三玖と恋するフータロー   作:アランmk-2

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前回の投稿が二か月くらい前……
怠慢すぎる……怠慢すぎて退魔忍になったわね(大蛇丸)


釈明の湖畔に月は笑って

「あーあ、何でリゾートに来てまで勉強しないといけないのかしら」

 

 風太郎と三玖が一花と楽しんでいる同じ時に、二乃はそんな事を言いながら顔を上げる。そこそこ真面目に勉強をしていた彼女だが、文具を投げて集中力を使い切ったと体全体で表現するように大きく背を伸ばした。

 丁度問題を解き終わった所の四葉と、参考書のページをめくっていた五月は、集中の間隙を縫って放たれた姉の言葉に顔を上げる。

 

「そんな事言わないでください。上杉君も午後からは遊んでいいと言ってたじゃないですか」

「そうだけど」

「まあまあ。こんなとこまで来て勉強してる、なんて贅沢してるんだろって思えばいいよ」

 

 ふうん、と二乃は気のないような返事をして、リボンの位置を直した。

別に本気で勉強したくない、とは思っていない。ただ少しばかし飽きがきたから、話でもして鋭気を養おうかと思っているだけで。

 言い訳がましく思い浮かべて、浮かんできた罪悪感を無かった事にしながら、手頃な隙を晒している四葉あたりに話を差し向けた。

 

「贅沢な勉強の割にははかどってないみたいじゃない」

「あはは……。あ、らいはちゃんは宿題終わった?」

「逃げた」

「宿題はもう終わったよ。後は日記かな」

 

 まだ夏休みも前半なのに、分厚い問題のたっぷり載った宿題冊子は最後まで手が加えられていた。兄の影響でも受けているかのように、びっしりと十全に書き込まれた宿題は、完全に中学時代の自分達を越えている。

 もし分からないならここは一つお姉ちゃんらしく教えてあげようか、と何となく偉ぶろうといった思いは消えて行った。うっかり忘れていて、下手をすると自分が教わる事になればとてつもないショックを受ける事必至だ。

 

「そうだ、高い所平気? ここ登ってくと地上百メートルの谷を渡るジップラインがあるんだって。平気ならやりに行こうよ」

 

 という訳で数少ない得意科目『遊び』で四葉はふんぞり返る事にした。

 

「へえ~凄い。でもそういう遊びって別にお金がかかるんじゃないの」

「まあまあ、任せてよらいはちゃん。午後からはおねーさんの威厳を見せてあげるから」

「お気楽ねえ。大学判定はどうだったかしら?」

「うわっ、今だけは忘れてたかったのに」

「……」

 

 判定、という言葉に五月の顔が少し歪んだ。良くなかったのは四葉だけではない。五月自身の合格判定もDと、下から数えた方が速い結果が出ていた。

 二乃と四葉の大学より上の偏差値の学校を目指しているとは言ってもそれは言い訳にはならない。

 それを五月は家庭教師である上杉風太郎には黙っていた。知らずとも自分の浅ましい考えくらいお見通しだろう。と何となく自己弁護を添えて。

 

「三玖はA判定だったからなー」

「あれ? それより一個上のランクを目指すとか言ってなかったかしら」

「え、そうなの?」

「そうらしいわ。その大学受けるクラスメートと何か話してたのを見たし」

「そう言えば、最近の三玖はあまり話した事のない人にも話しかけたりしてましたね」

「五月、感心してないでアンタも情報交換しないとまずいんじゃないの?」

「そう言えば五月の第一志望は私達と違うもんね。同じなら楽なのに」

 

 五月が目指しているのは、難関に分類される教育大学だったので、夏休み前の三者面談では教師にそれとなく志望大学の変更を促されたが、夏を制してみせますと息巻いて、今の所進路に変更はない。

 

「というか五月は友達とかそう言った話が全然なさすぎ! そんなんで将来何十人の人を相手にして生きていけるの?」

「うわ、ざっくりディスったね」

「だって本当の事じゃない」

 

「向いてない、と、思いますか?」

 

 そんな風に五月は小さく零した。

 二乃はかくりと首を傾げて、いつになく弱気な発言をした妹に聞き返す。

 

「何よ。そんな事言うなんて珍しいじゃない」

「誰かに何か言われた?」

「はあー? 誰よそんな事いう奴は」

 

 四葉の言葉で二乃は傾げていた首を反対に倒し、また反対に倒す首の体操をしながら肩を回す。今からそいつを殴りに行こうかとでも言いそうな勇ましい二乃に五月はくすりと笑って姉を窘めた。

 

「すみません。ただ先生に志望校の変更を勧められたのでちょっと」

「何よそれ」

 

「おーい」

 

 五月がどれだけ頑張っているかという大演説を今から打ちそうな二乃に水を差すように、玄関の方から男の声がした。

 

「あ、お兄ちゃん帰って来た?」

「もうそんな時間?」

「はいはーい。私が行きますよーっと」

 

 手元にあったコップに注がれた麦茶をあおって、四葉が軽やかに玄関に飛び出した。

 帰って来たってことは良い時間のはずだ。お昼ごはんはどうしようか。電話すればルームサービスのように何か持ってきてもらえたような。

 そう二乃と五月が考え事をする。

「ええっ!!」

 とそんな風に四葉の驚きに叫ぶ声が聞こえた。

 

「ん? なに四葉。そんな素っ頓狂な声出して」

「ね、あんな大声出す事ないよね」

 

 玄関に通じる扉から、帰って来た三玖……より些か髪の短い頭がひょこっとその姿を現した。肩にかかるほどのボブカットより短い。そんな髪形をしているのは、

 

「い……い、一花!?」

「やっほー」

 

 誰あろう五姉妹の長女・一花である。

 口をあんぐりと開けた二乃を見て、イタズラ成功と白い歯を見せつけるように笑った。

 

「ええっ! 何で!?」

「酷いなあ。二乃が寂しがってるって聞いたからわざわざ来たのに」

「ねえ二乃」

「え、あ……何よ三玖」

 

 二乃は一花の登場で完全に頭から抜け落ちていた三玖が、短く語り掛けて来た事でその存在を思い出したように生返事をした。おまけに風太郎が四葉とリビングに入って来たのがチラッと視界の端に映る。が、二乃意外にもこれをスルー。

 一花の隣まで来た三玖は、姉と同じようにちらりと白い歯を見せながら話した。

 

「山に来てよかったね」

「ぐぬぬ……そうね。今回ばかりは反論する気も起きないわ」

 

 海への強行路線を固めていた二乃ではあるが、それだとこのような偶然には巡り合えなかった事は認めて、少し嫌味にも聞こえる三玖の言葉に頷いた。

 

