三玖と恋するフータロー   作:アランmk-2

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真冬に夏休みの話を投稿したっていい。そうだろう(ぺこぱ)


そういう感じの日

 夏休みが始まった。

 夏休みに入った俺は、まとまった勉強時間の確保という名目で家庭教師業を抑えていた。クリスマス前あたりから始めたケーキ屋のバイトは、店長が事故にあってしばらく休業となってしまったので、何日かおきに送る宿題と、その添削が夏の俺の主な収入源となる。

 その家庭教師業も、あのお父さんから頂いたパソコンを使ってデータを送り、答案用紙をスキャナーに取り込んで送ってもらって添削する方式をとるようにしているので、手渡すという手間が無いため、俺の出不精が加速していた。

夏休みに俺が見た顔と言えば、毎日顔を突き合わす親父とらいは、こんな事してるよと写真を送ってくれる三玖、そして毎日らいはが見ているヒ〇キンというありさまだった。我が妹にお前ええ加減にせえよという顔をされるのも仕方がない。

 そんな風に夏の陽気な空模様とは裏腹に鬱々とも表現されるような夏休みを送っていた罰でも当たったのか、最近よくない妄想に囚われる。

『フータローは私が男の子と遊んでたらどう思う?』

 と、この前言われた事を思い出して、見ず知らずの男が三玖の手を取ろうとする想像が、朝でも晩でも気の抜いた拍子に脳裏によぎって、ぎりぎりと俺の胃をいじめてくる。女子と遊んでいた俺への意趣返しのような発言なので、言った本人も気に留める所は無いのは分かっているとはいえだ。

 それから逃げるように必死に勉強に打ち込むという受験生にとっては好循環ともいえるかもしれない悪循環に陥っていた。

 

「お兄ちゃん外出たら?」

 

 一番集中できる勉強法の一つ、実際の試験と同じようなタイムスケジュールで過去問を解くを実践していて、終了のアラームが鳴った所に昼食の用意をしてくれていたらいはが呆れたような顔を隠そうともせずにそう言った。

 安売りの素麺を茹でてざる一杯に氷と一緒にあけ、大葉と刻みネギを小皿にのせていかにも夏休みの食事だ。

 

「らいは、受験生の生態系は基本こんなものだぞ」

「えー、でも中学受験した男の子とは塾が無い日は結構遊んでたけど」

「そりゃその子が優秀だったか進学先がそうレベルの高い所じゃないかのどっちかか、どっちもだろ」

「じゃあ優秀なお兄ちゃんは時間があるって事だよね」

「都合のいいように言葉尻を捉えるな」

「でもお兄ちゃんが行けない大学なんて日本に存在しないんじゃない? そりゃ全然勉強しなくなったら駄目だけど」

「らいは、あんまり偉ぶるような事は言いたくないが、受験を舐めすぎだぞ。」

「私が受験を舐めてるならお兄ちゃんは恋愛を舐めてるよ」

 

 らいはは何故か憤懣やるかたないと言った様子で一気にコップをあおった。今日はえらく突っかかってくるな。

 

「このまま一か月も三玖さんに合わないつもりなの?」

「いやそんなつもりはないが……」

「もう! お兄ちゃんの馬鹿! 全国トップクラスだけど馬鹿! そんなうじうじ勉強してるなら会いに行けばいいのに」

「うじうじって。それに集中したいからあんまり勉強を見に行けないって言った舌の根の乾かないうちに……」

「そんなのやっぱり気が変わったって言えばいいでしょ。彼女に会いに行くのに、友達に会いに行くのに理由なんていらないよ」

 

 そうか? という疑問が口から零れそうになるのを唇を一文字に結んで口の中で押し殺した。怒り気味ならいはに、無駄に反論して火に油を注ぐ必要もあるまい。それに言っている事はもっともなことであるし。

 正直言って忘れていた。小学生の頃は用が無くても友達の家に押しかけて遊び倒した日々の事を。まあさすがに高校生の時分にもなってまるっきり同じようにはいかないが、そんな気安さで会って、話して、きっとそんなのでいいんだろう。

 

「そうか。別に用が無くても合いに行ったりしてたよな。友達なんて久しくいなかったから忘れてたぜ。はっはっは」

「お兄ちゃん……」

「……泣かなくてもよくない?」

 

 

――

 

『わっ、ほんとに来た』

 

