うーん。ちょっと気まずいかなあ。
私が家の扉の前でうんうん唸っているのは、間違いなくお兄ちゃんのせいだ。学校行事のせいで土日返上してきたから、いない間に溜まった家事を片付けたいのに。
少し前の私だったら、そのまま扉を開けて「お兄ちゃん生きてる?」なんて冗談くらい言ったかもしれないけど。
でもお兄ちゃんが三玖さんを連れ込んでいたらどうしよう。
中野三玖さん。
お兄ちゃんが家庭教師をしている五つ子姉妹の真ん中で、私と仲良くしてくれる四葉さんと五月さんのお姉ちゃん。
そしてお兄ちゃんの恋人さん。
初めてその事をお兄ちゃんの口から聞いたときは話半分に聞き流していたけど、ちょっと前に三玖さんが家に来た時、私が玄関の扉を開けるとお兄ちゃんと恋愛ドラマみたいにキスをしていた出来事は強く印象に残っている。いや家にはテレビがないから電気店のテレビとか友達の家で見たくらいの知識しかないけど。残りすぎて軽くトラウマの域なほどだ。
この休みの間はお父さんもいないし私もいないし、二人きりになるには絶好の機会だから一緒にいるに違いない。一応メールをしておいたけど、携帯の扱いがぞんざいなお兄ちゃんは見ていないかも。
「えーい行っちゃえ」
もう知らないという気持ちで扉を勢いよく開けた。
「ただいまお兄ちゃん」
「ああ。おかえりらいは」
玄関に飛び込むと、いつものお兄ちゃんの声が聞こえて、男物の靴が一足あるだけだった。
なーんだ、私の考えすぎか。
鞄を部屋に放り投げて靴を脱ぐ。そうすると、ふわっとやさしい甘い匂いがただよってきた。
「女の匂いがする」
「どこで覚えて来たんだそんなセリフ」
お兄ちゃんは呆れたような顔をしながら、参考書に落としていた視線を私の方に上げた。
さすが姉妹と言うべきなのか、五月さんが泊まっていた時にしていた匂いと同じ物だ。二乃さんのように香水をつけたりしなかったら、五つ子だから同じ匂いがするのは当然なのかも。
「三玖さん来てたの?」
「ああ。さっきまでな」
「えー、会いたかったな。何で呼び止めといてくれないの」
五つ子姉妹の中でよく遊んだりしている四葉さんや五月さんとの、友達の感覚とは違う距離感の三玖さんとの関係は結構好きなんだけどなあ。
お兄ちゃんと付き合っているという事は、そのまま二人が結婚なんて事になれば三玖さんは未来のお姉ちゃんだ。二人は気が早いなんて言ったりするけど、本人同士はまんざらでもないようだし、私はそうなるんじゃないかって思ってる。
三玖さんは年上だけどちょっと頼りない妹みたいな所もあるけど、優しく目を合わせてくれる優しい所が、私は思い出はほとんどないけれど、お母さんみたいだなってちょっと思ったりもするんだ。
誤解を与えがちなお兄ちゃんの良い所をちゃんと見てくれる、良い恋人だ。と私は考えているけど。
「疲れて帰って来た所に、他人がいたら休めないだろとか何とか言って帰ってったぞ」
「別にいいのに」
自分で言うのもなんだけど、私って結構人と仲良くなるのは得意な方だと思う。そして仲良くなった人と過ごす事は、全然苦になったりなんてしない。
けど、今日の所はお姉ちゃんの好意と受け取っておこうかな。溜まっていた家事もしないといけないし。
「お兄ちゃんどいて。掃除するよ」
「ああ、掃除なら三玖がしてたぞ」
「え?」
「勝手に泊まったお詫びだとさ」
そう言われて部屋中見わたすと、確かに部屋が綺麗だ。隅っこに積もっているホコリやゴミなんかが無い。シンクもピカピカに光っている。
私は毎日掃除するからほどほどに手を抜いてやっているけど、たぶん三玖さんは大掃除みたいに徹底的にしてくれたんだろうと思うと、ちょっとした申し訳なさと一緒に嬉しくなった。ちゃんとこういう事をしてくれる人がいるお兄ちゃんは幸せ者だね。
「幸せ者~」
「らいは、そのニヤニヤ止めないか?」
お兄ちゃんは何だかバツが悪そうに前髪をいじると、コップに口をつけて中身を飲み干した。いつものガラスのコップじゃなくて、メタリックな細長いコップ。知ってる、タンブラーってやつだ。
「あれ? なにそのコップ? 家にそんなのあったっけ?」
「ああ、これか。昨日買い物したときに三玖が買ってくれたんだよ。コップから机に水滴が落ちないから拭く手間がいらないでしょってな」
「へー」
「らいはと親父の分もあるぞ」
三玖さんが買ってくれたんだ。あ、だから青い色のを使ってるんだね。
三玖さんといえばあの首にかけた青いヘッドホンに青いカーディガン、青色は三玖さんのパーソナルカラーだ。
これを私と思って手元に置いてて、ってなんて恋人っぽい事するんだろ。クラスの友達に彼氏がいる人がいるけど、中学生では使っている鉛筆やシャーペンを交換して使うとか、それくらいがせいぜいだけど、こうやって長く使える物をプレゼントするって、なんだか大人っぽい。これが高校生。
お兄ちゃんの体の後ろに隠れてたビニール袋を受け取って、その中の二つの箱を確認した。赤い色の物とグレーの物が入っている。今は喉乾いてないから後で開けよう。
「えーっと、じゃあご飯の用意しないと」
机に座り込んでいるお兄ちゃんは放っておいて、夕ご飯を作らなくちゃと冷蔵庫の中身を確かめに立ち上がった。お兄ちゃん一人だったらお米だけ炊いて済ませるかもしれないけど、さすがに恋人と一緒でそんなひもじい食事はしないだろうから、買い物した何かが入っているはず。
「あれ、タッパーに何か……」
冷蔵庫を開けると大きめのタッパーに料理がぎっしり詰まっていた。蓋に紙がテープで貼ってあって、三玖さんの綺麗な文字が書かれている。手紙?
