風牙さんのキャラクターを忘れそうになってました。
気持ち悪さが出ていればいいと願っています。
「・・・・・というのが、私の祖父から語られている話です。」
弥勒はそう言って、話を切った。彼の祖父が出会ったという白銀の妖怪の話に皆は、特に犬夜叉は口をぽっかりと開けて聞いていた。
それを見ながら、弥勒は慣れた様子で、うんうんと頷いた。
「まあ、祖父は良くも悪くも直情的で欲望に素直な方だったようですが、妙に理想家な部分がありましてね。その理由というのが。」
「・・・・・風牙、さん。」
かごめが取りなす様に言えば、弥勒はまあ、と妙に達観したような顔をした。犬夜叉は顔を覆い、ぐったりと体を丸めた。
それは、珊瑚がかごめたちの仲間に加わって少ししてからの事だった。日も暮れ、野営の準備をしていた時のこと。ふと、犬夜叉が視線を感じ、そちらの方を見れば何故か珊瑚がいた。なんだと言った犬夜叉に、珊瑚は少し迷う様な素振りを見せて口を開いた。どうも、ずっと気になっていたことがあるらしい彼女は、犬夜叉にこう問うた。
あんた、身内に風牙って奴いない?
もちろん、それに犬夜叉は思いっきり顔をしかめた。
彼の経験則からして、兄、とくに長兄関係で碌な目に遭った覚えがないためだった。
「・・・・・いるが、なんだよ。」
「やっぱり!」
「えっと、珊瑚ちゃんは風牙さんと知り合いなの?」
「・・・・・知り合い、っていうのかなあ?」
珊瑚はそう言って、心底困り果てた様な顔をした。そうして、おもむろに口を開く。
「うちの里に妖怪の皮とかの加工技術を教えたのが、風牙、だったらしいんだ。」
「妖怪の風牙さんが、妖怪退治の里に協力してたってこと?」
何とも不可思議な話に、犬夜叉がぼそりと、やるだろうなあ、と呟いた。それを聞いていた七宝は思わずというように言葉を漏らした。
「・・・・うーん、犬夜叉とは本当に違うのお。」
それに犬夜叉の拳が七宝に振り下ろされる。
「わーん!!」
「そんで、珊瑚。あのくそ兄貴、お前らになんかしたのかよ?」
「・・・・なにって、わけでもないんだけど。よく、してくれた、と思うけど。」
珊瑚は奥歯にものが挟まったようなことを言った。それに、犬夜叉は苛立ったように顔をしかめた。
「おい、言いたいことがあるならさっさと話せ。」
珊瑚はそれに、五人で囲んでいた灯りの焚火をじっと見た。そうして、ふうとため息を吐きながら口を開いた。
私も、そんなに風牙ってやつのことを知ってるわけじゃないよ。ただ、あいつはよく、うちの里をふら付いてたんだよ。
・・・・・妖怪退治屋の里に妖怪がとか言わないでくれよ。あいつ、まるでイタチかなんかみたいにするって入り込むんだよ。里の人間も諦めてたし。大体、あいつが本気になれば、うちを潰すぐらい出来てたからね。だからまあ、うん。まあ、仕方がないって放置してた。
風牙に最初に会ったのは、うちの御先祖様だったらしい。
まだ、妖怪退治屋もそこまでしっかりしてなかったころ。そのご先祖様っていうのが死にかけてる時に、銀の髪に金の瞳をした妖怪に助けられたんだと。
もちろん、そのご先祖様も死を覚悟したらしい。でも、なぜかそのご先祖様は、豪奢な屋敷に連れていかれて、豪勢なもてなしを受けて、おまけにたくさんのお土産まで持たされそうになったんだって。
そりゃあ、おかしいと思うよ。だから、そのご先祖様もなんでか聞いたんだって。
その理由っていうのが、ご先祖様が死にかけて殺した妖怪っていうのが、あいつにとって鬱陶しいものだったらしくてね。
退治してくれた礼だったらしい。でも、風向きが変わったのがそれから。
風牙は、ご先祖様が持ってた武器を見て、もう少し何とかならないのかって言ったんだと。
ご先祖様は、そりゃあ、それに怒り狂ってね。
妖怪退治に武力を用いるのってあんまりよくないんだ。再生力が強いのとかに当たったら地獄だし。だからこそ、巫女とか、霊力が強い人がいいんだよ。でも、霊力なんて才能が大きいからさ。
だから、うちの里は、ただ、技術を磨いた。妖怪たちの弱点を知り続けた。積もり続けたそれだけが、私たちの宝だった。
でも、人が作った武器はすぐに駄目になる。毒を吐き出す奴の前じゃあ溶けて意味がない。
そんなに文句を言うなら何か武器をくれって。
殆ど、夢見心地のやけっぱちのご先祖様は、風牙にそう言ったんだって。
それに、風牙はこう言った。
「なら、武器をやろう。尽きることもなき、武器を作る術をやろうって。」
ご先祖様は、土産の金銀財宝の代わりに妖怪の皮なんかを加工する術が書かれた巻物を貰って帰ったんだって。
おかげでうちの里はぐっと生きて帰る確率も、退治の成功率も上がった。
それからだよ。時々、風牙がうちの里に来るのようになったのって。
あいつは、妖怪の皮とか牙とか、ほかにも酒とかお土産を持って来たらしい。少しの間だけ、交流もあったらしいけど。もう、交流もなくなって結構たつよ。今じゃ、風牙の一方的なじゃれ付きだけだね。
・・・・どうして、交流がなくなったかって?