「一花仕事じゃなかったの? 大丈夫? ここに来てのんびりしてて」

「それには三玖の尊い犠牲が……」

「それどういう事なの?」

 

 遠い目をしながら語りだした風太郎に、一花は小首をかしげながら、さあさあ話しなよと促した。

 風太郎はフリスビーに自分の頭を打ちぬかれた上に、それで遊んでいた大きなゴールデンレトリバーが勢いよく三玖を組み伏せて滅茶苦茶に舐め回し、顔中でろでろにしたお詫びとして飼い主からチケットを貰った事を話した。

 

「あはは。かわいそー。フータロー君、今日の最初のキスは金髪の彼に取られちゃって」

「取られてないし。犬だからノーカンだし」

「拗ねない拗ねない」

「……その時に貰ったこれで午後から遊んで来たらどうだ。今日明日までだから使わないと勿体ないぞ」

「こんな物があったんですね」

「ほんと三玖様様だわ」

「ほら、らいは、拝んどけ拝んどけ」

「ははー」

「もう」

 

 らいはが両手を合わせて拝み倒すと、悪ノリがすぎるよと三玖は膨れて風太郎を睨んだ。そんな視線はどこ吹く風とばかりに彼は妹の為にチケットをちぎって財布に入れてやっていた。

「で、そこからどうして一花がこっちに来ることになったの?」

と言われて風太郎が話の後半、無料チケットを使ってレンタサイクルに乗ったはいいが、向かったカフェで三玖が一花の仕事先の人間に人違いをされて説教を食らった話をすると、二乃四葉五月はその災難に申し訳なさそうに、けれどしっかりと笑った。

 一花がその仕事先の人がどれだけ厳しいか話すと、二乃達も家庭教師がどれだけ厳しいか話した。面白くなさそうに家庭教師は聞いていたが。

 

「ごめん、そろそろ戻らなきゃ」

 

 一花は、話題に上った三玖と一花を間違えた演出家にまつわる破天荒な話を面白おかしく話して、芸能界の恐ろしさに震え出した妹達に満足そうな顔をするとそう言って立ち上がった。

 

「えー。もうちょっとゆっくりしていってよ」

「ちょっと話があるからって抜け出して来たんだよね。あんまりゆっくりして変な事言われても嫌だし。ごめんね」

「それは面倒ね」

「でしょ? じゃあ皆、もう二三日したら稽古も一区切りだから、それまでじゃあね」

 

 そう言うと一花は立ち上がって名残惜しそうな妹達に手を振る。特に強がっている二乃の頬をつついてからかってから、楽しそうに稽古場へと戻って行った。

 

 

 

 一花が戻ってしまって寂しいと二乃あたりが愚痴りながら昼食を済ませると、その寂しさと、あとここまで来て勉強している鬱憤を晴らすように遊びに行こうと二乃と四葉の二人は勇ましく言う。

 家庭の事情であまり遊びに行けないらいは、いつも午前は勉強しているからと抑え込めていた興味が溢れて、どこに行こうどこに行こうとパンフレットを広げて外に飛び出した。

 

「良かったのか?」

「何がですか?」

 

 風太郎は二乃と四葉、そしてらいはが出て行った方を見ながら、遊びに行かない選択をした五月に問いかけた。それに対して問われた方は、はて?という様な顔をしながら言い返す。

 

「いや、皆と遊びに行っても別に良かったんだぞ」

「まあ。明日は雪が降りますね」

「オーストラリアの話か?」

 

 五月は勉強人間な家庭教師が遊んでもいいなどと言った事に、異常気象かと驚いてみせたが、風太郎の地球を広く使った返しに小さく笑った。

 

「ふふっ。でもいいんです。余裕が一番無い私が遊んでいる訳にいかないでしょう? らいはちゃんに私と思ってとスマホを託しましたから、写真を楽しみに今は勉強します」

「そうか。他の姉妹はどこか呑気だからな。お前の危機感をいくらか処方してやりたいぜ」

 

 シャーペンの尻でこめかみの辺りを叩いた風太郎は、ため息とともに隣に陣取る三玖を見た。姉妹の中で二番目にやる気に満ちている彼女は真面目に参考書を解いていたが、意味のありそうな目線に気が付いてそちらに目を向ける。

 

「私も危機感ない?」

「無い事無いが、いつも危機感とか焦燥感というのがまるでない顔してるな」

 

 過去を回想すると、記憶の中にいる三玖はぽーっとしているか膨れっ面をしているか。この三女は、分かりやすい内面の割に外面は分かりにくい。

 

「酷い。私だって危機に瀕すればそういう顔する」

「ほおー」

「むっ! ……どう?」

 

 ぐっと眉間に力を入れて眉根を寄せる三玖。急ごしらえの無理やり作った顔を、風太郎は指で彼女の眉間をほぐすようにぐりぐりして、からかいながら言った。

 

「うっすいなあ」

「こう……かな?」

 

 と言って三玖は顔にある人を纏わせる。危機に瀕する顔と言えば、死に役ばかりの一花の表情がぴったりだ。

 ところがダメダメと風太郎は首を横にふる。

 

「お前一花の顔真似はダメだろ。」

「皆の顔使っちゃダメって言われると難しいね」

「まあいいか。成績の推移が順調な三玖がどうしようどうしようって顔してたら、他の奴らが困るだろうし」

「結局してた方が良いの? しない方が良いの?」

「ほどほどにしとけ。俺としては危機感を抱かなくていいような成績の上がり方してるって珍しく褒めたんだが」

「そう? ……あ、フータロー、自覚あるならもっと褒めるように」

「偉そうに。ほら、ほら。これで満足か」

「佳き」

 

三玖の褒めろとの催促に、わしゃわしゃと少し荒っぽく頭を撫でると、痒い所を掻いてもらった猫のように目を細めていた。猫だったら喉をゴロゴロ鳴らしていたに違いない。

 

「コホン。なにか忘れていませんかね。『い』から始まって『き』で終わる名前の人の存在とか」

 

 いつでもどこでも非常に仲のよさそうなご両人に、忘れられているのでは、と五女はちくりと寸鉄を打つ。

 少し気まずいように恋人達は口をむにゃむにゃさせると、普段の表情をさっさと取り戻した三玖が先に口を開いた。

 

「忘れてない」

「なくてそれなら、なお質が悪いのですけど」

 

 言うと、気まずさの残った顔のまま三玖は風太郎を見て、ぱたぱたと袖ではらう様に彼を叩いて責任転嫁した。

 理不尽、横暴、とばっちり。そんな風に言いながら三玖の手を楽しそうに受け流す様を、五月はごちそうさまという気分で見る。胸にスイーツバイキングで油分の高いホイップクリームばかりを調子に乗って食べ過ぎた時のような、そんなムカつきさえ覚えるような睦みあいから目線を切って、手元の水を飲み干した。

