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ぼやける目線の先に、台所に立つ人が見える。
まだ夢を見ているのかと思うが、肌を貫く日の光に、漂ってくる何かを焼く匂いに、俺の意識が次第に覚醒していく。
一つ寝がえりを打とうとすると、引きつって痛いような感覚が下半身から始まって、起き上がる気力を根こそぎ奪ってくる。
なんでこんなに体が痛いんだ、と疑問に思うと、その答えが鮮明に脳裏にフラッシュバックした。
目の前に広がる肌色に口付けて、そんな俺に笑いかける顔にも口付けをして、恍惚に喘ぐ姿に口付けをして、男の欲望を最奥に突き入れながら吐き出した事を思い出す。
そうだった、昨日は散々三玖と……
そう思い出すと、昨日のように下半身が熱を帯びてくるように思った。節操のない体だ、と自分に呆れながら無理やり体を起こした。
力の抜けそうな膝に心をくじかれそうになるが、もう起きて朝食の用意をしてくれている三玖に申し訳ないと思って自分の体に鞭打って立ち上がった。
菜箸でフライパンの中をちょんとつつきながら、湯気の上がる鍋の様子を気にしているようで、その右に左にキョロキョロする姿から、慣れないぎこちなさみたいな物を感じ取れて、なぜだろう、そんな姿がとても愛おしい。
ふとこちらに目線を向けた三玖は、起きた俺に気が付いたようで、嬉しそうに微笑みながら、いつものように落ち着いた声で俺を呼んだ。
「おはようフータロー。もうちょっとでご飯出来るから待ってて」
「……ああ」
さっきまで見ていたはずの夢が霞のように消えて、それでも残っている温かい気持ちが、俺の言葉を詰まらせた。こんなにも嬉しいのに、泣きそうな気持ちにさえなるのはどうしてだろうか。
らいは以外の女の子が台所に立っている慣れない状況に、違和感のような物を覚えながら、それが嬉しさからくるむずがゆさだと理解すると、温かい気持ちで満たされる。
少しして三玖が出してくれた皿に乗っていたのは、スーパーで見るだけで俺は終ぞ買った事のないイングリッシュマフィンとかいう代物に、ベーコンと……なんだこれゆで卵か? とにかくその二つが乗って、上に黄色いソースがかかっている。
「ありがとう。旨そうだぞ。このえっと、ゆで卵乗せ」
「エッグベネディクトって言うんだよ。二乃から作り方を教わったから作ってみたんだ」
「なるほど」
「分かってないでしょ」
「分かってるって。それよりこんなの家にあったか?」
「近所に二十四時間営業のスーパーがあったから、そこで買ってきたの」
「起こせよ」
「でもぐっすり寝てたから、起こすの悪いかなって思って。ほら、こんな顔して」
差し出してきたスマホの画面には、ぐっすりと眠った間抜け面の俺が映っている。三玖のちょっと呆れたように笑う姿に、それに腹が立ったりしないのは、軽んじたりという所がないからだ。心くすぐられるような会話をしながら、俺は作ってくれた朝食に口をつける。
「食べながらでいいから聞いて欲しいんだけど」
「?」
半熟の卵に歯を立てて、中からとろりと溢れてくる黄身とかかったソースとのハーモニーを口の中で楽しみながら、俺は三玖の言葉に首をかしげた。
先に食べ終えた三玖が、口の端に付いたソースを指で拭って舐め取ってから言う。
「最近の私って変だったよね」
「そうか?」
「うん。変だった。あんなにうじうじ落ち込んで泣いたり、面倒くさかったよね。ごめんフータロー」
「いや、俺が悪かったんだ」
「ううん。よく考えなくても、人に歴史ありなんて当たり前の事なのに」
三玖は肩にかかる髪を指で弄ぶと、眉を歪ませる。
「私は自分に自信が持てないのを、フータロー通じて自信が持てるようになった」
