると、皆の下へ歩いて行った。
人波をかき分けながら石段を登って行く。一歩ごとに大きな赤い門の威圧が増すようで、これが歴史の重みだろうか。首が痛いほどに見上げて、その感動を隣にいる大好きなフータローと一緒に感じれる事は、なんて嬉しいんだろう。
「写真撮ってやるよ」
「一緒に映って」
フータローからの嬉しい提案に、私はもう一つ嬉しいを付け加える。仕方ないなと苦笑いする彼に甘えて傍に近寄った。
「あ、三玖写真撮るの? 撮ってあげるよ」
パンフレットを見ながら話し込んでいた皆から、四葉がこちらを振り返ってそう言ってくれた。その言葉に渡りに船とばかりに飛びついて、写真をお願いすることにした。
「はい、チーズ」
「ありがと四葉」
「お安い御用でございます」
恭しく頭を下げて、宝物を差し出すようにスマホを返してくる、おどけてみせる四葉に、
「うむ、苦しゅうない」
私も一角の主君になったつもりで答えた。四葉はいつものように歯をみせながら、しししと笑ってくれる。私は笑い返して皆と本堂への進みだした。
「あ、五重の塔ですか?」
「五月、あれは三重の塔。五重の塔は京都駅の近くにある東寺にある。……あのあと行かなかったんだ」
昨日帰ってからした話の中に、一言もお寺や建物の話が出てこなかったからもしかしてと思っていたけど。
「いいじゃない。京都に来たからって、お寺に行かなくちゃいけない法律がある訳でもないんだから」
「そうだけど……」
だからと言って全然行かないのは、京都に来た画竜点睛を欠くというものではなかろうか、と思うのは私の押し付けかな。
色々見たい物はあるけれど、先に皆と清水の舞台を見たいから本堂へと真っすぐ向かう。
本堂に入ると人がある場所で集まって声をあげている。
「重たー」
「こんなの持ってたとか嘘だろ」
苦しい顔をしながら持ち上げて、それを周りにいる人は楽しそうに写真に収めている。
清水寺の七不思議の一つ、弁慶の鉄の錫杖だ。持ち上げるとご利益があるとされているので、皆が持ち上げようとしている。
小さな錫杖と大きな錫杖の二つが並べて置いてあり、小さい方はさすがの私でも持ち上げられる。両手を使ってだけど。だけど大錫杖は女の私達ではびくともしない。
「ふぬぬ……、あ! ちょっと浮いたよ」
さすがの四葉は持ち上げる事が出来たけど、それでも少しだけだ。男性陣は、文武両道武田君はその涼しい顔にらしくない汗を一筋流しながら持ち上げる。
「さすがにおいそれとは持ち上がらないね」
武に偏重気味の前田君は一番高く持ち上げた。
「ま、こんなもんか」
凄い。素直に凄いと思った。
フータローは……うん。
「三玖、その端から期待していない目を止めろ」
「だって一花や二乃に五月が持ち上げられなかったんだよ」
「前とは違う俺を見せてやる」
と言うと錫杖に向き直ってしっかり掴んだ。ふうっと息を吐いて、一気に持ち上げようと力を込めた。錫杖の上についている輪っかがチャリチャリ音を立てて期待を煽ったけど、やっぱり持ち上がる事は無かった。
「大丈夫だよフータロー。力が無くてもフータローはフータローだから」
「優しさが辛い」
「幸せ者だねえ上杉君は」
隣にいた武田君がからかうように笑った。
最初のころは見られるなんて恥ずかしくて、こんな風にからかわれるなんて考えられなかったけど、今ではそんなに恥ずかしくも無くなっていた。鈍くなったと、悪く言えばそうかもしれない。けれど、それはフータローと一緒にいるのが当たり前になったからだと前向きに言いたいな。
「お前なんかいつだって幸せ者になれるだろ」
「そうなるのは、なりたいという自分の気持ちと、なれるという置かれた状況が一致した時になるものさ。あいにく僕は今すぐ君みたいになりたいという訳ではないからね」
「男連中が聞いたらお前の命が無いだろうな」
「怖い怖い。上杉君と前田君の両彼女持ちに盾となってもらおうかな」
「人を巻き込むんじゃねえコラ」
前田君はバシッと武田君の肩を叩いた。
「あ、清水の舞台だよ」