 飲み干しても、それはどうも晴れそうにない。

 

 似たような感覚は時たま五月が感じる、ここ最近の悩みだった。

 一花が、休んでいた時のノートを見せてと、他のクラスメートに見せないようなだらけた態度で絡んでいる時。

二乃が、流行り物を全く知らない彼に、出来の悪い弟を可愛がるように教えている時。

 四葉が、『風太郎君』などと呼んで、小悪魔のように笑って昔を懐かしんでいる時。

そして三玖が、心の通じ合った者同士の、何とも言えないむずがゆさというか、甘酸っぱい関係を、その気があろうと無かろうと、まざまざと見せてくるような時。

 ほら、今も。

 

 

「フータロー、お弁当つけてどこか行くの?」

「は? 何言ってるんだ三玖」

「ほら、ほっぺに付いてるよ」

 夕食は豪勢に満天の星空の下でバーベキューをしていた。

クーラーボックスいっぱいに詰められた肉や野菜に、らいはは目をキラキラ輝かせながら、肉の塊を鉄板に乗せる。

上杉風太郎は慣れない事をしている所に加えて食べなれない物を食べた事で、新年に五月があげたシュークリームを食べた時が如く、だらしなく頬にソースの粗相をしていた。それを三玖に見咎められたという事である。

 普段の昼食で焼肉定食を頼んでおきながら肉を抜くので、珍しく肉を食べる機会に知らず知らずのうちに注意が散漫になっていたようだ。内心そう反省して風太郎は紙皿を持っていた左手を空けて、そのまま右頬を拭った。

 

「反対」

「こっちか?」

「もー」

 

 ぷぷぷ、と三玖は小さな声で笑って、人差し指でソースの付いた風太郎の左頬を拭ってやった。そしてそのまま人差し指をぺろりと舐めて、三玖の魅せたその不思議と色気のある仕草に、風太郎は顔を隠すように大げさに顔を拭った。

 そんな光景を横目に見ながら、五月はトウモロコシの芯をバケツに捨てる。

 なぜだろう、こんな小骨が刺さったような違和感が喉の奥に引っかかるように、胸の内がモヤモヤするのは。

どうしたの、とらいはが話しかけてくるまで、答えの出てきそうで出てこない問題を思案していた。

 

 

 

 夕飯の後片付けを買って出てくれた二乃と三玖に甘えて、五月は勉強の為に割り当てられた部屋に籠った。

 一時間は一心不乱に数学のチャートを丁寧に解いていく。すでに何度も解いている教材だが、あの三玖といる時は精彩を欠いたようにデレデレな家庭教師曰く、これが全部分かるようになったら、医学部にだって入れるだろうという事らしい。あちらにこちらに手を出したりできるほど器用ではない五月は、一つ一つ虱潰しといった風に問題を解きほぐしていく。

そうしてさらに二時間ほど経つと、今日一日中座って勉強をしていたせいか、石になる魔法にかけられたように体が、特に首・肩まわりの筋肉が凝り固まって痛みとなって集中を奪っていった。

 少し行儀悪くペンを放り投げて、ぐるぐると首を回す。肩を軽く揉みながら固まっている筋肉に血を送り込んだ。

 はあ、と小さくため息を吐くと、五つ子皆に搭載された胸の二つ荷物を机に乗せて、およそ男性諸君に見せられないような楽な体勢をとる。

 楽な体勢を取っているばかりではいけない、と思って立ち上がると、集中して忘れていた喉の渇きを思い出したので、一息つこうと部屋を出る。

 

「わっ! びっくりしたー」

 

 扉を開けるとその向こう側の廊下から短い叫びが聞こえて、思わずドアノブから手を離した。

 

「あーびっくり」

「四葉。すみません、驚かせてしまって」

 

 廊下に顔を出すと、二又に分かれたリボンがゆらりと揺れる四葉が本を片手に立っていた。

 

「四葉も休憩ですか?」

「これかららいはちゃんと一緒に天体観測でもしようと思って。これ星の本なんだ」

 

 四葉は持っていた本をめくる。フルカラーで星座が載っているそれは、一年中どの季節もどの空も載っているような分厚い本だった。

 

「五月も一緒にする?」

「私はもう一追い込みしようかと」

「はえー。頑張るね。まあ、気が向いたら来てよ。二階でやってるからね」

「はい」

 

 広げていた本を閉じて、四葉はそのまま階段を登って行った。その後ろ姿、ベルトにラジオを結んでいた所を不思議そうに五月は見送った。天気予報によるとどうやら雨は降らないらしい。

 

 水を一杯飲んでから気分転換の為に外に出る。

 熱帯夜というほどでもないが、生ぬるい風が肌を撫でた。吹き抜ける風を追いかけるように空を見上げると、これから満ちていく三日月が優しく輝いている。星の輝きを邪魔しない程度の月光は、雲一つない空と合わせて天体観測日和だ。

 二階のベランダを見上げると、見えない物を見ようとして望遠鏡を調整している四葉と、説明書片手にその方法を教える二乃、空を見上げるらいはの姿が見えた。

 静かな夜を邪魔しないようにゆっくりと体を伸ばす体操をしていると、少し離れた所から小さな話し声が聞こえてきて、五月はそちらに歩を進めた。

 

「分かるか? あれが白鳥座のデネブで離れた所のがわし座のアルタイル、琴座のベガで夏の大三角形だ」

「懐かしいな。小学校の頃の宿題でね、皆で見たんだよ」

 

 二つの影がシートの上に寝転がっている。聞き間違えるはずもない三玖と、そして風太郎の声だった。

 不味い所に出くわした。咄嗟にそう思った五月は思わず物陰に隠れる。

 五月に見られている、などとは露ほども思っていない三玖は、いつもより大胆に風太郎に体を寄せた。腕をぎゅっと抱きしめて、頬を相手の肩に乗せる様に添える。

 風太郎は息がかかる程の近くにやって来た三玖の頭をぽんと撫でて、その滑らかな髪に重なる様に頭を預けた。

 触れ合う肌から互いの鼓動が伝わってくる穏やかな時間を、星月だけが見ている。

 

「ねえフータロー、ベタな事言って良い?」

「だめって言ったら?」

「……(ムスッ)……」

「冗談。何だ?」

 

 風太郎は首をひねってすぐ傍にある三玖の顔を見下ろした。

 月光をはじき返して銀色に輝く神秘的な瞳が、当たり前のように、月がそこにあるように、愛を湛えて彼を見つめている。

 

「“月が綺麗ですね”」

 

