旅先においてかかる病魔がある。
それは己を律している人でも、不意にかかってしまう事もあって、その防ぎ方は現代医学に置いても解明されていない。
子供よりも大人がかかると質が悪く、人が多い程、病状は深まりやすいと言われている。
人、それを悪ノリと言う。
「「「キウイはすっぱいぱい。キウイはすっぱいぱい」」」
「やめろー! 私はすっぱくなーい」
俺が朝食を済ませるために大部屋に入ると、まず見えたのがそれだった。
一花と二乃と五月がキウイを片手に、上の文言を吐きながら四葉を壁際に追い詰めていた。その珍妙な光景に俺は面くらうが、周りのクラスメートは面白そうにそれを眺めているだけだ。俺は一人蚊帳の外な三玖に尋ねた。
「なあ、あいつら何してるんだ?」
「あっ……フータロー」
三玖が上目遣いに俺を見てくると、ボッと音が立ちそうなほど顔が赤くなった。それを見ると昨日の事を思い出して、俺の顔も熱くなって赤くなったに違いない。
「あー……三玖」
俺は空いている椅子を引き寄せてそこに座り、三玖に目線を合わせてゆっくりと語り掛けた。間近に顔を見ると、目の周りが少し腫れぼったくて、赤くなってしまっているのをファンデーションで隠しているのが分かった。
そんな顔にさせたのは俺か。
「ちゃんと隣にいろよ」
その言葉をどう受け止めたのだろう。三玖の目が次第に潤んできて、瞼のふち一杯に涙が溜まる。
「うん」
三玖は椅子から腰を浮かせて、俺に倒れこむように抱き着いてきた。その細い肩が、少し震えていた。
「今日は目一杯楽しもうな」
「うん……」
顔を見つめ合わせると、三玖は微笑む。その息が詰まりそうなほどに美しい顔をそっと一撫でした。
「あーほんと朝っぱらから!」
「もがっ」
こちらに気が付いた二乃が、ずかずか近づいて来ると、その手に持っていたキウイを一匙俺の口に突っ込んできた。
「……甘い」
「やったー! 私はすっぱくありません!」
俺の味の感想に、なぜか四葉はおいおい泣く素振りまでして喜んでいた。俺の知らないネタで盛り上がるのやめて。
「良く眠れたか?」
「眠れてないからこんな奇行に走ってるんだよ」
「変な事をしてる自覚はあるのな」
まず大口を開けて反論してきたのは一花だった。過去に夜更かしはお肌の大敵、みたいな事を言っていたから、見られる仕事でもあるし怒っているのだろう。
ひとしきりふざけて満足したのか、ビュッフェ形式の朝食を今度はふざけずにとった。
「フータロー君そんなにお肉ばっかり取って」
「たまにはいいだろ。それより五月、お前皿に盛りすぎじゃないか?」
「そうですか? まだ二皿目ですけど」
「いやより悪いわ」
食事の席につきながら、いつものように会話を楽しんだ。そうすると、当然出てくるのは今日のコース選択の話だ。
「良かったのか? 皆Eコースを選んだそうだが」
「何よ、文句あるの? 二人っきりになれなくて残念かしら、フ―君は」
「そんな事言ってないだろ」
どうも容赦ない攻めを浴びせかける二乃には分が悪い。言い返す言葉を探す時間稼ぎにオムレツを一口放り込んだ。
「皆のしたい事の最大公約数を選んだんですよ、上杉さん。有名な撮影場所もたくさんありますし、買い物もできますし、武将の鎧兜姿も見れますし、食べる所だってあります」
「四葉、お前から最大公約数なんて言葉が出てくるなんてな」
「日々成長する女ですからね、私は」
自慢気に胸を張る四葉が小難しい言い回しをしている事に、俺は不思議な感動を覚えた。
「人間って素晴らしいな」
「これくらいでしみじみしないでください」
「そろそろ食べるのは終わり。もうここに帰ってこないんだから、荷物をまとめないと」