「怖かったんだよ。」
「怖かった?」
七宝の疑問符が付いたようなそれに、かごめは顔を下に向けた。
かごめは、犬夜叉の兄であるという彼と初めて会った時のことを覚えている。あの後、彼はまるで今までが夢だったかのようにどろりとした目をしまい、子どものようにけらけらと笑った。
まあ、心配はなさそうだね。
そう言って、風牙はまるで風のように去っていった。
かごめは、あの時のことを犬夜叉には言っていなかった。悪態はついても、犬夜叉の中にある彼への信頼や親愛のようなものは透けて見せた。
言って信じてくれるかは分からなったし、それと同時に、かごめ自身、風牙の変わり身の早さに全てが夢であったかのような気がしていた。それでも、風牙のことを考えていると感じる寒気は本物であったし、恐怖のようなものがこびり付いて離れない。
鮮明な悪夢が忘れられないような感覚だった。
「・・・・あの妖怪は私たちに武器の作り方や食料や、妖怪の情報をもたらした。けどね、あれは何も私たちに望まなかった。」
「それってなんか悪いことか?何もせずに色んなもんくれるならいいことじゃろ。」
七宝の言葉に、今まで黙り込んでいた弥勒が口を開いた。
「そうはいってもですねえ。七宝、例えばの話、明日から犬夜叉が急に優しくなったらどうします?」
「優しく?」
「自分の分の団子を分けてくれるとか。何の理由もなしに。」
「なんじゃそりゃあ!不気味じゃあ!!」
「そういうことですよ。ましてや、妖怪が無償で何かを与えるというのはそういうことです。」
淡々とそう言った弥勒は困ったように首を傾げた。その向かいで、七宝がまた犬夜叉に殴られた。
それを何とも言えない目で見つつ、珊瑚は思い出す様に目を細めた。
遠い昔、珊瑚の先祖は、その妖怪に問うたらしい。
望みはなんだ。代価に何を望むのだと。
それに、人でないものは、微笑んだという。
何も、と。
それはどこまでも、微笑んでいたという。
何も望みはしない。ただ、健やかに、強く、幸福におまえたちが生きてくれればいいんだよ。
代償を求めぬ悪魔はおらず、贄を求めぬ神はおらず。
代価を求めぬ妖も又、存在しない。
ならば、それは何なのか。
何も求めぬ、人ではない、親愛を謳うそれはなんなのか。
それは、微笑んだ。
まるで、仏のように、慈悲深き神のように。まるで、心底、退治屋たちを思っているかのように。
人でないバケモノは、微笑んでいた。
珊瑚は、昔伝いにきいたそれを、ぼんやりと思い出した。
関わってはならなかったのだ。話してはならなかったのだ。求めてはならなかったのだ。
けれして、近づいてはならなかったのだ。
珊瑚、珊瑚。強き娘よ。人のふりをする何かに近づいてはならないよ。彼らは、人ではないのだから。理解など、出来ないのだから。
いつか、我らは、求めた力の代価を払う日が来るのやもしれん。
そう言って、何故か、それを語る父である頭領は悲しそうな顔をした。
何故かと、珊瑚は問えば、父は懺悔するように言ったという。
人でない、何かを好きになりたかった誰かの話だ。
それは、理解できなかった、バケモノを想った誰かの話だ。
「あいつはそれを拒まなかったそうだよ。話しかけて来ることもないし、関わって来ることも無い。うちの里に出入りしてたのも、風牙と関わった先祖の墓参りをしてたからだしね。」
「・・・・それで、お前は俺の返事が聞けて満足なのか?」
含みのある犬夜叉の言葉に、珊瑚は後ろめたさを感じる様に視線を逸らした。
「もしも、あんたの兄さんとの関わりを断たなければ、うちの里があんなことになることはなかったか?」
掠れた様な、弱々しい言葉に犬夜叉はあっさりと答えた。
「ならなかっただろうな。あいつなら、どんな手段を使っても防いだだろうさ。」
それに珊瑚は歯噛みする。先祖のなしたことを、非難する気はない。妖怪と妖怪退治屋が関わってもいいことはなかったはずだ。
それでも、それでもだ。
