談話スペースで学生たちがたむろしている。繁華街の最中にいるほどの騒がしさに、俺は顔をしかめそうになる。
「遅いな」
壁にかかっている時計を見れば、ここに来てから二十分は経っている。いつもなら、三玖からの呼び出しに応じて出たら先に待っている事がほとんどなのに。
「フータロー」
俺を呼び掛ける声に振り返る。そこにいたのは普段から俺をそう呼ぶ女の子ではない。肩にかかるほどの髪は三玖より短いから、それを見ればそれは明らかであって。
「なんだ、四葉か」
迷いなくその名前が口をついて出て来た。
ししし、といつもの歯を見せる笑いをして、嬉しそうに腹のあたりを小突いてくる。
「さすが上杉さん。もう姉妹の見分けはお手の物ですね」
「お前は分かりやすいからな」
最近になって、俺はこいつらの爺さんが言っていた言葉が分かるようになっていた。確かにこいつらはそっくりだが同じじゃない。わずかな表情の作り方、声の調子、さりげない仕草。それは三玖という一つの基準が出来たからなのか、姉妹すら分からなかった林間学校の時のように、完璧に成り済まそうと変装でもされない限りは見分けられる自信がある。二乃がうるさい顔で三玖が薄い顔なら、一花が華のある顔で五月がかしこまった顔だろうか。目の前の四葉はストレートに元気な顔と言えばいいのか。
「で、お前はどうしたんだ? 三玖は一緒じゃないのか」
ここに呼んだのは三玖で間違いないはずだが。
「三玖が背中を押してくれたんだ」
四葉の口調が変わる。
いつもの能天気にも見える明るい顔が少し違った物になる。
無垢な子供のような表情に、俺は昔を思い出していた。
「風太郎君」
何もかもが流れ落ちたような、そんな涙をやっとの事で止めると、私は力ない足取りで姉妹に顔を見られないようにベッドにもぐりこんだ。
「三玖もう寝るの?」
「……うん」
何も考えたくなかった。
このまま泥のように眠って、そのまま目が開かなければいいとすら思う。
四葉、ちゃんとフータローと話しが出来たかな。
フータロー、会いたがっていた女の子と会えて、どんな顔してるかな。
「ひっう……ダメ、考えちゃ」
枯れたと思っていた涙が、焼けそうになるほど熱くなった瞼から零れ落ちて枕を濡らす。胸が張り裂けそうだ。でも、こんな思いをフータローを好きになった一花に、二乃に、そして四葉にさせていたんだ。
災禍はあざなえる縄の如し、という言葉のように、目のくらむほどの幸せを味わった私は、何も見えないほどの絶望の淵に落とされた。
運命という言葉がこんなにも憎らしいと思った事はない。
それは私とフータローの事だと思っていた。けど、より運命的な出会いをした人がそばにいたら、なんて空々しい言葉なんだろう。
思いでも、出会った時からの愛の深さでも負けたような気がして、諸刃の剣が私に食い込む。傷ついた心からの出血は、涙になって頬を滴り落ちる。
こんな事を考えたくない。だから、早く眠ってしまいたいのに、フータローを思い出すと未練がましく胸が高鳴る。
嬉しくて、幸せだった気持ち。そしてそれを手放さなくちゃいけない痛み。
失恋は人を強くする、なんて言うけれど、それはきっと正しい。こんな気持ちを乗り越えた人は強いに決まっている。私は、乗り越えられるか分からないけど。
「フータロー……」
胸の内にある気持ちを吐き出すように、その名前を口に出した。何回も口にするうちに、私の中からフータローがいなくなってくれるんじゃないかと、下らない妄想のような事をする。
そして、その浅はかさに後悔するんだ。
「フータロー……うぅ……フータロー……」
言葉には力がある。上杉風太郎という言葉は、私の全てを変えて、他になにもいらないとさえ思うほどの力を持っていた。
彼は私の全てだった。いや、だから私はダメなんだ。
「フータロー……」
「どうした?」
妄想もここに極まれり、と言った具合だろうか。フータローの声が聞こえる。もしかしたら気が付かないうちに眠ってしまって、ここは夢の中かもしれない。
「フータロー」
「だから、どうしたんだ」
夢の最中に、頭を撫でられる感覚がして、信じられない気持ちで顔を出した。
「……うそ」
そこには一番会いたくて、一番会いたくない人がいる。
「何が嘘なんだ。せっかくこうして来たってのに」
いつものような、重く垂れこめた髪からのぞく鋭い目が私を捉えていた。
「だって、四葉は?」