 かの文豪が英語教師時代に授業で言ったとされる、真偽の怪しい、しかしあまりにも有名な一説を三玖は口にした。

“I love you”を訳すなら、「あなたを愛しています」では芸がない。「月が綺麗ですね」と言いなさい、というものだ。

 風太郎はいつかの、その言葉を額面通りに言った人の事を思い出して、隣の彼女に悟られないよう小さく笑う。そしてあの時にはしなかった、愛を込めたお返しを口に目の前の彼女にする。

 

「お前と見る月だから」

 

 その返しに、三玖は微笑んでそっと風太郎の頬に手を添えた。同じように風太郎も触れ返す。その手を頼りに二人は、重力に引き寄せられ合う星のように近づいて、そして重なった。

 空に浮かんだ、微笑む人の目元のように細められた三日月が、恋人の逢瀬を邪魔しないようにゆっくりと雲に隠れて行った。

 

「はわわ……」

 

 空の月と違い、雲隠れしそびれた五月は、姉妹の繰り広げている逢引にアワアワし出す。アワアワを通り越してはわわになっていたが。

 そんな動転した頭で来た道を戻って、コテージのすぐ横に据えられたベンチに腰を下ろす。まだ天体観測をしている三人を見上げて、自分の知っている世界だと安心するように息を整えた。

 

『月が綺麗ですね』

 

 と、三玖は言った。

 

『月が綺麗ですよ』

 

 と、五月は言った事を思い出した。

 もちろんただの感想としての言葉だったが、あれから多少なりとも勉強をして、その意味を知った今となっては、ああ何て無知だったのでしょうと消え入りたい過去である。

 月夜と、そして消え入りたいような過去、という二つで頭がぐるぐるしていると、パッとある事が思い浮かんだ。最近になって胸の奥がモヤつく原因の答えを、ここにきてようやく見つけたように思ったからだ。

 

 私だけが上杉君に嘘をついている。

 

 そう思うと、五月は姉妹の事を指折り数えながら風太郎との関わりを思い出していく。

 

 一花は、その完璧ともいえる外面を彼の前では脱ぎ捨てて、気取らず飾らず自然体で接している。

 二乃は、……もともと最初の頃から真っすぐ気に入らないなら気に入らないと言っていた、一番嘘のない間柄だ。

 三玖は正直言わせないで欲しいほどに仲良く過ごしている。

 四葉は、隠していた京都の事を打ち明けて、ようやく出会えたかのように、風太郎君なんて呼んでいたり。

 私はどうだ。

彼の家にお世話になっていた時、頼まれ事とはいえ、過去に会った女の子は私だよと言った事は、とんでもない嘘に他ならない。

何となく言う機会を逸していたし忘れていたけれども、思い出してしまうとこんなにも引っかかっていた事に自分自身でも驚きだ。

 

「五月―、やっぱ一緒に星見ない?」

 

 五月が声のした方を見上げると、ベランダからこちらを見る四葉が手を振っていた。

 四葉に関わる事を考えている時に四葉から声がかかる。これは天からの思し召しと言うやつでは、と勝手に思いながら、五月は救いを求めるようにベランダをみあげながら言葉を口にする。

 

「四葉、ちょっとお話が……」

 

 

――

 

 風太郎は三玖との二人っきりの天体観測から帰って来て、どこか夢見心地な足取りで自分の部屋に向かっていた。ふわふわしているのは三玖のせいである。

 帰って来てから風太郎は三玖に先に風呂に入ってくればどうかと勧めると、

「一緒に入る?」

 などと言われて言葉に詰まった。

 仮に二人きりの状況でも何言っちゃってんのなのに、姉妹勢ぞろいの状況で言うなんて正気を疑うほどだ。

 もしかして俺の彼女って馬鹿なのでは?

 と、思うには十分すぎるほどの言動をした三玖を軽くデコピンで黙らせて、恨みがましい目線を投げかけられながら、今に至るという訳だ。

 あの大きな瞳に上目遣いで見つめられて何とも思わない程、昔はともかく今の風太郎は感性が死んではいないので、ドキドキを抱えながらこの熱を収めようと勉強をするべく歩いていた。

 

「何だこれ?」

 

 ドアノブに手をかけた所で、ドアに二つ折りの紙が挟まれている事に気が付く。それを摘まみ上げ、誰だこんな回りくどい事をする奴は、と文句を垂れながら紙を開くと、無駄に達筆な字でこう書かれていた。

 

――湖畔に来られたし

 

「え、何、殺されるの俺?」

 

 短いながらどこか果たし状にも似た、剣呑な雰囲気の文に思わず後ろを振り返り、左右を見渡して安全確認をした。誰もいなかった。いたらいたで自分はさぞかし間抜けだったであろう事は想像に難くないのでいなくて良かったと思いため息を吐く。

 しかし、どうするか。

形だけ悩んでみたが、風太郎はすぐに出かける事にした。

 もし待っている奴がいるなら、夜に女の独り歩きをさせている訳なのだからよろしくない。治安の良い国とはいっても、何があるか分からないのだから。

 さっきまで履いていた、まだ何となく温もりの残っている気がするスニーカーにもう一度足を通して、星空の下に繰り出した。

 先ほどまで三玖と二人で歩いていたからだろうが、感じなかった明かりの心許なさに今更気が付く。誰が待っているのか知らないが、早く行って用事を済ませた方が良いだろう。四葉と二乃あたりは平気だろうが、五月は林間学校の時に驚かしたら泣きながらどこかに逃げ出したという前科持ちだ。

 湖畔の道に出る。ぐるりと辺りを見渡してみるが誰もいないようだ。

 もう少し先に行って見ようか、と思っている所、その意識の間隙を狙ったかのように声がかけられた。

 

「久しぶり

 

上杉風太郎くん」

 

 あの時もこんな湖畔の道辺だったな。

 どこか懐かしさを感じながら、ここに呼びつけた彼女に応える。

 

「ああ。久しぶりだな、零奈。いや――

――四葉」

 

 覚えた答えをそのまま紙に書くように、半ば確信めいたものを抱いて、風太郎は振り返りながらそう言った。

 そこには、白のワンピースに麦わら帽子をかぶった少女が立っていた。

 あの時は秋で、今は夏なので服装の重厚さは当然異なっているのだが、概ね似たような雰囲気の服を着た彼女は、あの時と同じように、どこか秘密めいた笑みを浮かべた。

 違う事があるとすれば、あの時の上杉風太郎には分からなかった事が、今の上杉風太郎には分かるという事である。つまり、零奈という少女は中野姉妹の誰かであるという事も、

 

「……五月?」

 

 そこに立っている少女が、中野五月であるという事も。

 

 

 

―――――

 

 

 

 

