三玖と恋するフータロー   作:アランmk-2

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その心は

「ととのいました」

 

 朝ぼらけ、と四葉に和歌の解説をしていると、俺の少し後ろに控えた三玖がそんな事を言ってきた。

 雲一つない朝空を指さして、ほらあれが有明の月だと言う解説にぶんぶん首を縦に振っていた四葉は、その縦の勢いを横に転じてぐるりと三玖を振り返る。首が痛くなりそうだ。

 

「どうした?」

 

 ゆっくりと体ごと振り返ると、くすくすと忍び笑いを漏らす一花と対照的に落ち着いた表情の三玖がいつものようにいるだけだ。

 

「だから、ととのいましたって」

 

 整いましたと言われても、今の状況と整うという言葉が頭の中で繋がらない。

 皆でする話を聞いたのか、先を歩いていた二乃と五月もこちらを不思議そうに振り返る。朝食では足りなかったのか、紙パック飲料のストローに口をつける五月の姿を見てそういう事か? と聞き返した。

 

「腸内環境が?」

「指差さないでください」

 

 図らずも会話のだしにされてしまった五月は、三玖がよくやるみたいに膨れて手に持っていた紙パックを後ろに隠した。むくれた五月にフグみてえと思って、そういえば夏はフグの毒が強くなる時期だったかなとどうでもいい事を考える。

 

「何でわざわざフータローにお腹の調子を教えないといけないの」

「それはごもっともだが、じゃあ何だよ」

「なぞかけだよ」

「はあ。あれか? 何々とかけまして、それそれととく、その心は、っていうアレか」

「そのアレ」

「それは分かったが、急にどうしたんだ」

「昨日動画見てたんだけど」

「おいテスト前生」

「そこで出て来たギャグがなぞかけだったの」

「まあ三玖の成績なら十分二十分の動画を見るのをあれこれ言いたくないが」

「1時間」

「おい受験生」

 

 まあ根を詰めて勉強していると他の事がしたくなるのは分からんでもないが。俺だって数学に疲れたら現代文の問題に手がふらふらっと、と言うと三玖は「変態」と罵って来た。なぜ。

 

「天下の覇者とかけまして」

「いきなりだな」

「フータローから見た私達とときます」

「その心は?」

「それではお考えください」

「おい」

 

 クイズ番組の司会者のように、ちょっとの茶目っ気を出しながら三玖は指差してくる。勉強に飽き飽きしてるのは分かったが、それでも言わせてくれ。勉強しろ。

 

「私答え知ってるから教えてあげよっか?」

「一花、フータローのためにならない」

「ためにならないって何だ。テストの何の役に立つんだよ」

「……古文?」

「教授クラスの知識があっても楽しめるかどうか分からんぞ」

「じゃあ私とのコミュニケーションに役立つ」

「ならいい」

「そこで納得しちゃうんだね」

 

 一花に果てしなく呆れられた顔をされているが、甚だ心外だ。

 

「うぅ……余裕組の呑気な会話が身に沁みるよ。頑張ろ……」

「頑張りましょう四葉」

「こんなので頑張ってくれるならもっと見せつけるが」

「鬼! 仮にもあなたの事が好きだった女の子に対して、上杉さんには人の心と言うものが無いんですか!」

「今のはないよ」

「サイテー」

「ええ……」

 

 先を歩く四人が一斉に振り返り、見上げるように、見下すように、冷たい視線を投げかけて来た。いや確かに軽い気持ちで適当な事を言ってしまった自覚はあるが、そこまで冷たい目をされるほどか。

 味方を求めて隣の三玖を見るが、すっぱい物でも食べたかのように眉を寄せて考えていた。そして顔の前で×印を作る。

 

「ほら三玖御墨付き上杉さんのノーデリカシー」

「悪かった」

「トイレとかけまして!」

「え、なに?」

「喧嘩した友達とときます。その心は?」

「トイレ? やっぱり腸内環境が整ってるんじゃないか?」

「だから何で私を見るんですか」

「これが解けたら許してあげます」

 

 ししし、と歯を見せるように四葉は笑って小走りに駆けだして行った。古文の解説はいいのかよ、と思いながらも、これを解かないと口をきいてくれなさそうだと少しばかり考える事にした。

 とはいえ、俺は笑いの趣味がある訳でもないし、クイズ番組だって数えるほどしか見た事がないから解き方の要領と言うものがいまいち分からない。

 

「テストの前だってのに……」

「そんな事言わないで、トイレにでも行って気分を変えて考えてきたら?」

 

 周りを見るといつの間にか学校の前まで来ていたようで、登校する生徒達であふれかえっている。

 答えが分かっているのだろう、三玖は楽しそうにくすりと笑うと俺を放って友達の方に駈け出して行ってしまった。

 

「おはよう上杉君」

「いる気はしてたが」

 

 鞄を教室に雑に放り投げてトイレに行くと、いつものように無駄に眩しい武田の奴がいた。こいつとのトイレでの異常なエンカウント率はどういう事だと問い詰めたくもなるが、藪蛇な気もするのでそこの所は今はいいとしよう。

 