「それは、いい事じゃないのか?」
「うん。きっとそうなんだろうけど、私は自分の価値をフータローに拘泥しすぎてたと思う。だからフータローに選ばれない自分は価値がないんじゃないかって」
「そんな訳ないだろ。俺も、皆だって三玖が価値がないなんて言ったら怒るぞ」
「フータローは優しいね。そんな所が好きなんだけど」
思わぬ好意のカウンターだ。にこっと笑って言う三玖は、自虐めいた物はあるが暗い所はない。髪をかき上げて露わになった両目には強い光が宿って、優しい微笑みを際立たせる。
「私はあの春休みの旅行でフータローに見つけてもらってから、好きになって貰える自分を目指してたけど、そのすぐ後に付き合うようになっちゃったから、自信が私の中に出来てなかったんだと思う」
「俺のせいか?」
「あはは、そうだよ。フータローに好きって言ってもらえたから、それだけで満足しちゃったのかも。だからフータローが私の隣にいてくれないんじゃないかって思うと、怖くなって、でもそれじゃ駄目なんだ」
三玖はそこで言葉を切ると、ボウルに入れたサラダからトマトを一かけら口に入れて口を湿らせる。噛みしめる、もごもごとした動きと共にどんな言葉を絞り出そうかと探しているようだ。
「例えば、フータローと私が別れるなんて事になっても、私は消えてなくなる訳じゃない」
思いがけない言葉に、口に含んでいた麦茶を気管に入れてしまった。ゴホッと空咳をしながら三玖を睨むように見据えた。
「言うなよ。例え話でも別れるなんて」
分かってはいるつもりだった。それは恋愛に関する一般論だ。大好きな恋人と別れても、死ぬわけではない、時間が解決してくれる、というのはよく言われる事で。ずっと一緒にいようとか、永遠を誓うなんて言葉より、よっぽど現実を見ているような言葉を、三玖から聞きたくはなかった。
「うん、ごめん。なんて言うのかな……フータローが好きになってくれた私が好きだったら、この先フータローは苦しくなっちゃうんじゃないかなって。何をするのもフータロー、しないのもフータロー。おしどり夫婦って言葉があるでしょ? でもおしどりだってずっと同じ場所に置いてたら別れちゃうんだって。そんなの嫌だよ。だから私はフータローに寄りかからない何かを見つけたい」
三玖はふと目線を上げて、どこか遠くを見る目線をした。きっと姉妹の皆を思い浮かべているのだろう。
夢に向かって邁進する一花に、社交的で家庭的な二乃、全国レベルの運動能力を持つ(本人はあまり良く捉えていない節があるが)四葉に、母親を目標に努力を重ね続ける五月。それぞれが自分の色を出しながら重ねていく努力に、自己評価の低い三玖は焦りのような気持ちを抱いたのかもしれない。だから修学旅行で、あんな風に落ち込んだのだろう。そしてそれを、三玖は自分の自信のなさと答えを出して、今乗り越えて変わろうとしている。
「三玖」
「私は私を好きになれるようになりたい。それが出来るようになったら、寄りかかる歪な形じゃなくて、きちんとした形の、並び立てるパートナーになれると思うんだ」
その柔らかい微笑みのまま、三玖は作った朝食を一つづつ指さした。俺の前にある齧りかけのエッグベネディクト。瑞々しいレタスとトマトのサラダ。ブルーベリーの乗ったヨーグルト。
三玖の優しさと、身につけた技術をもって振る舞われたそれを食べる事ができる俺は幸せ者に違いない。
「これは、弱かった自分への反撃の嚆矢ってところ?」
「嚆矢ねえ」
「む……なんか気のない返事」
組んだ手の上にぷくっと膨れた顔を乗せている三玖は、大人びた美貌に浮かんだ子供っぽい表情のコントラストがなんとも可愛らしい。
「そんな事ない。お前のそういうひたむきに頑張る所が、俺は好きなんだ」