「ぷぷ……くくっ」

「おい」

「久しぶりだな、零奈。いや、四葉(キリッ」

「おい」

「あははは! あーおかしー。皆に見せたかったな」

「おい聞いてんのか」

「聞こえてるよ」

 

 風太郎の一歩先を歩く零奈改め五月は、可笑しさに震える肩を何とか意思の力でねじ伏せ、真面目な顔を取り繕って彼の顔を見つめる。

 しかし段々と口角がひくひくと引きつりを起こしたかのように震え、堪え切れないように大笑いした。

 

「……やっぱ無理あははは!」

 

 あまりにも可笑しそうに笑うので、風太郎はきまり悪そうに湖の方を見つめた。黒い天のような深い色の上に白く強い光が差している事に気が付いて視線を送ると、ボート乗り場の方からサーチライトのように幅の広い光が放たれていて、こんな時間まで貸し出ししているのかと隣の少女から気を反らすように考え事をする。

 

「ねえ無視しないでよ」

 

 帽子のつばに手をかけながら、片目を隠すようにミステリアスな絵で風太郎の目の前にいる少女は咎めるように口を開いた。

 首を傾げる。目の前にいる少女は五月で間違いないはずなのに、しぐさや声色がいつもの彼女とあまりにも結び付かない。

 

「あー。調子狂う。お前二重人格か何かかってくらい違うな」

「二重人格何てそうそうある訳ないよ。テレビの見すぎ……あっ……」

「あっ、じゃねー」

「大丈夫。テレビを見てなくたって君は君だよ。むしろそれが君らしさだよ」

「くそっ。別に気にしてなかったのに哀れまれるとすげームカつく」

「あはは」

 

 からからと軽やかに五月は笑うと、踵を返してまた歩いて行く。何か言おうと思った言葉は古い思い出そのまま飛び出してきたような彼女の前に飲み込んでしまった。

 

「しかしどういう事だ? 確かに小学生のころ会ったのは四葉のはずだろ? 修学旅行の時に思い出話しをしたのは何だったんだ」

「それは合ってるよ」

「じゃあなんでお前がそんな恰好して出てきてるんだ」

「それはね……」

 

 それから意味深に黙って貸しボートの桟橋を横目に歩いていると、突然いい事を思いついたように笑ってボートを一台指さした。

 

「乗ろうよ。あの時の再現といこっか」

「いや俺何も持ってきてないから」

「私が持ってるから。行こ」

「あ、おい」

 

 有無を言わせ無い強引さで五月は手を引くと、風太郎の静止もお構いなしに駈け出した。その速度に合わせられない彼は、つんのめるようになりながらも必死で足を動かす。着くころには笑顔の五月と対照的な息を切らした男がいた。

 

「はあ……はあ……」

「だらしないなあ。すみませーん。まだ乗れますか?」

「はい。大丈夫です」

 

 閉店作業を始めていた係員は残り時間から最後であろう客を笑顔で迎えようと顔を上げる。

 

「何だよお前。その恰好になったら遠慮を忘れた生き物にでもなるのか」

「今の私は子供だもーん」

「だもーんじゃねえ、だもんじゃ」

 

 こんな夜更けによくもまあ、微笑ましいやら羨ましいやら妬ましいやら何やかんや、と思いながら五月と風太郎のやり取りを見ていた係員が「あ」の口のまま固まる。昼間はレンタサイクルの方で働いていた時の事を思い出したのだ。

 うわあヤベーバカップルがまた来た。

 もちろん人違いだがそんな事は係員分かろうはずもない。

 そんな内心を表に出さないように笑顔を作ると、そんな表情に違和感を覚えた五月は小首をかしげながら係員に尋ねた。

 

「? どうかしましたか?」

「いえ、すみません。何でもありません。ボートですね。あと二十分だけですが乗れますよ」

 

 こほん、と咳払いをして五月の質問を流し、そのままボートに乗る人への注意事項を説明し出した。

 

「ふんふーん」

 

夜間用の電飾のついた救命胴衣を身に着けた五月は、風太郎の知らない流行りの歌を口ずさみながら借りたボートに腰を下ろした。もちろんオールのついた方ではない。特別それに文句を言う気も起きない風太郎はオールに手をかけてゆっくりと漕ぎ出した。

 

「で?」

「で、って?」

「とぼけるなよ。京都で会ったのは四葉なのに、どうしてお前が過去に会ったフリしてたのかって話だろ」

「フリって酷いなあ。四葉公認なんだよこの恰好」

「お前らの悪趣味な変装の一環じゃないのか?」

「悪趣味が一番得意な子と付き合ってる人が言うセリフじゃないね」

「分かってるじゃないか。だがな、あれは悪趣味じゃなくて特技って言うんだ」

「屁理屈。君は三玖に甘いよね」

 

 論破というほど強い言葉でもないが、言い負かされたような気分になった五月は子供のように唇を尖らせて、三玖のように膨れた。

 櫂のきしむ音だけが響く間があって、吹き抜ける風にさらわれないよう帽子を押さえた五月が、ようやく意を決したかのように口を開いた。

 

「君が話してくれたでしょ? 昔に交わした約束のために勉強するようになったんだって。あれ私を探しに来てた四葉が聞いてたんだ」

「そうだったのか?」

「うん。でね、四葉に昔の私達がしてた、つまり四葉が君に初めて会った時のワンピース姿ね、して会ってくれって頼まれたんだよ」

「いや何で本人が出てこないんだよ。そこが分からん」

「だって君四葉の変装が分かるからバレるって本人が言ってたんだもん。だから代役を立ててさよならする事にしたんだ。分かった?」

「……ああ」

 

 あの時の裏側にそんな事が潜んでいたのかと風太郎は頭の中でこんがらがった事実を懸命に解きほぐす。

 五月はそんな頭を悩ませる彼の姿に、やっぱり言うべきじゃなかったかな、と良心の呵責に苛まれるが、この先ずっと黙っている事で起きるそれとどっちがマシだろうか。

 

「ほんとはね、言うつもりは無かったんだ。君は三玖と仲良くやってるし、四葉の事を自分で思い出した後に言うのって何だか、無粋って言うの? まあそんな感じでしょ」

「じゃあ何で今になって言う気になったんだ」

「一言で言うなら自分のため、だよ。最近はね、君と過ごす皆を見てると何だか後ろ暗いようなもやもやする感じがね。で、思い出したんだ。これ」

「零奈」

「そう。だから四葉に言って、君に打ち明ける事に決めたんだよ。君から分かってくれたらよかったのにね」

「いや分かるか! 何だよその、あの子は誰だ? 四葉だ。でもあの時公園で会ったのは五月だっていう二重底のトリックは」

「天才高校生探偵だったら分かってくれたよ。君も天才の部類なんだからじっちゃんの名に懸けて頑張って」

「俺のじっちゃんは普通のサラリーマンだ」

「あはは」

 