「おや、難しい顔をしてどうかしたのかな」

「ちょっと分からない問題があってな」

「珍しい事もある物だ。僕で良ければ力になるよ。……あ、三玖さんのご機嫌取りという問題ならあらかじめ言っておくがお断りだよ」

「ちげーよ。お前、なぞかけは出来るか?」

「ミニスカートとかけまして、結婚式のスピーチととく、その心はどちらも短い方が良い、というあれかい?」

「なんだそれ」

「三代目三遊亭遊朝の作なんだけど、知らないかな」

「俺が落語家なんて知っているような男に見えるか?」

「教科書に載っているなら知ってそうだけど、君が娯楽方面にはからっきしな事は分かってるよ。で、なぞかけにでも目覚めたのかな」

「俺じゃなくてあいつらがな」

「ほう」

「トイレとかけて、喧嘩した友人ととく、その心は? という問題を出されて、答えるまで口をきいてやらないとかいう変な怒らせ方をしてしまってだな……」

「トイレに、喧嘩ね。はあ、なるほど」

「分かったのか」

「少なくとももう怒ってない事は分かったよ」

「そうか?」

「そう。だから」

 

 そう言うと、武田は意味ありげに蛇口をひねって手を洗った。洗い終わってハンカチで手を拭きながら、細く水を流したまま何かを語り掛けるように俺の方を見ている。

 

「こうしたまえ」

「早く止めろよもったいない。流しっぱなしに……」

 

 小さな水音と共に、排水溝を滑り落ちて行くちょろちょろという音が何とも無駄の極みの二重奏のおかげか、俺の頭に一つある事がぽんと思い浮かんだ。

 

「気が付いたかな」

「下らねえ……」

「ははは、そういう物さ。早く謝りに行った方がいいんじゃないかな?」

「そうしよう」

 

 四葉の怒りの回路がどうなってるか理解しているとは言い難いが、姉妹なんだ、三玖と同じようにほったらかしにしておいたら後が怖くなる事は想像に難くない。

 

「おい四葉」

「はい上杉さん、どうかしましたか? あ、そうだ。古文の続き教えて下さいよ」

「口を利かないんじゃなかったのか」

「おっとそうでした」

「……その心は、水に流そう」

「え、何言ってるんですか」

「自分で言った事を忘れるんじゃない。トイレとかけまして、喧嘩した友達ととく、その心は、どちらも水に流したい、だ」

 

 俺の答えに、四葉は大きく開くせいで時折三白眼に見える目をぱちりと瞬きさせると、あっと思い出したかのように息を漏らした。

 

「正解です」

「ちょっと忘れてただろお前。別に怒ってもないのに人を試すみたいな事をするな。女の悪い所だぞ」

「あーそういう事言うんですか」

「ああ、そういう事を言うね俺は。知ってるだろ」

「そうでした」

 

 四葉はこてっと首を傾けて、からかうように呆れ顔をした。……俺は一生分の呆れ顔をここ一年でこいつらから見せられた気がする。なぜだ。俺はかなり頑張っているのに。

 

「行きましょう上杉さん。古文の続きと、あと数学を教えてくださいよ」

「そういえば前の数学の小テストはどうだったんだ?」

「ぎ……ギリギリセーフでした」

「見直しは?」

「ギクッ」

「あのな、先生だって鬼じゃない。定期テスト前にする授業ってのはヒントをちりばめておいてくれているんだ。絶対小テストの問題に似た物が出るぞ」

「分かってますけど……あ、三玖」

 

 すすーっと逃げるように向けた視線の先に、四葉は救いの糸を見出したようだ。姉妹の中で、こと勉強において一番頼りになる姉の姿が廊下の角で走っている。……走っている?

 

「どうしたんでしょう三玖。あんなに走ってるのは珍しいですね」

 

 四葉の疑問も最もだ。こと勉強において一番頼りになる三女は、こと運動においては一番頼りにならない。あんな走り回る用事をする事はなるべく避ける彼女が、どういった心境の変化か。

 

「え? 今日私日直だよ」

 

 と、聞いてみれば実にくだらない。

 せわしなくぴょこぴょこ走る三玖を呼び止めて聞けば、帰って来たのはそんな返事で、俺はちらりと見た黒板の墨に書かれている今日の日直の欄を思い出した。確かに手には次の授業で使うであろう資料が入った段ボールを持っている。

 

「お前一人か? 男子の奴は何やってる」

「今日病欠なんだって」

「じゃあ手伝うよ」

 

 学級長の面目躍如とばかりに、四葉は元気よく諸手を挙げて協力を申し出る。

 

「……この前の数学の小テスト」

「えっ?」

「一緒に勉強したよね」

「う……うん」

「結果は?」

「ギリギリ……」

「勉強してて」

「はい……」

 

 せっかくの提案をすげなく断られた四葉はうな垂れて、それに釣られてか頭のリボンもしょんぼり頭を下げていた。

 知らない間に二人で勉強していたのか。俺の提案、というほどの事でもないが、言った事を実践し続けてくれているのは教師冥利に尽きる話だ。

 

「さあ、勉強だ四葉。三玖、人手がいるようなら呼べよ」

「うん。ありがと」

 

 抜き足差し足の不穏な足取りでこの場を離れようとする四葉に、三玖の持っている荷物を手分けして持つように言い、逃げられないようにする。ほいほい頼まれごとを受けてしまっててんやわんやになる所は困りものだが、頼み事をすればそれを果たそうとする美点はこう言ってはなんだが扱いやすい。……急にこいつの将来が心配になってきたな。