もしかすれば、防ぐことのできた手段が身近に転がっていたことが、狂おしいほどに苦しい。
そんな珊瑚を前に、犬夜叉はまるで物思いにふけるように俯いていた。かごめはそれを気遣うように見る。
犬夜叉は、時折、妙に神妙というのだろうか。老いた目をすることがある。
かごめは、未だに風牙のことを犬夜叉に聞けないままであった。
そんな微妙な空気の中で、弥勒がおもむろに口を開いた。
「・・・・ところで、犬夜叉。前に、あなたの兄であるという殺生丸がいたでしょう?」
「ああ。そうだが。」
犬夜叉の腰には、弥勒に会う以前に殺生丸に渡された鉄砕牙が差してある。次兄曰く、借りていたらしい刀は風牙に会ってからすぐにやって来た殺生丸から返されたものだ。
その後、弥勒が旅に加わった後も、鈍っていないかといきなり戦闘になったのは良い思い出なのか。
ただ、あの兄らしいとは思う。
特に、手合せ後に精進を怠るなと言い捨てていくところなどらしい。
「・・・実は、私の家系に、というか祖父から語り継がれていることがあるんですが。」
それの話が冒頭のそれに繋がったわけである。
犬夜叉は、はあとため息を吐いた。
別段、風牙が悪いことをしたわけではない。ただ、そこから起こるかもしれない面倒事を考えるのが憂鬱なのだ。
「・・・・・祖父の最期の言葉は、その妖怪に会いたいだそうで。」
「やめろ、これ以上どぎついこと聞かせんな。」
ぐったりとした犬夜叉の言葉に、弥勒もさすがに哀れに思ったのか、はいはいと頷いた。
「にしても、犬夜叉。お前、やけに疲れ切ってますね。お兄さんのこと、嫌いなんですか?」
「・・・・お前ら、お犬様って知ってるか?」
「お犬様?」
犬夜叉の呟きにかごめが聞き返した。犬夜叉の言葉に、弥勒たちはああと頷いた。
「ああ、あの有名な。」
「有名なの?」
「まあね。まあ、噂というか、伝説みたいなもんだよ。真っ白な犬の神様がいて、正直なものを助けてくれるって言うね。」
「妖怪の間でも有名じゃぞ!弱い妖怪じゃろうと、何かは知らんが条件さえ満たせば助けてくれるって奴じゃろ。」
「・・・・それが風牙だよ。」
犬夜叉の心から不服そうな声に、珊瑚と弥勒、そうしてかごめは顔を見合わせた。
「まじか?」
「・・・・・まじだよ。」
心底不服そうな顔で犬夜叉は頷いた。
幼いころ、彼が風牙の元を出奔した当時のこと。
彼は行く先々の人間にお犬様と呼ばれた。
どこぞの村では、狂ったようなもてなしを。どこぞの村では、煮えたぎる様な殺意を。
果てには、恐ろしいまでの信仰を。
そのせいか、犬夜叉はお犬様という言葉がほとほと嫌になった。というよりも、たった一つの存在にあそこまでの感情をむけることが恐ろしかった。
「なるほど、お前がそこまでお兄さんのことが苦手な理由が分かりました。」
基本的に、殺生丸のことならば軽くは話す犬夜叉は風牙のことになると口が重くなる。その理由を察して弥勒は頷いた。
けれど、かごめだけが何となしに、もっと違う何かがあるのではないかと考えていた。けれど、そこまで踏み込むことも出来ずに、黙り込むことしか出来ない。
妙に静かな空気が辺りを包んだ。そうして、そこに、ちりんと、鈴のような音が響く。
皆の目が、そちらに向いた。
「・・・・・犬夜叉様。」
そこには、金の髪を簡素にまとめた美しい少女が立っていた。
犬夜叉は、その少女の姿を認めた瞬間、素早く鉄砕牙に手を掛けようとした。が、それよりも先に、少女が立っている方向とは逆から、銀色の何かが飛び出してきた。それは、犬夜叉を巻き込んで林の中を転がっていった。
「犬夜叉!?」
驚いたような声を上げて、かごめがそれを追う。そうして、それを他の三人が追いかけた。
そうして、残った少女が困ったように呟いた。
「・・・・・そちらから主様がいかれると言おうとしたんですが。」