一足先に食事を終わらせた一花は、一つ手を打って皆を急かした。気が付くとさっきまでいたクラスメート達は、もう疎らになっている。一花の言う通り荷物をまとめに部屋に帰ったのだろうか。
「分かった。じゃあ後でな」
更に乗せていた物を雑にかきこんで水で流し込み、トレーを戻した。
じいっと物を言わず俺を見つめてくる三玖に苦笑をしながら、頭を撫でてやる。
「また後でな」
「……うん」
嬉しそうに微笑みながら、その目がキラキラと喜びいっぱいに輝いているように見えるのは、俺の贔屓目だろうか。この顔を悲しみにゆがめさせた事、目の周りが腫れぼったくなるまで泣かせた事、それがまた俺の胸を締め付けた。贖罪の気持ちを込めて、そっと髪をかき上げる。
撫で続けた三玖があわあわしだしたのと、姉妹からの視線が厳しいものに変わったのを感じて退散した。
部屋に散らばった荷物をかき集めて鞄に収める。親しみを抱き始めていたホテルの一部屋をぐるりと見渡して、忘れ物がないか確認した。
修学旅行もこれで終わりか、と思うと寂しいような感情が胸を突きあげる気がする。三玖を泣かせてしまったからそう思うのか。それもあるが、きっと俺はこんな風に出かけるのは好きなんだろう。いつかまた三玖と来たいと思う。その時は、終始笑顔の旅にしたいと、そう思うのだ。
「上杉、行こうぜ」
「ああ」
感慨にふけるのはここまで、そう頭を振って荷物を詰めたキャリーバックを引いて扉の方へ向かう。
全生徒がフロントに集まり、部屋のカードキーを返却する。俺は学級長として男子部屋のカードキーを回収してまとめて担任へと渡した。チェックアウトを済ました俺達は、すぐに選択コース別のバスに乗り込む準備をした。
キャリーバックをEコース行きのバスに乗せて、いつの間にかちゃっかり隣に陣取る三玖と一緒に乗り込んだ。
話していると、今日の三玖はどことなくおかしいような。何かを忘れるように饒舌に話したかと思うと、不意に黙ってじっと俺の顔を見つめてくる。
「どうした、何か俺の顔に付いてるか?」
「ち……違うよ」
「じゃあ……」
何だよ、と言葉を続けようとした所でバスが停まり、バスガイドからの放送がかかった。
『修学旅行最終日、Eコースを選択された皆さま、本日の目的地映画村に到着でございます』
「ほ、ほらフータロー、着いたよ。早く降りよう」
「あ、おい」
逃げるように立ち上がった三玖は、下車する人波に乗ってさっさと降りてしまった。昨日のあれこれで気持ちが落ち着いてないのだろうか。しかし普通に話してはいるし、時間が経つにつれて普段の三玖に戻るだろう。
前日に確認していたが、改めてしおりとパンフレット二つを見ながら今日の予定を確認した。このあとすぐに劇があって、皆はそれに行くようなので俺達も見に行く事にする。
家にテレビのない、見る娯楽に触れる機会に乏しい俺にとっては、劇の内容はありきたりかもしれないが楽しめた。言ってしまえば良い侍が悪い奴らを懲らしめる程度の物だが、ここの持つ雰囲気に、役者の演技の力に、終わった後にすれ違う人達は面白かったねと口にする。
「面白かったですね」
劇場から出ると、四葉は殺陣の真似事をしながらさきほどの劇を思い出しているようだった。運動神経が良いからか、機敏な動きは様になっている気がする。
「私達もああいう恰好しようよ」
「いいねー」
四葉は正眼の構えを解いて一花と仮装している人を見てはしゃいでいる。町娘に侍、浅葱色の羽織は新選組の隊士の服だ。三玖なんかは大きな目をキラキラ輝かせて、散策する人の流れを見送っている。
「コスプレとか、恥ずいだろ」
しかし前田は乗り気ではないようだ。いつもの三白眼をしかめっ面に歪めて、怖い顔がより怖くなる。
「郷に入っては郷に従えだよ。上杉君はするよね」
「どうだか」