話し込む男子をよそに歩き出して、私達だけで先に清水の舞台に立った。先を歩いていた一花は驚きに口を開く。
「うわ、写真で見た印象より結構高いね」
「手すりこんなに低かったっけ」
四葉は自分の腰あたりを叩いて手すりの低さを確かめている。ちょっと前かがみになったらそのまま落ちてしまいそうなほどの高さだ。
「昔の日本人サイズなのかしら?」
二乃はパシャリと写真を一枚撮って頭をかしげた。江戸時代の日本人の平均身長が男性で155センチらしいので、つまり私達よりちょっと低いくらいだ。……やっぱり手すり低いと思う。
「私達が大きくなったってことだよ」
「そ、そうですよね」
五月はちょっと余裕の笑みだが、その笑みはこわ張っているようにも見える。本当は怖いのだろうか。
「あっ!」
清水の舞台の前に立っていた四葉が手すりを掴んでいた手を滑らした。
「四葉!?」
「なーんちゃって」
心配して駆け寄った五月に、面白がっている目を四葉は向けた。こういう冗談は珍しいかもしれない。
「もー! やめてください!」
「四葉、ふざけてるとマジでやらかしそうで怖いよ」
「一花、それは私を侮りすぎ」
「ひー、でも高いわね。こんな所から飛び降りた人がいるの? 死んでるでしょその人」
「そんな事ない。飛び降りた人の85%は生きてる」
「へー結構死なない物ね……ってなる訳ないでしょ!」
カシャッ
という電子音が聞こえて私達5人は音の方を振り返る。武田君がスマホをこちらに向けて微笑んでいる。フータローと前田君は彼の肩に手を置いて写真をのぞき込んでいた。
「檜舞台の美人姉妹とは、これで賞でも目指そうかな?」
「ちょっとー、撮るなら言ってよ。写真にはちゃんと写りたいよ、プロとして」
「というか無断で撮るんじゃないわよ。あれよ、訴えたらあんた負けるわよ」
散々な言葉を浴びせかけられた武田君は、肩をすくめて隣の男二人を見る。
「俺が撮れって言ったんだ。許してくれ」
フータローが一歩前に出てきて頭を下げた。使い捨てカメラを持ってきていたり、もしかしてフータローって写真を撮るの好きなのかも。
「それで許してくれるのはもう三玖だけよ」
「すまん」
「まあまあ二乃、その辺で。上杉さんだって悪気があってやったんじゃないんだし。無罪だよ」
フータローの目が大きく開かれて、ぱちぱちと瞬きする。四葉そんな変な事言ってる?
「じゃあ今度はきちんとお願いするよ。皆で撮ろうじゃないか。ほら、あっちにいる友人に写真撮ってくれないかとお願いしたんだ」
武田君は舞台から俳優の様に手を振ると、音羽の滝に通じる道の方から手を振ってくる一団が見えた。あの人たちはクラスメートじゃないけど、こんな簡単に頼み事出来るのは彼の人徳だろうか。確かにテレビでよく見る構図を撮ろうと思ったら、あそこにいる人に協力してもらわないと不可能だ。
「ほら早く撮ろう。あまり待たせても悪いからね」
清水の舞台には人の流れがどんどん押し寄せてくるので、早くしないと迷惑になってしまいそうだ。というか私達は八人もいるのだからすでになっている。
武田君は通話をしながら向こう側にいる人と人の並びやポーズを決めている。私達は全体像が見えないのでそれに従うしかない。大丈夫かな。ちゃんと撮れてるかな。
何枚か撮ってくれたらしい向こう側の彼たちは、大きく手を振って音羽の滝の方へ歩いて行った。
この場で撮る写真は、一番画質の良い武田君のスマホで撮って、後で共有する事にした。
「スマホを持ってない俺はどうすればいいんだ」
「三玖さんのを見せてもらえよ」
何枚か撮ったところで、今更のようにフータローは言った。機種変更すればと言うのは簡単だけど、フータローの経済事情を考えるとそんな事言えない。
「うん。私の見せてあげるから大丈夫」
「ならまあ、いいが」
フータローは前髪をちょいちょいといじって遠くを見ている。その照れくささを隠そうとする仕草に、思わず私は笑ってしまってフータローに睨まれた。
「なんだよ」
「何を考えてたのかな?」