 そこまで言うと、心の中で一区切りついたのか、満足そうな微笑みを浮かべてほっと息を吐いた。そしておどけたように言う。

 

「お分かりいただけたでしょうか?」

 

 という言葉はいつもの五月の物に相違ないが、いつもと違ってどこかたどたどしく、それこそ大人の口調を真似する子供のようだった。

 

「では帰りましょう。こんな星空の下、二人っきりでいたなんて三玖が知ったら大目玉をくらいますよ」

 

 五月は風太郎の後ろの桟橋を指さした。その姿に僅かな違和感を抱いた彼は、漕いでいた手を止めて膝に肘をつく。

 

「言いたかったのはそれだけか?」

「はい?」

「この際だ、言いたい事があるならついでに言っておけ。ここなら他の誰にも聞かれないしな」

 

 風太郎の視線は話せよと五月を射竦める。その有無を言わさないような目は父親であるマルオを思い出させると同時に、この恰好をする少し前に言われた「俺が父親代わりになろう」というセリフを思い出した。

 

「全くあなたという人は。本当に全国二位ですかと疑いたくなるほどデリカシーがないくせに、たまに見せるその頭の冴えはどういう事ですか」

「何だよ」

「褒めたんだよ」

 

 するりと敬語が抜けた口調で五月は喋り始めた。

 

「実はね、塾の先生に進路の変更を薦められてて」

「……思ったより妥当な事だな」

「君までそんな事言うの?」

「なんだよ。志望校のランクを下げるのはどこでもやってる事だろ?」

「うん? ……あ、違うよ。志望校を変えろって言われてるんじゃなくて、先生って進路を変えないかって言われてるの」

「はあ? ずいぶん突っ込んだ事を言う講師もいるんだな。ただの塾講師だろそいつは」

「ただの、じゃないらしいんだよね。なんでもお母さんが高校生だったころの担任の先生だって」

「それは何とも」

 

 それを聞いて風太郎は顎に手を添えて思案する。

 という事は、その講師は最低でも自分達の年齢程の時間は最低でも教壇に立っている訳で、経験からくる言葉というのは中々馬鹿にできた物ではない。その講師なりの経験則から導きだした進路変更ではあるのだろうが。

 

「お前はそれでいいのか?」

 

 だが風太郎は現状からの妥当よりも未来の成長を信じたいと思った。

 

「相談してるのはこっちなんだけど」

「じゃあまず俺の結論から言うぞ。お前が自分で進路を変えると言わない限りはそのままで良いと思う」

「それはどうして?」

 

 こてん、と首を傾げて五月は目の前の家庭教師が何を言うのか待つ。

 

「お前自身はそれに納得してないんだろ? 納得できない事に人は頑張れない。昔の俺がそうだったからな」

「あの金髪の頃の君?」

「そうだ。見た目からして察せるとは思うが、その時の俺は勉強なんてからっきしのクソガキだったんだぜ」

「よく勉強君に転身できたね」

「勉強をする理由に納得できる出来事があったんだよ。四葉に会った事だな」

「四葉が……? そういえばどんな話をしたのか、とかまでは知らないんだ。教えてくれる?」

「あいつは、うんと勉強してお給料貰える会社に入ってお母さんを楽させてあげるんだって言っていたんだ」

「そうなんだ」

「それを聞いて俺はやる意味を見出せなかった勉強が未来につながっていると初めて分かった。家族の為に頑張ろうって約束をして、それを果たすためにも、勉強するようになったんだ。」

「有言実行だ。凄いね、君は」

 

 五月は嬉しそうに微笑んだ。目の前の男の子が約束を一途に守ってくれたことに、不思議と自分の事のように嬉しい気持ちになったからだ。

 その温かい目にむずがゆい気分になりながら、風太郎は正面に顔を見据えた。

 

「俺は自分で勉強する理由を見つけられなかったが、お前は自分で見つけられただろ? どうして勉強するのかって答えを。だからお前はそのままで良いと、俺はそう思う」

「いいのかなあ」

「何を弱気な。お前の頑固さでその講師をねじ伏せろよ。先生ってのは生徒の強い意思に弱いものだぜ」

「君も?」

「さてね」

 

 濁した時点で肯定しているようなものだけど、と五月は思ったが、言ってへそ曲がらせても困るので薄く微笑むだけにとどめておいた。

 放っておいたオールを手に取り、「帰るか」と風太郎が口を開こうとした所、湖を照らす電灯が明滅し始める。怖い物が苦手な五月はその光景にうすら寒い物を感じて、ワンピース一枚で出て来た事を後悔しだした。

 カタカタと、風か、何か、不穏な音が少し響いて、

 

 ふっ、と電灯が全て消えた。

 

「えっ! 何!? 何ですか!?」

 

 突然の事に五月は驚き、慄き、声をあげた。特に暗い所が怖いという訳でもない風太郎でさえ驚いたのだから無理もない。

 前後不覚のような状況に陥った彼女は考え無しに立ち上がる。しかし足元は小さなボートで、当然の如く大きく揺れ始めた。

 

「馬鹿! お前急に立ち上がるな」

「もう帰るー! もう帰りましょう!」

 

 零奈の時の口調と普段がごっちゃになって叫び出すと、さすがに船をひっくり返されてはたまらないと風太郎は慎重に立ち上がって五月の肩を掴んだ。

 

「落ち着けって」

「えっ!? ちょっと、止めて……きゃ!」

 

 周りが見えなくなっていた五月は、同乗していると分かっているはずの風太郎にすら怯えて、体が恐怖の許容を越えた。

 腰が抜けて、倒れるようにへたり込む。肩を掴んでいた風太郎も巻き込んで。

 

「いた……くない? 何だこの枕みてえな物は」

 

 どこかぶつける事を覚悟して目を閉じた彼は、いつまでたっても痛みが来ないので恐る恐る目を開けた。

 頭にシーツのような上質な布が擦れる感触があって、こんな物船に載ってたのか、などと思いながら首を左右に、そして上に動かす。

 山があった。

それも二つ。非常に眼福なやつが、である。

 そこそこ見慣れた大きさのそれに、置かれた状況を理解した。

 

「う、うう上杉君! 最っ低!」

 

 げし、っと非常に強烈な蹴りが風太郎の脇腹辺りを襲う。

 倒れる時にその場で半回転した風太郎は五月の足の間に体が落ちて、彼女の下腹部に頭を乗せていた形になっていた。

 話のタネになるかと立ち読みした漫画でこんな体勢になっていたな、と風太郎は蹴られた脇腹をさすりながら体を起こした。

 

「もう! ほんとに! お父さんにも言うし三玖にも言う!」

 