「えっ……あ、ありがと……」
さっきの仕返しとばかりにさらりと告白すると、喉に物がつかえたように息を呑んで頬を染めて俯いた。小さく笑ってその頭を撫でると、さらさらと指を通り抜ける絹糸のような髪にどきりとさせられる。昔はこんな事をしても何も感じなかったなんて、自分でも信じられない気持ちだ。
「頑張れ三玖。自信っていうのは、成功を重ねた先に芽生えてくる小さな花だ。教科書に載ってた歌は、それを咲かせる事に一生懸命になればいいなんて歌ってるだろ。俺もそう思う」
「ぷぷっ……フータローの口から歌が出てくるなんて」
「笑うなって。流行りの歌なんてのは知らないが、教科書に載ってる歌くらいならさすがの俺でも知ってる」
小学校の頃に合唱祭で散々歌った記憶が蘇ってきた。あのころの俺は、髪を金髪に染めたとびきりの馬鹿でクラスの女子に怒られる筆頭だったな。だからか無理やりに歌わされて、今でも覚えている。こんな小さな事も、人に歴史ありだろうか。
三玖は撫でていた俺の手をとって、自分の顔の前で両手に包むように握った。
「うん。私、頑張るから、だから見ててフータロー」
そんな晴れ晴れとした笑顔が、三玖が変わっていこうという意志の表れに感じられて、この子の未来を見たいという気持ちにさせられる。
例えるならば、羽化した蝶だ。
三玖は閉じこもっていた殻を脱ぎ捨てて、多彩な羽を広げて世界へと飛び立っていく決意を固めたのだ。もしかしたら、俺なんかに縛られるべきではないほどに大きな女性になるのかもしれない。
「三玖」
「なあに?」
嬉しそうに、楽しそうに、愛しそうに微笑む。そんな三玖の隣にいられるだろうかと、こちらの方が不安になるくらいだった。
「こっち来いよ」
握っていた手をほどいて、おいでと胸を広げる。離したくないと思う気持ちは、俺の方がよっぽどだなと内心苦笑した。
「ふふ、じゃあお言葉に甘えて」
腰を上げてゆっくり、とてとてとにじり寄ってくる姿が目の前まで来て、そのまま両手に収めるように抱きしめた。
「なあ三玖」
「んー?」
「見てるぞ。一番近くで」
「うん」
心境の変化に合わせてか、ちょっと前髪を横に分けて、普段は隠れている右目が露わになっている。
美しさという物差しの話をするなら、姉妹は一ミリにも満たない違いしかないはずなのに、俺にとって三玖の顔が一番綺麗に感じて、胸を鷲掴みにされたような感覚に陥るのは、これが恋という物だと強烈に教えられる。
「んっ」
頬にそっと触れて、ゆっくりと唇を指でなぞる。ふわふわと柔らかい三玖の桜色の唇から力が抜けて、静かに目を閉じたので、俺は近づいてキスをした。
重ねた唇から伝わってくる唾液の奥に、先ほど食べた料理の味がしたのがおかしくて、思わず笑う。
同じように思ったらしい三玖と目が合って、俺は力の掛け方を少し変えてより深くキスをしていった。
「美味いな、これ」
しばらくして離れると、俺はまだ皿に残っていたエッグベネディクトを指さして言って、残りを一口に平らげた。
こう言うと文句を言われたりするが、やっぱり普通に美味い。味音痴な俺でも好きな味くらいあって、らいはの料理と、そして三玖の料理だ。味に鈍い俺だが、その皿に込められた思いなり努力なりは感じ取れる。だったら一番に思っている妹と、一番好きな恋人の味が好きになるのは道理と言うものではないだろうか。
「えへへ、でしょ?」
嬉しい、と言いながら三玖は唇を寄せてきて、口の端に付いたソースを舐め取って来た。
お返しとばかりにキスをして、やったなと言うようにやり返される。
愛に羽ばたく蝶のように、恋の歌をさえずる鳥のように、触れて、離れて、重なり、外れる。
愛の模様を織るように、俺達は優しく相手に触れ合い続けていた。