写真を見るくらいなのに、そんなに照れくさい事なんてあっただろうか。
「一緒に写真を見る事を、だ」
その歯切れの悪い言葉に一つピンと頭にとある考えが駆け巡る。そうだったら嬉しいなと思いながら、そっとフータローに耳打ちした。
「二人きり、で?」
そう言うと、フータローは言葉に詰まりながら頬を赤くして目をそらす。秘密を明かされた子供みたいな素振りに、私は可愛らしいと思ってしまった。
「えへへ……一緒に見ようね」
「……おう」
「ははは、相手を思いやって見るのも良いけど、カメラの方を向いてくれないかな」
はっとしながら声の方を向くと、呆れた顔をした六人がこちらを見ている。そうだ、皆に姉妹に男子の写真を撮ったから私とフータローのツーショットを撮る所だったんだ。
「ごめん。フータロー、カメラ見て」
「どの口が言うんだ」
にっと意地悪に笑ってフータローは肘で私を小突く。こんな名所でこんなに近づいて写真を撮る、なんてきっと一生の思い出だよね。
パチリとカメラから小さく音がして、フータローはその使い捨てカメラを受け取る。
「お守りの一つ二つ買って行こうかしら」
「ご利益が喧嘩するんじゃないの?」
本堂の方のお守り販売所に二乃と四葉が行くと、それをフータローは遠くを見つめる目で見ていた。……またあの目。
「いてっ」
「フータローの浮気性」
私はそんなフータローの横腹を突っついた。隣に恋人がいておきながら、昔の女を思い出すとは何事か。
「人聞きの悪い事言うな」
「だってまた昔の女の子を思い出してたんでしょ?」
「……すまん。言い訳させて欲しいんだがいいか?」
「どうぞ」
「あとちょっとで思い出せそうなんだ」
「む……思い出してどうするの?」
「どうもこうも。三玖もあるだろ? 思い出せそうでちゃんと思い出せない事とか」
「あるけど」
「だろ?」
と話を切るとフータローはお守り売り場の皆に合流した。なんだか誤魔化されたような気がする。
けど、あんまり昔の事をやいやい言って鬱陶しがられるのも嫌だ。私達はずっと女子校に通っていたから分からないけど、普通の共学に通っていたら、そういう恋の一つや二つが心に強く残る物なのだろうか。
フータローにも敗れた恋があるのだろうか。そう思うと、ちょっと面白くないけど、思い出は思い出だ。男の人は恋の事を名前を付けて保存して心の片隅に置いておくらしいけど、その思い出が開かないくらい私でいっぱいにすればいいんだ、と思おう。
「三玖、受験生なんだし学業のお守りでも買っていく?」
私達の中で進学を必要としない進路を選んだ一花は、お気楽な顔をして学業のお守りを指さしていた。
「じゃあ一花はこの開運出世お守り?」
「かな」
「あ、これ可愛いじゃない皆で買いましょうよ」
皆でお守りを選んでいると二乃はある一つに目を止めた。桜がモチーフの丸い鈴だ。私も含めて皆で気に入ったのでそれぞれ一つ買う事にした。
「これいいんじゃねーか? 最強だってよ」
「らいはにも買ってやるか。一つで色んな幸せが叶うとかコスパ最強だな」
フータローが手に取ったのは幸守だった。白地のお守りの中央に青の『幸』の文字が記されている。
「私も買う」
「もう買っただろ」
「フータローと一緒のが欲しいから、だからいい」
そうしてお守りを買った私達は本堂を出て、パンフレットを見ながらどこを見に行こうか考えた。
「おーい、武田くーん」
悩んでいる私達に、少し高い所からの声がおりてくる。ふわふわとした優しい笑みに、けれども笑っていない目が怖いクラスの女子班がいた。武田君と班を組みたかった子達だ。なんだか居心地が悪い私はフータローの後ろに隠れた。
「やあ。どうしたのかな?」
「まだこっち来てないんでしょ? 一緒にお参りしようよー」
彼女達が立っているのは、清水寺内にある地主神社に通じる階段だ。
「俺ちょっとここで待たねーと」
「なんだよ前田。集団行動できない小学生かよ」
「うるせ。俺は……あれだよ」
「なんだよ」
「察してあげなよフータロー君。恋の伝承のお寺に、待ってまで行きたいって事は?」