 

 

 

 三年生になったとはいえ、休み時間に机に突っ伏して寝るような奴はいなくならない。別にそれをどうこう言う気はないつもりだが、それでも見知った真面目な奴がそんな事をしていれば気になるのが人というものではないだろうか。

 

「何してんだ五月」

 

 真面目な五月のらしくない居眠りに、声をかけてみると、クラスの女子の中でも特に長い髪を揺らしながら緩慢な所作でこちらを見上げて来た。

 

「上杉君でしたか」

「珍しいな。いつもは休みも勉強しているお前が。体調でも悪いのか?」

「悪いと言いますか」

「なんだ」

 

 唇の端を舐めつけるように口をもごもご動かして、どうも歯切れの悪い。

 

「真言宗の名僧とかけまして」

「は?」

「このくらいの時間にかけて欲しい言葉とときます」

「お前もかよ」

「どうぞ考えてください。私は頭を空っぽにするのに忙しいので」

 

 何もしない事が忙しいとは、哲学かよ。

 投げかけられた問題を解かないのは、何となく俺の心にもとる気がして、その場で腕を組んで考えてみる事にした。

 今は三時間目終わり、四時間目の前の休み時間だ。今日の日程半分終わったなとか腹が減ったなとか考える時間だ。

 それと五月に失礼かもしれないが、彼女が知っている真言宗の僧なんて限られている。つまり。

 

「……くうかい(空海・食うかい)?」

「お昼に焼肉定食焼抜きを頼む人からの施しはちょっと……」

「めんどくさっ。なんだよお前、自分で言わせといて」

「まあまあ、これを差し上げますのでそう言わないでください」

 

 お前なあ、と口をついて出てきそうなのを飲み込んで、五月が鞄から個包装を受け取った。お洒落なフォントの英語で書かれた袋で、何が入っているのかと思って振ってみると、パラパラと固い物同士がぶつかる音がする。

 

「何だこれ?」

「この前街中を歩いてる時にもらったサプリの試供品です」

「いらねーよ」

「あなたに一番必要な物だと思いますけど? 安いからって炭水化物ばかりの食生活を送っている上杉君には」

「いいんだよ俺は。お前と違ってあれで足りてるから」

「余計な一言が多いです。あんな食生活だからカタボリック(筋肉を分解してエネルギーにしてしまう現象)を起こして体力が付かないのではないですか? 正直私も眉唾物だとは思っていますけど。今日は暑いですし、飲んでおいて損はないと思いますよ」

「今日が暑いのとこれを飲んでおけに繋がりを感じられないんだが」

「五時間目は体育ですよね。栄養の足りてない上杉君が熱中症にでもなるのではないかと危惧しているのです」

「人を飢餓野郎呼ばわりするんじゃない」

「そうですか。では誰かにでも差し上げて下さい。私には必要のない物なので。ええ、上杉君と違って多様な食生活を送っている私には必要ないので」

「……怒ってる?」

「富士山五合目くらいには」

 

 パンと机を軽く叩いて立ち上がり、五月は財布片手に教室を出て行った。

結局何か飲み食いに出るのかよ……。

 俺は受け取ったサプリの試供品をポケットに突っ込んで、そのポケットに入っていた単語帳をめくり始めた。

 しかし、富士山五合目辺りだと? 最近になって五つ子に婉曲表現のブームでも来たのだろうか。俺はテストに出題されそうな話題は知っているが。例えば標高3775メートルであるとか、世界文化遺産に登録されたのは2013年である事とかそういった事柄だ。登山のルートなんてものは知らない。知らないが、五合目というくらいだから、まあ怒り半分くらいか。と、まとまらない頭で単語帳を繰る手を止めると、今日は何かと忙しそうな三玖が教室に入ってくる姿が見えた。

 

「三玖、今日はついてないな」

「あ、フータロー。こんなに忙しい日直は初めてかも。こういう時に限って男子はお休みだし」

「やっぱり手伝うか?」

「ううん。あとは何も頼まれなければ日誌くらいだから大丈夫」

「そうか」

 

 体力のないなりに駆け回ったせいか、三玖の白い頬に汗が一粒流れていた。そのせいで額にペタリと張り付いていた前髪を払うと、汗なんだから触らないでと口を尖らせて怒ってきた。悪い、と短く謝って話の一つでもと口を開いた。

 

「話題を変えるが、富士山の五合目ってどれくらいか知ってるか?」

「富士山の五合目? 登山にでも目覚めたの?」

「そうじゃなくて、五月を富士山五合目くらい怒らせてしまったらしくてな」

「何言ったの? ……やっぱり言わなくていい。想像つくから」

「五合目というくらいだから半分くらいなんだろうが、それってどれくらいの怒り模様なのかと思ってな」

「怒ってないと思うよ」

「そうか? まあ本当に怒ってたらこんな表現しないとは思うが」

「だって五合目って車で登れる範囲だもん。人によっては富士登山は始まってすらない」

「歩いてすらないのか……」

「うん。だから五月も今日暑いなあくらいにしか思ってないよ」

 