まあかくいう俺もノリノリという気分でもない。ここまで散々旅の恥をかき捨てて来た身としては、何言ってんだこいつと言われでもしたらぐうの音もでない訳なのは重々承知の上なのだが。
「似合うと思うのに、もったいない。三玖さんもそう思うよね」
こいつ、それは反則だろ。
武田の言葉を聞いた三玖から、嬉しそうな顔色がするすると抜けていき、不満を訴えたい口を尖らせながら俺を上目遣いに見上げてくる。
「嫌なの? フータロー」
「いや、そういうあれじゃ……」
「お金? お金なの?」
「それも……そういえばいくらかかるんだ?」
「五千円は軽く」
「うげっ」
軽く、という事はオプションをつけると値段が跳ねあがる可能性があるのか。それだけあればらいはに豪勢なお土産を買ってやる事だって出来るだろう。
「むむ……」
しかし、こう期待に満ちた目で見つめられると弱い。可愛い彼女からの物ともなればなおさらで。
「分かった、やってやる」
「うんっ」
ぱっと華やいだ三玖の顔に絆されてしまうのは、惚れた男の弱さというやつで、そんな弱さに俺は苦笑してしまうが、きっと大切に思う気持ちからくるそれは、悪い事じゃないはずだ。
「そうそう。思い出は後で欲しいってなっても買えないんだから、こういう機会にケチケチしないの」
二乃の言葉はもっともだろう。修学旅行に来る前に親父に散々言われたが、迷惑をかけない範囲で引くほど楽しめ、との言葉は旅行という物を楽しむ本質かもしれない。良い大人らしからぬ見た目でなければ、もっと俺に響いたのだろうが。
皆で扮装の館に行くと、係の人にしこたま驚かれた。最近一緒にいすぎて忘れていたが、五つ子なんて天文学的な確率の下に生まれてくる存在なんだったな。
俺達男どもはそんな横を抜けて、先に扮装をして待っておくことにした。
着替えを終えた俺は、外に出ると晒される視線に何とも言い難い気恥ずかしさのような気持ちを抱いた。
俺の着ているのは新選組隊士の服だ。浅葱色の羽織は新選組の大きな特徴だが、始め難色を示されたのいうのも頷ける。単純に目立つのだ。それに後世に生きる俺達は、何となく抱いている新選組=カッコいいの構図が頭に出来上がった上でこの恰好を見るのだから、色眼鏡がかかって見るのもしょうがないのではないだろうか。つまり何が言いたいかと言うと、
「知らずに見たらダサくないか?」
「そんな事ない。カッコいいよフータロー」
「うお、いたのか」
「失礼な」
突然かけられた声に驚いて振り返ると、舞子に扮した三玖がむくれてこちらを見ていた。
「お前が最初か」
「うん。五人は時間がかかるって」
「まあそれはそうか」
三玖の恰好を、頭からつま先まで一通り見る。頭には花の髪飾りをつけていて、風でゆらゆらと、桜が舞うように、あるいは藤の花が揺れるように揺れている。華やかな花柄の着物と相まって、その立ち姿は一輪の花のようにも見える。
「似合ってるぞ」
俺がそう言うと三玖は笑った。花が咲いたようだ、と言うのは旅の空気に毒されすぎだろうか。
「フータロー」
ふわふわするような甘い色恋が頭をぼうっとさせる。その呆けた頭に、するりと三玖の声が入ってきて、俺は恋人を見つめた。
そっと小さな手が俺の手を包む。少し冷たくて、しなやかで柔らかな女の子の手だ。思わずどきりと胸が跳ねて、むずがゆいような、こっぱずかしいような気持ちに今更ながらさせられる。
三玖は柔らかく微笑むと、嬉しそうにこう告げるのだ。
「お慕い申し上げております」
三玖の深い海のような青い瞳が、慈愛に満ちて俺を見つめてくる。その瞳が俺だけを映してくれる、こんなに幸せな事はないだろう。
「俺もだ」
恥じらう真っ赤な顔に、そのままキスしようとして、そしてここが往来のど真ん中な事を思い出して手の力を込めるにとどめておいた。