 五月が怖い物嫌いな事は風太郎も十二分に承知しているが、いや俺が支えなかったら落ちていたかもしれないだろうが。黙って五月からのお叱りを受けていたが、その一言は無性に頭に来た。

 

「この野郎、元はと言えばお前がビビッて暴れたのが悪いんだろうが」

「人の事枕扱いしてほふぃへ」

 

 がーっと捲し立ててきそうな五月の頬を風太郎は先んじて摘まみ、喋れないようにしてやった。

 

「むむむ……」

 

思い通りに五月は黙りこくって、眉を吊り上げるのみで怒りを表している。

 されっぱなしは性に合わないとばかりに風太郎の頬を抓り上げた。

 

「くのぉ……」

「むうう……」

 

 意地っ張りな二人は抓った頬を引っ張ったまま睨み合う。ここで引いたら負けな気がしてしばらく膠着状態が続いたが、夏の夜の暑さに当てられて汗をかいてきた頬を摘まんでいられずに、ぱちんと洗濯ばさみを引っ張られた時のような痛みを残して離した。

 

「いたっ!」

「いてっ!」

 

 お互いに抓られていた左頬を、お互い同じようにさすり出して、その何とも間抜けな光景に二人はボートの上に寝っ転がって笑い出した。

 子供のようにけらけら笑って、笑って、五月は怖がることも忘れるほどに笑った。

 はあ、と乱れた息を整えながら笑いすぎて涙に滲んだ目をこすると、明かりの消えてあんなに怖かった夜の闇の天蓋に、人生をかけても数えきれないほど散らばった金銀砂子が華麗な模様を描いている事に気が付く。

 

「ねえ」

「何だよ」

「どうして三玖だったの?」

「はあ? どうしたいきなり」

「だって、昔に会ったのは四葉でしょ? 君はそれをきっかけに変わった。そして、変わった事で未来に君と四葉は出会った。これはちょっとした運命じゃない?」

 

 五月は星に手を伸ばす。

 どれがベガでアルタイル……つまり、織姫と彦星だったっけ?

 二つ上の姉ほどに占いに熱心ではない彼女だったが、遥かなる時を越えて届く星の光の前に、運命だとか天命だとか言う物を否定する気持ちにはなれない。なれないからこそ、非常に運命的な再会を果たした人と結ばれなかった事がどうしても気になった。

 

「運命だとか好きだよな。女って奴は」

「うわー」

「俺が思うに運命ってのは後付けだし、言ったもん勝ちなんだよ」

「後付け? 言ったもん勝ち?」

「三玖は過去のことなんて何も知らない。なのに俺の事を好きになってくれて、俺もそんなあいつの事を好きになった。これだって運命だと言えなくはないか?」

「そんなの言ったら……」

「どうとだって言えるだろ」

「じゃあ四葉と再会した事は、君にとってただの珍しい事?」

「そうじゃないが……。例えば俺が四葉と再会したのは三玖とめぐり合わせてくれる運命だったんだ、とか言ったら」

「えー……何か嫌だ」

「まあこんな風にどうこじつけてでも言えるんだから、運命なんて言葉はあんまり信じてねーんだよ俺は」

 

 言い終えて、ゆっくりと風太郎は身を起こす。星明りに充分目が慣れた事で船着き場が見えるようになっていたので、また五月が恐慌状態に陥る前にコテージに帰ってしまいたかった。

 

「さあ帰るぞ」

「ちょっと、運命の講釈は受けたけどまだ質問に答えてないよ」

「しつこいな。ガキかお前は」

「それでいいから。ほらほら、早く答えてよ」

 

 この自分の事しか考えていない感じ、まさしく子供だな。

 風太郎は呆れつつも懐かしむように目の前の少女をじっと見た。

 

「なに?」

「いや別に。それで、どうして三玖だったのかって話だったか。だってあいつが一番かわいいだろ」

「え、なに口説いてるの? 同じ顔を目の前にしてるからって」

「ちげーよ。あれだぞ。見分けが出来るようになった俺にとってお前らはカブトムシのメスとカナブンくらい違うからな」

「可愛くない」

「例えに突っかかるな」

「で? なんで同じ顔の中で三玖が一番可愛いの?」

「何でかって言われると単純さに我ながら笑っちまうんだが……」

 

 あー、と口を開けたまま照れているのか言うに二の足を踏んで、思い出したように遠い目をして話を始めた。

 

「あいつ、俺に会うといつも嬉しそうな顔するだろ」

「うん」

「……」

「……」

「……」

「……えっ、それだけ?」

「だから単純だって言っただろ」

 

 言い切って、気まずそうに視線をもう一度明後日の方向にやると、パチンと傍にあったオールを叩いてワザとらしく音をたてた。

 単純とは言いつつも、何か劇的な事を言ってくれるのではないかと身構えていた五月は、あんまりな言葉にあんぐり口を開ける。確かに笑ってしまうような単純さだ。

 

「単純接触効果ってやつだね」

「賢しらに」

「教えたのは君でしょ。ふーん。そっかあ」

「いや最初のきっかけがという話であって」

「ふふっ。分かったよ」

 

 まずい事でも暴かれたかのようにうろたえだした風太郎に苦笑しながら、揺れる足元に気を付けて五月は立ち上がった。

 

「あー、すっきりした」

「本当にお前らは大した嘘つきだな」

「でももうやめるよ……あー……終わりにします」

「そうしてくれ」

 

 五月は空を見上げた。それを風太郎は見ている。

 月光をはじき返して青色に輝く瞳は同じ形をしているのに、その奥に宿る物は違う。三玖の瞳が静謐さを湛えて緩やかに微笑むのに対して、五月のそれは無邪気な子供の頃に持っている溌剌さに似ているように見えた。

 

「ねえ、上杉君」

「何だよ」

「今夜は月が……」

 

 月が、と言えば、次に続く言葉は綺麗ですねと相場が決まっているが、それはただの形容にとどまらない。さっき三玖と天体観測していた時に囁かれた言葉をまた言われるのか? と思いながら深刻な顔をして風太郎は唾を飲み込んだ。

 

「……」

「……ふふふ、何て顔してるんですか」

「は?」

「期待しましたか?」

「お前……!」

「あはは。さ、今度こそ帰りましょう」

 

 すとん、と五月が腰を下ろすとほぼ同時に陸の方から明かりがチラチラと瞬き始めた。小さな光が一つ夜空に伸びていく。

係員が懐中電灯を片手に貸出所から飛び出してきたようだ。

 光を片手に導く人に、五月は風太郎に早く漕いでと急かす。

ゆっくりと真っ暗な水面に空が移る星の湖を小舟が進むと、何だか神様にでもなった気分と五月は思って、星を摘まむように指先を濡らした。

 桟橋に着いて救命胴衣を脱ぐと、着脱を手伝うここまで先導してくれた人が赤べこのように頭を下げながら謝罪していたので、別に怪我もしてないからいいのに、と二人は内心なぜだか申し訳ない気持ちになった。