 なるほど、暑い日のふざけんな地球くらいの怒りか。

 確かに大した怒りじゃない。外を走り回る運動部にでもなれば違う感想を抱くのかもしれないが。

 しかし知恵がついたのは良いが、こういう風に人を試す小狡い知恵はいらなかったな。

 

 

 

 食堂は学校内で最高の場所の一つだと思う。クーラーは効いてるし、冷たい水は飲み放題だ。「上杉君一人だよ」「ヤバー」などと心ない言葉をかけられる事もあったが、それも今は昔である。

 最近はもっぱら三玖と、そこそこの頻度で武田と前田と昼食を共にしているので、一人でいる事を揶揄するようなセリフを言われた記憶は少し遡らなくてはいけないほどだ。

 

「上杉君今日一人だよ」

「三玖ちゃんと喧嘩したのかな」

「ヤバー」

 

 ……遡らなければならないほどだ。(強弁)

 

 言い訳をさせていただくと、三玖は日直の用事がと言って捕まえられなかったのと、武田は女子に引きずられて行ってしまったのと、前田は彼女と昼飯を食いに行ってしまったので仕方なく一人なんだ。決して喧嘩したとかそういった事実はない。

 最後の手段として一花や二乃、四葉に五月とでも食事をご一緒すればボッチの誹りは免れたかもしれないが、そうすると今度はたらしの誹りを受ける羽目になるだろう。

 まあどうでもいいか、と思って単語帳を取ろうとポケットに手を突っ込むと、普段にない感触が指先につるりと走った。

 そういえば五月から効果のほどの分からないサプリを貰っていたな。ポケットから出したそれの封を切って袋を掌にひっくり返してみると、二粒ほどの錠剤が転がり落ちて来た。ビタミンBだかCだかでうっすら黄色いそれを眺めて、とりあえず飲むだけ飲んでみようと思う。タダだし。

 ぐっと飲み下したところで、いつもならもう少し食堂でゆっくりと勉強する所だが、次の授業が体育な事もあり、早めに準備しておこうと食堂を後にした。

 

「大丈夫かなー」

「大丈夫よ。ていうかさせなさいよ」

 

 教室へ戻ろうと歩いていると、聞きなじみのある声が二つ通り過ぎて行くのが聞こえた。顔だけでその方向を向くと思った通り一花と二乃がいて、中庭の奥まった所へと消えていく場面だった。

 あの方向はたまに不良生徒がたむろしているという、良くない評判が流れている場所だ。こんな真昼間に滅多な事は無いとは思うが、馬鹿に常識は通用しないとも言うし、もし変な輩に怪我を負わされたと後で知ったら俺は後悔するだろう。ちょっと覗いて確かめるくらい、なんてことない労力だ。

 建物の角を曲がって……。

 

「お前ら」

「うわっ、いたんだフータロー君」

「どうかした?」

「ああ、不良生徒の摘発だ」

「不良? 学級長はそんな事までするの」

「怖いわね。私達の安心な学校生活のために頑張ってねフー君」

「お前らの事だ!」

 

 結論から言うと不良生徒はいた。

 名前は中野一花と中野二乃という。

 ええー、と二人は文句をたれるが自分で分かっているはずだ。

 こんな人目のない所まで来て並べた、ベンチの上のマニキュアがそれを物語っている。

 この高校は校則が緩い事は、一花がピアスをつけたまま通えている事からも分かると思う。だがさすがにマニキュアのようにシンナーの匂いがする物の使用を許可するほどではない。

 

「見逃してよフータロー君」

「このまま鞄にしまえば許して……っておい準備するんじゃない」

「一花、手出して」

「おねがーい」

「おい」

 

 俺の忠告も空しく、聞こえてないふりをしつつ二乃は一花の爪を丁寧に拭いていく。透明な液体が入った瓶を開けて、ブラシで爪を撫でて行く。

 

「お前らなあ」

「夜の子供とかけまして!」

「えっ、何? お前らの中で流行ってるのそれ」

「女のたしなみととく。その心は?」

 

どういう事だ? 子供? 女のたしなみ?

 あまりに突飛な質問、というよりなによりなぞかけなのだから、そうでなくては簡単すぎるのは分かっているのだが。

 

「ほら今の内にするわよ」

「フータロー君考え込むと行動が止まっちゃうからね」

 

 うるさいぞ。

 しかし、何だ夜の子供がする事って。歯磨きか、トイレか、夜更かしか、まくら投げか恋バナか? それに女のたしなみってのもピンとこない。三玖なら「茶道か薙刀」とでも言いそうだが、目の前にいる二人は今どきの女子なのでそんな事は言わないだろう。化粧か? 今やっているのはネイル……ねいる……

 

「分かった」

「え嘘早」

「ちょっと二乃、簡単すぎだったんじゃないの?」

「まだ答えと決まった訳じゃ……。それで、答えは?」

「ねいる、だ。ネイルと寝入る」

「正解」

「答え言うのが速いわよ。これでCMまたごうと思ったのに」

「何がCMだ。動画の途中に挟むんじゃない、飛ばすのが面倒だろ」

「フータロー君がユーチューブに染まってる」

 

 とんだ知恵を働かせやがって。一花の片手の爪を塗り終わるくらい時間稼ぎされてしまった。

 

「俺じゃなかったら反省文ものだぞ。もう諦めろ」

「むむむ。じゃあこれはどうかなフータロー君。芝居とかけまして」

「まだあるのか」

「初夢ととく。その心は?」

 

今度のお題は芝居か。こいつら出題するなぞかけが自分の個性に合いすぎだろ。昨日考えてきたのか?