「ああ、会って来たぞ。お前が会わせてくれたんだろ。ありがとな」
私に会いに来てくれたのかな。いや、フータローはなんだかんだ義理堅い性格だから、面と向かって私にお別れを言いに来たのかもしれない。
「なんで泣くんだ」
「え……?」
そう言われて私は自分の頬を触る。そこにはしつこいほどに刻まれた涙の川が、もう一筋形作られようとしていた。
「こ……これは、その、安心の涙だから」
「そうか」
フータローは深くは聞いてこない。それは優しさなのか、それとももう私と深く言葉を交わさないという事なのだろうか。
ダメだ、何を考えても後ろ向きな事ばかり。
「四葉をほったらかしにしたらダメだよ」
「三玖、お前の方が放っておけない」
フータローはそっと頭を撫でてくれた。その優しさに嬉しくなって、そして悲しくなる。
「せっかく、フータロー、思い出の女の子に会えたのに……」
「だから言っただろ」
大好きな手が、私の頬に触れてくる。涙が拭われて揺らめいた視界が晴れた。
「思い出は大事だが、三玖ほどじゃない」
「だって……だってフータロー、思い出の子の話をする時に、好きな子の話をするみたいだった。フータロー、四葉の事がす……好きなんじゃないの?」
「そうか。三玖はそんな風に思ってたのか」
瞬きする間に、フータローの顔が目の前から消えた。かと思うと、体を包む温かい感覚に心奪われる。フータローが抱きしめてきたんだ。
「ダメだよ……フータローの、フータローの浮気性……」
「酷い言いがかりだ」
抱きしめて来ていた手が緩められて、フータローは私を真正面から見据える。
「このまま誤解されてたくないから言うが、俺は昔会ってた女の子の事が三玖だったらいいな、と思ってたんだ」
「そんなの……」
「分かってる。誰かと間違えるなんてのは、お前達が嫌う事だから、だから言いたくなかった。だが、お前をそんな気持ちにさせてしまったのは、俺の女々しさのせいだ。だから謝らせてくれ」
「謝るなんて……謝らなくていい。私には何もないから、四葉みたいにフータローを変えてあげられないから……だから四葉との運命を選んであげて……」
「お前、酷い女だな」
フータローは呆れたように笑う。そうして、その大きな手が私の肩を掴んでくると、いたたまれないような気持ちにさせられてしまうんだ。
「私は……フータローから貰ってばかりで、何も、何もあげられない。ダメなんだよ、酷いやつなんだ」
「そうじゃなくてだな……三玖、人をこんなに好きにさせておいて、他の人を選べなんて酷いじゃないか」
「え……」
「確かに四葉との出会いと再会は運命的かもしれないが、俺は運命を好きになったんじゃない。三玖、お前を好きになったんだ」
好き、という言葉に胸がずきずき痛む。その言葉に息が出来なくなって、どうにもならない口が、きっと間抜けに開いている。
「お前はいつも俺を気にかけてくれるじゃないか。大丈夫?って。俺はそんなお前の優しさを好きになったんだ」
「優しいなんて……皆、皆優しいよ。私じゃなくても……」
「お前の優しいは、俺にとって特別だ」
強い光を宿したフータローの瞳が、私を射抜いて来る。その瞳に貫かれて死んでしまえたらいいのに。
「お前が俺を好きになってくれて、好意を形にしてくれる。その真っすぐな気持ちが俺を変えてくれたんだ。なあ、俺はお前の事が好きだ。一緒にいたい。三玖は何もあげられない、何て言ったがそんな事はない」
壊れ者を扱うように、フータローの優しい手つきが私の髪をかき上げた。そして、露わになった額に口付けて来た。
「お前は俺に、人を好きになる気持ちをくれたんだ。嫌われたり、憎まれた訳でもないのに別の人の所に行けって言われて、はいそうですかってならないだろ」
「じゃ……じゃあ嫌い。嫌いだから、ずっと大切に思ってた四葉の所に行って」
「くくっ……ははは、そうか、嫌いか」
そうやって軽く笑うと、私に触れていた手を離して、近づけていた体を離す。それがそのまま心の距離のように思えて、切ないため息がこぼれそうになるのを唇を固く結んで堪えた。
「じゃあ嫌いな奴にこんな事をされようとしたら、当然逃げるよな」
フータローはこちらにゆっくりと前かがみになってきて、体を近づけて来た。段々と大きくなってくるフータローの姿に、私の心にいる彼の存在も大きくなってくる。