いまだ精神論や根性論の跋扈する体育会系の界隈にあっても、休息や水分補給の必要に迫られるほどの猛暑の中を乗り越えて来た俺を迎えてくれたのは、三玖のそんなあんまりな声だった。らいはに持ってけと言われたハンカチで汗を拭いながら、インターホンの前で少し意地悪に笑う三玖が見えるような、露骨にふざけた声色だ。

 

「何だよその言い草。あっつい中歩いて来たのに」

『うそうそ。来てくれてありがと、今開けるね』

 

 カチッと自動ドアのロックが解除されると、ゆっくりと開いてエントランスのひんやりした空気が足元に流れ込んできた。エレベーターホールに行くと丁度降りて来たエレベーターから、夏休みらしい半袖短パンに野球帽をかぶった小学生の一団が勢いよく飛び出してきたのを見て、不思議と懐かしい気持ちになる。俺にもあんなころがあったなと爺くさい事を考えながら乗り込んで最上階のボタンを押した。

 

「フータロー」

 

 最上階に到着したエレベーターから降りるとすぐ横から呼び止められた。少し間の抜けた呼び方を嬉しそうにする声色の方を向くと、夏らしいワンピースに身を包んだ三玖がお出迎えしてくれている。

 

「三玖。今日はいきなり行くとか言ってすまなかったな」

「ううん。私はフータローが夏休みは勉強するって言ってたからあんまり会えないのかなって思ってた。だから来てくれて嬉しい」

 

 コツンと三玖が一歩踏み出すと、ワンピースの裾と長い髪が軽やかに翻る。そのまま俺のそばに来て、にっこり笑いながら手を取られると、それだけでらいはの言う通り来て良かったと思えた。

 

「それに私達もまだまだフータローに教えて欲しいし」

「そんな事言って、次会った時にもう必要ないって言う前振りじゃないよな」

「え? あ、春休みの……」

「せっかく良好な関係を築けてたと思ったのに、傷ついたぜ」

「ご、ごめんって」

 

 からかうとコロコロ変わる彼女の顔を見ていると、鬱屈としていた気分はどこかに飛んで行った。らいはが美人と話すと健康になるとかいう、エビデンスがあるのかないのか分からない話まで繰り出した時はどうかと思ったが、あながち嘘じゃない気もしてくる。

 と、そこまで話した所でようやく三玖がヘッドホンをしていない事に気が付いた。どうしたんだ、と聞くべく口を開こうとした所で先に三玖が振り返って来たので少し黙っておく。

 

「あ、フータロー、静かにね」

「なんだ? 誰か寝てるのか?」

「そうじゃないよ」

 

 唇の端を少しにっと上げて、少し三玖らしくない笑顔を見せてくると、自分の言ったように静かに玄関の扉を開けた。

 姉妹がいるとは思えないくらいにしんと静まった部屋がお出迎えしてくれて、思わず靴を脱いでる三玖に聞いてしまう。

 

「今日は誰もいないのか?」

「ううん。今は……」

 

「はい、終了―。ペンを置いてくださーい」

「ちょ、ちょっと待ってください! あと三十秒、いえ十秒」

「あんたね……そんなのが受験会場で通用する訳ないでしょ」

「うぅ……」

 

「……ね」

「なるほど」

 

 今日の姉妹は何の因果か俺と同じように試験形式で問題を解いていたようだ。いつもヘッドホンを装着している三玖も、さすがに試験の時は外しているのでその状況を再現しているのだろう。 受験をしない一花が試験官の役として辣腕を振るい、渋る五月の手から答案用紙を引っぺがした。そのまま回答を左手に赤ペンを右手に採点を始めた。

 

「ふー、疲れた。短いって言っても朝からぶっ通しで試験したからくたくただよ」

「でも本番はもっと長いでしょ。……なんか今から憂鬱になってくるわね」

「……」

「五月ちゃん? どうしたのブツブツ言って」           

「……ゲティスバーグの演説、1863……。関数F(x)に対して[[rb:limF > x→a]](x)をF(x)のx=aにおける極限と呼ぶ……。ルシャトリエの原理……。難消化性デキストリン……」

「最後のが試験に出る訳ないだろ。絶対お前の朝ご飯の成分表だろそれ」

 

 頭を抱えてブツブツ言っている五月を見ながら、ああ本当に頭から知識が零れないように耳を抑える奴っているんだな、と思って黙っていたが、最後の最近ありふれている健康志向な単語に思わずツッコんでしまった。