 ふっ、と何の前触れもなく電気が灯ると、それに気を取られた係員の隙をついて二人は逃げるように帰路に駈け出した。

 

「ごめんなさーい! ありがとうございましたー!」

 

 五月は一つ礼も忘れずにして、へなへなになって先を走っている風太郎に追いついた。

 

「上杉君もごめんなさい。私のわがままに付き合わせてしまって」

「はー……。まあ、いいさ。お悩み相談だ」

「はい。ありがとうございます」

「しかしだ。お前がよく一人で出歩けたな」

「どういう事ですか?」

「ほら、昼に一花が来て言ってただろ。学校の施設を借りてって」

「言っていましたね。それが?」

「知らないんだな」

 

 風太郎は額の汗を拭いながら深呼吸を一回挟んで、ゆっくりと歩きながら話始めた。にかっと意地の悪い笑みを浮かべた彼に、五月は嫌な物を感じたが気にせず聞く事に決める。

 

「ここは昔、とある学校の医学部が入っていたらしい。第二次世界大戦の頃だ」

「ま……まさか」

「ここは非道な実験が行われた医学現場だったそうで、今でも夜な夜な『恨めしいぞぉ~』と行き場をなくした霊魂たちが徘徊して人々に語り掛けるそうだ」

「そ、そんなの嘘に決まってます! そんな土地だったらこんなリゾート施設が建つはずがありません!」

「フフフ。さぁてな」

「ううう上杉君も人を怖がらせて楽しむなんて、堕ちた物ですね!」      ――ぅ……

「恋に?」                                 ――う……

「何そこらのラブソングみたいな事言ってるんですか!?」          ――ぁ……

「違うのか」                              ――ろ……

「当たり前じゃ……ちょっと待って何か聞こえませんか?」          ――おぉ……

 

 五月は林道の合間の闇から、何ともおどろおどろしいような声が響いて来るのを聞いた。咄嗟に麦わら帽子のつばを摘まんで、頭巾のように耳まで垂れ下げて防御姿勢をとる。

 

「風じゃねえ?」                        ――ぃ……

「そう……いえ! 近づいてきてます!」             ――い……

「嘘つけ……いや、確かに聞こえるな」              ――ぅ……

「わー! 上杉君があんな事言うから寄ってきたんです!」     ――う……

「お、落ち着け。散歩してる誰かの話声かも……」         ――いぃ……

「絶対こっちの方に関心ある声ですって『――おぉ……――』ひぃ! 来てますよ!?」

 

 風に乗って響いてくる低めの女性の声がはっきりと聞こえてきて、風太郎も適当なでまかせのつもりだったが、本当にあったのかと身をこわばらせる。

 

――ぅうぉお……

 

((ゴクリ))

 

「ふうたろおぉぉぉ」

 

「「出たあぁぁぁぁ!」」

 

 二人は現れた人影に悲鳴を上げた。

 長い髪が顔を覆うように垂れさがっていて、有名な霊である貞子を連想させた。大きな瞳がぎょろりとこちらを向いて、五月はそばの風太郎に抱き着いた。

 

「なななな何とかしてください!」

「何とかって何だ!」

「それを考えるのがあなたの役目でしょう!」

「家庭教師の領分じゃねえ!」

「うわーん! シチュエーションにこだわった私が馬鹿でしたあ!」

 

「何してるの二人とも」

「「へっ?」」

「ほら。私」

 

 低く唸るような声の持ち主、貞子はその長い前髪をかき上げて顔を露わにさせた。

 大きな釣り目気味の目。通った鼻梁に桜色の小さな唇。五月と同じ顔をしたそれは、

 

「……三玖?」

「そう。中々帰ってこないから探しに来た」

 

 五月の姉、風太郎の恋人、中野三玖だった。

 幽霊の正体見たり、という具合で気の抜けた五月はその場にへたり込んで、風太郎も額にかいた冷や汗を拭った。

 

「二人で何してたの? ……浮気?」

 

 ジトっと半眼になりながら三玖がそう言うと、今度は別の冷や汗が彼の額を流れた。

 確かに三玖に何も言わずに出てきて、その妹とボートに乗って遊んでいたと言えば、浮気の誹りは免れないような気がして風太郎の良心をチクチクと苛んだ。早く釈明を……

 あ、だからこいつ言いたかったんだな。

 今更になって零奈を打ち明けた五月の気持ちが分かった気がして、どうしてと言った事を心の中で謝っておいた。

 

「ふうん……。まあ何で出かけたのか知ってるんだけどね」

「え」

「帰ろう五月。もう遅いよ」

「うぅ~三玖ぅ~。この人が悪いんです……この人が変な事いうから~」

「分かってる分かってる。こういうの大体フータローが悪いから」

「おい」

「じゃあ何でこんなに怖がってるの?」

「……俺が怪談話をしたから」

「ほら」

「いやそれは確かに俺が悪かったけど。でも最高のタイミングで出て来た三玖にも責任の幾ばくかは」

「どう? 五月」

「知りません」

「あーあ怒っちゃった」

「うむむ……」

「さあ帰ろう」

 

 三玖はへたり込んだ五月の手を取って立ち上がらせると、なだめながら歩いて行った。

 

「どこに行ってたの?」

「は?」

「いや、だってシチュエーションがどうって五月が言ってたから」

「そこのボート乗り場あるだろ。そこでボートに乗ってたんだ」

「ずるい」

「ずるいて」

「私も乗る」

「今さっき閉まったんだよ」

「じゃあ今度……あ、近所にもボートに乗れる所あるんだよ。ほら、あの大きな湖のある公園」

「知ってる」

「乗ったことあるの?」

「え……ああ、まあ」

「ふーん。らいはちゃんと?」

「……五月」

「……」

「……」

「やっぱ有罪。切腹」

「三玖さん!?」

 

 風太郎がいつもの調子を取り戻したように話し出したので、五月はそっと顔を上げて二人の会話している様子を見た。

 彼を見つめる三玖の横顔が、いつものように嬉しそうだ。たじろぎながらも風太郎が楽しそうに言葉を返す。二人の、なんて楽しそうな時間だろう。

 

「ふふふ」

「ん? どうしたの五月」

「いえ、何でもありません」

 

 二人はお似合いですよ、とは四葉を応援していた手前少しだけ言いにくかったが、素直に思った事を翻すほどでもなくて、心の中で呟いて、笑顔にその思いを乗せた。

 

 

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