物珍しそうに見てくる視線から逃げて、集合場所へと足を運んだ。
「やあ、二人とも。よく似合っているよ」
「他の四人はどうしたんだ?」
先に衣装の着付けを終えていた武田と前田が、軽く手を振りながらこちらに来た。
武田はお奉行の恰好に身を包んで、髷のカツラをかぶっている姿も不思議なほど似合っている。
前田は黒づくめの服に、黒い頭巾をかぶって、これでもかというばかりに、あからさまに忍者だった。世闇には紛れるかもしれないが、昼間においては逆にとても目立つ。
「一気に八人もいったからな。全員同時にとはいかないだろ」
「そりゃそうだ」
前田は頭巾にくぐもった声で納得した声を漏らす。こいつは目つきが鋭いから目だけ出ているとより怖いな。
「お前子供に近づくなよ」
「どういう事だコラ」
俺達は待つ間、そんな軽口を叩きながら時間をつぶしていた。
ポンポンと、ある時横を跳ねる何かが見えた。
「Excuse me」
横を通り過ぎたのは鮮やかな鞠だった。離れた所にいた外国人旅行者家族の、ブロンドの子供が手を振っているので彼の物だろう。
「私が取ってくる」
言うやいなや、からからと履物を鳴らして三玖が駈け出して行った。
「こけるなよ」
追いかけていく三玖は角を曲がって姿を消した。
「NINJA!」
いつのまにかこちらに来ていた金髪の少年は、前田の恰好を見てニンジャニンジャとはしゃいでいた。
『写真撮ってあげようか?』
『いいの?』
『もちろん』
武田は流暢な英語で少年に話しかけると、彼からスマホを預かった。
「おい何て言ってたんだ?」
英語に頭がこんがらがった、みたいな顔をしながら前田は俺に聞いて来る。
「ニンジャと写真を撮りたいんだとよ」
「何で俺が……」
と渋る前田の心境などお構いなしに、少年は期待に満ちた真っ青な目をニンジャに向けている。さしもの前田もその透き通る目にやられたようだ。胸の前で印を結んで撮られる準備は万端だ。
嬉しそうな少年に応じるままに、刀を抜く仕草に、手裏剣を投げるような素振りをしてやっている姿は、微笑ましくもあり、しかしどこかおかしい。
「笑うなコラ」
「前田君。笑ってくれないかな」
「頭巾かぶってるんだから表情は関係ねえだろ」
少年は一通り写真を撮ると、満足気にスマホを受け取り写真を一枚一枚確認していた。
そういえば、そこそこ時間を使ったのにまだ三玖が帰ってきてない。
「ちょっと見て……」
「ごめん。皆と話してたら遅くなっちゃった」
「来たか」
手に鞠を持った三玖が、少し息を切らしながら帰ってきていた。少年に鞠を返すと、彼は笑った。
「アリガトウ」
「どういたしまして」
くすりと笑って握手を交わすと、少年の白い頬が少し赤い色になっているのが分かった。
「三玖、皆はこっちに来てるのか?」
「え? うん、そうだよ」
話しかけて三玖にこちらを向かせた。こんな小さい子に、と自分でも馬鹿らしくなるが、どうもこういう感情に慣れないし、慣れたくないと思う。
「三玖~鞠渡せた?」
建物の角から声が聞こえた。この話し方は四葉だ。
「No way……」
少年がポカンと開けた口からそんな言葉を漏らした。
「お、フータロー君似合ってるじゃん」
「お腹が締め付けられて苦しいです」
「もうずっとそうしてたら? 食べる量が減って良いかもね」
「二乃さすがに可哀そうだよ」
角から四人の女の子が出てくる。ただの女の子ではない。三玖も合わせて五つ子だ。
「Oh My God!!!!!」
ここまで人間の目って見開くんだな、と驚いてしまうほどに目を真ん丸にした少年は、爆発するような大声を出した。本場のオーマイゴッドである。
何事か、と思った少年の両親はこちらに駆け寄って来た。
そして、