 

「もういいだろ」

「あれー? 分からないのかなフータロー君」

「ふざけるのはその爪だけにしろ」

「ひどい。頑張って磨き上げた爪なのに」

 

 分からない、だと。ふざけやがって。お前らに勉強を教えたのは誰だと思ってる。いや勉強はあまり関係ないか。

 しかし芝居と初夢ね。芝居、といえば目の前の一花、つまり女優だが。女優、俳優、演出家、舞台、演技、映画。どれもピンとこないな。初夢の方からアプローチしてみよう。初夢と言えば『一富士二鷹三茄子』が縁起が良いとされているが……これじゃん。

 

「どちらもえんぎ(演技・縁起)が良いのが見たい、だ!」

 

……

……いねえ。

 

「演技が良いのが見たいんですけどー」

「何してるのフータロー」

「おお三玖か。一花と二乃知らないか? さっきまでいたんだが」

「え、知らないのフータロー?」

「何がだ」

「今日一花仕事で早退だよ」

「そうだったか? それじゃ学校を出たのか。なら一花は良いとして。じゃあ二乃は」

「二乃? 一花のネイル塗ってくるって言ってたけど、済んだなら教室に戻ってるんじゃないの?」

 

 二乃のやつ、撮影に挑む一花のネイリストのつもりだったのか。もちろん褒められた事じゃないが、ここは姉妹への献身という事で先生には言わないでおいてやろう。

 しかし両手の爪にマニキュアを塗り終わるくらいここにいたのか。結構な時間を食ってしまった。

 

「俺達も戻ろ……なんだそれ?」

 

 改めて三玖の姿を見ると、普段にない手荷物を持っている事に今更ながら気が付いた。体の後ろに隠している、身長の倍はあろうかという黒い円筒形の物だ。

 

「これ? 先生に世界地図持って行ってって頼まれたから」

「それで昼休みにどっか行ってたのか。頼みすぎだろ先生も」

「本当にね。五月じゃないけどさすがに私もお腹が空いたよ」

「食べてないのか?」

「え? うん。ちょっとバタバタしてたし」

「これ持って行っておくから何か食べてこいよ。次体育だぞ」

「そう? じゃ、お願いねフータロー」

 

 三玖から長い長い世界地図の一巻きを受け取ると、その重さに一瞬よろけそうになる。手ぶらになった三玖は、ちょっとした開放感に顔をほころばせて額の汗を袖で拭うと、小走りに食堂の方に駈け出して行った。

 こんな重い物、女の子に一人で持たせるなよ。休んだ男子の日直に内心文句を言いながら、人にぶつからないように気を付けて教室に吊るしておく。端の方を叩きながら微調整していると、昼休憩の終わりを告げる予鈴が鳴り響いた。

 窓の外に目を向けると、景色が白むほどの激しい日差しが照り付けているのが見える。何て気の進まない授業だろう、と思いながら体操服を手に取って更衣室へ向かった。

 

 

 学校生活において腹が立つ事とは何だろうか。

 抜き打ちで小テストをされた時と言う人もいるだろう。皆持って来ているのに自分のスマホだけ没収された時だろうか。俺は、

 

「体育委員、後片付けよろしく。なに、今日は休み? じゃあ学級長、片付けておいてくれ」

 

 と体育の終わりしなに言われた時だろうか。体力の無い身としては、おい勘弁してくれよとげんなり気分が落ちてしまう。学級長という立場はそういう物だと言われれば、まあそうですねとロクな反論はできないが、いやでも他に暇な奴いっぱいいませんかと思わず先生に進言したくなる。

 しかし体育倉庫の鍵を取りに行った先生に言う事能わず。まあ大した荷物じゃない、面倒くさいだけだ。

 ボールの入ったカゴを持って倉庫の扉を開こうとするが、疲れているからか上手く開かない。何で体育館の倉庫にしても資材倉庫にしても扉はどこも無駄に重たいんだ。

 上げた腿の上にカゴを乗せて、片手で開けようと格闘していると不意にカゴが軽くなった。

 

「手伝うよ」

 

 そう声をかけてきたのは三玖だった。こういう時真っ先に駆けつけてくるのは四葉だが、と思って辺りを見渡す。予想本命の四葉は女子に背中を押されて困ったような顔をしていた。集団の中でにっこり笑ってこちらに手を振っているのは、俺はほとんど言葉を交わした事はないが三玖の友人だったはずだ。あいつらの差し金か。

 

「どうかした?」

「いや、何でもない。早く終わらせようぜ」

 

 カゴを持ってくれた三玖の頭にポンと軽く手を置いて倉庫の重い扉に手をかけた。三玖がはっと吐いたため息の表情は、運動のせいで火照った赤い頬のせいで、何となく艶めかしい物に見えた。しかし、今日一日使いっ走りされたせいで体が運動するモードにでもなったのか、あまり汗はかいていないようだ。

 倉庫に入ると日陰のひんやりした空気に乗って石灰の匂いが鼻をついた。一番奥の棚に置いておいてくれと言われたんだったなと思い返して、少し高い所にある開いたスペースにカゴを置いた。