「ああ、なるほど」
フータローは納得したように手を打って、らしくないと思っているのか前田君はふんと鼻を鳴らして明後日の方向を見ていた。
そのまま前田君は彼女さんと色々見たり買ったりするそうなので、時間になったら集合する事にして私達は地主神社へと足を進めた。
階段を登ると縄に巻かれた石が十メートルほどの間隔で二つ置かれていた。石に張られたお札には恋占いの石と書いてある。今も何人かがその間をふらふら覚束ない足取りで歩いていた。
この一対の石の片方から目を閉じて、もう片方の石に辿り着けたら恋が叶うという伝承だ。人に助けてもらって辿り着くと、人に助けられて恋が実るとか、ただ辿り着くにもいろんな解釈が生まれるそうだ。
「あんた達がやる必要あんの?」
二乃は私達を振り返ると、すでに呆れたような顔をしている。まだ何もしていないのに、そんな顔をされるいわれはないと思う。
「そこだよ二乃ちゃん。結ばれた二人がやったらどうなるのか、気にならない?」
「うーん、ビミョー」
「俺達は実験台か?」
「そう。だから武田君と一緒に向こうの石に行ってて」
「なんで……」
「まあいいじゃないか。じゃあ僕達はむこうに行ってるよ」
いまいち乗り気じゃないフータローを引っ張って、武田君は向こう側の石のそばに立っておいでおいでと手招きした。
先に占いをしていた人たちが向こうに歩くのを待って、武田君を狙う女性陣は片方の石から出陣した。ここに彼を連れて来た勇ましさとは裏腹な、ゆっくりとした足取りを一歩一歩進めて彼女達は周りで見ていた他のクラスメートの助けを借りて辿り着いた。
私は四葉に押されて恋占いの石の間に躍り出る。人でごった返してはいるが、この石と石の間は人がいない。目を瞑って歩く人のために皆が気を遣っているのだ。
目を瞑る前にちらりと周りを見た。ここに来ていたクラスメート達が、見知った顔があると足を止めて私を見ていた。スマホで写真か動画を撮る準備をしていた。これ以上まごついて人の耳目を集めるのはごめんだ、と私は目を瞑り、フータローがいる方へ歩き出した。
ざわざわとした喧騒がどこか遠くに聞こえる気がした。交わされる会話の中に日本語以外の言語が混じっている事さえ分かる。自分でも不思議なほどに集中力が高まっていた。
十歩ほど歩いた所で、そろそろかなと思い歩幅を狭めて手を前に伸ばした。
少し、もう少し、ゆっくりと、誰も何も言ってこないから多分大丈夫なはず。
「わぷっ」
ポスッと布に当たる感触が顔中に広がった。誰かにぶつかってしまったんだ。どうして誰も教えてくれないんだろう。
「ご、ごめんなさ……」
恋占いは失敗なようだ。いやフータローと付き合えているんだから失敗も何もないんだけど。
目を開けてぶつかってしまった人を見る。
何で誰も教えてくれなかったのか分かった。
見上げた私を見つめ返すのは、おかしそうに、悪戯っぽく笑うフータローだったから。
石に辿り着けなかったけど、きっと占いは成功だ。嬉しくなって微笑むと、鏡のようにフータローは微笑みを返してくれた。
ピュウッと誰かがはやし立てる指笛を高らかに鳴らした。それで私はここが往来のど真ん中な事を思い出す。人垣に目を向けると、ニヤニヤと笑ったクラスメート達がカメラに私達を収めている。
「お前ら」
それを見たフータローの不機嫌そうな口から、咎める声が出てきて皆をたしなめる。
「よこせ」
フータローは私から離れて、一番近くにいた男子のスマホを取り上げた。私は視線に晒される居心地の悪さに小さくなるような気持ちで人混みに紛れて逃げる。
「あはは! 大成功じゃない三玖」
「……うるさい」
からかってくる二乃をじろりと睨みつけるけど、そんなの毛ほども気にならないとばかりにまた笑ってきた。
「おい、行くぞ」
先ほどスマホを取り上げた男子との、写真を巡る話し合いに勝ったのか負けたのか分からないが、楽しそうに笑う武田君を引き連れてフータローはそのまま神社を出て行った。
「待ってよフータロー」