〈らいはちゃんへ まずは勝手に家に泊まってごめんね。お詫びといっては何だけど、料理を作ったので置いておきます。五月にも味を見てもらった料理だから大丈夫とは思うけど、口に合わないならフータローにでも任せてください。らいはちゃんさえよければまた遊んでね。 三玖〉
「おぉー」
「どうした?」
「三玖さんからの手紙読んでた」
「あいつそんなの仕込んでたのか」
お兄ちゃんはちょっとだけ笑って嬉しそうだ。あの優しい微笑みを思い出しているのかな。
私は冷蔵庫を閉めて畳に横になった。
「何かやることがあったんじゃないのか」
「気が利くお姉ちゃんが全部やってくれたからゴロゴロする」
そうか、と小さく言ってお兄ちゃんは参考書に向き直った。こうしていると前までのお兄ちゃんと同じだけど、話をすると変わったなあって思う。
私がクラスの友達の話をしてても、良かったなと他人事みたいな顔をしていたのに。三玖さんと付き合ってからは、家族の前で大っぴらに喜ぶのは気恥ずかしいからなのか顔にはあまり出さないけど、楽しそうに三玖さんとの話をポツリとしたりして、普段の行動の端々に嬉しさがにじみ出ている。
きっとあれだ。すっぱいブドウって言うやつだったのかな。
お兄ちゃんは私が物心ついたころからずっと勉強して、し続けて、し続けすぎて友達も全然いなくて一人だったから、人間関係をちょっと捻った目で見ていたのかもしれないけど、三玖さん達五つ子姉妹に会って、人と関わる楽しさを知ったんだ。高い木に生っていたブドウは、きっと美味しかったに違いない。
いいなあ、恋って。こんなにも人を変えちゃうんだ。
このまま二人には仲良くしていて欲しいな。
そうして結ばれたらお兄ちゃんはもちろん嬉しいだろうけど、私も嬉しい。
だって一気にお姉ちゃんが五人も増えるんだもん。しかも、知らない人じゃなくて5人全員友達だ。特に五月さんとはよく遊んでるし、妹にしたいなんて言ってくれる四葉さんはよくしてくれている。
お姉ちゃんかあ……。
……あれ?