 

「はぁ……」

 

 三玖は力なくまたため息を吐いてその場にへたり込んだ。体力のある時でも元気溌剌と声を出す事は無いが、それにしたって弱々しい。さすがに今日のような雑事をこなした後に、追いうちのような体育があればそうなるか。

 

「大丈夫か?」

「う……うん、だいじょうぶ」

 

 体調の悪そうな三玖に合わせて俺もその場に座り込む。

 

「ねえ、そういえばわかった?」

「え、何がだ?」

「けさのなぞかけ」

「ああ、あれな」

 

 確か、天下の覇者とかけまして、俺から見た三玖達ととく、だったかな。分かってはいたんだ、三玖がちょこちょこ忙しいので言う機会を逃していただけで。

 

「その心は、どちらもとくがわ(徳川・解く側)だ」

「えへへ、あたり」

 

 ふらりと三玖の体が揺れたかと思うと、身を投げ出すように俺の方へと倒れこんできた。突然の事に驚きながら受け止めるが、完全に油断していたので春休みの旅行の時のように二人一緒に倒れこんだ。一つ違うのは、下が畳ではなくコンクリートなのでガツンとみっともなく頭を打ってしまった事だろうか。

 痛えと思いながら後頭部をさする。危ないだろ、と文句でも言おうと思って体を起こし、俺の胸元に顔を押し付けている三玖の頭を揺らした。

 

 カシャン

 

「……カシャン?」

 

 この感じ、覚えがあるぞ。あの時は今日とは真逆の寒い日だったか。一花と倉庫に閉じ込められた日の出来事が頭によぎって……

 

「って思い出してる場合か! 先生! せんせーい!」

 

 前に閉じ込められた時は、木製の扉の倉庫で最終手段として扉を壊すという手も取れた。寒いとは言ってもしのげる術があった。

だが転じてこの状況はどうだ。扉は鉄製の分厚い物で、内側に鍵はついていないし、壊すなんて出来るはずもなく、外と比べて涼しいとは言っても優に三十度は超える暑さはあるだろう。扇風機なんて物も、もちろん冷房なんて気の利いた物などもあるはずない。

 

「おい三玖、どいてくれ。まだ先生が気付いてくれるはずだ」

 

 ぐいっと三玖の肩を押すが、一向に俺の上からどく素振りをみせない。抱き着いて離れないと言う訳では無く、むしろ腕が力なく床に投げ出されている。

 

「……三玖?」

「はぁ……は……」

「おい、どうした三玖」

 

 どうにもおかしい。三玖はサボろうなどと言う質の人間ではないし、次の授業はどちらかと言うと好きに分類される世界史の授業だ。

 体にのしかかる女の子の体を真っすぐ持ち上げるという力のない俺は、寝返りを打つように体を回して三玖の体を下にした。

 真っ赤な頬は照れたからではなさそうで、三玖はいつもちょっとぼやっとした目をしているが、こんな虚ろな感じではない。

 大丈夫か、と声をかけながら頬に触れると、らいはが熱を出した時よりも熱く、否応なしにただ事ではないと理解した。

 意識が混濁した様子、異様に熱い体、なのに汗をかいていない。

間違いない。これは熱中症だ。

 

「おい三玖、しっかりしろ」

「うぅ……」

 

 不審に思った四葉が助けに来てくれるだろうか。最悪一時間待てば部活に出る生徒の為に開けてくれるかも……いや、今はテスト前で部活はやっていない。自分でどうにかするしかないようだ。

 とりあえず三玖をどうにかしないといけない。熱中症の症状が出た人はどうするんだったか。まず日差しを避けて、涼しい恰好をさせて、体を冷やして水分補給くらいはしなくては。

 涼しい恰好とは首筋と脇と腿という、太い血管がある場所を開けるという事だと保険の教科書にも夏に入って貰ったプリント類にも書かれている。

 ……脱がすか。三玖には申し訳ないとは思うが、今は恥ずかしいとか何とか言っている状況ではない。

 

「三玖、暑いか? 脱がすぞ」

「ふうたろ……」

 

 ぼうっとした、文字通り熱に浮かされた様子の三玖の服に手をかけて、ゆっくりと脱がしていく。露わになった首、肩周りに今はドギマギする余裕もない。服で風を送りながらどうするか考えた。

 チャイムが鳴り、六時間目の授業が始まった。見回りの先生でもいなければあと一時間は閉じ込められっぱなしだろう。

ぐるりと倉庫を見渡すと、外へ通じるルートは表の重い扉か俺の身長の倍ほどの位置にある窓だけだ。鉄製の扉をこじ開ける事は出来そうもないので、窓から出るルートを取らざるを得ないだろう。

 

「三玖、少し待ってろ」

 

 胸元に三玖の体操服をそっと置いて窓からの脱出を試みる。幸いにも足場になりそうな用具があちこちにあるので窓に手をかける事自体は難しくなさそうだ。だがもし羽目殺しの窓だったり、ここから見えないだけで鉄柵でもあったら厄介だ。と思いつつ、サッカーボールの沢山入った移動カゴの車輪にロックをかけて、そこにバレーボールに使うポールを突き立てる。