「犬夜叉ああああああああ!!ああ、鉄砕牙を殺生丸から返してもらったんだな!!それなら俺に言えばよかろうに。まったく、二人だけで鍛練なんて楽しそうな事をして。どうして、お前たちはいっつも俺に秘密にするんだか!」
「くっそがああああああああ!!」
木々の先では、言っては悪いが非常に面白いことになっていた。
犬夜叉に飛びついたのは、殺生丸によく似た男であった。その男は、満面の笑みで犬夜叉を抱え込み、嬉々として犬夜叉に頬ずりをしている。犬夜叉はというと、男がびくともしていない所から見て内心嫌ではないのかもしれないと一瞬感じたが、引きはがそうとしている手に血管が浮いていることからそうではないようだった。
ただ、正直言えば、殺生丸と似ているというのにそこまでの落差と言えるのだろうか、犬夜叉の反応も相まって弥勒には大層面白い光景であった。
その、一方的で熱烈な感情を抱く、一瞬殺生丸に見える存在は非常に、何と言えばいいのか分からない感情を抱かせる。
「くそったれがああああああああ!!!!」
どうしていいかわからない一行が、その光景を眺めている中、犬夜叉が必死の抵抗に風牙を投げ飛ばした。彼は、それをくるりと回って地面に降り立った。
その間に、犬夜叉は素早く立ち上がり、鉄砕牙に手を掛ける。
「・・・・何の用だ、風牙。」
「何のようとは、寂しいことを言うなあ。兄が弟を可愛がるのに理由がいるのかい。」
ゆらりと、立ち上がった風牙の浮かべる笑みは、優しい。
本当に愛しいものを見るかのような、柔らかで穏やかな笑みであるものだから。犬夜叉は、鉄砕牙から手を離した。
そうして、風牙は犬夜叉を追って来た彼の仲間に目を向けた。
己に向けられた、温く穏やかな目に、かごめは体が固まった。それは、確かに温度があって、恐れる必要でないものなのに。
息を呑んでしまった。
体の奥に沁みついた、何か。体を心底凍えさせる、何か。
そこで、風牙はかごめに視線を向けた。びくりと体を震わせた。
「うん、仲がいいのはいいことだね。」
柔らかな声音に、かごめの体が微かに震えた。それに気づいたのは弥勒くらいで、他の三人は目の前の男に目を奪われていた。
「・・・そんで?俺に何の用だ?」
「いや、今日はお前に用はないんだよ。」
その言葉に犬夜叉は虚を突かれたような顔をした。
いつだって、風牙は犬夜叉のことを一番に考えていた。だからこそ、今、ここにいるのだって自分が目的なのだと思っていたのだ。
けれど、いつもと違って、その眼は自分の斜め後ろに向けられていた。それに、何故か、ひどく動揺してしまった。
風牙は、ひどく、ゆっくりとした足取りで自分の目的であった存在に近づいた。
「・・・・・・やあ、珊瑚。」
慈悲の混じる、黄金の瞳。日にキラキラと輝く、銀の髪。まるで夢幻のような、美しい顔立ち。
まるで、神様のような、優しい微笑みを浮かべた、バケモノであるはずのそれは。
「珊瑚。」
まるで、宝物のように、少女の名前を囁いた。
「・・・・何の用だ。」
喉から絞り出す様に出た、その声は珊瑚の動揺を如実に示していた。けれど、そんなことお構いなしに、風牙は柔らかな声を出した。
「俺のことは知っているね?」
「有名だからね。それで、そんなあんたが、今更私に何の用だっていうんだ?」
その声にあるのは、どこか未練のような、どろどろとした苛立ちだった。
珊瑚の中にあるのは、強烈な後悔だった。
もしも、もしもの話。
目の前の存在との繋がりを切らなければ、親しきもので在り続ければ。
(・・・・・誰も、死なずには済んだのだろうか。)
ぐるりと、脳裏を巡るのは、血と泥にまみれた、惨めに死んでいく父と仲間と、そうして弟の姿だ。
もう、面影も無い故郷の村の姿だ。
無くして、亡くして。
己の手の中から、全てががらがらと抜け落ちていった。
全ては終わってしまった事だ。
時間は巻き戻らず、起こってしまった出来事は覆らない。
それでも、珊瑚の抱えた後悔は、ずっしりと彼女の胸にのしかかるのだ。