あと顔一つ分に近づいた所で、フータローは目を細める。何をするか、なんて、誰かに呆れかえられる程しても、飽きる事なんてない一時を、分からない訳がない。
「嫌いなんだろ? 早く逃げろよ」
その突き放すような言葉を受けて、私は心がざわめく。もうすぐそこまで迫ったフータローを、私はきちんとこの手で突き放さないといけないんだ。それが四葉の運命を奪ってしまった私の償いだから。
「三玖」
けれど、その短い一言が私の全てを揺さぶる。きりきりと痛む胸の内から、どうしようもない程に抑え込んだ気持ちが溢れそうになってしまう。
嫌いだ、という言葉は何て苦しいんだろう。
大切に積み上げて来た物を粉々にしてしまう大槌を振るった事で、関係を壊そうとした私にこんな風に優しく接してくれるフータローが、
やっぱり、どんな事を言っても、どんなに偽ろうとしても、どんなに諦めようとしたって……
「大好き……」
唇が触れ合う。
柔らかくて暖かい、フータローの心に直接触れたみたいで、悲しい気持ちが溶かされていく。
雷のようにキスの心地よさが頭を真っ白に焼いて、体中が燃える。どきどきと跳ねる心臓が、胸を突き破ってきてしまいそうだ。
「三玖、お前じゃなきゃダメだ」
目を開けたフータローは、優しく笑ってそんな魔法を唱える。
それは姉妹と一緒くたにされがちで、なのに優れた自分がない私にとってどんなに嬉しい言葉だろう。自分が自分でいるだけで認めてくれる。そんな人が自分の大切な人という事は、きっと奇跡に違いない。
「大好き……大好きだよ、フータロー……ひっく……」
枯れたと思っていた涙が溢れてくる。大好きなフータローの顔が滲んで見えなくなる前に、胸板に飛びついた。フータローに抱きしめ返されて、その熱さに包まれる。
「三玖」
優しく名前を呼ばれるだけで、それだけで例えようもなく嬉しかった。自分の存在をこの世界に浮き上がらせてくれる、そんな特別な響き。
「うぅ、あぁ……大好き……ぐすっ……愛してるよ、フータロー」
「俺も好きだ。お前の事を愛してる」
「ごめん、ごめんね。やっぱり嫌だ」
「なにが嫌なんだ?」
「フータロー、いなくならないで。ずっと前に会っていて、運命だったって言われても諦めたくないよ。運命にだって負けたくない」
自分が勝手な事を言って、勝手な事をしているって分かっているけど止められない。私はフータローの思い出を越えたくて、滅茶苦茶に口付けた。
涙が流れて入った口がしょっぱい事を、フータローが交わしてくれた舌が教えてくれた。
「三玖、お前の口塩辛いぞ。相当泣いたんだな」
「ご……ごめん」
「謝るのは俺だ。お前達はそっくりだから、三玖は自分じゃなくても良い、なんて思ったのか?」
「ぐすっ……うん」
きっとそうだ。私は怯えていた。私なんかよりも優れた姉妹に唯一勝てると思っていたフータローを好きな気持ち。その気持ちに、強力な、運命的な裏付けがある事に、それすらも負けてしまうのではという怯えに震えて、なら譲ってしまおう、最初から私のものじゃなかったんだと諦めてしまおうとしたんだ。
「俺を見くびるなよ。もうお前ら五人の事は分かるんだ。分かった上で、三玖、お前を選んだんだ」
「ふ……フータロー、ほんと?」
「本当だ。だったら試してみろよ。何回だって、誰に変装したってお前を見つけてやる。だから人に譲るとか、そういう事を言うのを止めてくれ」
なんて嬉しいんだろう。嬉しくて、嬉しすぎて、息もできないほどに胸が締め付けられる。
「うっぅ、あ……フータロー、大好き……大好き!」
抑えきれない気持ちのままに、フータローの首に抱き着く。全てを飲み込みたいとキスをする。
フータロー、あなたの全てが欲しいよ。そのかわり、私の全部をあげるから。
「んっ……ふぁ、ちゅっ」
口付けが交わされる度に、心が通じ合った心地よさに、頭の奥からどろどろに溶けてしまいそうなほどの、焼け付くみたいな電撃が体中を駆け巡る。
「んんっ……んくっ」
絡み合う舌から伝わり落ちてくる唾液を飲み込んで、口の中が自分のモノじゃないモノで満たされている甘やかさに、私はもっと夢中になってキスをする。
「もっと……フータロー、もっと……」
もっと、もっと、そう求める。
失っていたかもしれない未来が目の前にあって、そばにいてくれる事にまた涙が流れて、流れ出た物を埋め合わせるようにフータローが降らせてくれるキスの雨を受け止めた。
「ひゃっ!」