 まさか小学生の悪ガキの時にやってたリアル脱出ゲームごっこがこんな所で役に立つとは、人生とは分からないな。怒られた甲斐があったと言うものだ。

 ゆっくりポールに足をかけながら登って行き、窓枠に手をかけた。どうやら普通の窓のようで、真ん中をはね上げて開錠できる馴染みのあるタイプだ。

 誰も開け閉めしないので滑りが悪いが、歪んだりしているわけでは無いので普通に開いた。そこから顔を覗かせると、グラウンドを取り囲む防球フェンスの範囲内のようで、帰りはこれを登れば戻って来れるだろう。

 

「よっ……と」

 

 狭い窓から引っかからないように肩を出して、防球フェンスを掴む。地面に下りた俺は誰かいるだろうと、とりあえず体育教員室へと向かう。

 

「何でこういう時に限って誰もいないんだ!」

 

 電気の消えた体育教員室に、俺の叫びは空しく響いた。全体管理なので消えていないエアコンから吹き付ける風が侘しさを感じさせる。この冷たさを三玖の所に持っていけたら……と思う。学級長で出入りした時に見た鍵束置き場には一本の鍵もないし、悪い事というのは続くものか。使われていないバインダーが団扇変わりにはなるかと背中に差し込んで部屋を後にした。

 さあどうしようか。職員室にでも行けばマスターキーで開けてくれるかもしれないが、あまり三玖を放っておきたくない。先に三玖を落ち着かせれば、後でいくらでも助けを呼びに行けるだろう。鍵を探している間に悪化して入院しました、何て事になれば目も当てられないし、絶対に悔いるだろう。

 とりあえず俺は途中の更衣室で取って来た財布から千円札を出して自動販売機に突っ込んだ。スポーツドリンクと、体を冷やす為に冷たい水を四本ほど買って、両手いっぱいに抱えて持って行った。

 もっと見ていてやれたら。気にかけていれば。そんな事がぐるぐると頭の中を駆け巡る。

 起こった事に後からあれこれ言うのは簡単だ。けれど、どうしてもこんな暑い日に限って三玖に仕事を抱えさせた教師に、なんとも怒りのくすぶるような気持ちにさせられた。

 いつものクラスメート達の鬱陶しい程の雑踏は無く、遠くでセミの鳴く声だけが聞こえる今は、俺と三玖を見捨てたのかと感じるような不思議な寂しさがある。馬鹿馬鹿しい。危機に面して視野が狭くなっているだけだ。

 開けた窓から買ってきたペットボトルを放り込んで、自分も体を滑り込ませる。

 はあはあと熱い息をする三玖の下に、買ってきたペットボトルを持って近寄った。背中に手を回して体を起こしてやる。

 

「三玖、ほら飲め」

「は……うん」

「ゆっくりな」

 

 スポーツドリンクを傾けてゆっくりと流し込んでやると、ほっそりとした白い首がこくりと動いて飲み込んでくれている事に一先ず安心した。ゆっくり、少しづつ、ペットボトルの半分ほど飲ませた所で一端キャップを閉めた。両脇と首筋に冷水の入ったペットボトルを当てて、かっぱらってきたバインダーで三玖の体全体に風を送ってやる。時折水を飲ませて、扇いで、どれくらい経ったのか分からなくなるくらいそうしていると、赤い顔で固く目を瞑っていた三玖が、ゆっくりとその目を開いた。

 

「う……うん」

「三玖、大丈夫か?」

 

 少し赤みの引いた顔をこちらに向けてくると、申し訳なさそうに眉を下げて笑った。

 

「ごめんねフータロー……迷惑かけちゃった」

「何が迷惑なんだ」

「だって、フータロー、ずっとここにいてくれたんでしょ?」

「当たり前だ。どこの世界に倒れた恋人をほったらかしておく奴がいる」

「私はもう大丈夫だよ。少しでも授業受けてきたら?」

「馬鹿」

「いたっ」

 

 俺は扇いでいたバインダーで三玖の頭を軽く叩いた。確かに三玖は起き上がれるようになっているし、自分で水分補給できるくらいに回復したが、自覚症状がないだけかもしれないし離れる気なんてのは更々ない。

 

「余計な事考えるな。林間学校の時みたいに五月か誰かが開けに来てくれるから、それまで待ってればいい」

「でも」

「青色とかけまして」

「え、なに?」

「献身ととく」

「その心は?」

「それが分かるくらい回復したら、俺だって安心して出て行けるから頑張って考えてくれ」

 

 考え事は朦朧とした頭では出来ないだろう。という俺の目論見通り、三玖は考える為に目を瞑り、ともすれば眠っているような穏やかな息使いをしだした。

 そもそも授業はもう終わる時間だろうな、と扇いで風を送りながら考えると、いまさら慌てて授業に出ようなんて無駄な事だ。一回の授業くらい武田の奴に聞けば、遅れを取り戻す事はできる。

 

「あっ」

 

 気の抜けたような声が三玖の口から零れ落ちた。チャイムが鳴ったのだ。

 テスト前でなければ部活に出る生徒が倉庫を開けてくれるのは確実な事なのにな。というか教師の責任問題じゃないのか、こんな事態は。三玖が少し回復した事で余裕の出て来た頭の端っこでそんな事を考えた。

 

「フータロー」

 