具体的な、それを防げたかもしれない手段があれば、なおのこと。
「苦しいか?」
頭の中をぐるぐると回るその感情に押しつぶされそうなとき、まるで蜜のように甘い声が耳に滑り込んだ。
するりと、珊瑚の頬に温かく、大きな手が滑るように添えられた。
それに促されるように、顔を上に向ければ、そこにはまるで、神様のように微笑む男がいた。
「悲しいなあ。」
そう言って、男の瞳から、ぽたりと一滴だけ、溢れ出た。
お前の父は、優秀だったなあ。
それと一緒にこぼれ落ちたのは、確かに珊瑚の知る、大事な誰かの記憶だった。
その、人外は、ぽつりぽつりと、彼女の故郷の者たちの話をまるで本の頁を捲るように呟いた。それは、珊瑚に言っているというよりも、自分の思い出のための言葉であるようだった。
その予想通り、風牙はその手を珊瑚に添えているというのに、その視線はまるで夢を見る様に宙を見ていた。
囁くような、昔話を紐解くような、優し気な声だった。
そうして、最後の最後に、言った。
お前の弟は、良い子だったな。
それに、珊瑚は、ああと微かに声を上げた。まるで、それに誘われるように珊瑚の瞳から涙がこぼれた。
ああ、だって、だって、仕方がないじゃないか。
例え、目の前のそれが人でなくとも、たとえ、それが、自分たちとは別たれた存在であっても。
それでも、目の前の存在だけが、珊瑚の愛しい人たちを、悼んでいたから。
ぼろぼろと、こぼれ落ちた涙が、やけに生暖かく頬を濡らした。
「珊瑚。」
もう一度、呼ばれた己の名前に顔を上げた。
そこにいた、それは、本当に優しく、本当に珊瑚のことを想っていてくれて。
(・・・神様。)
そんな、言葉が頭をよぎった。
「俺の所においで。」
「あんたの、とこ?」
「・・・・俺は、何をすることも赦されなかった。何も、救えなかった。かあいい、かあいい、あいつの故郷。あいつの、墓。あいつの、箱庭。」
だから、お前だけでも、守ってやろう。お前だけでも、何も、これ以上、傷つくことのないように。
「あいつのように、もう、喪うことのないように。」
俺の所に、おいで。守ってあげる。どんなものの、何よりも。
それもいいかもしれない。
そんな考えが頭をよぎった。
普段ならば、そんなことも絶対に考えなかったはずだ。鼻で笑って、終わらせたはずだった。
けれど、その時は、思ってしまったのだ。
それもいいかもしれない。
だって、だって、疲れていたのだ。
何もかも失って、何もかもが、空っぽで。ただ、なんだか、ようやく流せた涙で疲れた思考がマヒしたかのような、そんな感覚で、優しいようにしか見せないそれに縋りつきたかった。何もかも、思考を放棄して、少しの間でいいから泥のように、安寧の中で眠りたかった。
(・・・・・優しそうだ。)
父のために、仲間のために、弟のために、その妖は泣いてくれた。
だから、きっと、それは優しいのだ。
怖かったと言った。
何も望まないそれを、先祖は怖かったと言った。
いいや、違うのだ。きっと、違うのだ。
それは、優しいからこそ、優しすぎるからこそ何も望まなかったのだ。
ぐずりと、涙を流した珊瑚が口を開こうとしたとき、その肩を押し戻す手があった。
「それは止めておきますよ。」
「法師、さま?」
「あなたは妖怪。彼女は、人。交わらぬ方がいいのですよ。」
断言するような声音に、風牙は少しだけ目を細める様な仕草をした後に、肩を竦めた。
「そうですね。」
納得したような声音に、珊瑚は少しだけ心細そうな顔で風牙を見上げた。彼は、珊瑚のことをじっと見た。
「お前は、どうしたい?」
何の気もなしに吐かれたその言葉に、珊瑚は頷きそうになる。けれど、それよりも先に、かごめが口を開いた。
「どうしてですか?」
「何がだ?」
「だって、わざわざ、風牙さんの所に行かなくても。危険だっていうなら、他の、適当な村に行けばいいのに。」
どうして、そんなに珊瑚ちゃんに執着するの?