「「Oh My God!!!!!」」
少年と全く同じような表情を作ってそう叫んだのだった。
「し~」
一花は一指し指を唇に立てながら、一歩その外国人家族に歩み寄った。ゆっくりと、少ししなを作りながら歩く姿は、何も言葉が出てこないほどに絵になっていた。
うっと三人は息を呑んで、一花の所作に釘付けになっている。
「I’m NINJA」
「おいぃぃ!」
思わず俺は一花の頭をはたいた。
「いたー! なにすんのフータロー君」
「なにすんのはこっちのセリフだ。お前とんだ嘘つきすぎるぞ」
俺は聞いていた外国人家族を指さした。彼らはアメージングシリアスリィと口々に言いながら、少年なんか目に涙すら浮かべている。
『ニンジャに会ったって皆に自慢するんだ』
彼らにとっては影分身した忍者に見えたに違いない。
「違うから! 私達ニンジャじゃないから!」
おそらくキリストが降臨した時に浮かべるであろう、最上級の尊敬な顔をして見てくる彼らに居心地の悪くなった二乃は、カタカナ英語で誤解を解こうとした。
「ウィーアークインタブレット! クインタブレット!」
果たして忍者と五つ子はどちらの方が珍しいのだろうか。そんな何ら益する所のない思考を巡らしながら、目の前の光景をおもしろおかしく眺めていた。
テンション高く写真をせがまれたり、握手を交わしたりして、嵐のような家族が過ぎ去ると、まだどこも歩いてないのに皆がぐったりしていた。
「どこか行くか?」
「ちょっと休憩……」
五人がはあ、とどこか遠い目をしながらため息を一つ吐いた。ただでさえ目立つのに同じ恰好をしているからだ。とはさすがに言わないでおいた。
珍しく最初に回復した三玖がベンチから立ち上がった。
「二人で見てきたら?」
扇子で扇ぎながら二乃はニヤリと笑った。見透かされている、というか俺が分かりやすすぎるのか。
「お言葉に甘えさせてもらおう」
「うん、ありがと。行こ、フータロー」
俺達は手を取り合い、二人で散策する事にさせてもらう。
底の高い履物に悪戦苦闘して、歩みの遅い三玖に合わせて江戸時代を模した街並みを歩いて行く。
俺はテレビを見ないので分からないが、時代劇に使われた建物とかもあるのだろう。嬉しそうな三玖を見ればそれくらいは分かる。
歩き疲れたのか、足を気にする三玖と置いてあったベンチに座った。細かい骨が張り巡らされた大きな和傘がさしてある。
一息つくと、嬉しそうな声を出してゆっくりと話しだした。
「フータローあれ見て。奉行所として時代劇にも使われてる建物。ここには私の好きなものがたくさんあるから、フータローと一緒に見れて良かった」
三玖はそのまま周りにある物を指さしていく。好きな物を語る顔は、大きい目が光を取り込んでより可愛らしく見える。
「さっき渡った橋もそう」
「それもドラマか?」
「うん。それとね」
せっかく座ったのに、三玖はベンチから立ち上がった。
「あれも好き」
指さしたのは漆喰塗りの建物。
「これも好き」
俺の上に差されている和傘。
「知ってるぞ。ずっと楽しみにしているのを見てたしな」
三玖は微笑むと、ゆっくりと、ゆっくりとある所を指さした。
それは……
「大好き」
俺の鼻先に指が突きつけられる。
金縛りにあったかのように、俺の全てが止まってしまった。
大好き、の言葉が頭の中を駆け巡って、嬉しさに体の奥から熱が生まれる。
「知ってるぞ」
俺は突きつけられた手を取って、両手で優しく包み込んだ。
「だが……」
手を握ったまま立ち上がる。疑問を呈したそうな三玖は、小さく首をかしげて俺の言葉を待っていた。
「俺の方がお前を好きだって事は知らないだろ」
どきどきと、自分で言っておきながら緊張するように胸が脈打つ。三玖の言った言葉を紡いで、俺なりに返したのだが、その織った言葉の布の一反は、彼女の御気に召さなかっただろうか。