 閉じていた目を開けて、そっと三玖は俺を呼んだ。首筋に置いていた水を取って、キャップを外して口元に持っていってやる。差し出されたそれを舐めるようにちびちび飲んで、三玖は熱の抜けた顔で笑いながら言った。

 

「青とかけて、献身ととく、その心は、どちらもあい(藍・愛)から出てきます」

「正解だ」

 

 答えを導き出せた、少し誇らしげな顔を見せると三玖はそのまま俺の方に、今度は明確に意思をもって倒れこんできた。

 

「ありがとう、フータロー。本当はね、怖かったんだ。頭がぼうっとして、体が動かなくて、私どうなっちゃうんだろうって。だからフータローが呼び掛け続けてくれて心強かった」

 

 三玖は背中に回してきた手にぎゅっと力を込めて、嬉しそうに、笑う時のように空気を揺らした。三玖のセミロングの髪がさらさらと俺の頬を撫でて、悪戯好きの子猫のようにくすぐる。

 

 カシャン

 

「カシャン?」

 

 後ろのほうからどこかデジャブを感じる音が響いた。一つ違うのは、最初に聞いた音とは真逆の結果をもたらしてくれる福音であるという事か。

 ガラガラという重たい音と共に外の西日が差し込んでくる。どうやら受難は終わりのようだ。

 

「こっから出たらとりあえず保健室に行くぞ」

「大丈夫だよ」

「大丈夫って言い続けて最後に倒れたのはどこのどいつだったかな」

「む……分かった」

 

 まだほのかに熱が残るが、一番熱かった時よりだいぶマシになった三玖の体を触診するように触れて、ぽんと肩を叩いた。

 

「お前ら何してるんだ!」

 

 開ききった扉の先にいた先生がかけてくれた第一声がそれだった。

 ちょっと待ってくれ。何も俺達は好き好んでこんな暑い所に閉じ込められている訳じゃないんだが。

 

「何組の生徒だ、今すぐ生徒指導室まで来い!」

「はあ」

「ちゃんと服を着てからだぞ」

「「あ」」

 

 そう言われれば、三玖は体育を行う生徒なら纏っているべき体操服を脱いでいるんだった。熱を逃がすために俺が脱がせたのだが、俺達の授業を受け持っていないこの先生にはそんな事預かり知らぬことだ。

 授業をサボって密室に男女の二人きり。おまけに女子の方は全部ではないが上を脱いでいる状況など、生徒指導室どころか下手すれば取調室にぶち込まれかねない。

 

「三玖、とりあえず服を着てくれ」

「私いつの間に脱いでたの?」

「暑いだろと思って俺が」

「何ぼそぼそ言ってる! 早くしなさい!」

 

 怒った声に押されたようにカゴからサッカーボールが一つ転がり落ちて来た。こびりついていた土が乾いて白み、ぱらぱらと剥がれ落ちて俺の膝を汚す。

 はあ、と自分の意思と関係なくため息が零れた。

 ほとんど空になったペットボトル達を持って立ち上がる。足元に転がったボールを苦々しく見つめて蹴り上げた。

 踏んだり蹴ったり。

 俺はなぜかボールに同情するような気持ちが起きて小さく笑った。

 

 

 

 幸いに、といわれても慰めにもならないが、俺の訴えにより閉じ込められていたのは教師の確認不足という事に落ち着き、俺達は反省文や奉仕活動は無しという処分が下された。

 心配したよ、と困った風に笑いながら、訳知り顔な武田はその後の事を少し教えてくれた。どうやら体育教師には後日追って沙汰が伝えられるらしい。

 

「その心は」

「それ流行ってるのかい? そうだね、下手すれば死亡事故にすらなりかねなかった事件に、救った人が処分を受けて、原因を作った人が処分を受けないなんて事が知れたら大炎上だろうからね。解雇処分が出たっておかしくなかったよ」

「死ぬって」

「聞く限りではかなりギリギリの状況だったと思うけどね」

 

 へえ、と生返事をして姉妹と話している三玖を見る。冗談でも言ったのか、四葉の言葉に口元に手を当てて楽しそうにくすくすと笑っている。あの笑顔が失われていたのかもしれない、と思うと変な感覚だ。

 

「それで何か教訓でも得られたかな」

「迂遠な物言いは辞めるべきだと思ったな」

「ほう。その心は」

「お前も乗っかるな。だってそうだろ。言葉の裏を読む遊びをしていて、表に出ていた三玖の不調を見逃すなんて、これほどバカな事はない」

 

 俺の視線に気が付いた三玖と四葉が笑ってこちらに小さく手を振って来た。俺もそれに小さく答えて、胸に広がる嬉しいという感情に頬が緩むのを、目の前でニヤつく武田に指摘されるまで気が付かなかった。そのニヤケ面をしっしと払って、手元の参考書に目線を落とす。

 考察、なんて大層な物じゃないが、壁をよじ登って無理やり脱出したあのらしからぬ無茶をしたのは、俺は三玖のためだったらどんな事でもしてやれる、そんな言葉が上っ面だけでなく心の底から思っている事を知れたのがそうだろうか。

 卵とかけて、愛ととく、その心はどちらもきみが大事です。

 慣れない遊びは頭のリソースを使うな。もういいよ、と下らないと笑いながら、今は元気な三玖をそっと見ていた。

 

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