 

「何ですか来て早々」

「いや、根詰めてそうな割に役に立ちそうにない言葉を覚えようとしている生徒に注意を」

「そんなおせっかいは結構です……と言っている場合でもないんです。来てくれて助かりました」

「はあ」

 

 いつもの五月ならもう一言二言棘のある言葉が飛んできておかしくないのだが、むしろあって然るべきなのだが、やけにしおらしい。気味が悪いほどだ。

 

「どうしたんだお前」

「…………」

 

 そんな問いかけにも応じずに、五月はまた何やらブツブツ言いながらリビングを歩き回る。テスト直前に一個でも単語を詰め込もうとする学生のようだ。

 

「なあ、あいつどうしたんだ?」

 

 息抜きにテレビをつけた三玖に耳打ちすると、リモコンを持っていない方の手でそっと髪をかき上げて耳にかける。ほっそりとした真っ白な首筋が覗いて、普段あまり晒されない耳元と合わせて艶めかしい。

 手を伸ばそうかと見つめていた所で、俺の邪な視線に気が付いたのかはたまた偶然か、三玖はてくてくテレビの前まで歩いて手の届かない所に行ってしまった。三玖はテレビ前のソファーに腰掛けながらリモコンを操作すると、ドラマの再放送をしていた画面から録画リスト画面に変わり、そのうちの一つを選択した。

 

「……三玖?」

「五月が夏期講習に行ってるのは知ってるよね」

「それは、まあ」

「私も受けようかなってこの前ちょっと見に行ったの。そうしたら私を五月と間違えたヘーハチに塾内試験の勝負をしないかって言われて……」

「……ヘーハチ?」

 

 聞き捨てならない言葉が三玖の口から出て来た事に、自分の顔が歪むのをはっきりと自覚できた。

 ヘーハチって男の名前だよな。どう考えても。

 知らない間にどこぞの誰かと仲良くなったのだろうか。確かにこれだけ可愛い顔をした女の子を世の男どもが放っておく道理はないが。

面白くない。俺はぐっとまだ胃の中にある昼飯が逆流しそうな不快さを感じていた。

 

「誰だよそのヘーハチってのは」

「どうしたの? 怖い顔して」

 

 ん?と小さくたしなめるように喉を鳴らして、ふわりと微笑む三玖は見ているだけで並大抵のことは許してしまいそうになる魔力を放っているが、知らない間に男の影は並大抵の事ではない。

 内心複雑な思いが渦巻く俺をよそに、三玖はテレビをぴんと人差し指で指した。

 それはドキュメンタリー番組で、画面には竹刀を振り回している小さな女の子が映っている。家族が撮ったホームビデオのようで、画質はあまり良くない。これが何だと言うのか。

 

『警察官のお父様の影響で剣道を始めると、みるみるその才能を開花させ出場する大会全て一位を総なめ。あまりの強さに彼女はこう呼ばれました。絶対女王』

『その後も無類の強さを発揮し続け、県内屈指の強豪校、江戸高校へと進学し、今年はインターハイ三連覇を狙います』

 

 表彰状を片手に笑顔の幼い女の子の写真が切り替わり、今現在の姿に変わるとちょっと前に見た事ある人物が映っていた。

 切れ長の目に、ポニーテールにまとめた髪。内心勝手に徳川四天王と呼んでいた本多という女子だ。

 

『その強さを剣道関係者はこう賞賛します。〈江戸高に過ぎたるものが一人あり、徳川四天は女平八〉』

 

「ほら、ヘーハチ」

「いやいつの間にあだ名で呼び合う関係になってんだ」

「バイト先にやあやあ我こそはって来て」

「武士じゃん」

「徳川に忠義を尽くす大義があるから君の彼氏は狙ってないから安心してくれって」

「いや三河武士じゃん」

 

 そう少し語気を強めに言いながら、俺は内心のムカつきが急速に落ち着いて行くのを感じていた。ヘーハチってのは本多平八郎の平八、という事か。絶対に女子に着けるようなあだ名ではないと思う。というかテレビにも徳川四天王呼ばわりされてるのか。

 

「……あ、もしかして男の子かと思ったの?」

「そんな事は無い」

「ほんと?」

「で、だ」

「誤魔化した」

「五月はその本多に勝負を吹っ掛けられたからあんなに必死なのか?」

「それも……」

「そうなんです」

「うわ、いきなり来るなよ」

 