「ねえお兄ちゃん」
「どうした」
「あのね、なんだっけ……役柄ってあるでしょ?」
「役? 一花がすぐに死ぬ役が多いとかそういう話か?」
「そうじゃなくて、ほら、書類に書いたりするでしょ。上杉風太郎、兄、とか」
「ああ、続柄な」
「じゃあそれ。それってさ結婚して義理の姉妹が出来たら、関係って結婚した人が基準になるよね」
「ん? どういう事だ?」
「だから……お兄ちゃんが三玖さんと結婚したら、三玖さんの妹の四葉さんと五月さんは私の義理の妹って事になるのかな?」
はあ、とため息をするみたいに開いたお兄ちゃんの口が、しだいに笑う形に変わっていった。おかしそうに肩を震わせて、口元に手を当てて隠しちゃったけど、きっとその下はにんまりと吊り上がった口がいるはずだ。
「ふふっ、よかったならいは。昔妹が欲しいとか言ってただろ。お姉ちゃんになれるぞ」
「お姉ちゃんかぁ~。えへへ」
年上の妹っていう不思議な響きに、自分で言い出しておいておかしくなってきた。四葉さんは私を妹にってよく言うけど、私がお姉ちゃんになったらどんな顔するんだろう。
「まあ年齢で決まるから妹だけどな」
「えー、さっきまでのワクワクを返して」
せっかく面白い事に気が付いたと思ったのに。まあでもそうだよね。そうじゃないと関係性が滅茶苦茶で訳が分からなくなっちゃうし。
でも一回くらい良いよね……
――
「と、いう訳で」
「え、何がという訳でなの?」
高校と中学の定期試験が終わってから、お疲れ様会としてお姉ちゃん達と駅前のファミレスでパフェを食べていた。ちなみにお兄ちゃんはお留守番です。
「三玖さんとお兄ちゃんが結婚したら、三玖さんの妹の四葉さんと五月さんは私の妹になるって話な訳だけど」
「ええ!? らいはちゃんがお姉さん!?」
鳩が豆鉄砲を食ったよう、という言葉そのままみたいにびっくりした四葉さんが大きな声をあげた。口の端っこについた生クリームにも気が付かないほどだ。
「あはは、可愛いお姉ちゃんが出来て良かったね四葉、五月ちゃん」
「そんな~、せっかくお姉ちゃんぶれると思ったのに」
「私は末っ子のままですか?」
一花さんはからかうように隣に座っている五月さんを突っついた。一花さんは面白きに流れるといった感じでいつも冗談に乗っかってくれる。
「だからこのらいはお姉ちゃんを頼ってくれていいんだよ」
そっと指を組んで、その上に顎を置いて微笑んで目を細める。一二三の私史上三大お姉ちゃんの技を結集した最強お姉ちゃんフェイスで四葉さん……いや、四葉ちゃんを見つめた。
「うっ……らいはちゃんのお姉ちゃん味が凄い」
「お待たせ……ってどうしたのよ?」
「一花、そんなに笑って、何か楽しい事あった?」
冷たい物をずっと食べてると甘さを感じる部分がバカになると言って、温かい紅茶を淹れに行ってた二乃さんと、紅茶じゃなくて緑茶がいいと言って緑茶を淹れに行った三玖さんがお盆にカップを乗せて帰って来た。
「楽しい事? お姉ちゃんが爆誕した事かな」
「何よそれ」
二乃さんはそれぞれの前に紅茶の入ったカップを置いて席に座った。
ちなみにテーブル席に四葉さん、私、三玖さん。
向かい合っている席に一花さん、五月さん、二乃さんの席順で座っている。三玖さん、二乃さんの方が通路側だ。
「あはは! それは傑作ね。良かったじゃないおねーちゃんが増えて」
「良くないよ~」
「……?」
和気あいあいとした輪の中で、三玖さんは頭を捻っている。もしかして私がお兄ちゃんとした話を聞いているのかも。
「ほら四葉さん……いや、四葉ちゃん、何か相談したい事ある?」
「四葉ちゃん!?」
「ぷっ」
「三玖~」
「ごめん、でも……ふふっ」
小さく吹き出した三玖さんを責めるように、四葉さんが睨みつけた。そのままむうっと膨らませた頬っぺたの中で、何か言葉にならないうめきをあげている。
「あったよ、相談したい事」
にこーっと四葉さんは笑うと、表情をころりと変えて泣きべそをかいた。そのまま私をぎゅっと苦しい程に抱きしめてくる。
「うわ~ん、らいはお姉ちゃ~ん。初恋の人を実の姉に取られましたぁ~」
「え、そうなの三玖さん!? 略奪愛?」
「ちがっ……わないけど人聞きが悪い!」
三玖さんは反論したげに私の肩を掴んできた。四葉さんとの板挟みになった私は、そのままぐわんぐわん引っ張られる。
「止めなよ二人とも、らいはちゃんがかわいそうだよ」
「そうよ。それに私も慰められたいから三玖席変わりなさい」
「慰め……えっ、もしかして二乃さんも」
「そうなのよ、らいはおねーちゃん。酷い話と思わない?」
「ほんと、おねーちゃんのお兄さんは罪な男だね」
「一花さんまで!?」
何てこったお母ちゃん、とヒゲの配管工でなくても言いたくなってしまう。何てとんでもない事態が巻き起こっていたんだろう。五つ子ってだけでも教科書に載るレベルの珍事なのに、その五人が一人の男の人に恋するなんて、石にでも掘って残したくなるくらいの出来事だ。
「五人って事は五月さんも?」
「らいはちゃんの頭の中でどんな事が繰り広げられたのか分かりませんが、私は違いますからね。確かに上杉君は信頼できる友人ですが、それだけです」
「そうなんだ」
「そうなんです」
早とちり? いけないいけない。
「でも凄いなあ」
「ほんとにね。こーんな美少女達に言い寄られるなんて中々ないよ」
一花さんは胸を反らしながら両手を頭の後ろにそえて、雑誌に載ってるグラビアみたいなポーズをとった。一花さんは女優の仕事をしているからか、自分の魅せ方を知っていて、その仕草にはドキリとさせられる。
そんな風に言う一花さんは、恨みがましいというか、負の感情を表だって出したりはしていない。そりゃあ、全然ないって言ったら嘘なんだろうけど。
「それもそうだけど……」
「何々?」
「友達に、好きな人を取られたって仲が良かったのに今じゃ全然話さない人がいて……でも皆はそんな事ないから、だから凄いなって」
「えー中学生でもそんな事あるの?」
「あるんでしょ。私達は女子校だったから知らないけど」
あー、と皆は懐かしむように遠い目をした。そういえば忘れかけてたけど、お兄ちゃんに家庭教師の仕事が来たのはお嬢様がこっちに転校するからって切っ掛けからだったっけ?