階段を下りていくフータローのそばに行こうとしたけど、まだ皆の視線が集まっているように感じてしまって、姉妹に紛れるようにして神社を後にした。
神社から離れた私を待っていたのは、今度は姉妹からのからかいだ。
「見て、良く撮れてるでしょ」
「あはは、三玖なんて顔してるの」
一花が撮った写真を皆が見て笑っている。二乃は頬を指さして面白い顔というジェスチャーをするので、私は小さくなってしまう。
「うぅ……消してよ」
「ええー、でもいい写真ですよ」
「ちゃんと現像しようか?」
「やめてよ」
一花のスマホを取り上げようとするけど、私なんかじゃ一花に動く事で敵わないのと、どうせ皆でデータを共有しているんだろうなと思ったので、無駄な抵抗は止めておいた。
彼女さんと合流したらしい前田君を横目に、私達は音羽の滝へ通じる道へと向かう。
看板に従って坂を下って行くと段々と水音が聞こえてきた。熱さを打ち払うような涼やかなその音は、一つではなく二つ三つ、と近づくにつれて分かってくる。
建物の角を曲がると、お目当ての音羽の滝が目の前だ。清水寺の起源でもあり清水の名前を冠している由来の滝でもある。
三筋に分かれた清水は向かって左から順番に『学業』『恋愛』『健康』に意味のある霊水と言われている。
私達のように霊水を飲みに来た人がつくる列に並んで待つ事にした。
「全部飲んじゃダメ?」
滝の水を飲んでいる人を見ながら、四葉がそんな事を言った。
「神様は欲張りにはご利益を授けないって話らしいけど」
「じゃあ止めとく……」
「じゃあさ、三つのご利益を五等分するってのはどう?」
いい事思いついた、と二乃は悪戯な笑みを浮かべる。まさか神様も同じ顔した人間が分け合う何て思わない、かもしれない。
「順番が来ましたよ」
賽銭のために財布を取り出しながら、五月が先に一歩出た。
滝の奥にお祀りされているのは不動明王だ。そこにお賽銭を納めてこれから霊水を頂きますとお祈りをした。
ひしゃくを一つ手に取って、私は健康の滝から水を汲んだ。あまり沢山汲んで業突張りと思われたくないので一口含む程度をひしゃくに入れる。
「どっちにするか……」
フータローはひしゃく片手に学業と健康の滝を交互に見ていた。
「意外」
「なんだ?」
「どうでもいいって適当に選ぶと思ってたから」
「こんな所まで来てそんな事言うほど俺だって野暮じゃない」
「ふふ、私のご利益半分あげる」
片眉をひそめて滝を眺めるフータローに、私はまだ少し水が残っている自分のひしゃくを差し出した。フータローはちょっと驚いたように唇に力を込めて、すぐにふっと緩んで笑みを形作る。
「なら俺のご利益も半分やろう」
そう言って学業の滝から水を汲むと、私の方に差し出してきた。
「え……フータロー」
「お前が先にやろうって言いだしたんだろ」
ほら、とフータローは学業のご利益に濡れたひしゃくを私の口元まで持ってくる。恥ずかしさに頬が熱くなってくるのを感じながら、それに口をつけた。
「俺にもくれよ」
はっと自分の言い出した事を思い出して、残った健康の滝から汲んだ水を差し出す。
これって間接キスじゃ……
飲み干すと、私は逃げるように滝から離れた。先に済ませた姉妹は清水寺の舞台の柱を見上げて感嘆の声を漏らしている。
「はえー立派だねー」
「釘を一本も使っていないそうですよ」
パチリと写真を撮っていた一花が、私の足音に気が付いて振り返った。さっと画面を変えて私とフータローが霊水を飲ませている写真を見せてくる。
「あ、三玖、もうフータロー君とお水の飲ませっこしなくていいの?」
「も、もういい」
「何いまさら恥ずかしがってるのよ。じゃあそもそも止めなさいって話」
「うぅ……」
そう言われると弱い。旅行の浮かれ気分のまま大胆な事をしているのは、後悔はしていないけれど反省する所だ。
味方を求めて周りを見ると、四葉に五月は呆れた顔のまま笑っている。姉妹四人に味方なしのとんだ四面楚歌に陥ってしまったみたいだ。部の悪い戦いからは引く事にした。
「あれ、どこ行くの?」