三玖は呆気にとられたように口を開けて固まっている。
「なんとか言えよ」
その言葉にぴくりと身じろぎすると、段々とその白い肌に赤色が増していく。小さく息を漏らして、もの言いたげな唇が震えている。
「なにそれ」
突き放すような口ぶりに反して、三玖は一歩ずつ俺に近づいて来た。赤い顔に、青い瞳が映えて、その美しい顔に触れたい、と思った。
「私の方が好きだもん」
ぎゅうっと、三玖は俺の胸元にしがみついてきた。それを受け止めて抱きしめ返すと、震える細い肩がとても愛おしく思えた。
「大好きだよ、フータロー」
「知ってるぞ」
「ううん。分かってない」
いきなり、三玖は背伸びをした。求める物を追いかけるその動きで、何を求めるかと言えば、これも俺は知っているんだ。
「んっ……」
しゃらんと髪飾りが揺れる音すら聞こえてくる。それは普通なら聞こえる事のない、ほんの少しの小さな音。それすら聞こえるのは、すぐ傍に髪飾りを着けた頭があるからだ。
キスをして、その感覚だけが俺の世界になる。
柔らかい唇が触れ合うと、体中突き抜けるような雷撃にも似た感覚に捕らわれる。触れ合った箇所の感覚が鋭敏になって、わずかに動く唇の震えすらも感じ取る事が出来た。甘い女の子の匂いが、バカになりそうなほど俺の頭を揺さぶる。
「フータローと、いつもこうしたい私は知ってた?」
恥ずかしそうにはにかむ三玖に、俺の胸がうるさい。
「知らなかった」
そう言えば、三玖はもう一度背伸びをしてくる。閉じられていく瞼を見ながら、俺自身も目を閉じてゆっくりと近づいて行く。
ピコン
間の抜ける電子音に、俺達は二人だけの世界から引き戻される。先ほどの陶酔の極みのような気分は雲散霧消して、少し気まずくすらなってしまう。
「も、もう時間だって。戻ろう、フータロー」
逃げるように、慌てて駆けだした三玖は、慣れない履物もあって足元がグラついた。
「おい、危ないぞ」
「え? わ!」
倒れそうになった三玖の腕を掴むと、体勢が良かったので幸いにも俺も三玖もこける事は無かった。
「あ、ありがとフータロー」
「気を付けろよ。弁償なんてことになったら、いくらかかる事か」
「もう、私より着物の心配?」
間近にある三玖の体の柔らかさから目を反らすように、そっけない軽口を飛ばしてやれば、いつもの他愛ない会話が生まれていくらか心が落ち着いた。
扮装の館の前に戻れば、もう制服に着替え終わった皆が待っていた。
「遅―い。五月ちゃんなんてご飯の時間があるかビクビクしてたんだからね」
「一花、その事は言わないでくださいと……」
「すまん」
いつものような気安い会話が起こると、平常な気持ちに戻った事に安堵して、皆で昼食をとりに行った。
「うわ、早く食べないとバスの時間じゃない」
「もー上杉さんがのんびりしてたからですよ」
「だから謝ってるだろ」
慌ただしく昼食を済ませて、俺達はバスへ乗り込んだ。ありがたい先生のお小言を頂きながら席に座って、過ぎゆく映画村の景色を見送った。
「また」
隣に座った少し眠たそうな三玖は、袖を引いてきて言葉を促してきた。
「また来よう。今度は甲冑の着付けもしようか」
「うん……きっと似合うから見たいな。フータローの甲冑姿」
それを言うと頭がこちらにもたげてきて、穏やかな寝息が聞こえて来た。その頭をそっと撫でて、未来を見るように遠くに目線を送った。
差し込んでくる光が温かくて、俺も思わず眠ってしまいそうだ。
こんなに温かい未来が待っていてくれるだろうか。
きっと、もっと冷たくて辛い事も待ち受けているだろう。