掠れた様な、その声音に風牙は心から不思議そうに言ってのけた。
「だって、かあいいだろう?」
まるで、幼子を愛でる親のような、甘い声音だった。
そうして、何故だろうか。
その、声音に、ぞわりと背筋に寒気が走った。
「弱いくせに、勝てないのに、立ち向かうのが本当にかあいいんだよ。そうだ、あれもそうだった。あれも、本当に、無力で、弱くて、そのくせ誰よりも嫌だと足掻いていたなあ。それがなあ、本当に、かあいかったんだよ。」
うっとりとした顔で、風牙はそっと珊瑚の頬にもう一度手を滑らせた。その、生暖かさに生唾を飲み込んだ。
見上げた先にいた、男は、本当に、美しく、柔らかに、微笑んで。
そうだ、本当に、優しそうな顔で笑っていたのに。
どうしてだろう、さっきまで、確かに優しいものだと、思っていたのに。
「お前も、本当にかあいいから。だから、大丈夫だ。守ってやろう。苦しいことも、悲しいことも、全部俺に任せて、ずっと憂いも無く、生きればいい。何も心配しなくていい。」
お前が、幸福に生きることが、俺にとって何よりの礼なのだから。
その言葉に、珊瑚は、ようやくどうして風牙のことを恐ろしいと言ったのか、昔の退治屋たちが彼との縁を切ったのか。
ようやく、理解した。
その眼は、けして、珊瑚を人として見ていなかった。
その眼は、友人に向けるものでも、懐かしいものに向けるものでも、親しいものに向けるものでもなく。
己の庇護下の愛玩動物に向ける目であったからだ。
人でないものと、関わってはいけない。理解できるなどと、思ってはいけない。
それは、どんなに同じ姿、微笑み、仕草をしていても。
(それは、人ではないのだから。)
遠い昔に聞いた、そんな忠告が脳裏をよぎった。
「・・・・・よろしかったのですか?」
小さな、使いの言葉に風牙はうーん?と気の抜けた返事をした。
結局のところ、振られてしまった風牙はあっさりと引き下がった。それは、白縫は不思議な気持ちで見ていた。
風牙が、何故か、退治屋の村に執着しているのは知っていた。
風牙はよく人を助けていた。村を作り、守り、望むものを与えていた。
けれど、大抵の人間は、ある時から恐ろしくなるのだ。
何故、それは何も求めないのか。
神でさえ、貢物を望む。けれど、風牙は何も求めることはなかった。
風牙という在り方を知っているものからすれば、彼の手を振りほどいた人間を愚かと言うものはいた。
人に求める様なものが風牙にはなかったのだ。彼にとって、人々が楽しみに笑い、喜びに踊り苦しみにのたうち回り、悲しみに暮れる様こそが何よりの対価であった。
それにこそ、彼は何よりも喜悦を見出していたからだ。
けれど、人はそれを理解しなかった、分からなかった。
白縫は、それを責めようとは思わない。
理解の出来ないものも、分からないものも、恐ろしいだろう。それを、白縫は知っている。
風牙は、己の手を振りほどいたそれらを責めず、いつも静かにそこを去った。
そうして、いつだって、どんな風に死んでいくかを見つめていた。
滅ぶのも、繁栄するのも、じっと見ていた。
けれど、何故か、退治屋たちの村にだけは執拗に、墓参りをしてまで関わっていた。
「まあ、別にいいさ。嫌がることをしないのが人と関わっていく基本だからな。」
のんびりとした声音に、白縫はそうかと頷いた。己の主がそう思っているなら、それでいいのだ。
そこで、風牙がふと思いついた様に口を開いた。
「・・・・ああ、本当に、悲しいなあ。目の前で、皆殺されてしまったというのに、俺には何もしてやれなかった。」
その言葉通り、風牙は心の底から悲しそうな顔をしていた。今にも、涙を流しそうな顔をしていたけれど、その瞳は乾ききっている。
それを見ながら、白縫はぼんやりと退治屋の里が滅んでいく様子を思い出していた。
珊瑚たちは勘違いしていたが、別に白縫たちは退治屋の里が襲われることを知らなかったわけではない。
あそこまでの規模の里を滅ぼすとなれば、それ相応の噂にはなるのだ。
風牙がそれに反応したときは、てっきり助けにでもいくと思っていた。
けれど、それとは予想とは正反対に、風牙は文字通り、何もしなかった。
妖怪たちに蹂躙されていく里をただ眺めていた。
悲しいなあ、悲しいなあ、とそう言って。
誰かが殺されるたびに、ああ、あれは誰の子でどんな奴なのかと囁きながらそれを眺めていた。
あまりにも悲しいと言うので、助けないのかと問うてみた。そうすると、風牙ははてりと首を傾げた。
だって、関わらないでと頼まれているじゃないか?