「子安塔の方。そう言えば見てなかったから見てくる」
「私達はここにいるね」
「じゃあ俺はついて行くか」
「え、いいよフータロー」
「いいから、行こうぜ」
パンフレットを広げながら歩いて行くフータローを追いかけて、その手を掴んだ。にっと一瞬吊り上がった口元に、うるさいほどに胸が跳ねて、あれだけくっついていたのにまだ足りないのかと自分に呆れてしまうほどだった。
フータローと話ながら坂を上っていると、鼻先にポツリと冷たい物が当たった。次第にそれは増えていき、手に、髪に、制服に雫を付ける。
「降って来たな」
早く行って見てこよう、という目論見を粉微塵にするかのように、目の前も白むほどの雨に変わった。
「そこの木で雨宿りしよう。誰かが傘を持って来てくれるのを待つか」
丁度いい屋根がなかったので、なるべく葉の茂った木の下に立ってやり過ごすことにする。初夏の青々とした葉っぱから、防ぎきれない雨粒が一滴落ちて私の首筋に落ちて来た。
「冷たっ」
「おい大丈夫か?」
六月とは思えない冷たさに身震いした私を、フータローは抱きしめてきた。
「フータロー……」
「濡れて風邪ひいたんじゃ台無しだからな。林間学校の時と同じ轍は踏まねーぞ」
「うん。あったかい」
「そりゃよかった」
しばらくそうして、雨音と心音に聞き入って、今の事態のまずさも忘れて幸せをかみしめる。
「ねえ」
ふと思った事を口にした。
「思い出の女の子と、ここでどんな事したの?」
「なんだよ急に」
「ちょっと気になって」
だって、今でも思い出すくらいなんでしょ? と重ねて追及するのは止めておいた。気に入らないのが正直だけど、子供のころの約束なんだから。
「別に普通の事だ。写真と撮って、お守りを買って、そこらへんを探索して。気付けば夜になっていたな」
後ろから抱きしめられている私の頭上から、フータローは優しい声で思い出話を語っている。
きっと、とても大切な思い出なんだろうな。
「あの時はその子が泊っている旅館に一旦行く事になったんだったかな。先生か誰だか忘れたが、懐中電灯を持って……」
その言葉が顕現したかのように、いきなり私達を青白い光が照らしだした。
「こんな所にいたのかい。あれ、四葉さんは通らなかったかな?」
何かと思えば、傘を差してスマホをライトにして持った武田君が立っていた。わざわざ迎えに来てくれたのだろうか。
「ありがとう」
「どういたしまして。この大きい傘をあげよう。二人で使いたまえ」
武田君から男性用の大きな傘を受け取ると、丁度後ろから聞き慣れた声が激しい雨音をかき分けて響いてきた。
「武田さーん! 上杉さんと三玖は……あ、見つけたんですね」
「四葉さん、君も通り過ぎたはずなんだけどね」
「め、面目ないです」
四葉は恥じるように頭を掻いた。心なしか頭につけたリボンがしょんぼりしているように見える。
「フータロー……?」
受け取った傘を開いても、一言も発さないフータローを振り返った。驚きの色の中に、どこか問題を解き終えた後のような清々しさを感じる顔で、それはどんな気持ちなんだろう。
「そうか、四葉か」
「ねえフータロー」
「ああ、すまん」
はっとして私の方を見ると、傘を取ってきて頭上に広げた。
「二人とも悪いな、わざわざ来させて」
「いえいえ、また上杉さんに風邪を引かる訳にいけませんからね」
「さあバスに戻ろう。やっかいな雨雲がかかっていると天気予報で言っていたので、見学は中止だそうだ」
そう言って二人は坂を下って行った。私も後に続いて行こうと歩き出したけど、後ろのフータローは先を行く二人を見て立ち止まっている。
そうか、四葉か。とはどういう事だろう。それがぼうっとさせる何かなのか。
うっすらと勘づきながらも、それを認めたくなくて、フータローの口を開かせる。
「何が四葉なの?」
「ん?」
「だから、さっき言ってた事」
「聞こえてたか」
「こんなに近くだもん」
もしかしたら聞かないほうが良かったかもしれない。
「だから……」
喋ろうとするフータローが、悲しいみたいで、懐かしいみたいで、