フータローの手が、パジャマの裾から入ってきて、男の人の熱い手が、私のお腹をなで上げた。その撫でられたお腹の奥からじんじんと湧き上がってくる熱に、戸惑いの気持ちは不思議と無かった。
大好きな、愛している人とそういう事をしたいのは普通な事だ、と私はフータローを欲しがっていることを素直に受け止めた。
「三玖……」
フータローの私を見つめる目が、貫くような物に変わって、けどその熱っぽい視線は私を求める証だ。
私はフータローのお腹をまさぐり返す。割れた腹筋に指を這わせると、その男らしい体にこれから組み伏せられるのだと想像して、体の奥がますますもって熱くなる。
「三玖……」
「フータロー……」
互いに見つめ合う瞳は求める物を何より語っている。
私達は触れたら決定的な物になるキスをしようと顔を近づけていく。
触れ合ったら最後、絞られた引き金によって弾かれた撃鉄が打ち付けて火をつけて放たれる弾丸のように、私達はきっと止まれない。
吐いた息が髪を遊ばせる。産毛すらもそよそよとなびいて、あと、ほんの数センチ……
「そこまでー!」
バン! と開け放たれた扉から、いきなり飛び出してきたのは真っ赤な四葉だった。
「あの、えっと、仲直りしたのはいい事なんだけど……仲良ししすぎるのは、ちょっと、今から私達もこの部屋で寝るし……」
そんな恥ずかしさにもごもごしている四葉を見ていると、今更ながら私にも羞恥心が湧き上がって来た。
すぐそばにいるフータローを突き飛ばして、ベッドの一番端まで逃げる。
むっと不機嫌になったフータローは、けれど四葉の言葉の正しさに頷いて立ち上がる。出て行く前に、私の頭を一撫でして一言、
「明日、ちゃんと隣にいろよ」
と囁いてくるから、体中の力が抜けてベッドに深く身を沈めた。隣に、だなんて何て嬉しいんだろう。
「えーっと……良かったね、三玖」
真っ赤になって照れた四葉が、誤魔化すように頬を掻いた。私も少し気まずいような気持ちになる。
「うん、あの、ごめんね四葉」
「どうして謝るの?」
「だって、ずっと好きだった四葉にフータローを返さなきゃって、そう思ったのに」
「そんな事、上杉さんは望んでないよ」
そばにきた四葉は、そっと私の手を取った。慰められてばかりだな、私。
情けない。四葉の過去を知って、その思いを知った。本当は今の私みたいに泣きたいはずなのに、こうして私を慰めてくれる。なんて強いんだろう。
「上杉さんは言ってたよ。ずっと頑張ってる三玖の隣で、自分も頑張りたいって」
フータローがそんな事を……。
そして、四葉は思い出し笑いを一つして、握ってくれている手の力を込めた。
「私達の事は好きだけど、三玖の事は愛してるって。こんな事、大真面目な顔して言うんだもん。だから、三玖はその同じ気持ちを返してあげて。それが一番なんだよ」
四葉が屈託のない笑みを浮かべている。それは私達が全くと言って良い程そっくりで、同じような気持ちを共有していたころの笑顔を思い返させる物だった。
「風太郎君には、三玖が必要だもん」
きっとそれは六年前に読んでいたフータローへの呼びかけだ。幼さの残る気がする呼びかけ方に、私は奪ってしまった恋に申し訳なくなる。
「ごめん……ごめんね」
「ううん。許さないよ」
言葉の物騒さとは裏腹に、四葉は優しく目を細めて、赦しを告げる天使のように見えた。
「風太郎君とずっと一緒にいないと、許さないから」
「よつば……」
「私にごめんねって思うなら、ずっと一緒にいて。そうしたら、私は永遠の恋人を繋いだキューピッドだね」
また泣いてる、と言われながら、目元の辺りを冷たいタオルで拭われた。
「三玖、隣にいるのが、似ている私達の誰でもいいんじゃないかって、そう思うのは辛かったよね。でも違うんだよ。風太郎君は、私達が誰かちゃんと分かって、そして三玖を選んだんだよ」
さっきのフータローの言葉がぶり返すように、頭の中で痺れるほどに響いた気がした。
――お前じゃなきゃダメだ
「うぇぇ……」
嬉しくて、自分が恋をしている事を許されたくて、ごめんねって、申し訳なくて、訳が分からない心が悲鳴を上げるみたいに、私は嗚咽を漏らす。
泣きすぎてからからの喉が擦れるような、可愛くない泣き声を部屋中響かせて、私は優しい天使に赦しを乞うんだ。
ごめんね。
ありがとう。
「いいんだよ、三玖。幸せになって。それが私を幸せにしてくれる。こんなに嬉しい事はないんだから」