いや、馬鹿馬鹿しい。未来を、夢を考えるのは良いが、今から待ち受ける苦労に気を落ち込ませるなんて利口じゃないな。何かの本で見たが、明日の苦労は明日の自分に任せておけばいい。
それに、
「う……ん」
三玖が身じろぎして、その髪が俺の首をそよぐようにくすぐってくる。
隣にいてくれる人がいる。それだけで十分だ。
疲れたのか気が抜けたのか、バスに新幹線のほとんどを眠って過ごしてしまった。
一つあくびを噛み殺してクラスの点呼を取っていると、四葉に注意されてしまった。それくらい見逃してくれ、と文句でも言いたくなるが悪いのは俺なので黙っておく。
「月曜から普通に学校あるから休むんじゃないぞ。それでは解散」
学年主任のその言葉で、修学旅行の全日程は終了した。皆はまだ日の高い平日の街に繰り出す気のようで、コインロッカーに荷物を預けてでも遊びに行くようだ。
よくそんな体力があるなと感心半分呆れ半分に見ていた。
「ふあ……」
また一つあくびをして、帰って少し昼寝してから勉強しようと荷物を持ち上げた。
「フータロー」
「どうした三玖? 今日くらい勉強は休んでいいんだぞ」
歩き出そうとした俺の前に、三玖は姉妹の中から躍り出た。リュックの肩紐をいじりながら何かを言いたそうだ。そう言えばこいつのキャリーバッグはどこ行ったんだ。
「じゃあ三玖のキャリーバッグは持って帰っておくね」
ゴロゴロと三玖のバッグを転がしているのは四葉だ。
「ちょっと待て。持って帰っておくってどういう事だ」
「もう、察しが悪いなあ」
何か呆れたような顔で一花は俺の肩を叩いてくる。いわれのない誹謗中傷では。とも反論したかったが、いよいよ限界なほどに赤くなった三玖の方が気になったので、小さく声をかけて聞き出そうとした。
「三玖?」
「えっとね……フータロー」
そんな三玖は耳元にそっと近寄ってきて、囁く。
「フータローのお家行きたい」
その言葉に、どくんと胸が甘く痺れるように疼いた。したい気持ちが膨れ上がって、寸止めを繰り返されて、というここ数日を思い出すと、優しいだけではいられない気がした。
耳打ちしてきた三玖は、文句なしに可愛い。可愛いが、だからこそ問題とも言おうか……
「……フータロー」
そんな目をして見てくるな。
「行こう」
「いいの?」
「何だ、いまさら」
「うん。ありがと」
荷物を持っているので手は繋げなかったが、それでよかったかもしれない。どんな顔をして歩けばいいか分からない、なんて醜態を晒さずに済んだからだ。
鍵を開けて三玖を迎え入れる瞬間、言い知れない緊張のようなこわばりが俺の体を包んだ。
いやいや、もうすぐらいはも帰ってくる。それまでちょっとくっついてるだけだ。ちょっとだけ。
「フータロー、おかえりのキスして」
三玖は後ろ手に玄関の扉を閉めると、見上げてきていつになく大胆なお願いを口にした。
「馬鹿」
「むう……」
まったくこいつは。男の家に来て言うその言葉が、どんな意味を持つのか分かっているのか。……分かっているから質が悪いのか。
文句の乱射が始まりそうな三玖から逃げて部屋の奥に荷物を持って行った。
そして部屋の真ん中の机に、一枚の紙と一枚の紙幣が置いてある。
〇風太郎へ
悪いが泊まり込みの仕事が急に入ったので家を空ける。らいはも学校の行事で日曜まで帰ってこないので飯は自分でどうにかしてくれ。君は生き延びる事ができるか。
と乱雑な親父の字で書かれたメモと千円札が置いてあった。最後の文は悪ノリがすぎやしないか。
はっと息を呑む音が聞こえた。隣に来ていた三玖も親父のメモを見たようだ。
「フータロー」
嬉しそうに、柔らかく笑顔をつくると、もじもじと身をよじりながら言った。その羞恥に染まった顔に、けれども抑えきれない期待が輝いているのを見ると、俺は言い知れない感覚に襲われる。
「二人きり、だね」