心底不思議そうな顔で、そう言った。
もう二度と、関わらないでくれ。助けだっていらないから。
悲しいけれど、彼らはそう望んだから。それを叶えなくてはいけないだろう?
これ以上、嫌われたくないから。
そう言って、風牙は微笑んだ。悲しそうに、寂しそうに。
けれど、その眼には確かな喜悦が浮かんでいた。
それを、やはり白縫は不思議に思って問うてみた。
何が、楽しいんですか?
風牙は基本的に、怒るということを知らない。誰かを殺すということもない。不愉快なら不愉快というし、嫌ならば拒絶する。
だからこそ、白縫は素直に知りたいことを風牙に問う。
その問いに、風牙は笑った。ばれてしまったかと、そんないたずらっ子のように。
「ああ、だって。一緒に生きることは出来なかった。だが、死を看取ることが出来たんだ。嬉しいじゃないか?」
そう言って、恋人との逢瀬をするように微笑んだ。
その後ろで、誰かの悲鳴が響いていた、血の匂いがした、妖怪たちの笑い声があった、ぐちゃぐちゃと何かを咀嚼するような音がした。
それでも、風牙はやはり、微笑んでその光景を眺めていた。
(・・・・珊瑚様達は、きっと、主様が里の者を見殺しにしたことを知らないのでしょうね。)
白縫は何となく、珊瑚たちと風牙の食い違いに気づいてはいた。けれど、それを指摘することはない。
主の望みこそが、彼女の望みであるからだ。
(・・・・今回も振られてしまったなあ。)
風牙の脳裏にあるのは、それだけだった。
最初に、彼女の先祖に会ったのは本当に偶然だった。人のみで、知識も、霊力も無く、理不尽に抗うために命を削る彼らを気に入っていた。
ああ、そんなに必死になって、ああ、そんなに無意味なことをして。
どうして、そんなに必死になる。そんなにも、守りたいのか。
ああ、かあいいな。かあいいなあ。
(・・・・犬夜叉を守る時の、彼女の様で。)
弱いのに、もっと弱い誰かを守ろうとするその様は、本当に懐かしくて。
だから、求めるものを与えた。欲しがるものなら幾らでも与えた。
けれど、いつだって、人間は何故か風牙の手を離す。
それが何故か、分からない。
(・・・・・ようやく、なんの仕掛けも無く泣けるようになったんだがなあ。もっと、人というものを知らなくてはいけないのか。残念だなあ、あいつには振られてしまったから。せめて生き残った珊瑚のことは飼いたかったのに。)
生きるものは、愛おしい。たくさんのことに振り回されて、それでもとその身を捧げる在り方は本当に美しい。
けれど、人は何故か変わってしまう。
(変わらない様に、あいつのことを飼いたかったんだがなあ。十六夜のように、死なない様に、飼いたかったんだがなあ。)
だから、せめて珊瑚のことは確保しておきたかった。死なぬように、その不屈の在り方を変わらぬように、ずっと閉じ込めておきたかった。
けれど、それはどうやら無理であるらしい。
それでも別に風牙は構わないのだ。
変わりゆく人の在り方もまた、面白くてたまらないのだから。
風牙さんからすれば関わらないでって言われたから救わなかったし、よく見る野良猫を拾って可愛がりたかった的な話です。