 空に何かを書くように指を動かしながら問題集を眺めていた五月が、いきなり鼻息荒くこちらに食って掛かってきた。

 

「あ、すみません。でもこれ見てください」

 

 五月は解いていた問題集から目をあげて件の剣道少女の密着番組を見始めたので、俺ももう一度テレビに目を向けた。

 一日のメニューを紹介しているようで、朝五時には起きて練習を始めて、朝食を食べて学校の朝練を務め、授業を受けた後に部活をこなし、終わった後も道場に行って稽古漬けといった生活ぶりだ。

 

「どう思います?」

「どうって、よくやるなあって感じだが」

「ですよね。では、これだけの生活をしている人に模試の成績でギリギリ勝った私はよくやってると思いますか?」

「別にいいんじゃないか? こいつはこいつ。お前はお前だろ」

「そう言われると返す言葉が無いのですが……」

 

 ああ、こいつなまじ成績が上がったから負けたくないっていう気持ちが出て来たのか。

 俺なんかは、言っちゃなんだがこいつらと成績が隔絶しすぎて対抗心があまり沸いてこなかったのだろう。足の速い奴に「でもお前ボルトより遅いじゃん」と言っても悔しいと言う気持ちが起きないみたいな感じで。

 丁度いい感じに自分より下の成績の奴というのが良いのか。部活をしていて、引退したらその時間を勉強に当てれれば、成績の伸びる余地は大いにある。

 マイペースな五月でも思う所があるのだろう。だからいつにも増して真剣に勉強していて、それに触発された姉達も合わせて勉強しているのだ。

 こいつらに必要なのは丁度いい勉強面でのライバルだったか。

 

「何であれやる気になってるのはいい事だ。まあ分からない所があったら聞けよ」

「えっ、何ですかその消極的態度は?」

「だって俺今日家庭教師するつもりで来てないし……」

「あっきれた。あんたが勉強しないなら何するのよ」

「勉強しすぎに呆れたかと思えばしなくて呆れたり忙しい奴だな二乃」

「悪うございましたね。じゃあ何しに来たのよ」

 

 それは結局の所三玖に会いに来た、と言えばいいのに、見得を張りたいのか出て来たのは違う言葉だった。

 

「いや、らいはに外出しなさすぎって言われて家の外に放り出されてだな。暑いし冷房の効いた所にでも行こうかなと。飲み物も出してくれそうだし」

「図々しいにもほどがあるわよ」

「そんな色気のない理由で美少女の所に来たの? フータロー君てば」

「何だよ全員ひっかけてやるぜみたいな理由で来て欲しかったのか? ……いや冗談だから。だから三玖そんな目で見るな」

「ふーん」

 

 三玖は柳眉をつり上げながらぷっくり頬を膨らまして、怒ってますよと分かりやすく教えてくれた。こういう時は手でも握ってすぐに謝れば許してくれて笑顔になる、俺は三玖の事には詳しいんだ。

 さてご機嫌取りしようか、と言う所で採点をしていた一花がうーんと唸るように声を絞り出した。その深刻そうな声色に、俺の出来の良くない冗談がどうでもよくなったようで心配そうに駆け寄って行った。

 俺は三玖の手を握ろうと軽く開いていた右手を所在なさげにぶらりとさせて、やや投げやりな気持ちで一花の手元の方を見た。

 

「この前からあんまり変わってないね。ちょっと停滞期な感じかなー」

「そうですか……」

 

 答案用紙を眺めながらしょんぼりと肩を落とす五月を見た姉達はどうするの、とチラチラ見てくる。さすがに落ち込んでいる友人を見てどうこう思わないほど俺も血が冷たい人間ではないと思う。

 

「やるか、勉強」

「でも上杉君、気がないとさっき言ってたじゃないですか」

「お前はやる気がないと呼吸をしないのか? 俺にとっての勉強はそのレベルだから気にすんな。見せろ恥ずかしい点数を」

「恥ずかしくありません!」

「でも?」

「そんなに良くもありません……」

「素直でよろしい」

 