息が出来ないほどの気持ちが胸の内にときめいているのは、きっとどちらもなのだろう、と疑うことなく思った。けれども、下らないとは分かっているのだが、あまりがっつくのもどうなんだと自分に言い聞かせて、ちょっと思いとどまる為に言う。
「三玖、そういう事言うの止めろよ」
「どうして?」
「どうしてって、分かるだろ」
「分からないよ」
三玖は、落ち着かない心の様に指先を弄ぶ俺の手を取った。
「お、おい」
そして、自分の胸に押し付けた。
いつまでも触っていたい柔らかさを手に収めている事に、頭が回らない。
「知ってるでしょ。私、馬鹿だから、ちゃんと言ってくれないと分からないよ」
恥ずかしさを押し殺すように、笑顔を作る。そんな顔をさせているなんて、男として情けない事この上ない。
「だから、三玖」
俺はそこから手を離れさせて、三玖の少し震える両肩を掴んだ。
どこかから血が吹き出しそうなほどに速くなる鼓動を無視して、逸る気持ちを抑えて、ゆっくりと、ゆっくりと顔を近づけて、唇を触れ合わせる。
誰も見ていない状況に、キスだけで俺の感情が爆発しそうになる。
「お前としたくなるから、あんまりそういう事を言うな」
「じゃあ、言うのを止めない」
三玖の目は、固い決意に光っているようで、その瞳が俺を狂わせるんだ。
「二人きりなんだよ。私はフータローと、そういう事したいよ?」
甘えるようにそう言いながら、三玖は抱き着いてきて、俺の背中に手を回してくっついてくる。
一際大きく跳ねた胸に、俺は吐き出しそうだった。物をじゃなくて、気持ちが。
この腕に収めた三玖が大切だから、思いやろうとするのだけれど、こうなってしまうのは男の浅ましい所だろうか。
俺は見上げてくる三玖の、その桜色の唇に噛みつくようにキスをした。
「んぅ、んっ……ぁ、はっ」
触れ合わせて、咥えるように挟み込んで吸い付いて。タガが外れてしまったように何度も何度もキスをする。
「私の全部をあげるから、フータローの全部をちょうだい」
涙が零れそうなほどに潤んだ目が、俺を捉えて離さない。
「俺なんかで三玖が貰えるなら」
「フータローじゃなきゃいやだ」
ゆっくりと、心と体の全ての輪郭を確かめるような手つきで、三玖の顔を撫でる。そこから首筋を伝っていき、首にかけているヘッドホンを取った。固いそれが取り去らわれた心許なさに、三玖はちょっと首をすくめて抵抗する。
そんな様子をおかしく思いながら、制服のボタンに手をかける。
少し身を震わせながら、自分でも服のボタンを外していた。シャツの前が開くと、その白い肌が露わになって、淡い色の下着と相まって目に毒だ。
「あ、えっと、フータロー、ちょっと待って」
「嫌か?」
「そうじゃないんだけど……しゃ、シャワー浴びたい。今日汗かいちゃったし」
と恥ずかしそうにシャツの前を閉じた。そうかなと思いながら、普段は守られている首筋に、かかる髪をはらって口付けた。匂い立つ甘さに、ずっと口付けていたいくらいなのに。
「俺は三玖の匂い好きなんだが」
「で、でもやっぱりやだよ」
「分かった、分かったよ」
名残惜しい気持ちになりつつ、三玖から手を離して距離をとる。布団も敷いてなかったし丁度良かったかもしれない、と前向きに捉えながら準備をする。
「ねえフータロー」
「どうした。タオルならこの前来た時と同じ所にあるぞ」
「そうじゃなくて……ねえ……」
布団を敷いていた俺の服をくいっと引っ張ってくるので、顔をそちらに向けた。
脱いだシャツを体の前で丸めて胸元を隠しているのが何とも煽情的だ。それを取っ払って、露わになった胸を目に収めたい、と荒っぽい欲望が顔を覗かせる。
「一緒に入ろ」
そんな誘いに、胸が痛いくらいに嬉しく弾む。
キスを重ねて、俺もそうしたいと伝えた。