「昔会った女の子が、だ」
そして愛おしいみたいな目をしていたから。
あれからどうしたのか良く覚えていない。
予定に則れば私は伝統工芸体験に行ったはずなんだけど、気が付いたらホテルのベッドで横になっていた。
「三玖、先入るね」
四葉の声が浴室に通じる扉から聞こえる。一花と二乃と五月はテレビに釘付けで「早く入ってきて」と適当に相槌を打っている。
ああ、言わなくちゃ。フータローは、四葉を、あの六年前の女の子に会いたがっているよ。
「え、三玖、どうしたの? 先に入る? 私はそれでもいいけど」
「フータローに会わなくていいの?」
「どうして? あ、そうやって上杉さんに会いたいんでしょ~」
四葉は、いつものように明るい調子でからかってくる。
「京都はフータローと思い出の場所なんでしょ?」
笑っていた四葉の口がピタリと止まった。おかしそうに笑っていた目元は急に真剣な物になって細められる。
「三玖が言ったの?」
普段に無い、怖いほどの声色が四葉から飛び出してくると、私は氷の手で心臓を掴まれたみたいに背筋に寒気が走った。
「ううん。フータローが自分で思い出したんだよ」
「そっか……」
四葉は着けていたリボンを解くと、それを力なく籠に放り込んだ。
「どうして黙ってたの?」
「……どんな事を言ったかとか聞いた?」
「うん。必要とされる人になるために、お互い頑張ろうねって約束したんでしょ?」
「だから……分かってよ」
「どうして? 四葉は頑張ってるよ。だから、フータローに会ってあげてほしい。四葉にいろいろ言いたい事があるみたいだから」
はぁ、と力ない息が零れると、四葉は諦めたように笑った。
「会えないよ。上杉さんは頑張って、ずっと百点を取るくらい頑張って、それなのに私はこんなんで。あの約束をした女の子として会うなんてできないよ」
「でも、いくつも部活を全国大会まで連れて行った。だから約束はちゃんと形になってるから、会えないなんて事ないんだよ」
それにフータローは……
「彼は、努力を蔑ろにするような人じゃない。だから、頑張ったんだって胸を張って会ってきてもいいんだよ」
「三玖……ダメだよ」
「ダメじゃない。フータローは勉強で、四葉は運動で、道は違ったかもしれないけど、頑張った事に変わりはないんだから」
私は四葉の涙を湛えて揺れる瞳に思う。
四葉はフータローの事が好きなんだ。
そして、あんな風な目をしたフータローは……
だから、私は思い出を四葉に返してあげないといけないんだ。
私は浮かれていた。そして浮かれてしたあれこれが、そのまま私を苦しめる。
「この修学旅行で、フータローは何回も四葉との事を思い出してた。今でも四葉との思い出は特別なんだよ。だから、思い出の地で、思い出話を楽しんできて」
「うん。会いたい。あの時、京都で会った私として会いたい」
抑えきれない想いが、一筋の川になって四葉の頬を流れ落ちた。
「談話スペースの所に待ってもらってるから、早く行ってあげて」
「もし私が行かないって言ったらどうするつもりだったの?」
「そのまま部屋に帰ってもらうとこだった」
「あはは、三玖の悪女」
四葉の沈んだ顔色に、ちょっと明るい調子が戻っていつものように笑った。
「ありがとう三玖。私だけだったら、逃げて、逃げて、ずっと向き合えなかった」
四葉は私の手を取ってくる。その手は優しく心に訴えかけてくるように温かかった。
「行って、四葉」
「うん。ありがとう」
四葉は浴室から部屋に通じる扉に手をかけて、思い出の少女から、今隣にいる少女へと飛び立つ。
「フータローのこと、よろしくね」
思わず出てきてしまった言葉は誰にも聞こえないただの揺らめきになって部屋に響いた。
あのフータローの優しい目が、頭にこびりついて離れない。あの今まで私に向けてくれていた視線が、離れて行ってしまうのだろうか。
いや、違う。きっとあの目は約束の女の子の、四葉の物だったんだ。顔が同じな私に言い寄られて、フータローは惑わされて、四葉の運命を奪ってしまった。