 か細い声を出しながら、五月はぷるぷる震える手で答案を差し出した。

 五教科の合計点は300点だが、それは得意の理科系の科目で稼いでいるからであって、国語に社会といった文系科目が足を引っ張っているのは一目見ただけでも分かる。引っ張っているとは言っても、昔の彼女から考えれば相当な進歩ではあるのだが。しかしそれでも行ける大学は限られてくるだろう。

 

「よし分かった。お前、新しい事に手を出すな」

「ど、どういう事ですか」

「極端な事を言えば復習だけすればいい」

「それで大丈夫なんでしょうか?」

「お前は勉強量なら他の奴らにも負けてない。だが点数は負けているのはどうしてだ」

「私が馬鹿だと言いたいんですか」

「答えは理解が甘いからだ。やってるだけで満足するな。何度もやって、百点を取るまでやれ」

「百点まで」

「そうだ。目の前の問題にこだわる悪癖のあるお前だが、だったらこだわり抜け」

「ですが、テストの時は出来ない問題は飛ばして次の問題に行け、とよく言ってたじゃないですか」

「そりゃテストはそうだろ。次の大問に行けば最初の一、二問は解きやすい基礎問題なんだから、そこで点数を稼がなくてどうする。だがこれは点数稼ぎの話じゃなくて勉強の話だぞ。大学試験では稼がせてくれる基礎問題があまりない所だってある。そんな時に必要なのは点数稼ぎの小手先じゃなくて深い理解だ。それに勉強の先にあるのは教師って夢だろ。お前は理解していないような先生に教わりたいのか? お前が憧れた先生はそんないい加減な奴だったか?」

「……」

 

 言ってから俺は少し後悔した。五月の目標であり憧れは母親の事だから、故人を持ち出すのは卑怯に思ったからだ。

 お茶の用意をしてくれている二乃が、複雑そうな顔をして見てくるのが視界の端に映って、バツの悪さを誤魔化すように頭を掻いた。

 

「分かりました」

 

 答案用紙を眺めながら思案を巡らす五月が口を開いたので、髪の毛をいじくっていた手を止めてそちらを見た。

 

「もう少し復習に時間を割いてみようと思います。確かに私は理解が甘かったんだと思いますから」

「自分で言っておいて何だが、いいのか?」

「最初から上杉君の言う事を聞いている三玖の成績が一番良いんですよ? 愚問というものでしょう?」

 

「うわあぁぁぁ……」

「あ、四葉が死んだ」

「この流れでなんでよ!?」

「最初に家庭教師を受け入れたのは自分なのにってショックで」

 

「偉そうな事を言ったが、お前の成績がすんなり上がるかは分からん。壁を超える瞬間ってのは突然だからだ。だがし続けなければそれの瞬間は来ない。やれるか?」

「私、諦めが悪いんです。こうと決めたら中々変えられません。ですから、上杉君の教えを受けて成績を上げると、そう決めました。あなたの一番の生徒になります」

 

「うぅ……一番最初の生徒だったのに一番になれなかった自分が憎い。……はっ、もしかして当てつけ……?」

「あ、四葉が黒四葉に」

「ブラッククローバーになってる」

 

 外野がうるせえ。

 

「二乃、お茶くれよ」

「図々しいわね……。あんたの熱血な説教に反してお湯が冷めちゃったから沸かしなおすわ」

「え、こんな暑い日に熱い紅茶かよ。麦茶でいいぞ」

「今うちで冷やしてるのはルイボスティーしかないんだけど」

「何でも横文字にすればカッコいいと思いやがって」

「で、どうするの? お茶請けにスコーンを出すけど」

「死ぬほどクリームを乗せるから俺の分も沸かしといてくれ。トイレ行ってくる」

「黙って行きなさい!」

 

 下品な事言うな、という怒りに顔を赤らめながら叫ばれたので、逃げるようにリビングを後にした。

 フローリングをぱたぱたとスリッパを鳴らしながら歩くと、そっと後ろの方から俺の足音に重ねるように小さな足音がしているのに気が付く。ホラーにはまだ早い時間だぞと思いながら振り返ると、ヘッドホンで押さえられてないからか、べろんと前髪が重く垂れた三玖が後ろ手に組みながら立っていた。どうでもいい事だが三玖ってあだ名をつけられたら絶対に貞子だよな。

 

「何だ、三玖」

「ありがとうフータロー」

「あれくらい何でもない。それに結局の所頑張るのはお前らだしな」

「でも私達だけじゃ頑張り方も分からなかったと思うから。やっぱりああいう言葉を真剣に言ってるフータローはカッコいい」

「そ、そうか」

「それで、えっと……フータロー」

 