「で、好きな人を取り合いしたのに、何で仲が悪くならないかって話だったよね」
「うん」
「やっぱり姉妹だからってのもあるけど、フータロー君に感謝してるからかな」
「感謝?」
感謝って言葉はこちらのセリフだと思う。
独りぼっちで、出不精で、自分の事ばっかりなお兄ちゃんを変えてくれたお姉ちゃん皆には、こっちが感謝したいくらいだ。
「たまに思うんだよね。フータロー君に合わなかったら私達どうなってたかなって」
「私が一番ダメダメな人生歩んでそう」
「三玖が一番変わったもんね」
「私達だってなかなかに変わったわよ」
「そうですね。私も先生になりたいという夢を抱かなかったかもしれません」
「そういう事。だからねこう……フータロー君を大きな意味で愛してるって言うか」
嬉しそうに微笑みながら、その口からワッと飛び出してくる言葉の洪水に私は圧倒された。真剣な言葉が変えてくれたとか、向き合ってくれたとか、くらくらしちゃうような、のろけみたいな言葉に胸やけしそうだ。
「ごちそうさま」
「どうかしましたか、らいはちゃん」
「皆のおのろけでお腹いっぱいになっちゃった」
「あはは、らいはお姉ちゃん話に付き合ってよ」
「あっ」
盛り上がる会話の中で、三玖さんは何かに気が付いたように短く声をあげた。その声は私達の間によく通って、水を打ったようにというか、そんな感じで静まり返った皆は三玖さんを見た。
「どうしたのよ三玖」
「思い出した。フータローがらいはちゃんと一月前くらいに姉だ妹だって話をしたって事」
「それで上杉さんは何て?」
「年齢で関係性が決まるかららいはちゃんは誰に対しても妹だぞって」
あ、やっぱりお兄ちゃん話してたんだ。
「らいはちゃ~ん?」
「バレちゃった」
四葉さんの顔がさっきまでと打って変わって、お姉ちゃんとしての生気を取り戻してきた。めっ、と小さい子に叱るように私の口に人差し指を当ててくる。
「どうしてそんな嘘ついたの」
「お姉ちゃんになってみたくて」
「うーん、分かるよ。でもだからって嘘ついちゃうらいはちゃんはこうだ~」
「ひへー、ほへんははい」
ふにふにと四葉さんは私の両方の頬っぺたをつまんであちこちに引っ張りまわす。ごめんなさいの言葉は歪んだ頬っぺたに合わせて変な音になった。
「えへへ」
「どうしたの、らいはちゃん。四葉に引っ張られすぎて顔が変になっちゃった?」
「えっ、そうなの? ごめんね」
「違うよ」
引っ張っていた指がいなくなると、感じる頬の違和感をかき消すように、なんだかおかしい感情がこみ上げてきて、意図せず笑いになって零れた。そんな私を気遣うように、三玖さんがそっと頬っぺたに触ってくれた。ちょっとひんやりしてて気持ちいい。
「皆の仲良しの輪にいるのが嬉しくて。私もお兄ちゃんが皆と繋げてくれた事に感謝しようかな、なんて思ったら、えへへ……なんだか照れくさくて」
お兄ちゃんがいなかったら、こんな風に年上の友達が五人もできなかったし、しかもこのままいけばその五人がお姉ちゃんになるかもなんて事も当然無い訳だから。
私は凄い幸せ者だ。
皆が皆、お互いを尊重し合う奇跡みたいな姉妹の一幕にいられるなんて、きっと私が思っている以上に価値のある事に違いない。
これから築いていく皆との不思議な関係性は、一生の宝物として私の中に輝いているんだろうな。
「これからもお兄ちゃんの事よろしくね」
両隣の三玖さん四葉さん、目の前に座っている一花さん、二乃さん、五月さんに目線を送ってそう言うと、皆は楽しそうに微笑んでくれる。ピタッと合わさった五人の声に、私はもっともっと嬉しくなった。
「こちらこそよろしくね、らいはちゃん」