ああでも、フータローにあんな顔をさせるなんて、どうして六年前に会ったのが私じゃないんだろう。
同じような私達に、どうして、どうして。
私だって、私だって……
「ぅ……あぁ、そ、そうだ……私……」
私は自らを顧みるうちに、ある事に気が付いてしまった。そのことを自覚してしまうと、胸が切り裂かれたように激しく痛む。
私の中からフータローがなくなったら、何もない、つまらない女なんだ。
勉強だって、お父さんが教えてくれたみたいな産休に育休が整った職場に行きたいからより頑張ろうと身に入ってる訳で、なぜそこに勤めたいかと言えば、それはいつか授かりたいフータローとの子供のためだ。今、その目標が消えてしまったら、また勉強を頑張ろうという気力が湧いてくるか分からない。
戦国時代の事が好きだからって、何になるだろうか。読書が趣味の人は、皆作家になるのかという質問がどれだけ愚かしいなんて、この歳になれば分かる事だ。学芸員なり、もしくは先生だったりになりたいのだろうか? それにも、どうしたって勉強が立ちふさがるのに。
一つ、最近の私を思い出して、成したい小さな兆しを私の中に見つけた。それは料理だ。
二乃みたいに上手くできなくて、石みたいだとか言われていたけど、最近は姉妹の皆にも食べられる物を提供できるくらいにはなったんだ。これは目標に出来るだろうか。
「あ……あはは……これも……そうだ」
そして、思い返せばまた涙が止まらなくなってしまう。
料理をしたいと思うようになったのも、フータローの女の子の好みがそうだからじゃないか。
自分の中がこんなにもフータローの事でいっぱいなのは、普段だと嬉しい事なのに、今はそれが嬉しければ嬉しいだけ心に深く突き刺さる。
結局フータローを取り去った中野三玖という人に残された物は、しょせん素人レベルの歴史の知識と、あの綺麗なお母さんが残してくれた、私自身が何かしたわけでもないけれど綺麗な体だけだ。
性格だって、一花のように人気者になれない、二乃のように友達付き合いが上手くない、四葉のように元気で明るくなれない、五月のように真面目に何かに取り組めない。
なんて、なんてつまらない女なんだ。
こんな女、運命に負けたって当然なんだ。
「ぐすっ……こんな、こんなやつ……」
私はフータローを最初に好きになったという事以外に取り柄のない人だったんだ。
その取り柄も、六年前に四葉が出会っていたという事実だけで消し飛んでしまう、とんだ砂上の楼閣だ。
私はフータローと付き合うようになった時に、これで二人は幸せに暮らしましたとさめでたしめでたし、と童話のように締められる事を無邪気に想像していたのかもしれない。でも違うんだ。私は、運命の前に敗れ去るかませ犬でしかない。
四葉はフータローを変えたんだ。そして、彼が変えた生き方によって二人の道は再び交わる。そこに私というお荷物は乗っかっていたにすぎない。
「なにが、ずっと……ずっと……」
少し前までの私は無敵だった。
百年の先さえ見通せる気がしたんだ。フータローが隣にいるという、それだけをよすがに。
でもそうじゃないなら、未来なんて分からない。明日の事すら見えなくて、立ち上がる足元もおぼつかない。目の前だってまともに見えない私に見えるのは、閉じて都合のいい私の内面に広がる夢だけ。
そこにはフータローが笑っている。それは何て都合のいい夢なんだろう。何て幸せなんだろう。まどろみのようにふわふわと心地よくて、そのぬるま湯に浸かっていたい。君も私の事をそういう風に思っているかな。少し前までそれは夢ではないと思っていた。永遠を誓う夫婦のように、その光景を私とフータローで作るんだと思っていた。隣にいるのは中野三玖なんだ、と。
でも、きっとフータローはあの愛おしい眼差しを四葉に向ける事を選ぶ。それが六年前に始まった運命の円環の、綺麗な結びだから。
私の都合のいい夢に、都合のいい言葉を唱えたい。君は都合よく笑っていてよ。それが都合のいい女の、最後の望みだから。
――愛してるよフータロー。君だけの事を、永遠に