 後ろ手のまま一歩、二歩と三玖が近づいて来る。ワンピースの裾がふわっと翻り、真夏でも身に着けたタイツに包まれた足がちらちら覗く。あと一歩、と言う所まで近づいて来ると、礼をするように体を前に倒して、そのまま顔だけ上げて上目遣いに見上げて来た。

 顔を見ればくりくりと大きな目がこちらを捉えて、少し目線を反らすと服の上からでも分かる膨らみに目を奪われる。男の視線を独り占めするにこれほど最適なポーズは無いのでは、と思えるほどの仕上がりっぷりだ。非常に可愛らしい。

 そして物言いたげな唇が艶めかしく動くと、もしかして、と期待している自分に気が付いた。

 もしかしてキスして欲しいんじゃなかろうか。さっきの話の流れと、とんと脈絡のない事ではあるが。まあ三玖っていきなり突飛な事言ったりする奴だし。

 一歩とも言えないほど、もう足一つ分近づく。恥ずかしそうな表情がくっきりと表れて、俺は確信した。

 三玖の右目にかかった前髪を指でつまんで耳にかけさせると、そのまま肩に手を置いた。息を小さくしながら顔を寄せて行くと、青い瞳に視線がぶつかった。ニコッと微笑まれたので、それに同じ気持ちを返して目を瞑る……前に目の前が真っ暗になった。

 ぺちっと気のない音が俺の額からした。壁のような物が現れてそれにぶつかったようで、鼻っ面から非常に嗅ぎ馴染みのある香りがする。

 

「英語、教えてほし……何してるのフータロー」

 

 キスを交わした相手は英語の参考書だった。甘い女の子の香りではなく、長らくの友であるインクの香り。

 

「……いや、何でもない。休憩したらやるか」

「うん。お願い」

 

 それだけだったようで、いや本当にそれだけだったようで、そのまま参考書片手に三玖はリビングに戻って行った。

 ……確かに勘違いしていた俺も悪い。

 けど今更勉強の事で照れるんじゃない!

 

 

 

 初めてこいつらに出会った時と比べると、感激するほど広がる光景が広がっていた。している教科はバラバラだが、それぞれが率先して高い目的意識を持って勉強をしている。分からない所は解説を読んだり、姉妹に聞いたり俺に聞いたりといった具合でつつがなく勉強は進んでいた。

 俺はすぐ五月の質問に答えられるように左隣に座り、そしてその俺の左隣にさも当然という風に三玖が座っていた。

 俺はどんな恰好でも勉強できるが、右利きという性質上少し左に参考書なり資料なりを置いた方が視線の移動が楽だ。少し視線を左に向けて問題を眺める。するとどうだ、左隣にいる三玖の横顔がチラついてしかたがない。勉強できないよー、と女々しい事を言うつもりは更々ないが、さっきの事があって集中が若干削がれるのが偽らざる今の俺の気持ちだった。

 

「上杉君、ここ分からなかったので教えてくれますか?」

 

 三玖の横顔にチクチク自制心を刺されながら問題を解いていると、右隣の五月がくいっと俺の半袖を引いてきた。

 塾でやっている数学講義のプリントのようだ。

理科が出来れば数学も出来るという相関関係がある物だと世間一般には思われているし、俺自信もそう思っていたのだが、どういう訳か五月は数学に弱い。

 しかしそんな事をぼやいている暇はないので、右手を伸ばして解説を書き込むように開けていた余白に式を書きながら解説を添える。

 

「フータロー、ここ分からないんだけど」

 

 数学の解説が終わった頃を見計らって、三玖が英語の長文問題を指しながら尋ねてきた。

 再び同じ事を言うが俺は右利きである。右隣にいる五月にはそのまま右手を伸ばせばそれで相手の手元に書き込めるが、左隣にいる三玖には利き手を近づけるために身を寄せるなり上から覗き込むような形を取らなけばならない。

 

「あー、フー君勉強って言いながら三玖にくっ付いてやらしー」

「やらしくない。フータローは書きやすいような体勢を取っているだけ。でしょ」

「そうだぞ二乃」

 

 そうだこれは勉強のための体勢なのだから、二乃にいじられても堂々としていればいい。三玖の言葉に同調するように頷きながら、もう少し身を寄せた。

 大体俺達は恋人同士だぞちょっと距離が近いくらい問題な「フータロー」

「はい」

「暑い」

「はい」

 

 大ありだった。

 俺は少しだけ離れてすまん、と小さく呟いた。

 なぜだか内心寂しい物を感じながら英文に区切りを入れていく。すると覚えた英構文の形を思い出したようで軽やかにペンを走らせた。

 

「分かった。ありがと」

「ああ」

 

 にっと小さく微笑むと、すぐに真剣な面持ちになって問題に目を落とした。大した成長ぶりだ。あの隣にいるだけでドキドキして顔を真っ赤にしていた三玖がこんなにも動じていない。

 ……やっぱり何か物悲しい。

 

 こじゃれた響きのルイボスティーを飲みながら、しばらく姉妹皆の勉強を見ていたが、仕事だからと一抜けした一花が仕事の台本やこれから受けるオーディションの原作を読んでいる姿に集中力が途切れたようで、四葉、二乃と勉強を切り上げた。

 まだ勉強を続けているのは五月と、英語にうーうー唸っている三玖の二人だ。五月は解いては直し、解いては直しの繰り返しだが計算そのものは間違っていないので放っておく。

 対して三玖は、とノートを見てみると、原文の訳を間違えているために選択肢のどれにも当てはまらず悩んでいるようだ。

 

「三玖、ここが違うぞ」

 

 俺はペンを弄んでる三玖の手を取って間違った分の作り方を訂正させる。少しひんやりした小さな手が俺の手にすっぽりと収まっているのを見ると、勉強の状況に不謹慎かもしれないが、可愛いなあと思ったり。

 

「フータロー……」

 

 そんな俺のデレデレした内心に反して、三玖は絶対零度の青い目線をよこしてきた。はっと気のない息が零れて、思わず手を離す。

 

「真面目にやって」

 

 ツンとすげない態度は、全くもって正しい。こんな事をしている俺の方が間違っているのだから憤る三玖につける文句はないのだ。ただ俺としては何となく寂しいという感傷であって。

 

「悪い」

「まだフータローには全然敵わないけど、私だってそんな手取り足取りされなくても分かるようになったんだから」

 

 三玖も勉強が出来る様になって自尊心が芽生えて来たようだ。侮られたように感じて怒った気持ちが目に現れたのだろう。

 

「それでこの問題だが、ここの文の解釈が……」

 

 

 

「終わった……」

「終わりました……」

「二人ともお疲れ。お茶淹れてあげるから一休みしなさい」

 

 問題を一通り済ませた三玖と五月の二人は軽くため息を吐いて、固まった体をほぐすように首を回した。

 

「フータローもありがと……あれ、どうしたの?」

「何でもない。トイレ」

「だから黙って行きなさいよ!」

 

 また二乃に罵倒を浴びせかけられながら俺はリビングを後にする。少し離れた所で振り返ると、英語をしていた三玖は二乃に、数学をしていた五月は一花に話を聞いていて、俺はもう役目を果たしたかななどと弱気な事を考えた。もちろん五月を放っておくなど出来ないので思っただけだが。

 

「はぁ……」

「フータロー?」

 

 どうも俺は疎外感を感じるといやに卑屈になってしまう傾向があるようだ、と自分の性格の一面に新たに気が付いたところで、もう納得のいく答えが聞けたのか三玖が会話から離れてこちらに来た。ヘッドホンを付けて、いつもの三玖といった出で立ちだ。

 

「どうしたの? ため息なんか吐いて」

「いや。お前らが教え甲斐のある生徒になってくれたから頭を使って疲れたなってため息」

「そうなの? 息抜きに外に出てこっちに来てくれたのに、疲れるような事させてごめん」

「なあ、俺が適当にここに来たと思うか?」

「え、違うの?」

「ただ涼しい所なら図書館にでも行けばいいだろ」

「飲み物を出してくれそうって」

「大体ああいう所には冷水器が置いてある」

「あ、そう言えば」

「そう言えばってお前……」

 

 恋愛で頭が一杯なのは三玖の特権かと思っていたが、どうも最近はそうでもないらしい。少し前の三玖ならこんな風に意味深な事を言うと「もしかして私の事……」と照れて赤くなってくれたのに、強くなったと言うべきなのか、一人立ちしたと言うべきなのか、それとも端的に言って俺に飽きたのか、「そう。で?」みたいな事を平気で言う子になってしまった。

 そんな様子は癪なので、俺は好意の刃を大上段に振りかぶって叩きつける。

 

「ここにはお前がいるだろ」

「私?」

「そう。俺はだな……」

 

 一歩、三玖に近づく。手を伸ばして肩を掴む。右手をそっと首筋に当てて、

 

「んっ……」

 

 流れるように、さらりとキスをしてやった。

 

「こういう事、するつもりで来たんだぞ」

「へ……あ、え……うわ、わ……」

 

 どういう訳だか、そういう事をされるかもという考えがぽっかりと抜けていたようで、三玖はキスされた唇を押さえ、真っ赤になってオロオロしだした。

 

「うぅ……」

「そんな反応されると困るんだが」

「だ……だって、久しぶりにされた感じが、こう……うぅぅ……」

 

 初心な反応に少しだけ苦笑しながら、細い髪の毛をそっと指で梳く。

 

「前に三玖は私が男の子と遊んでてもいいのって言っただろ?」

「え……うん、言った。でも」

「自分がされて嫌な事はするなって言いたかったのは分かってる。そうだな、三玖の口から男の名前が出た時、すげえ嫌な気分になった。まあそれは剣道少女のあだ名だった訳だが」

「嫉妬した?」

「した」

 

 恥ずかしい内心を吐露すると三玖はくすくすと可笑しそうに笑った。

 

「嫉妬深いんだ」

「悪いか」

「ううん。私もそうだし、お似合いだよ」

 

 そう言うと、俺の顔に手を伸ばしてきて顎のラインをなぞって来た。形を確かめると言うより、存在そのものを確かめるような慎重な手つきだ。

 お返しとばかりに同じ事をしてやると、目を細めて甘える子猫のように喉の奥で笑った。

 

「上杉くーん、一花が撮影先で貰ったお菓子がありますけど、らいはちゃんのお土産ゃああああああ!」

 

 くるくると喉を鳴らす三玖猫を手懐けているとリビングの方から五月の声がして、足音も近くなったかと思うと突然叫び出した。ポトリと個包装された色鮮やかなマカロンが足元に転がる。

 

「あ」

「ふ、ふふ不純です!」

「失礼な。純愛だ」

「別にそこに愛はあるんかって大地真央みたいな事を言いたいんじゃありません!」

「五月、フータローに芸能人の例えをしても伝わらないから意味がない」

 

 番犬のように牙をむいている五月に、三玖はちょっとずれている答えを返した。そこはいいだろ。確かに誰か知らないけど。

 

「そんな事言うなよ。俺は塾が無い日に来るつもりだぞ」

「やっぱり結構です」

「遠慮すんな」

「遠慮じゃないです。私はあなた達のイチャつきの口実ではありません!」

「落ち着け五月」

「何ですか言い訳ですか」

「俺はお前のために勉強を教えるのは嘘じゃない」

「はい」

「それはそれとしてこういう事をするだけで」

「帰ってくれません?」

「分かった」

「あれ、意外とあっさりですね」

「だがお前の姉が帰してくれるかな」

「フータロー、まだ帰らないで」

「ほら」

「ほら、じゃないですよ! 三玖もそんなダダ甘えないでください」

「でも私達にはフータローの力が必要」

「むぐぐ……」

 

 潔癖な五月の事だから勉強に余計な水を差されるような気がして嫌なのだろう。俺も図書室とかでイチャつくカップルを鬱陶しいと思うタイプだから気持ちは分かるぞ。

 

「まあ安心しろ。こういう事はしないようにするから」

「えっ?」

「最初からそう言ってくださいよ」

「そんな……」

 

 やらない、という俺の意思表明に五月は安堵し三玖は落胆した。そんな様子におかしくなってくしゃりと三玖の頭を撫でる。もう、もう、と言いながら乱された髪を直している三玖に言ってやった。

 

「夏休みは長いから、二人でどっかに行く日でも作るか。偶にはそういう日があってもいいだろ」

 

 文句を言ってた五月も、二人でどこかに行く分には文句が無いようで、羨ましいです、と少し嫌味っぽく言いながらリビングに戻って行った。

 

「うん」

 

 髪を整え終えた三玖が、仕方ないなと笑顔を作る。やる事が色々あるが、こうでなくては。充実した夏になりそうな事に、俺も笑い返した。


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